第33話 白い部屋の秘密
翌日。
最後の客を見送り、私は店のドアの鍵を閉めた。
カチャリという無機質な音が、本日の通常業務の終了を告げる。
「お疲れ。今日も無事に終わったな」
カウンターの奥でグラスを拭きながら、コウがいつものように声をかけてくる。
「ええ。……さあ、ここからが本題よ」
私はエプロンを外し、真っ直ぐにフロアの奥へと歩を進めた。
向かう先は、吸血鬼に言われて元の位置に戻したばかりの『正義』のタロットモチーフの絵画。
それを壁から外し、あいつのお気に入りの席のテーブルの上に置く。
コウは手を止め、訝しげに私を目で追った。
「本題?おまえ、まさか……」
「昨日の続き。手がかりがないなら、直接見に行くしかないでしょう?」
椅子を引いて腰をかけると、テーブルの上の絵画を見つめる。
キャンバスの中には、剣と天秤を持つ人物が描かれている。
油彩の冷たい質感が、壁の蝋燭の灯りに呼応するようにチラチラと揺れている。
「おい、冗談だろ。相手はノスフェラトゥだぞ。幽閉の構造もわかってないのに、どうやって中に入る気だ?」
コウの声に、焦りのようなものが混じる。
彼が契約に縛られている以上、直接的な手助けや助言はできない。だから私は、ただ事後報告のように告げるだけだ。
「入らないわよ。物理的にはね。…ただ、意識だけを向こう側に飛ばす。いつもの『象徴潜行』よ」
「っ、やめろ!いつものじゃねえだろ!万が一あいつが中で張ってて、精神取り込まれて戻ってこれなくなったら……」
「ちょっとした事前調査に行くだけよ。すぐに叔母を連れ帰ってこれるとは思ってないわ。それに、長居するつもりもない」
私は彼の言葉を遮り、絵画に向かって右手を伸ばした。
「天秤の反対側……叔母と等価交換できる『代償』の正体を確認してくる。それさえ分かれば、この状況は一歩進むはずよ」
館で美味しいお茶を淹れて待っているだろう、三人の顔がふと脳裏を過った。
しかし、その温かい思考を一旦切り離すと、私は目を閉じ、意識を極限まで研ぎ澄ます。
コウとの対峙で経験した、あの感覚。自分の精神を切り離し、対象の波長と同調させる。
「ユウカ……!」
コウの制止の声が、遠く、水の中に沈んでいくように聞こえなくなった。
同時に、指先から触れていたキャンバスが、まるで泥沼のように私の意識を吸い込み始める。
重力が反転するような感覚。
視界が暗転し、私の精神は『正義』の絵画の奥深く、吸血鬼が構築した冷たい概念の牢獄へと引きずり込まれていった。
***
目を開けると、そこは静まり返った美術館の一室のような空間だった。
だが、床も壁も真っ白で、平衡感覚が麻痺しそうな感覚に襲われる。
部屋の中央には、巨大な天秤が鎮座していた。
その片方の皿の上に、叔母がクリスタルの棺のようなものに横たわり、静かに眠っている。
私は一切の感情を交えずに、すぐに空間全体の構造の観察に移る。
天秤、剣の位置、空間の魔力の流れ。
近づいてみたり、遠ざかってみたり、さまざまな角度から確かめていく。
そして、いよいよ天秤の反対側の皿に目を向けると、そこには何も乗っていないことがわかった。
(…天秤が釣り合っていないのに、この世界は成り立つの?)
猛烈な疑問が湧き上がってくる。
「なぜ……?」
思わず口からこぼれた言葉は、静寂の中へと吸い込まれていく。
しかし、考えても考えても、答えに辿り着けない。
仕方がないので、とりあえず、何を置いたら釣り合うのかを問うてみることにした。
「正義の天秤よ。そこにいる叔母と価値が同じになるものを示してください」
すると、ギギギギギと傾き始める天秤。
その角度が「均衡」を表すようになった時に皿の上に現れたのは、一枚のキャンバスだった。
「キャンバス…?」
なぜ、絵の中に更なる絵が?
疑問ばかりだが、仕方がない。
私は皿に近づいて、そのキャンバスを覗き込んだ。
そこに書かれていたのは『正義』。
そのキャンバスには、今、私が象徴潜行している絵と、まったく同じ絵が描かれているのだ。
この絵の登場で、私の脳は完全に停止した。
しかし、私は知っている。こういう時は、1から事実を並べていけばいいだけだ。
天秤が釣り合わなくても成立する世界、叔母の価値と等しいとされるものは『正義』の絵。
まず、前提がおかしい。
タロットにおける『正義』の絶対的な法則は「均衡」だ。
天秤が傾いたままこの空間が維持されていること自体が、本来の法則から完全に外れている。
次に、天秤が要求した代償。
叔母という存在に対して、この空間は自然な等価交換を行えなかった。
なぜならもう片方の皿には、何も置かれていなかったからだ。
『不均衡』を最初から許容している空間。
そして、『釣り合わない代償』で無理やり成立させている魔術。
それに気がついた私は、ゆっくりと周りを見回した。
真っ白な天井と壁。
「確かに、これじゃ、わからないわね……」
とにかくこれで確信した。事実が示す解答は、一つしかない。
そう。この『正義』の絵に隠された秘密。
それは……………
「……もしかして、逆位置?」
その言葉が口を突いて出た瞬間、バラバラだったピースが完璧に噛み合った。
思い返せば、私はいつもこの絵の額を拭くたびに、天秤が少し傾いて見えることが気になってしかたなかった。
でも、コウに『手書きだからそんなものだろう』と言われて、無理矢理納得していたのだ。
だけど、そうじゃなかった。
この絵は、意図を持って逆位置として描かれたものだったのだ。
そして、『正義の逆位置』をモチーフに描かれたものだというのならば、この不自然な状況は不自然でもなんでもなくなるのだ。
「タロットにおける『正義』の逆位置は、不均衡、偏見、そして釣り合わない代償を意味する。
だからこそ、『代償』として提示された、もう一つの皿に乗せられらものが『正義』の描かれた絵だったのだ。
叔母を救い出すための『等価交換の代償』、すなわちこの結界を破るための根本的な鍵は『正義の正位置の絵』だ。
なぜかはわからないけれど、この絵は正位置と逆位置で一対になっているのだろう。
これ以上のデータ収集は必要ない。敵の領域に長居してリスクを冒す理由もゼロだ。
「……調査完了ね。戻るわ」
私はそうつぶやき、自らの意識をこの歪んだ概念空間から切り離した。
***
「……っ」
視界が反転し、重力が本来の向きへと落ち着く感覚。
ゆっくりと目を開けると、そこは蝋燭の灯りが揺れる、見慣れた深夜のカフェの光景だった。
目の前のテーブルには『正義』の絵が置かれ、私の指先はまだキャンバスの端に触れたままだ。
「おい、ユウカ! おまえ、まさか本当に……」
コウがカウンターから身を乗り出し、焦ったような声を上げた。
私が絵に触れて目を閉じた、まさにその直後から数秒しかたっていないだろうから、当然の反応だ。
「……落ち着いて。もう戻ってきたわ」
指をキャンバスから離し、私は淡々と告げた。
「は……?おまえ、たった今触れたばっかりだろ。数秒も経ってないぞ」
「象徴潜行中の精神の体感時間と、現実の物理時間はリンクしないわ。…はぁ……有意義な数秒だった。この状況をひっくり返すための確固たるデータが取れたわ」
コウが「数秒で……?」と呆然とつぶやいた、その時だった。
「随分と無粋な真似をしてくれるじゃないか」
突然背後で、怒りを押し殺しているのが手にとってわかるような声がした。




