第35話 帰還
『……で、この物騒な代物、どうするのよ』
深夜のタロットカフェ『ヴィスコンティ』。
看板の明かりを落とし、本日の営業を終えた店内に、少しエコーがかかった女性の声が響いた。
声の主は、絵の中に閉じ込められている叔母の美花だ。
私はクロスで丁寧にグラスを磨きながら、カウンターの後ろ、中央の壁に視線を向けた。
そこに飾られているのは、10号サイズの油絵。剣と天秤を持つ女性が描かれた、タロットの『正義』…ただし「逆位置」をモチーフにした絵画だ。
それがあの日、あの吸血鬼の魔術の乱れによって、こうして絵画越しに会話ができる状態になったのだ。
いつでも会話は可能だが、それだとオカルトカフェになってしまうので、人間の客がいるときは極力声を出さないでもらっている。
叔母が「物騒な代物」と呼んだのは、先日吸血鬼が持ち込んだ『女教皇』の絵のことだ。
普段は布で包まれ、しっかりと紐を掛けられて飾りきれない他の絵と一緒に収納されているが、私を永遠の牢獄へ閉じ込めるために、あの吸血鬼が持ち込んだ完璧な狂気の産物。
しかし、その扱いをめぐって議論をしていることもあり、今は布に包まれたまま、カウンターの上に置かれている。
「どうするも何も、所有者が彼である以上、処分はできないわ」
『それは分かってるけど!あんたを閉じ込めようとしているのよ!?それを預けていくって、どういう神経してるのよ!』
絵の中の叔母がキャンバスの向こう側で地団駄を踏んでいる気配がする。
実際、この『女教皇』の扱いは少し厄介だった。
吸血鬼の強い所有権と魔力がこびりついているため、私が住む館には持ち帰ることができないのだ。
試しに一度持ち帰ろうとしたことはあるものの、裏口で既に「バチッ」と弾かれてしまった。
「ユウカ、他の絵と一緒にしておくより、俺の部屋のベッドの下の方が……いや、いっそ俺が四六時中背負って歩くというのはどうだ?」
厨房から顔を出したコウが、ひどく神経質な顔で提案してくる。
先日から、コウは異様なほどこの絵の存在を警戒していた。
吸血鬼が残していった『手紙』を拾って以来、コウは私を過剰なまでに視界に収めようとする節がある。
「やりすぎよ。しかも、なんでそんなに過保護なのよ。最初は私のことを人身……」
「あーーーーーーーーーー!!」
『何?うるさいわね!』
どうやら私を人身御供にして叔母を救出しようと企んでいたことは、叔母には知られたくないらしい。
「どのみち、もうあんな辱めにあったら、彼がここにくることなんてないだろうし。諦めるでしょ」
真っ赤な顔を両手で覆い、いたたまれなさそうに逃げて行った彼を思い出し、一切の感情を交えずに淡々と告げると、コウは不満そうにしながらも、厳重に布でぐるぐる巻きにした『女教皇』の絵を抱えて厨房の奥へと消えていった。
『だといいんだけど……』
叔母が小さくつぶやいた言葉の意味がわからず、聞き返そうとしたけれど、
『…ま、とりあえずは厳重にしまっておきましょう。それにしても、あんた本当に変わったわね。昔はもっとこう、感情がすぐ顔に出るような子だったのに』
「仕方ないじゃない。半年前にあの裏口から異次元に迷い込んで、感情捕食者に『感情』を食べられてしまったんだから…」
私は磨き終えたグラスを棚にしまい、静かにため息をついた。
今の私には、「感じる心」がない。
叔母を助け出すためには『正義の正位置』の絵が必要だ。しかし、当の叔母自身もその絵の行方に心当たりはないという。
未だに手がかりはゼロ。とにかく地道に探すしかない。
***
翌日の夜二十二時。
今夜もタロットカフェ『ヴィスコンティ』には、人間と人外が当たり前のように混在している。
窓際の席では、人間関係に疲弊したOLがタロットの一枚引きを受け、限界まで抱え込んだ重荷と過労を示す『ワンドの10』のカードを見つめている。
そして、その背後から立ち昇る『愛想笑いの裏で発酵した、重く苦い諦念』を、コウにさりげなく回収されている。
一方、コウの手によって調理された『人間関係の摩擦で焦げ付いた、濃密な徒労感』は、見事なまでに「黒ビールと苦味の利いたミートパイ」に調理され、彼女の隣の席の老人の口に運ばれている。
年季の入ったツイードのジャケット。首元にはくすんだ琥珀のループタイ。
傍らに木彫りの杖を置き、無言でパイを咀嚼するその姿は、近所の気難しいご隠居にしか見えない。
だが、ハンチング帽の隙間から覗く尖った耳と、深く刻まれたシワの奥のギラつく瞳だけが……人間のものではなかった。
地の底の財宝と土くれを司る、ゴブリンの長老。
彼が美味しそうに喉を鳴らし、ジョッキの中の「徒労感」を飲み干すのを視界の端に捉えながら、私は入り口に目を向けた。
「……いらっしゃいませ」
カラン、コロン、とドアベルが鳴り、私が声をかけると、そこにはひどく疲れた顔をした長身の男が立っていた。
警視庁捜査一課の刑事、九条だ。
いつの間にか、彼はすっかりこのカフェの常連になっていた。
彼曰く、「たまたま近くに住んでいる」らしく「今日は自炊の気分じゃない」であったり「一杯飲みたい気分だった」であったり、理由は様々なのだが、要するに「帰り道に寄っただけ」らしい。
九条は無言でカウンターのいつもの席に座り、ネクタイを少し緩めた。
「……いつもの、でよろしいですか」
「ああ。頼む」
低く掠れた声。
「いつもの」という時は、コーヒーだけを飲むという意味だ。
私は感情を動かすことなく、手慣れた動作でコーヒーの準備を始める。
その間も、九条の真っ直ぐで重たい視線を背中に感じる。
感情がないはずなのに、なぜか血流が微かに速まり、指先が熱を帯びるような『不可解な身体的反応』が起きるのを淡々と無視して、私はコーヒーを淹れた。
店内に、静かで平穏な時間が流れる。
九条が運ばれてきたコーヒーを一口飲み、小さく息を吐いた、その時だった。
カラン、コロン。
静かな店内に、ドアベルが鳴り響いた。
ゆっくりと開かれたドアの向こうに立っていたのは、蒼白な肌に仕立ての良い漆黒のスーツを着こなした高位の吸血鬼……夜の闇に君臨するノスフェラトゥにして、アンモルテル美術館の館長、その人だった。
「…………」
つい十日ほど前、自身の完璧な美学を『妥協の産物』『確認ミス』だと私に論破され、プライドを粉砕されて真っ赤になりながら逃げ帰ったはずの男。
それが今、何事もなかったかのように、完璧で優雅な貴族の振る舞いを装って、堂々と入店してきたのだ。
コツ……コツ……。
店の奥に向かって、完璧なリズムで歩く革靴の音が近づいてくる。
私は、一切の表情を変えずに彼を見つめた。
「やあ。今日のコーヒーの香りは、少し凡庸だね」
吸血鬼は、何事もなかったかのように流れるような動作で、店の奥まで入ってくると、いつもの席ではなく、九条から一つ空けた隣のカウンター席に腰を下ろした。
その瞬間、九条の纏う空気がまるで縄張りを荒らされた猛獣のような鋭い殺気に変わり、吸血鬼もまた虫けらでも見るような冷たい視線を一瞥だけ投げ返した。
コウが厨房から出てきて、ピリピリとした顔で状況を観察している。
『やっぱりね…』
と、小さく叔母の声が聞こえた気がした。
「ふむ。この席は少し空調が当たるな。まあいい、妥協してやろう」
誰の目にも明らかなほど、彼の指先は微かに震え、視線は私の目を見ないように微妙に宙を泳いでいた。
あの日の羞恥心を、彼なりに全力で隠蔽し「いつもの完璧な私」を演じているのだろう。
吸血鬼、コウ、九条、そして叔母。
私はまだ、このカウンターで四つ巴の感情が交差していることに、気づきもしなかった。
(何しにきたのかしら………)
流石に客にそんな問いかけをしてはいけないことくらい、感情がない私にでもわかる。
一応、感情を失うまでの経験と記憶から、形式的にはなるが、必要最低限の接客は心がけているからだ。
私は静かにメニュー表を手に取ると、彼の前にスッと差し出した。
「いらっしゃいませ。ご注文は、お決まりですか?」
時計の針は、まだ二十二時半を回ったところだ。




