表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/45

第33話 白い部屋の秘密

翌日。

最後の客を見送り、私は店のドアの鍵を閉めた。

カチャリという無機質な音が、本日の通常業務の終了を告げる。


「お疲れ。今日も無事に終わったな」


カウンターの奥でグラスを拭きながら、コウがいつものように声をかけてくる。


「ええ。……さあ、ここからが本題よ」


私はエプロンを外し、真っ直ぐにフロアの奥へと歩を進めた。

向かう先は、吸血鬼に言われて元の位置に戻したばかりの『正義』のタロットモチーフの絵画。


それを壁から外し、あいつのお気に入りの席のテーブルの上に置く。


コウは手を止め、訝しげに私を目で追った。


「本題?おまえ、まさか……」


「昨日の続き。手がかりがないなら、直接見に行くしかないでしょう?」


椅子を引いて腰をかけると、テーブルの上の絵画を見つめる。


キャンバスの中には、剣と天秤を持つ人物が描かれている。

油彩の冷たい質感が、壁の蝋燭の灯りに呼応するようにチラチラと揺れている。


「おい、冗談だろ。相手はノスフェラトゥだぞ。幽閉の構造もわかってないのに、どうやって中に入る気だ?」


コウの声に、焦りのようなものが混じる。

彼が契約に縛られている以上、直接的な手助けや助言はできない。だから私は、ただ事後報告のように告げるだけだ。


「入らないわよ。物理的にはね。…ただ、意識だけを向こう側に飛ばす。いつもの『象徴潜行ダイブ』よ」


「っ、やめろ!()()()()じゃねえだろ!万が一あいつが中で張ってて、精神取り込まれて戻ってこれなくなったら……」


「ちょっとした事前調査に行くだけよ。すぐに叔母を連れ帰ってこれるとは思ってないわ。それに、長居するつもりもない」


私は彼の言葉を遮り、絵画に向かって右手を伸ばした。


「天秤の反対側……叔母と等価交換できる『代償』の正体を確認してくる。それさえ分かれば、この状況は一歩進むはずよ」


館で美味しいお茶を淹れて待っているだろう、三人の顔がふと脳裏を過った。


しかし、その温かい思考を一旦切り離すと、私は目を閉じ、意識を極限まで研ぎ澄ます。

コウとの対峙で経験した、あの感覚。自分の精神を切り離し、対象の波長と同調させる。


「ユウカ……!」


コウの制止の声が、遠く、水の中に沈んでいくように聞こえなくなった。

同時に、指先から触れていたキャンバスが、まるで泥沼のように私の意識を吸い込み始める。


重力が反転するような感覚。

視界が暗転し、私の精神は『正義』の絵画の奥深く、吸血鬼が構築した冷たい概念の牢獄へと引きずり込まれていった。



***



目を開けると、そこは静まり返った美術館の一室のような空間だった。

だが、床も壁も真っ白で、平衡感覚が麻痺しそうな感覚に襲われる。


部屋の中央には、巨大な天秤が鎮座していた。

その片方の皿の上に、叔母がクリスタルの棺のようなものに横たわり、静かに眠っている。


私は一切の感情を交えずに、すぐに空間全体の構造の観察に移る。

天秤、剣の位置、空間の魔力の流れ。


近づいてみたり、遠ざかってみたり、さまざまな角度から確かめていく。


そして、いよいよ天秤の反対側の皿に目を向けると、そこには何も乗っていないことがわかった。


(…天秤が釣り合っていないのに、この世界は成り立つの?)


猛烈な疑問が湧き上がってくる。


「なぜ……?」


思わず口からこぼれた言葉は、静寂の中へと吸い込まれていく。

しかし、考えても考えても、答えに辿り着けない。


仕方がないので、とりあえず、何を置いたら釣り合うのかを問うてみることにした。


「正義の天秤よ。そこにいる叔母と価値が同じになるものを示してください」


すると、ギギギギギと傾き始める天秤。

その角度が「均衡」を表すようになった時に皿の上に現れたのは、一枚のキャンバスだった。


「キャンバス…?」


なぜ、絵の中に更なる絵が?

疑問ばかりだが、仕方がない。


私は皿に近づいて、そのキャンバスを覗き込んだ。


そこに書かれていたのは『正義』。

そのキャンバスには、今、私が象徴潜行ダイブしている絵と、まったく同じ絵が描かれているのだ。


この絵の登場で、私の脳は完全に停止した。


しかし、私は知っている。こういう時は、1から事実を並べていけばいいだけだ。


天秤が釣り合わなくても成立する世界、叔母の価値と等しいとされるものは『正義』の絵。


まず、前提がおかしい。

タロットにおける『正義』の絶対的な法則は「均衡」だ。

天秤が傾いたままこの空間が維持されていること自体が、本来の法則から完全に外れている。


次に、天秤が要求した代償。

叔母という存在に対して、この空間は自然な等価交換を行えなかった。

なぜならもう片方の皿には、何も置かれていなかったからだ。


『不均衡』を最初から許容している空間。

そして、『釣り合わない代償』で無理やり成立させている魔術。


()()に気がついた私は、ゆっくりと周りを見回した。


真っ白な天井と壁。


「確かに、これじゃ、わからないわね……」


とにかくこれで確信した。事実が示す解答は、一つしかない。


そう。この『正義』の絵に隠された秘密。


それは……………




「……もしかして、逆位置?」




その言葉が口を突いて出た瞬間、バラバラだったピースが完璧に噛み合った。


思い返せば、私はいつもこの絵の額を拭くたびに、天秤が少し傾いて見えることが気になってしかたなかった。

でも、コウに『手書きだからそんなものだろう』と言われて、無理矢理納得していたのだ。


だけど、そうじゃなかった。


この絵は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()だったのだ。


そして、『正義の逆位置』をモチーフに描かれたものだというのならば、この不自然な状況は不自然でもなんでもなくなるのだ。


「タロットにおける『正義』の逆位置は、()()()、偏見、そして()()()()()()()()を意味する。


だからこそ、『代償』として提示された、もう一つの皿に乗せられらものが『正義』の描かれた絵だったのだ。


叔母を救い出すための『等価交換の代償』、すなわちこの結界を破るための根本的な鍵は『正義の正位置の絵』だ。


なぜかはわからないけれど、この絵は正位置と逆位置で一対になっているのだろう。




これ以上のデータ収集は必要ない。敵の領域に長居してリスクを冒す理由もゼロだ。


「……調査完了ね。戻るわ」


私はそうつぶやき、自らの意識をこの歪んだ概念空間から切り離した。



***



「……っ」


視界が反転し、重力が本来の向きへと落ち着く感覚。

ゆっくりと目を開けると、そこは蝋燭の灯りが揺れる、見慣れた深夜のカフェの光景だった。

目の前のテーブルには『正義』の絵が置かれ、私の指先はまだキャンバスの端に触れたままだ。


「おい、ユウカ! おまえ、まさか本当に……」


コウがカウンターから身を乗り出し、焦ったような声を上げた。

私が絵に触れて目を閉じた、まさにその直後から数秒しかたっていないだろうから、当然の反応だ。


「……落ち着いて。もう戻ってきたわ」


指をキャンバスから離し、私は淡々と告げた。


「は……?おまえ、たった今触れたばっかりだろ。数秒も経ってないぞ」


象徴潜行ダイブ中の精神の体感時間と、現実の物理時間はリンクしないわ。…はぁ……有意義な数秒だった。この状況をひっくり返すための確固たるデータが取れたわ」


コウが「数秒で……?」と呆然とつぶやいた、その時だった。



「随分と無粋な真似をしてくれるじゃないか」



突然背後で、怒りを押し殺しているのが手にとってわかるような声がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ