第21話 因果の監査と猫のあくび
……象徴潜行。
自室のテーブルで『正義』のカードに触れた瞬間、視界が反転し、音も匂いもない無機質な空間へと落ちていく。
私が降り立ったのは、人間臭い「裁判所」などではなく、巨大で冷たい金属製の『天秤』だけが虚空に浮かぶ、静寂の空間だった。
『正義(JUSTICE)』。
一般的なタロット占いにおいて、このカードは「公平な裁き」や「正当性」、あるいは「法と秩序」といった道徳的な意味合いで解釈されることが多い。
しかし、この解釈では読みきれない気がして、今回私は構造的な読み方をすることにした。
因果の監査。
入力されたデータ(過去の行い)に対し、正確な出力(結果)を返すシステム。そこに感情や温情が入る余地は一切ない。
私は虚空に浮かぶ天秤を見上げた。
片方の皿には、重く黒い靄が乗っている。あれは『コウが隠している真実』だ。
あの真実(結果)を引き出すためには、もう片方の皿に、それと同等の質量を持つ『入力』を乗せなければ、この天秤は釣り合わない。
「怒り」や「悲しみ」といった感情の質量を乗せてみるが、天秤はピクリとも動かない。やはり、あの男に感情論は一切通用しないらしい。
では、何を乗せれば天秤は作動するのか。
私は、数時間前にセバスチャンたちから聞いた情報を思い出す。
『叔母はポータルの管理人』『コウは雇われの番人(代理)』。
「……なるほど。そういうことね」
この二人を繋ぐものがはっきりした瞬間、私の手の中に分厚い『契約書』の束が現れた。
それを迷わず、空っぽの皿に乗せる。
ガシャン! と重々しい音を立てて、巨大な天秤が完璧な『均衡』を保った。
コウを落とすのに必要なのは、『感情』ではなく『契約』だ。
私は答えを掴み、意識を現実の自室へと引き戻した。
***
翌日の夜。
いつものように霧の森を抜け、タロットカフェ・ヴィスコンティの裏口のドアを開けた。
「こんばんは、店長。今日も冷えますね」
カウンターの中では、コウがいつものように完璧な営業スマイルを浮かべ、グラスを磨いていた。温度のない、綺麗に作られた仮面。
だが、今日の私にはもう、その仮面を剥がすための『明確な手段』がある。
私はエプロンもつけず、準備もせず、そのままカウンターの席に腰を下ろした。
「おや?開店準備は……」
「その前に…コウくん。貴方の『監査』を始めるわ」
私が感情のない声で淡々と告げると、グラスを磨く彼の手がピタリと止まった。
「…監査、ですか?お店の売上なら、帳簿はバックヤードに……」
「とぼけないで。ポータルの話よ」
私は核心を突いた。
「貴方はこの『境界のポータル』を維持するための、叔母に雇われた番人に過ぎない。…つまり、叔母と貴方は『契約ありきの関係』なのよ」
コウの琥珀色の瞳が、スッと細められた。
「もし、叔母が何かと同化して消滅し、ポータルが崩壊したらどうなると思う?貴方はこの店という居場所を失うだけじゃない。『雇い主の危機を放置し、ポータルの維持という契約を不履行にした』ことになるわよね?」
「………」
「人外にとっての『契約』は人間のそれとは比べ物にならないほど重い、って…昔、聞いたことがあるのよねぇ」
私は、象徴潜行で得た完璧な『入力データ』を天秤に乗せた。
ぐうの音も出ない、完璧な理詰めのはず。
感情に訴えるのではなく、彼の『存在意義(契約)』そのものを人質に取った盤面のひっくり返しだ。
静まり返った店内に、時計の針の音だけが響く。
コウは少しだけ目を見開いた後、いつもの余裕を取り繕うように、薄く笑い返してきた。
「…随分と物騒な脅しですね。ですが、私の契約は破綻しませんよ。オーナーが完全に同化する前に、同じ血を引く貴女が『身代わりの……』……っ」
口にした直後。
コウの言葉が、空中でピタリと止まった。
「……なるほど」
私は一切の表情を変えずに、その言葉を拾い上げた。
「私を『代わりの人身御供』にするつもりで、今まで猫かぶって接していたのね。…よく分かったわ。貴重な証言をありがとう」
「………」
痛恨の極み、という顔で、コウは数秒間、身動き一つしなかった。
完璧な理詰めで外堀を埋められ、焦った挙句に、自ら一番隠さなければならない『真の計画』をうっかり口走ってしまったのだ。
やがて……。
「……あーあ。な〜んだ」
コウの口から漏れたのは、いつもの丁寧な言葉でも、冷酷な番人の声でもなかった。
ひどく間の抜けた、面倒くさそうな長いため息だった。
「せっかく大事に生贄として育ててあげてたのに。……あー、失敗したー。こういう詰めの甘いところがダメだっていうんだよなあ〜」
コウはグラスを拭くのに使っていたクロスをポイッとカウンターに放り投げると、今まで見せたこともないようなだらしない動作で、大きく、長ーい欠伸をした。
「バレちゃったんなら、もう仕方ないか」
彼が顔を上げた時、その表情から『完璧な営業スマイル』は跡形もなく消え去っていた。
代わりにそこにあったのは、悪戯を見つけられて開き直ったような、子供っぽくもひどくシニカルな笑み。
「いやー、優秀すぎるのも考えものだね。まさか俺が、自爆させられるとは思わなかったよ。まいった、まいった」
彼はカウンターに肘をつき、私の顔をじっと覗き込んでニヤリと笑った。
その琥珀色の瞳の奥孔が、猫のように縦に細く収縮しているのが視える。
「……随分と、態度が変わったわね」
私が淡々と指摘すると、コウは「あはは」と喉を鳴らすように笑った。
「そりゃそうだよ。あんたが『ただの生贄』なら今まで通り丁寧に飼育してあげたけど、俺の首根っこを掴んで契約をかたに脅してくるような相手に、これ以上お行儀よくしてあげる義理はないでしょ?」
コウはひらりと身軽な動作でカウンターを飛び越え、私の隣の席にドカッと腰を下ろした。普段の彼なら絶対にあり得ない、無作法な振る舞いだ。
「他の連中の前では、これからもあの『大人なコウ』を演じてあげるけどさ。…あんたの前でだけは、もう面倒くさいから素でいかせてもらうね、ユウカ」
初めて、彼が私を『ユウカ』と呼んだ。
それは、私が『ただの駒』から、彼と対等に交渉できる『厄介な相手』へと昇格した証でもあった。
「…いいわよ。貴方が猫を被るのをやめたなら、話が早くて助かる。さあ、腹を割って話しましょうか、コウ」
私は彼に向き直り、冷徹に要求した。
「叔母は今、どこで何と同化しようとしているの?」
本性を現したコウは、私の顔を面白そうに覗き込むと、ニヤリと口元を歪ませた。




