第36話 地獄のカウンター席
私が静かに差し出したメニュー表を、吸血鬼は流し見るように一瞥した。
彼は優雅に足を組み、ひんやりとした、けれど熱を帯びた視線を私に向ける。
「ふむ。今日は『嫉妬と劣等感のカルパッチョ』をいただこうか。それと、それに合いそうな食前酒をグラスで」
それは、このカフェ『ヴィスコンティ』においてはごく真っ当なオーダーだ。
厨房に戻ったコウが舌打ちをしながらも包丁を手に取る気配がする。
いくら個人的に嫌いな相手でも、客の注文を放棄しないあたり、コウは料理人として優秀だ。
しかし、吸血鬼はそこで口を閉じなかった。
彼は真っ赤な唇に蠱惑的な笑みを浮かべ、甘く囁くように言葉を続ける。
「極上のディナーには、美しい景色が必要だからね。……愛しい私の花嫁の顔を見ながら味わうとしよう」
ピキッ、と。
隣の席から、低く短い声と共に、陶器にヒビが入るような音がした。
「……は?」
九条だ。彼が手にしていたコーヒーカップの表面に、波紋のように細かい震えが走っている。
その波紋をじっと見つめる九条を横目に、私はオーダーを受けようとした。
その時。
「…かしこまりました。『嫉妬と劣等感のカルパッチョ』と、食前酒ですね。先ほどちょうどいいのが入ったので、すぐにご用意いたします」
静まり返った店内に、極めて淀みない、洗練された声が響いた。
厨房から出てきた、コウだ。
私に向ける砕けた態度とは打って変わって、完璧で優雅な微笑みを浮かべている。
言葉遣いにも、その洗練された所作にも、客に対する無礼は一切ない。
コウは吸血鬼に向かって恭しく一礼すると、厨房へと戻って行った。
一方の吸血鬼は、周囲の異常な緊迫感や不遜な空気を意に介する様子もなかった。
ただ、彼の視線がふと、私の背後……『正義(逆位置)』の絵画へと向けられたその瞬間、綺麗な眉間が微かに引きつり、直後、ひどく満足げに口角が上がる。
人間の客がいる手前、声には出していないが、状況からして絵の中の叔母から念話でも飛ばされているのだろう。
彼らの間でどのようなやり取りが交わされていようと、私の業務には関係ない。
騒ぎ立てることがなければ、そのまま流すだけだ。
しかし、その『見えない波動』が、思いもよらない波紋を呼んだ。
「……チッ」
九条が突然、ひどく不機嫌そうに舌打ちをした。
首の後ろをガシガシと掻きながら、『正義』の絵を睨みつけたのだ。
「……なんだ、この絵」
「え?」
私が思わず声を漏らすと、九条は眉根を寄せて低く唸った。
「さっきから、変な泥撒き散らしやがって……視界が濁る。なんでこんな悪趣味で気味の悪いもんが、この店に飾ってあんだよ」
ピシリ、と。
今度は、吸血鬼の纏っていた優雅な空気が、完全に凍りついた。
「…………なんだと?」
吸血鬼の瞳から、先程までの満足げな表情がスッと消え失せた。代わりに浮かび上がったのは、絶対零度の本気の怒りだ。
彼の視線が、九条の横顔を真っ直ぐに射抜く。
九条もその気配を察知したのか、ゆっくりと視線を吸血鬼へと向ける。
「下等な人間風情が。今、私の至高の芸術にして、唯一無二の……いや、完璧なる作品に対して『気味が悪い』と言ったか?」
激怒した吸血鬼の指先から濃密な闇の魔力がチリチリと溢れ出す。
(人間相手に、何を………)
突然の吸血鬼の行動に、流石に二人の間に入った方が良いか、と思った、その瞬間だった。
「ごちそうさまでした」
ガタリ…という音と共に発せられた声の方向に目を向けると、窓際のOLが伝票を持って立ち上がったところだった。
私はチラリと吸血鬼の指先を見る。
幸い人間にはこの立ち昇る魔力は見えないだろうから、単にカウンターで男が二人何やら真剣な顔で会話をしているだけだと思っているだろう。
「少々お待ちください」
気づいているかどうかはわからないが、この言葉は彼女だけに向けた言葉ではない。
私はそのままレジへと向かい、彼女を見送ると、まだ睨み合っている二人の元…カウンターへと歩を進めた。
一方、カウンター席から少し離れたテーブル席では、ひどく平和な時間が流れていた。
「いやあ、最近の人間が建てるビルはダメじゃな!コンクリートばかりで、ちっとも土の匂いがせん!」
「左様ですな、長老。ワシが昔乗っていた教会の屋根なぞ、それは見事な彫刻でしてな。最近は酸性雨のせいで肩の苔もハゲがちで、おまけにあの鳩という生き物は石像に対する遠慮をまったく知らんのです」
いつの間にか先客だったゴブリンの長老のテーブルに、英国紳士のようなスリーピーススーツを着こなしたガーゴイルが相席し、特製のエールを片手にすっかり意気投合している。
つまり、店の中にいる人間は、九条一人だけ。
とりあえずここでもし吸血鬼がおかしな真似をしたとしても、被害は最小限で済む。
カウンターに戻り、水を一口含むと、吸血鬼に視線を送る。
「うん?どうした?私の花嫁」
さっきから「花嫁」を連呼しているが、私にだって感情があった過去はある。
これが何かの茶番であると判断できるくらいの経験は持ち合わせている。
しかし、『花嫁』という言葉で、私はあのことを思いだした。
「そういえば、お客様」
「水臭いな。我が名は…『ノクタウス・ヴィンセント・フォン・エーデルシュタイン・カルミナ・ブラッドレイ・ノスフェラトゥ卿』。特別に『ヴィンセント』と呼ぶことを許そうではないか。ちなみに…」
長すぎてすでに覚えきれていないのもあるが、そもそも名前で呼ぶつもりもない。
まだ何か話そうとしている言葉を遮って、もう一度吸血鬼を呼んだ。
「館長」
その呼び方は気に入らなかったのか、少し口元を歪ませてこちらを見た彼に、私は『あの絵』のことを切り出した。
「先日お預かりした『女教皇』のことなのですが…」
「ああ、そういえば。どこに飾ることにしたか、決めたのかね?」
「いいえ、まだ……と言いますか、あのような『危険』なものは、ここには飾ることができませんので、私の館で一時的にお預かりさせていただきたいのですが」
所有者さえ承諾すれば、館に持ち帰ることは可能。
先日裏口で弾かれた時に、セバスチャンからはそう聞いている。
「はて。危険とは……?」
顎を触りながらわざとらしく首を傾げる吸血鬼に、私は無表情のままで伝えた。
「私を絵の中に閉じ込めようとしている人物が、その絵を持って現れた。一悶着あってもう姿を見せないだろうと思っていたら、何事もなかったかのように現れた」
その瞬間、彼は少しだけ気まずそうに目を泳がせた。
「そのような状況で、何も考えずに絵を飾っておくことなど…とてもできませんわ」
事実を淡々と述べ終わったその時、目の前で再び低い声が響いた。
「おまえ、今、なんて言った?」
ああ…。
あまりにもこの場に馴染んでいるので、人間の存在を忘れていた。
しかも、彼には私の状況など微塵たりとも説明していないのだ。聞き返されても、仕方がない。
「何がですか?」
とりあえず本題を進めたいので、一旦ここは無視することにして、
「館長。今後もこの店にいらっしゃるのであれば、あの絵はしばらく安全なところに保管させていただきます」
吸血鬼に視線を戻した私は、先ほどより少し強めの口調でそう伝えた。
吸血鬼は「うーむ」と少しの間視線を落として考えていたが、ふと視線を上げて壁の『正義』を見上げると、
ふぅ…と小さくため息をついた後で、私を見た。そして、
「仕方がない。どちらにせよ、今のそなたを『女教皇』に封じるには、やや完全性に欠けるからな。まあ、他の檻を用意すればよし。あの絵は無償で譲ろう。好きにすると良い」
あっさりと所有権を放棄した吸血鬼は、言い終わると再び『正義』に視線を戻し、ニヤリと笑った。
彼が言った『やや完全性に欠ける』の意味はわからない。
さらに『他の檻』と言ったことも忘れてはならない。
でも。
「ありがとうございます。では、遠慮なく頂戴いたしますわ」
私は記憶と経験をフル稼働して、最高の微笑みを作ると、吸血鬼に向かって、スカートの裾をつまみ、恭しく優雅なカーテシーをして見せた。
カチャ……。
吸血鬼が満足げに目を細めた直後。
背後で、ヒビの入ったコーヒーカップが、静かにソーサーに置かれる音がした。
その音にゆっくりと振り返ると、頬杖をついた九条が、ひどく冷ややかで静かな瞳で私を見つめていた。




