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第34話 完璧主義の誤算

「ふふふ。館長さんも、ドアがあるのに通り抜けてくるなんて……紳士のなさることではないのでは?」


対決の時が来た。

代償を用意する前に、まずはこのノスフェラトゥ(人攫い)と話をする必要がある。


私は椅子から立ち上がることなく、ゆっくりと首だけを後ろへ向けた。


そこには、長身の男が立っていた。

蒼白な肌に、仕立ての良い漆黒のスーツ。普段はアンモルテル美術館の館長として優雅に振る舞い、一切の隙を見せないはずの高位の吸血鬼。だが、今の彼にいつもの完璧な余裕は微塵もなかった。


「……私の完璧なる美学の結晶に、泥を塗るような干渉をした愚か者は、貴様か」


低く、地を這うような声。

その青白い顔には、自身の結界に無断で侵入されたことへの怒りが浮かんでいる。

コウが即座にカウンターから飛び出してきて、私と館長の間に立った。


「コウ。大丈夫よ」


私は静かに告げ、目の前に立つコウをそっと手で制して脇へ退けさせた。


常人であれば、吸血鬼の放つ圧倒的な魔力と殺気の前に平伏していただろう。

だが、それらを恐ろしいと感じる機能が欠落し、かつ、すべての状況の『答え』を理解してしまった今の私には、彼のその姿はひどく滑稽に見えた。


「随分と息が上がっているわね。結界の綻びを察知して、慌てて飛んできたというわけ?」


私はテーブルの上の『正義』の絵を指先でトントンと叩きながら、氷のように冷ややかな視線を向けた。


「……黙れ、小娘が。私が優しくしておるからと調子に乗りおって。私の芸術の何を知っているというのだ。あの空間は永遠に劣化することのない、私の完璧な……」


「完璧? なんの冗談ですの?」


私は彼の言葉を冷たく遮った。

そして、ゆっくりと立ち上がり、彼と向かい合う。それからふと館長に視線を移すと、小首を傾げて上目遣いで見上げるという、計算ずくの煽り姿勢をとった。


「館長さんは、この絵の中に入ったことはございますの?一度でも入って自分の目で見ていれば、簡単に気づくことなのですが……」


その言葉に、彼はピクリと肩を揺らした。


「……馬鹿なことを言うな。完璧な空間だぞ。私が入った瞬間、その完璧な美しさが私の存在で混ざり物となってしまうではないか」


(放り込むだけ放り込んで、自分の目で確認すらしていないということか)


完璧主義が聞いて呆れる、ただの怠慢だ。


「だからこそ、貴様のような部外者の侵入が許せなくて飛んできたのだろうが!」


思い出したように再び激昂し始めた彼に、私はとりあえず表面上の謝罪だけを投げておくことにした。


「確かに無粋でしたわ。許可なく侵入などという下品な振る舞い、大変申し訳ございませんでした」


この状況での素直な謝罪が、余程想定外だったのだろう。

鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした彼は、一瞬毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。


「ま、まあ……貴様も透明で無垢ではあるからな。さほど深刻な干渉はしておらんだろうし、今回は……」


打って変わって、上から目線の寛大な態度を見せ始める。


(男って、本当に単純ね……)


私は小さく息を吐いた。まだブツブツと何かを言い続けている彼に、ここから最大の反撃をぶつけることにする。


「そんな……私なんて、透明でも無垢でもございませんのよ。でも……」


思い切り含みのある言い方で言葉を切った私は、吸血鬼を見据え、容赦なく事実を突きつけた。


「絵の中は、天秤が傾いたまま維持されている、上下左右もわからない不安定な概念空間でしたわ」


「天秤が、傾いている……? 何を馬鹿なことを。私がそのような初歩的なミスを犯すと思うのか?」


「あら、嫌だ。気づいてすら、いないとおっしゃるの?」


私はテーブルの上に置かれた『正義』の絵の、天秤の部分を指差した。


「これが、なんだと言うのだ?」


「傾いてるわ。気付きませんでした?」


「はんッ……そんなもの、手描きゆえの誤差、許容範囲だ」


コウと全く同じ言い訳だ。


「私も最初はそう言い含められていたわ。でも……」


大袈裟に残念そうにため息をついた私は、気の毒そうに館長を見つめると、


「これは、【正義の逆位置】をモチーフに描かれたものですわ」


と告げた。


「……逆位置、だと?」


館長は再びきょとんとした後、ふん、と鼻で笑った。


「馬鹿馬鹿しい。私が気付かぬはずがなかろう。それに、逆位置であろうと私の魔術は完璧に成立している!」


「ええ、成立はしているわ。天秤が傾いた、不均衡な世界のままね」


「何……?」


余裕ぶっていた館長の顔から、スッと笑みが消えた。


「タロットの『正義』の逆位置が意味するのは、不均衡、偏見、そして『釣り合わない代償』。あの空間は、天秤が釣り合わないからこそ、逆位置の世界として成立してしまっているのよ」


私は言葉という名の杭を、彼の最も痛いところへ正確に打ち込んでいく。


「完璧な美学を気取っておきながら、初歩的な確認ミスで逆位置の絵を使うなんて…もしかして、正位置が見つからなかったからって、妥協なさったんですか?」


ピキッ、と。

館長の中で、何かがへし折れる音が聞こえた気がした。


完璧主義の吸血鬼にとって、自らの芸術を『妥協の産物』『確認ミス』と指摘されることは、心臓をえぐられるよりも致命的だったらしい。

彼の蒼白だった顔が、みるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まっていく。


「馬鹿な!なぜあの絵だけ逆位置が存在するのだ!?」


「それは私に聞かれましても…館長さんの方がお詳しいのでは?」


「ああっ……! あり得ない! この私が、構図の意図を見落とすなど……!正位置の絵が揃う中、逆位置の絵を見て悦に入るなど……ああっ、恥ずかしい!屈辱だ!!」


ビリビリビリッ!!


激しい動揺と羞恥心で彼の魔力が暴走し、カフェの窓ガラスが一斉に悲鳴を上げて震える。


「覚えていろ……!次は必ず、非の打ち所のない完璧な黄金比の牢獄を用意してやる……っ!!そして、そこに入れられるのは、貴様だ!!」


完全にプライドを粉砕されたノスフェラトゥは、真っ赤な顔を両手で覆い、文字通り『いたたまれなくなって』、逃げるように夜の闇へと消え去った。


あとに残されたのは、冷たい夜風だけ。


コウが呆然と立ち尽くす中、私は小さく息を吐き、いつもの平坦な声に戻ってつぶやいた。


「……本当に、感情というものは不合理で面倒ね」


彼が激しく動揺したことで、テーブルの上の『正義』の絵が先ほどから発していた異質な魔力が、ふっと薄れた。

同時に、キャンバスの奥底から、微かな声が響いた。


『……ユウカ?』


「っ!?」


コウが弾かれたように絵画を見る。


「美花ちゃん?」


私は絵画を見つめ、静かに答えた。


「美花さまっっ!ご無事ですかっ!?」


コウが見たことないほどに必死の形相で、絵画に話しかけている。


『ああ、琥珀。心配かけてごめんね……大丈夫よ。ちゃんと意識はあるの。あいつ以外には届いてなかったけど』


術者の魔力が乱れたことで、絵画という『窓』越しに、中の空間と外の世界が繋がったのだ。


叔母の声は少し掠れてはいたものの、確かな生気を帯びていた。

しかし、コウと飼い猫を間違えているところを見ると、多分まだ少し混乱しているのだろう。


絵画の結界はひび割れているものの、完全に崩壊したわけではない。

魔術が弱まり、こうして会話ができる状態にはなったが、彼女を肉体ごと外へ引きずり出すには、まだ根本的なピースが足りない。


「美花ちゃん……まだすぐには出してあげられないんだけど…必要なものはわかってるから、早急に探し出すわ」


私は絵画の上にそっと手を置き、ふっと前を見据えた。


「大丈夫。必要なのは『正義の正位置』の絵だけよ。やるべきことは至ってシンプル。『正位置の絵』を探すわ」


私は絵画から手を離し、コウを振り返った。


「色々調べたいこともあるし、みんなも待っててくれてるから、今日はもう帰るわ。あなたも積もる話があるんじゃない?」


「……ああ、そうだな」


いつになく静かな返事だった。


今にも泣き出しそうに見えるコウに気づかないふりをして、背を向けて帰る支度を始める。

カウンターに歩み寄り、外したエプロンを洗濯するために持ち帰ろうと持ち上げた、その時。


ハラリ………


一枚の封筒が、エプロンのポケットからコウの足元へと滑り落ちた。


「ユウカ……これ……」


処分せずにポケットに入れっぱなしだった『N』からの手紙。


「さっきのあれ…捨て台詞じゃ、ないじゃん」



【我が無垢なる透明な花嫁になれ】



そう書かれたカードを持つコウの指先は、少しだけ震えていた。




【第一部 完】

***************


第二部は、毎週水曜と土曜、21:30の週二更新となります。

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