第25話 猫被りの夜
私は涙を拭うと、改めて彼を店内へと促した。
「このハンカチ、洗ってお返ししますね。…さあ、奥へどうぞ」
店の一番奥、カウンターが見えるテーブル席へと向かいながら、九条刑事は大きく息をつく。
「ふぅ…」
と肩にかけていたジャケットを椅子の背もたれにかけ、隣の椅子に座ろうとした九条刑事が、何かに気づいたように、ふと辺りを見回した。
「なあ…」
突然そう声をかけられて、カウンターで水を受け取り、彼の元に運ぶ途中だった私は、歩みを止めて彼を見る。
「カウンターでもいいか?」
そう言われて、断る理由はない。
「どうぞ。その席は、お気に召しませんでしたか?あ…冷房が強いとか?」
店の奥の比較的静かな席だ。そこを好む客は多いのだが。
「あ、いや…そんなに長居をするつもりもないし、一人でテーブル席っていうのも悪いしな」
そんな気遣いができるようには見えなかったが、彼はそう言うとカウンター席に移動した。
「いらっしゃいませ」
コウが訝しげな視線で対応すると、
「おい、今日は客だぞ」
彼にそう言われたコウは、いつもの営業スマイル全開で、
「またお会いできて、嬉しいです」
と微笑んだ。
その完璧すぎる嫌味な笑顔に、九条刑事が小さく鼻で笑ったその時。
カランコロン、と。
アンティークのドアベルが、勢いよく鳴った。
「あ〜涼しぃ〜!生き返るわぁ……って、あら?」
派手な柄のシャツの胸元を大きく開けた、見目麗しい常連の青年……流暢なオネエ言葉を操る高位の夢魔であるインキュバス(淫魔)が、店に入ってくるなりピタリと足を止めた。
彼の視線は、カウンターに座る見慣れない先客、九条刑事に釘付けになっている。
「あらやだ。見ない顔ね」
インキュバスは先程までの気怠げな空気をパァッと消し飛ばし、嬉々としてカウンターへ歩み寄った。
そして、九条刑事のすぐ隣の背もたれに手を置き、甘ったるい声を出した。
「ねえ、いい男。近くに座ってもいーい?」
人間、それも警察官相手にこの距離感。
相手からしたら、いくら彼が人間に見えているとしても、普通ならギョッとして身構えるか、愛想笑いで誤魔化して距離を置くところだ。
私がコウに視線を送り、牽制させようとした、その時。
「どうぞ。でも、せっかくの隣が、むさ苦しい男でいいのか?」
九条刑事は全く動じることなく、むしろ慣れた手つきで自分の水のグラスを少し横にずらし、スペースを空けてみせた。
そのあまりにも自然でスマートな対応に、私とコウは思わず顔を見合わせた。
なぜ、この気だるげな刑事はオネエの扱いにこんなにも慣れているのだろうか。
「やだ、優しい!惚れそうだわぁ」
インキュバスは上機嫌でスツールに腰を下ろした。
だが、私は見逃さなかった。インキュバスが九条刑事の隣に座った瞬間、彼の美しい瞳の奥に、ほんの一瞬だけ冷たく『値踏みするような光』がよぎったのを。
対する九条刑事も同じだった。
口元にはひょうひょうとした笑みを浮かべたまま、その細められた眠そうな目は、インキュバスから発せられる『気配』を探るように静かに凪いでいる。
お互いに、隣に座る相手が『普通ではない』ことに気づいている。
それでも、二人とも一切それを態度には出さなかった。
「お兄さん、お仕事は?この辺じゃ見ない顔だけど」
インキュバスが頬杖をつきながら、探りを入れるように尋ねる。
「ただの公務員だよ。しがないね」
「えーっ、公務員!?お堅いのねぇ。ギャップ萌えってやつぅ?」
そこからは、完全にインキュバスのペースだった。
九条刑事は嫌がる素振りも見せず、適度に相槌を打ちながら、面白がるようにその会話に付き合っている。
……奇妙な空間だった。
インキュバスはいつもなら、店に入ってくるなり「ちょっと聞いてよ!」と、魔界の愚痴やら夜の街の噂やらをぶちまけるはずなのに。
今日は一切、その手の『裏の事情』を口にしない。
ただの、当たり障りのない雑談。
おそらく、この『公務員』が帰るまで持ち越すつもりなのだろう。
九条刑事がコーヒーを、インキュバスが一見すると真紅のハーブアイスティーに見える『絶望と盲愛のルビー・ドロップ』を飲み終えたのは同時だった。
「おかげで楽しい夜だった。ありがとな」
九条刑事がカウンターに小銭を置いて、インキュバスに声をかけて立ち上がると、
「やだあ〜!もう帰っちゃうのぉ〜?今度はうちの店にも来てね!大サービスするわぁ〜」
そう言って、彼は自分の名刺を九条刑事のシャツの胸ポケットに差し込んだ。
「ははは。そのうちな」
いつも気だるそうな顔をしているから気づかなかったけれど、笑うと少し若く見える。
そんなことを考えていたら、ふと彼と目が合った。
「じゃあ、またな」
フッと緩く笑顔を見せた彼は、それだけ言うと、店を出て行った。
カラン、コロン、と乾いた音を奏でるドアベルの余韻が、店の中に響き渡る。その音が完全に消えると、
「ねええええ!ちょっとおおおおお!!」
いつものインキュバスの決まり文句が飛び出した。
「なんなのよ、あの男!ただの公務員なわけないじゃない!アタシの目、誤魔化せると思ったら大間違いよ!」
先程までの猫を被ったような甘ったるい声はどこへやら、インキュバスはカウンターをバンバンと叩きながら声を荒らげた。
「彼は警視庁捜査一課の刑事よ。嘘は吐いていないわ」
私が淡々と空になったグラスを片付けながら答えると、インキュバスは目を丸くした。
「刑事!? いやいや、そういう肩書きの話じゃなくて!彼、アタシが飲んでたコレを見て、一瞬ものすっごく嫌そうな顔をしたのよ!? 人間にはただのアイスティーにしか見えないはずなのに!!」
「……へえ」
コウがシンクで洗い物をしながら、少しだけ興味深そうに相槌を打った。
先日のメフィストフェレスの件もそうだが、やはり、あの気だるげな刑事は、普通の人間には見えない『何か』を感じているのだろう。
「まあ、あのイイ男の正体は今はどうでもいいわ!それより聞いてちょうだいよ!もう最悪、本当に最悪なんだから!!」
インキュバスは身を乗り出し、私の顔を至近距離から覗き込んできた。
「アタシのお店、危うく燃やされそうになったのよ!」
「……燃やされそうに?」
「そうよ!昨日の夜、うちの店の裏口に火をつけようとしてる若い女がいてね。間一髪でアタシが気づいて止めたから良かったものの……!」
インキュバスは美しい顔をこれでもかと歪ませた。
「問題はその女よ。もちろんとっ捕まえて尋問したのよ!」
ふとコウを見ると、随分とワクワクした顔でインキュバスを見ている。
「なんか、その女!虚ろな目をして『夢のお告げが…』とかブツブツ言ってて、完全にイっちゃってたの!」
「夢の、お告げ……?」
なんだかきな臭い。
「…で、その子、どうしたの?」
まさか食べちゃったわけではないでしょうね、と続けようとインキュバスを見ると、今まで見たこともないような色気たっぷりの表情に変わった彼は、
「アタシたち流のお仕置きをしっかり、たっぷり、してやったわよ」
そう言って、ペロリと舌なめずりをした。
艶めかしい流し目と、ほんのりと熱を帯びた頬。
胸元が大きく開いたシャツから覗く白い肌は、見る者の理性を強制的に溶かすような異常な引力を放っており、彼がただの「オネエ」ではなく、人間の欲望を喰らう高位の魔物であることを如実に物語っていた。
淫魔が言う『お仕置き』が何を指すのか、詳細を聞く気にはなれない。
「ただ…その女を味わい尽くす最中、その女から、ひどく不快な匂いがしてね。アレはどう嗅いでも『こっち側』……魔界の植物か何かを煮詰めたお香の匂いだと思うのよ!」
インキュバスは忌々しそうに腕を組み、不快感を隠そうともせずに顔をしかめた。
「ただ、原料がわからないから、どこから流通しているものかもわからないのよねえ…ま、とりあえずサンプルだけ取っておいて、そのうち調べさせるわ」
そんなことを話していたインキュバスも、自分の店の開店時間が迫ってきたと帰って行った。
それからしばらくして、再び誰もいなくなった店内の空気が揺れた。
ふとドアを見ると、閉まり切らずに少しだけ開いたままになっている。
何かが挟まってしまっているのかもと思い、入り口へと向かい歩いていくと、一番手前のテーブル席の下に、タロットカードが1枚落ちていることに気がついた。
「あら。いつ落ちたのかしら」
拾い上げてみると、それは私が普段、無料の1枚引きで使っているデッキのカードだった。
表に描かれていたのは、白と黒の柱の間に座る静寂の番人……『女教皇(The High Priestess)』。
その瞬間、ドアの隙間から不意に風が入り込み、その圧のせいか、重厚なアンティークのドアはカタン、と音を立てて完全に閉まった。




