第37話 耳馴染みの良い響き
カラン、コロン……。
立て続けにドアベルが鳴り、嵐のような時間が過ぎ去っていった。
まず、九条がヒビの入ったカップを残し、無言のまま静かに立ち去った。
ソーサーの下には、一万円札が挟まれていたが、コーヒー一杯の代金と、ヒビの入ったカップの弁償代を差し引いたとしても、明らかに多すぎる。
次回来店時に過剰分はお釣りとして返還しなければならない。
私は必要な分だけをレジへと収め、お釣りとして返す分は封筒に入れて分けた。
次に吸血鬼が、壁の『正義』の絵に向けてひどく満足げな笑みを浮かべ、優雅な足取りで退店した。
そして最後に、「じゃあ二軒目行くか」とすっかり意気投合したゴブリンの長老とガーゴイルが連れ立って出て行き、まだ閉店前の店内には、嘘のように元の静けさが戻ってきた。
「……マジで、あの吸血鬼、一体どの面下げてまた来たんだろうな」
カウンターの皿を片付けながら、厨房から出てきたコウが心底忌々しそうに吐き捨てた。
すると、壁の『正義』のキャンバスから、呆れたような叔母の声が響く。
『あいつはそういう奴よ。他人の目より自分の美学が優先するんだから、図太さだけは一級品なの』
自分を絵の中に閉じ込めた張本人への感想にしては、随分とドライだ。
しかし、叔母の興味はすぐに別のターゲットへと移った。
『それよりも!あの人間は何者なの?』
何者なのかと聞かれても、正直私にもよくわからない。
なので、知っていることだけを伝える。
「刑事よ。あとは、霊感が強いのか、常人より見えるものが多いって言ってたわね……」
私がグラスをクロスで拭き上げながら淡々と事実を伝えると、叔母はひどく好奇心を唆られたような声を出した。
『ユウカ、あんた、何言ってるの?普通の人間があの吸血鬼と対等に横並びに座っていられるわけないでしょ』
叔母の言葉に、ふと先ほどの光景を思い出す。
確かにあの殺気に溢れた吸血鬼の隣に、普通の人間が座っていられるとは思えない。
「でも…」
前にも思ったが、九条には「人外」特有の見え方や痕跡がないのだ。
『あいつはやばいわよ』
私よりも遥かに多い人外と接してきた叔母だ。その叔母が言うのだ。
少し警戒する必要があるのかもしれない。
だけど…
いつも気だるそうな目をしたつかみどころのない九条のよれたスーツ姿を思い出していると、
『それはそうと、あの刑事、あんたのことが好きなの?』
少しだけ高いトーンで叔母が言った。
好きなのか、と問われても。
今の私には「感じる心」はないが、他人が発する感情の『色』や『気配』を視たり感じたりすることはできる。
だからこそ、叔母のその質問に対しては、明確な答えを出すことができなかった。
一般的に『好意』や『恋』と呼ばれる感情は、もっと温かく、綺麗な色をしているはずだ。
しかし、九条が私に向けて放っているのは、そんな色っぽいものではない。
どちらかというと『執着』や『好奇心』といった類のものだ。
それが「好き」という言葉に分類されるものなのか、と言われると…
「……知りません」
だから私は、ただ純粋な事実としてそう答えた。
嘘偽りのないその即答を聞いた瞬間、傍らでテーブルを拭いていたコウの手がピタリと止まり、ひどく引き攣った顔で私を見た。
「いや、ユウカ。あれは誰がどう見ても……」
「何か?」
「……いや、なんでもない」
何かを言いかけたコウだったが、私のまったく波のない視線を受けると、深くため息をついてクロスを洗いに行ってしまった。
『まあ、どちらにせよ、一筋縄じゃ……いかなそうね』
その言葉の主語はわからない。
私は視線を絵画からはずし、再びグラスを拭き始めた。
***
それからは数組が訪れただけで、本日の営業は終了した。
看板の明かりを落とし、店内の明かりも、カウンター以外は落とす。
「おつかれ。俺は明日の仕込みがあるからもう少しかかるかな」
と厨房から声をかけたコウの言葉に頷き、私は帰り支度を整えた。
静まり返った店内で、私は帰り際にふと足を止め、カウンターの後ろに飾られた『正義』の絵を見上げた。
剣と天秤を持つ、女神。その奥に閉じ込められている叔母に向けて、私は静かに口を開いた。
「美花ちゃん。そういえば、聞こうと思ってたんだけど…」
『ん?なによ、改まって』
「美花ちゃんは、どうしてこの絵を集めているの?」
私の問いかけに、絵の中の叔母は少しの間沈黙した。
『……ユウカはどこまで知ってるの?』
「絵のことは…ほとんど、知らない。私が知ってるのは、大アルカナモチーフの絵が22枚あるということだけ。でも…」
『…でも?』
「その『正義』が逆位置モチーフだということを知って、実際は23枚……ううん、他にも逆位置があるかもって考えたら、何枚あるかすらわからない」
そうだ。
逆位置の絵があるのが、『正義』だけとは限らない。
『そうね…私もまさかこの絵が逆位置モチーフだったなんて、中に入っていても気づかなかったし』
静かな店内に、叔母の声が染み入るように広がる。
厨房ではコトコトと何かを煮込む音と、トントンとコウが何かを刻む音がする。
『でも、私に必要なのは、大アルカナの正位置、22枚だけよ』
軽くエコーはかかっているけれど、凛とした声でそう言った叔母は、
『時間が、ないの』
と、つぶやく。
「え……?」
時間がない、と言ったように聞こえたけれど、それがどういう意味なのかがわからない。
『もう、ポータルの歪みは限界にきている……』
「ポータル……?」
『あのカフェは、数多の異界と人間界を繋ぐ交差点なんです』
セバスチャンの言葉を思い出す。
そして、セバスチャンは、叔母が『境界の管理人』をしていると言っていた。
こちら側の管理人は叔母が、そして叔母が立ち入れない異界側の管理をするために彼女と契約した、いわば『雇われの番人』がコウなのだ、と。
「セバスチャンから、この店の裏口は、それぞれに許可された異界に繋がっているって…」
『そう。この裏口からつながる異界のポータルは、全部で22個あるはずなの。だけど……』
そこで一度口をつぐんだ叔母の次の言葉を待つ。
『今つながっているのは18個だけ。本来の数と合わないことで、ポータルの歪みが日に日に大きくなっていってて……』
なるほど。そこまで聞いて、なんとなく想像がついた。
『歪みが限界に来る前に、残りの4枚を探さなくては…』
この店にある絵画は、全部で18枚。
ただし、『正義』は逆位置だったので、正確には17枚だ。
そこに、先日吸血鬼が持ち込んだ『女教皇』を足しても18枚。
残りはたった4枚。
でも、叔母が10年以上探し続けて見つかったのが17枚だ。
4枚もある、と考えるのが現実的なところだろう。
「残りのありかに目星はついてるの?」
画商やバイヤーに依頼して探していると言っていたが、とはいえ、一度バラバラになった、しかも無名の画家のシリーズものなど、集めるのは一苦労だということくらいはわかる。
『……ない』
そもそも、この絵を描いた画家は一体何者なんだろう。
目の前にある『正義』の絵に視線をなぞらせる。
右下に、小さな薔薇の花のような模様が描かれている。これがサインがわりなのだろうか。
「この絵の画家は、誰なの?」
叔母に尋ねると、叔母は微かにフフ…と笑いをこぼした後で、言った。
『ユリア・ヴィスコンティ。19世紀ヨーロッパでは異端の魔術研究者だったらしいわ』
ドクン……
その名前を聞いた瞬間。
感情などとうの昔に失ったはずの私の胸の奥で、心臓が奇妙な拍動を打った。
「……?」
恐怖でも、驚きでもない。ただの身体的反応。
自分の身体に起きた突然の事象に首を傾げながら、私はその「ユリア・ヴィスコンティ」という、店名と同じというだけではない、ひどく耳馴染みの良い響きを反芻していた。




