第24話 驕りという幻想
昨日、あの後階下に降りていくと、帰りの遅い私を心配して、セバスチャンが迎えにきていた。
館までの帰り道で、今日起きたこと、見たことのすべてを共有した。
話を聞き終えたセバスチャンは、
「『N』ですか………」
と言ったまま押し黙ってしまった。
心当たりがあるのかないのか、その表情からは読み取れなかったけれど、この世界が消滅したら困るのは彼も一緒。
昨日の時点で敵ではないことはわかっているので、単にあれこれ考えているだけだろうと理解した。
「…ユウカ?」
コウに呼びかけられて、自分の意識が飛んでいることに気がついた。
「ああ…ごめんなさい」
声がした方に視線を向けると、カウンター越しに仕込みの手を止めたコウが、怪訝そうな顔でこちらを見つめていた。
「ボーッとして。寝不足か?それとも昨日の夜、二階で何か変なものでも見つけたとか」
「……いいえ、ただの考え事よ。少し疲れているだけかもしれないわね」
私は曖昧に首を振って思考を切り離すと、壁に掛かっていたエプロンを手に取った。
叔母の残した『N』の謎は、すぐには答えの出ない問題だ。今はただ、目の前の日常をこなすしかない。
エプロンの紐をきつく結び直し、入り口の重厚な扉へ向かう。
カチャリと真鍮の鍵を開け外に出ると、『CLOSED』の札を裏返した。
晩夏の湿気を帯びた夜気が、じっとりと肌にまとわりつく。
時刻は二十時。
ようやく陽が落ちてネオンが灯り始めた街で、タロットカフェの静かな一日が始まる。
『OPEN』になった札を確認して中に入ろうとした瞬間、急に手首に痛みが走った。
「おい、ユウカ!やっぱり帰って来てんじゃねーか!」
顔を見なくても分かる。
この声は、別れたくても別れられずに避け続けている彼氏、佐伯マサトの声だ。
「ちょっと、痛いんだけど。離して」
私が冷たく言い放ちながら視線を向けると、そこには腹立たしいほど見慣れた男が立っていた。
身につけている服や時計は以前よりも明らかに高価なブランド物になっており、ひどく羽振りが良さそうだ。
やつれた様子など微塵もなく、むしろ不気味なほどの自信と熱気を帯びている。
「離すわけないだろ!おまえ、ずっと俺の連絡無視してどこで何してたんだよ!この店だっていつ来ても営業時間外だし」
マサトの言葉に、私は内心で得心した。
やはり叔母の結界は完璧に機能していたのだ。この店に必然性のない彼は、たった一枚のドアを隔てたすぐ外にいながら、営業していることすらわからなかったのだ。
「悪いけど、あなたに話すことは何もないわ。帰って」
私の一切感情の籠もらない視線が、今の彼の肥大化したプライドを致命的に傷つけたらしい。
マサトの顔が醜く歪み、ギリッと歯を食いしばる音が聞こえた。
「おまえは俺の女だろ!! つべこべ言わずに一緒に来い!」
怒声と共に、手首を掴んでいない方の腕が大きく振り上げられる。
(叩かれる)
そう直感したものの、私の中に恐怖や焦りといった感情は一切湧かなかった。
そのまま、この後ただ振り下ろされるであろう拳を、酷く冷めた視線で見上げていた。
……その瞬間。
「…なあ。往来で女に手ぇ上げるとか、ダサすぎない?」
気だるげな、けれど芯に鋭い冷たさを孕んだ低い声が降ってきた。
空を切るはずだったマサトの腕は、突如横から伸びてきた手にガッチリと受け止められていた。
目線を横にずらすと、そこには長身の男性が立っていた。
茶色がかった無造作な髪に、だらしなく緩められたネクタイ。ヨレたワイシャツの袖は無造作に腕まくりされている。
細められた眠そうな目は、今は獲物を射抜くようにマサトをねめつけていた。
「あ?なんだてめぇ!離せよ!」
マサトが腕を振り払おうともがくが、男性の腕は万力のようにビクともしない。
「まずはおまえが、彼女から手を離せよ」
男性はそう言ってマサトの腕に力を込めたのだろう。
「いてててて!おい!ふざけんな!警察呼ぶぞ!!」
顔を歪めたまま、マサトが男性を睨みつけた。
「あー…そうする?」
男性は掴んだ手を離さないまま、めんどくさそうにつぶやく。
早く店内に戻りたい私は、
「この人、刑事さんだけど…」
ちらりとマサトを見た後で、助けてくれた男性…九条刑事に目をやった。
すると、
「け、警察……っ!?」
つい先程までの傲慢な態度はどこへやら、マサトの顔から一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。
そして、私を掴んでいた手をあっさりと離したマサトは、
「めんどくせえな!離したぞ。まだ文句あんのか!」
それを聞いた九条刑事がマサトから手を離すと、彼は腕をさすりながら、
「チッ。また来るからな!」
そう吐き捨てて去って行った。
夜の闇へ消えていくマサトの背中を見送り、九条刑事は「やれやれ」と短く息を吐いた。
「怪我は?」
九条刑事が気だるげな視線を私に向ける。
「こういうこと、慣れてんの?」
突然の質問の意図が分からず、何も答えないでいると、
「普通さ、男に暴力振るわれかけた女性って、怖がるか身を守るかするんだよね。でもさ、あんたはただじっと拳を見つめてただけだからさ…」
一瞬のことだったはずなのに、よく見ている。刑事という職業の人は、皆、こうなのだろうか。
「慣れてはいませんよ…ただ、殴られるなあって…見てただけです」
あまり答えにはなっていないけれど、こう言うしかないので仕方がない。
「それはそうと、九条刑事はなぜここに?」
通りがかったにしては偶然すぎる登場に、思わず疑問が口から溢れた。
「ああ、この前のコーヒーが美味かったから、また飲みたくなった」
そう言って口元を緩めた彼を見て、
「それはありがとうございます。では、中へどうぞ」
私は彼を店内へと誘った。
カチャリ、と重厚な扉を開け、彼を先に通す。
「あー、涼しいな…」
片手で前髪を掻き上げながら、心底嬉しそうにつぶやいた九条刑事が、ふと足を止めて振り返った。
「それにしても」
「はい?」
「本当に彼氏なの?あんた、結構ハードな趣味してるね」
九条刑事は、先程マサトが消えていった夜の闇の方を親指で指し示しながら、呆れたように笑った。
「別れに応じないんです。……出会った当初は、今のような攻撃的な人間ではありませんでした。彼をああしてしまったのは、私に原因があるのでしょうね」
「へえ……」
ただの好奇心か、それとも警察官としての職業病か。彼の眠そうな目が、少しだけ面白そうな光を帯びて私を見下ろしている。
「彼は……彼を今のように変えてしまったのは、私なんでしょうね」
これは事実、だ。
マサトは私と出会ってスピリチュアルな世界に触れ、スピリチュアルビジネスの闇に踏み込んでしまった。
何度もそこから抜けさせようと努力はしたが、私のクライアントも多数巻き込んでしまった後だったこともあり、下手に動けなくなってしまったのだ。
マサトをあんな風にしてしまったのは、私。
クライアントにも迷惑をかけてしまう。
そう思って別れるに別れられずにいたけれど、あの日、私は限界に達して、その状況から逃げ出したのだ。
「……は?」
頭の上で響いたその声に、ふと我に返る。
「何言ってんだ?あんたのせいじゃ、ないだろ?」
ふと足を止めて、九条刑事を見上げる。
「人間なんて、そう簡単に変わるもんじゃない。もし、あんたと出会って変わってしまったって思うなら、それはあんたの驕りだ」
彼の目をじっと見たまま、どういう意味だろうと考えていると、
「あいつは、あんたと出会って変わったんじゃ、ない。元からそういうヤツだっただけだ。あんたと出会ってしばらくは、猫かぶってただけなんだよ」
……幻痛。
だと、思った。
だけど、その痛みはすぐには引いてくれない。
「え……?」
見上げると、さっきまで余裕ぶっていた九条刑事の目が、驚いたように見開かれていた。 彼が慌てた顔をしてポケットを探り始めた瞬間、自分が涙を流していることに気がついた。
「え………」
そっと押し当てられたハンカチから、ふわりと洗練された香水の匂いが漂う。
ヨレたシャツに無造作な髪というだらしない見た目には似つかわしくない、良い香りだ。
涙は流れるのに、それに伴う「悲しい」という気持ちはついてこない。
こんなにチグハグな経験は、生まれて初めてだった。




