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第26話 新たな招待状

それからしばらくは、平穏な毎日だった。

マサトが店に来ることはなかったし、九条刑事が再びフラリと姿を現すこともない。もちろん、店で人外の客同士のトラブルが起きることもなかった。


そして、それはすなわち、叔母の事件についての進展もないということだ。


調べてはいる。けれど、これといった情報がない以上、積極的に外に出ることができない私としては、自分から情報を集めに行くことができないのだ。


二十二時を前にした、静まり返った店内。

この時間はちょうど一時的に客が引く時間でもある。

私はカウンターに座り、ただひたすらに叔母が残した古い日記帳のページを繰っていた。


(このまま、ここで情報を待ち続けるしかないのかしら……)


そう思いながら、ふと視線を落とした、その時。


カタン。


入り口の重厚なアンティークドアの足元で、小さな物音がした。

郵便受けから、何かが滑り落ちたような音だ。


「……コウ?」


厨房にいるはずのコウを呼んだが、返事はない。

私は静かにスツールから立ち上がり、ドアの方へと歩み寄った。


床に落ちていたのは、一枚の封筒だった。


それを見た瞬間、私の思考回路がピタリと停止した。

そこからの『既視感』。


血のように赤い封蝋シーリングスタンプで閉じられた、漆黒の封筒。

そこから漂ってくるのは、ひどく甘ったるい『古い薔薇の匂い』。


……つい先日、叔母の隠し引き出しから見つけた、『N』からの求愛の手紙と、全く同じものだ。


私は拾い上げた漆黒の封筒を裏返す。

そこには、銀色のインクで、美しくも禍々しい筆致でこう記されていた。


『愛しき新しい花嫁へ』


叔母の失踪からもうじき半年になる。

そんな中、結界に守られたこの安全な箱庭に、再び『N』の影が落ちた瞬間だった。


感情の波を一切立てないまま、私は赤い封蝋をペリッと剥がした。

中に入っていたのは、一枚の黒いカードだった。


そして、そのカードには、表と同じ銀色のインクで一文だけが添えられていた。


【我が無垢なる透明な花嫁になれ】


「……誰宛て?」


静まり返った店内に落ちた私の声は、ひどく冷めたものだった。


『N』が何者かは知らないが、私は「透明」でも「無垢」でもない。

むしろ、人違いなのではないか、とさえ思う。


その手紙を見下ろす私の顔には、ただの一点の翳りも、恐怖による強張りも浮かんでいない。


皮肉なことに、その一切の感情が欠落した『完璧な無表情』こそが、彼が熱望してやまない『透明で無垢』な姿そのものだということに、私は気づいていなかった。


「……ユウカ?」


不意に背後から声がして、私は振り返った。

いつの間にか裏口から戻ってきていたコウが、怪訝そうな顔でこちらを見ている。


「どうかした?ドアの前で突っ立って」


「別に。…ただのチラシのポスティングよ」


私は漆黒の封筒を、見えないようにエプロンのポケットへと滑り込ませた。


叔母が姿を消して、半年近く。

私の手元には今、彼女を連れ去った犯人からの明確な『招待状』がある。


「……あー、面倒くさ。もう、閉めない?」


今日はディナーの時間帯が少し忙しかったこともあり、カウンターの奥で、コウがだらしなく頬杖をつきながら欠伸をした。

私に本性を明かして以来、客がいない時の彼は、この通り完全に『素』だ。


カラン、コロン。


ドアベルが鳴った瞬間、コウの気怠げな態度は消失し、いつもの完璧な『営業スマイル』が顔に張り付いた。


「いらっしゃいませ」


三十代半ばほどの、仕立ての良いスーツを着た男性だ。

だが、その背中には執着とギラギラとした欲望がへばりついている。


「あの…予約はしていないのですが、個室での鑑定をお願いできますか。探してほしい人がいるんです」


「承知いたしました。奥へどうぞ」


エプロンを外し、それをカウンターの端に置くと、私は男性を店の最奥にある『個室』へと案内した。


「両親の離婚で離れ離れになってから、ずっと気になっていたんです。血の繋がった兄弟なんだ、きっと向こうも私に会いたがっているはずだ…」


感動の再会。血の絆。

彼から溢れ出すのは、自己中心的な幻想だ。


私は無言でカードを切り、対象者の現状と居場所を割り出す『ダウジング・スプレッド(方位展開法)』でテーブルにカードを配置していく。


東西南北を示す四枚のカードと、その中心。

『対象者の現在地と状況』を示す中央の位置に開かれたのは、『杖の3(THREE of WANDS)』の正位置。


「弟さんは、あなたを探してはいません」

私は淡々と事実だけを口にした。


「すでに彼は過去を背にし、新しい人生に向けて出航されています。意図的に、あなたとの接点を断っている状態です」


「そ、そんなはずはない! 今なら私が彼を援助してやれるのに…!」


男性が身を乗り出す。

私は、彼自身を表す手元のカードをめくった。

『杖の5(FIVE of WANDS)』。五人の若者が杖を振り回し、乱戦を繰り広げている絵柄。


「援助、ですか」


私は『杖の5』の絵柄を指先で叩く。


「奇妙ですね。あなたが彼に向けている深層心理には、『醜い縄張り争い』や『他者を叩き落とす闘争』という答えが出ています」


「なっ……」


「弟さんは未来へ向かっている。それなのに、あなたは血眼になって彼を探し出し、争いに引きずり込もうとしている」


私は感情を一切乗せない声で告げた。

図星を突かれたのだろう。男性の肩が大きく跳ねた。


「き、貴様……っ!! 適当なことを言うな!!」


「あくまで、カードが弾き出した推論です」


私は彼から漂うどろどろとした想念を、無表情のまま受け流した。


「…っ、ふざけやがって!! いいから、どこにいるか教えろ!」


男性がテーブルに身を乗り出し、血走った目で私を睨みつける。


「……方角なら、出ていますよ。彼が新天地として選んだのは『東』です」


私は方位展開法の『東』の位置に配置されたカードを、静かに表へ返した。

男が強欲に歪んだ顔で身を乗り出す。だが、めくられたその絵柄を見て、ピタリと動きを止めた。


そこに描かれていたのは、十本の剣が背中に深々と突き刺さり、うつ伏せに倒れ伏している男の凄惨な絵柄。


『剣の10(TEN of SWORDS)』。


「……な、なんだこの不吉なカードは」


「これは彼に対する警告ではありません。その方角へ向かった場合の『あなたの結末』です」


私は冷徹に、淡々と事実だけを突きつけた。


「これ以上彼を詮索し、手を出そうとすれば…カードは、あなた自身が全てを失い、完全に破滅すると告げています」


「なっ……」


男性は言葉に詰まり、ギリッと唇を噛み締めた。

感動の兄弟愛という偽装を完全に剥がされた上に、取り返しのつかない破滅の未来まで突きつけられ、もはや反論する言葉すら見つからないのだ。


「……っ、ふざけやがって!!」

男性は忌々しそうに捨て台詞を吐くと、乱暴に個室のドアを開けて出て行った。


彼から発せられていた重い想念の澱が、行き場を失って個室に滞留していくのを感じる。


男性が帰った後、コウは個室に漂う『黄濁した煙』を小瓶に回収しながら、嬉々としてつぶやいた。


「表面は『感動の兄弟愛』の香りですが、奥には『強欲』の棘が詰まっています。ソース系の極上の隠し味になりそうだ」


カラン、コロン。


入れ替わりで、雨上がりの森とジャスミンの香りと共に、妖精族の公爵ハイ・エルフが現れた。

なんでも、こちらには期間限定で社会勉強の一環で来ているらしい。


「都会の喧騒ですり減った私に、何か腹にたまるものを頼むよ。気品と驚きのある一皿をね」


そのリクエストを受け、コウは目を輝かせた。


「ちょうどいい採れたての食材がありますよ」


そうして少しの後、コウが差し出したのは『幻惑のオムライス』。

ふんわりと甘い卵(無償の愛の幻)に、先ほどの『強欲の棘』を溶かし込んだ漆黒のデミグラスソースがかけられている。


「美しいね」


公爵は優雅に匙を運び、エメラルドの瞳を歓喜に見開いた。


「……ほう! 卵はどこまでも甘いのに、ソースが絡んだ途端、鋭く研ぎ澄まされたエゴの苦味が口内を支配する。愛の幻と、その裏に隠された残酷な現実……実に気高く、美しい一皿だ」


ペロリと平らげた公爵は、食後の紅茶に口をつけ、ふと不快そうに目を細めた。


「最近、人間の魂がルールを無視して突然消え失せる現象が多発していてね。…どこかの不届き者がポータルを開いて、我々の専売特許である『神隠し』を騙っているんだ。迷惑極まりない」


その言葉に、私はピタリと手を止めた。

コウの顔を見ると、彼は営業スマイルを完全に消し去り、静かに目を伏せていた。

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