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第32話 半年分の想い

図書室は、仄暗い廊下とは対照的に、魔力灯のような柔らかな光に満ちていた。


整然と並ぶ天井まで届く本棚の間を歩き、私は魔術の分類棚から『吸血鬼の生態と魔術・階位別考察』という分厚い背表紙を引き抜いた。


パラパラとページを捲り、目次の「吸血鬼」の項目から該当するページを探し出す。


「……あったわ」


そこに記されていたのは、吸血鬼特有の空間魔術に関する記述だった。


『高位の吸血鬼であるノスフェラトゥの中でも、さらに上位レベルの個体は、鏡や絵画といった芸術品を媒介とした『異界の牢獄』を創り出し、標的を肉体ごと物理的に幽閉する術を持つ』


私は文字の列を淡々と目で追う。


『この牢獄は極めて強固であり、外部からの物理的な破壊は、内部に囚われた者の肉体をも破壊することと同義である』


本をパタンと閉じる。

推論は裏付けられた。叔母はあの『正義』の絵画のなかに、物理的に閉じ込められている。

外部から絵を壊すことができないなら、解決策は一つしかない。


私は本を小脇に抱え、足早に図書室を後にした。


***


「なるほど……肉体ごと、絵画の中に……」


談話室に戻り、私が調べた事実を端的に伝えると、セバスチャンが顎に手を当てて考え込んだ。


「高位の吸血鬼が創り出した結界です。外から物理的に絵画を壊せば、中におられるオーナーの命の保証はありません。となると……」


「ええ。こちらから絵の概念空間に侵入して、内側から術式を解析するしかないわね」


私が平然と言うと、ルカが顔を顰めた。


「簡単に言うけどさ。吸血鬼が作った牢獄に、どうやって入るつもり?正面から魔力でこじ開けたら、すぐにノスフェラトゥに気づかれて終わりじゃない?」


「肉体ごとこじ開ける必要はないわ。精神的に潜るだけよ。……『象徴潜行ダイブ』を使うわ」


三人の視線が、一斉に私に集まった。


「……ユウカ様、まさか」


セバスチャンが、いつになく鋭い声を出した。


「ええ。私の意識だけを、あの『正義』の絵の中に飛ばす」


「正気ですか!?」


いつもは冷静なレイが、ガタッと音を立てて立ち上がった。


「相手はノスフェラトゥの領域ですよ!精神だけで敵のテリトリーに潜るなんて、もし向こうに気づかれたら、貴方の精神が食われて戻ってこれなくなるかもしれないんですよ!」


「レイの言う通りだよ。いくらなんでも無茶すぎる」


ルカも珍しく真剣な顔で引き止める。

だが、彼らがなぜそんなに慌てているのか、私にはよくわからなかった。


「無茶でもなんでもないわ。事実として、これしか方法がないんだもの。それに、私は無策で潜るわけじゃない」


私は手元の本を指先でトントンと叩き、導き出した論理を説明する。


「敵が叔母を閉じ込めるのに使ったのは『正義』のタロットモチーフの絵よ。正義の象徴は『天秤』。つまり、この魔術空間は『等価交換』の法則で成り立っているはずよ」


「等価交換……?」


「そう。この前コウと向き合う時にも、カードを引いたでしょう。あの時に出たのも『正義』だった。象徴潜行ダイブの中で、あの天秤が等価交換の法則で成り立っているということに気づいたの。つまり、あの構造なら……釣り合うものさえ用意できれば、取引ができるはずよ」


三人は何も言わずに私の話に耳を傾ける。


「私が象徴潜行ダイブで内部に潜る目的は、叔母を物理的に引っ張り出すことじゃない。天秤の反対側……叔母と等価交換ができる『何か』を特定しに行くのよ」


私が一切の感情を交えずにそう言い切ると、三人は押し黙った。

代案がない以上、私の導き出した解が最適解だと認めてくれたのだろう。


「決まりね。明日の夜、カフェの営業が完全に終わった後、『正義』の絵に象徴潜行ダイブするわ。……さあ、忙しくなるわよ」


私はそれだけ言い残し、明日の準備をするために自室へと向かうために立ち上がった。


その瞬間。


「ユウカ様」


セバスチャンから、聞いたことのない声が漏れた。


「失礼ですが…絵画への象徴潜行ダイブは、すでにどこかで経験済みなのでしょうか」


「初めてよ。そもそも絵画に象徴潜行ダイブしようなんて、思ったことも必要性もなかったもの」


その言葉を聞いた彼は、私の両肩を掴み、私としっかりと目を合わせた。


「それが…それがどれほど危険なことか、貴方は認識できているのですか?」


危険なこと…?

象徴潜行ダイブが危険なことだなんて思ったことがないので、もちろん今回もそんな心配はしていなかった。


「先ほどレイがお伝えしたばかりじゃないですか!」


セバスがここまで声を荒げるのはめずらしい。


「それしか方法がないのはわかります。叔母様を助けたいのもわかります。何より…」


そう、叔母が絵と同化してしまったら、この世界が消えてしまうのだ。

彼らにも危険が迫っている。


「しかし…貴女が………」


そこまで言うと、セバスチャンは口をつぐんでしまった。


「僕は、ユウカがいない世界なら、消えちゃってもいいと思ってるよ」


泣きそうにか細い声のした方に目を向けると、ルカが本当に涙目で私を見上げている。


「そうですよ。貴方とこの館で共に暮らし始めて、そろそろ半年です。情が湧くには十分だと思いませんか?」


レイが私をじっと見据えて言った。


彼らの言葉は、私の思考に一瞬の空白を生じさせた。

生存本能はあらゆる生物の前提条件だ。自分たちの存在が消えてもいいだなんて、明らかに矛盾を孕んでいる。


私は、両肩を掴むセバスチャンの手に視線を落とし、それからゆっくりと三人の顔を順番に見つめ返した。


「……あなたたち、非合理的ね」


私の声は、相変わらず平坦なままだった。


「感情という不確かなもののせいで、生存という最大の目的を見失っているわ。私が失敗して戻らなければ、叔母は助からず、あなたたちの世界も消滅する。それは一番避けるべき最悪の結末よ」


「ユウカ様……っ」


セバスチャンの手に、さらに強い力がこもる。


「だから」


私は彼の目を見据え、その言葉を遮った。


「私は、そんな最悪の結末を迎えるつもりはないと言っているの」


「……え」


ルカが、ぽろりと大粒の涙をこぼして瞬きをした。


「危険性は承知している。でも、これ以外に方法がないのよ。でも、私が最適解を間違えたことがあった? ないでしょう。……それに」


私はセバスチャンの手をそっと外し、彼らに背を向けて扉へと歩き出した。


「情が湧いているのは、あなたたちだけだなんて、私は一言も言ってないわ」


「……っ」


振り返らずに告げた私の言葉に、背後で三人が息を呑む気配がした。


「明日は通常通りカフェの業務をこなしてから、夜に目的を実行する。あなたたちは、私が戻ってきた時に備えて、美味しいお茶でも淹れて夜更かしでもしてなさい。……おやすみなさい」


パタン、と扉を閉める。


自分でも、最後の言葉はひどく論理を欠いていたと思う。

彼らのひたむきな不合理に当てられて、少しだけ自分が引っ張られているのがわかる。


けれど……この理屈に合わない温かい感覚のまま、明日に挑むのも悪くはない。

私は不思議と、そう思っていた。

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