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第31話 4つ目の扉

カラン、コロン……。

ドアベルの余韻が完全に消え、店内に深夜の重い静寂が戻ってきた。

インキュバスも帰り、営業時間も終わり、フロアに残っているのは私とコウの二人だけだ。


私は、吸血鬼が残していった『女教皇』の包みを静かにカウンターに置き、ゆっくりとコウに向き直った。


「コウ」


いつも通り、一切の感情を乗せない声で呼ぶ。

シンクでグラスを洗っていたコウが、ピタリと手を止めて振り返った。


「…なに?」


「答え合わせをするつもりはないわ。あなたが『沈黙の契約』に縛られている以上、肯定も否定も、あるいは態度で匂わせることもできないのは理解しているから」


私は彼を真っ直ぐに見据えたまま、淡々と事実だけを並べる。


「だから、ただ私の結論を報告するだけよ。……聞いて」


コウは濡れた手をタオルで拭き、静かに琥珀色の瞳を私に向けた。

いつもの胡散臭い営業スマイルは、そこにはない。


「叔母…美花ちゃんを連れ去り、永遠の休眠状態として自分の手元に保存している『N』の正体。それは、先ほどのノスフェラトゥよ」


「……」


「そして、彼が魔力や結界の痕跡を一切残さずに美花ちゃんを隠している場所は、異界でも地下室でもない。彼がいつも定位置から眺め、決して動かすなと指定した『正義』の絵画の中。……これが、私の導き出した結論よ」


コウは無言のまま、瞬き一つせずに私を見つめ返している。


「これでもう、あなたから無理に情報を引き出すリスクを冒す必要はなくなった。私があなたの持っている情報に追いついたのだから」


私はそこで初めて、小さく息を吐いた。


「ここから先は、『調査』ではなく『救出』のフェーズよ。……これでようやく、私とあなたは対等な盤面に立てた。そう解釈していいわね」


静まり返った店内に、時計の秒針の音だけが響く。


コウは数秒間、私の顔をじっと見つめていたが、やがて「はぁ……」と深く、長いため息をついた。


「……ほんっと、可愛げのない店長だ」


彼はガシガシと後頭部を掻き毟り、それから、今まで見せたことのないような、どこか憑き物が落ちたような顔で私を見た。


「俺は何も言ってないし、何も認めてない。……ただ」


コウはカウンターに両手をつき、私に向かってニヤリと笑った。


「『ようやくスタートラインに立ったな』とは、言っておくよ」


その言葉は、彼が契約のルールを一切破ることなく私に与えた、最大の『肯定』だった。


その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。

ようやく、本当にようやく、叔母の失踪のその瞬間にいた彼と同じ土俵に立てた気がしたからだ。


「……そう。なら、ここからが本番ね」


私は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度彼を真っ直ぐに見据えた。


「で?スタートラインに立ったところで聞くけど。叔母を助け出す具体的な方法って、進んでるの?」


私の問いかけに、コウは先ほどの不敵な笑みをスッと消し、真顔になった。

そして、悪びれる様子も一切なく、きっぱりと言い放った。


「ああ、それなんだが。今のところ、まっったく手がかりはない」


「……はい?」


「だから、何ひとつわかってないと言っている。清々しいくらいにな」


さっきまでの、あの意味深で余裕たっぷりの態度は一体何だったのか。


「……あんたねえ」


「勘違いするな。俺だって遊んでるわけじゃない。ただ、あちら側の痕跡が綺麗に消されすぎているんだよ。だからこそ、お前が『こちら側』に踏み込んでくるのを待つしかなかったんだ」


まあ、わかってたらもう動いてるだろう。

私を人身御供にしようとしたくらいだ。そうまでしても叔母を助けたいという気持ちが強いということだ。


「そうか…じゃあ、私は何から始めようかしら……まずは敵を知ることから始めましょう」


そうだ。


「このままでは、カフェごと異界の領域へ引きずり込まれる…」


叔母の部屋の手帳に書いてあった言葉を思い出す。


「え?なに?」


「叔母の手帳に書いてあったの。……ということは、そういう魔術を使って、叔母を絵の中に閉じ込めた可能性が高い」


「ああ、確かにそうかもな」


「ちょっと、屋敷に帰ってセバスチャンに相談してみるわ。吸血鬼について調べることができる場所とか…」


そうと決めたら、一刻も早く帰りたい。

私はエプロンを外しながら、コウに『女教皇』は他の絵と一緒にしまっておくように伝えると、早々に店を後にした。


***


「そうですか。では、あとはオーナーをどう救出するかですね」


帰るなり談話室で私の話を一通り聞かされていた三人のうち、セバスチャンが口をひらく。


「そうなの。まずは敵を知るために、吸血鬼が使う魔術について少し調べたいんだけど……どう調べたらいいかわからなくて、三人に相談したかったのよね」


それを聞いたレイが、私に持っていた本を見せた。


「図書室に確か…種族別の魔術辞典みたいなのがあった気がしますけど…」


……図書室?


「確かに、そんな本がありましたね」


セバスチャンもその言葉に頷いた。


「早速行ってみるから、場所を教えて!」


そう言って立ち上がると、セバスチャンも腰を浮かせる。


「大丈夫。一人で行けるから、場所だけ教えてくれる?」


館の中は安全だ。

わざわざセバスチャンの手を煩わせることもない。


「そうですか…?そうしましたら……」


セバスチャンによると、ホールの階段を2階に上がり、上がり切ったら左の廊下を進む。

手前から4つ目の扉が図書室の扉だということだ。


「え……?」


レイとルカがそう声を上げたのは聞こえていたけれど、一刻でも早く図書館に行きたかった私は、二人の声など気にせずに立ち上がると、教えてもらった通りに図書室へと向かった。


***


燭台を手に廊下を進む。

この館にきてそろそろ半年が経つけれど、まだ足を踏み入れたことのない部屋がほとんどだ。


「1……2……3……4………ここね」


4つ目の扉は、長い廊下の突き当たりより一つ手前の扉だった。


扉には札のようなものは掛けられていなかったけれど、そのまま私は扉に手をかけた。


ガチャリ。


「……あら」


開いた先にあったのは、図書室ではなかった。


薄暗い部屋の中央には、キャンバスが何枚も立てかけられている。

絵の具の匂い。乾いた油彩の匂い。


アトリエだ。


私は入り口で立ち止まり、部屋の中を見渡した。


完成品、未完成品、習作。大小様々な絵が、無造作に、しかし丁寧に置かれている。

誰の部屋だろうと考えながら、ふと目に留まった一枚の絵に、足が止まった。


「……これ」


それは、人物画だった。

というか、館の三人と一人の女性が描かれた絵だった。


「三人とも…顔立ちは今と同じなのに、絵の具はひどく古い年代の劣化を起こしているわね」


19世紀頃のアンティーク絵画特有の、深く沈んだ油彩の匂い。

百年以上前に描かれたであろうキャンバスの中で、彼らは今の姿と一寸違わぬ姿でこちらを見つめていた。


中央の女性は誰かわからない。

しかし、既視感デジャヴのようなものを感じるのは、なぜだろう。


おそらくこの館の元々の主人あるじだろうことは、想像に容易いのだが、私がその絵の前から動けなくなったのには、別の理由があった。


その筆致、色彩感覚、光と影の捉え方。

カフェに飾られている『タロットの絵』と、完全に一致していたのだ。


絵に全く造形のない私がなぜそんなことに気づいたかといえば、つい数日前、店の絵画の模様替えをする際に、一枚一枚を詳細に観察したばかりだったからだ。


カフェのタロットモチーフの絵を描いた人間と、この絵を描いたのは同一人物。

叔母を閉じ込めているあの『正義』の絵も、普通に考えればそうだろう。


「ユウカ様」


背後から声をかけられ、私はゆっくりと振り返った。

アトリエの外の廊下に、セバスチャンが静かに立っていた。


「失礼いたしました。図書室は『5つ目』のドアでございました」


暗がりの中、彼はいつも通り恭しく頭を下げる。


「私としたことが、ドアの数を数え間違えてしまい、申し訳ございません」


「……」


私は瞬きを一つし、彼を観察した。

完璧な執事である彼が、部屋の数を間違えるはずがない。談話室を出る時の、レイとルカの不自然な反応も腑に落ちる。

彼は意図的に、私にあの部屋を見せたのだ。


カフェのタロットと同じ筆致の絵。

そこに描かれていた、館の三人と『見知らぬ女性』。


彼らは一体、私に何を気づかせようとしているのか。あるいは、何を試しているのか。


今はまだ、それを問いただす時ではない。優先すべきは叔母の救出だ。

このアトリエのことは、後で必ず追及する。


しかし、今は図書館での情報収集が先だ。

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