第19話 蠱惑(こわく)のコンサルタント
メフィストフェレスはいつも通り、カウンターの一番奥の席へと滑るように腰を下ろす。
「いらっしゃいませ。今夜はどのような一杯になさいますか?」
コウが音もなく歩み寄り、琥珀色の瞳を細めて尋ねる。
「この前のカクテル『信頼の崩壊・愛人添え』は良かった。今日のオススメは何かな?良いものが入っているだろう?」
その含みのある言い方が気になったのか、コウが彼に言った。
「うちの食材は厳選したものばかりですからね。いろいろありますよ」
そうして、最近収穫したものを口上していく。
すると、その中の一つに反応した彼は、口角をあげて、
「じゃあ、その『保身と絶望の霜降り』を使った何かを頼もうか。祝い酒にピッタリだ」
とオーダーをかけた。
コウは「お目が高い」と言いながら、キッチンの冷凍庫から霜降りの結晶を取り出してくると、続けて背後の棚からいくつかのボトルを取り出し始めた。
私はカウンターの中から、感情を交えずに悪魔を見据えた。
「祝い酒、ですか。随分と上機嫌ね」
「ああ。今日は君に、直接礼を言いに来たんだ」
メフィストフェレスは深紅のネクタイを軽く緩め、妖しく目を細めた。
「礼?……何のことかわからないわ」
私が淡々と返すと、悪魔は喉の奥で低く笑った。
「謙遜しなくていい。先日、私の可愛い『クライアント』に、見事な引導を渡してくれたじゃないか。…ほら、自分の保身のために、必死に電卓を叩いていたあの男だよ」
その言葉を聞いて、私は記憶のアーカイブから一つのファイルを引っ張り出した。
脂汗を流しながら、スマートフォンで退職金の計算をしていた初老の男性。まさに先ほど刑事が聞き込みに来た対象その人だ。
『優秀なコンサルがついているんです』
彼が個室で口にしていた言葉が、ピタリと符合する。
「……なるほど。彼が言っていた『有能なコンサルタント』というのは、貴方のことだったのね」
「いかにも。彼らに『交換殺人』という合理的な選択肢を囁いたのは私だ。ほんの少し背中を押しただけで、彼らは自分の保身のために、喜んで他人の命を天秤にかけた」
メフィストフェレスは、長い指でカウンターの縁をなぞりながら、うっとりと目を閉じた。
「だが、ただ計画が成功したり、失敗して刑務所に入るだけでは、味気ない想念しか産まれない。そこに君が、『共倒れ』という未来を突きつけてくれた」
恍惚の表情を保ったまま、言葉は続く。
「君の冷徹な宣告が、彼の浅ましい希望を完璧に打ち砕いた。おかげで彼の感情は、絶望と未練の間で極限まで揺れ…動揺のあまり、殺す相手を間違えてしまうという痛恨のミスをした。それによって、ただの失敗よりもはるかに濃厚で、極上のエネルギーを搾り取ることができたというわけさ」
「お待たせいたしました」
タイミングを図ったように、コウがメフィストフェレスの前にグラスを置いた。
それは、どろりとした漆黒の液体の中に、ほんのりと白い霜降りのような結晶が浮かぶ、特製のカクテルだった。
「先日当店で仕入れた『保身と絶望のラード』を、隠し味に使っております。…どうぞ、極上の霜降りですよ」
「素晴らしい」
悪魔はグラスを持ち上げ、その重たい液体を一口含んだ。
そして、脳髄が痺れるような快楽に浸るように、深く、深く息を吐き出す。
「……美味い。やはり、この店は最高だ。人間の愚かさを、これほど美しく抽出してくれる場所は他にない」
私は彼がカクテルを味わうのを無表情に眺めていた。
彼が黒幕だろうが、関係ない。私はただ、依頼通りにカードを展開し、事実を告げただけだ。
結果的に悪魔の食卓を豊かにしたとしても、それに罪悪感を覚える機能は私にはもうない。
「まあ、相手を間違えたのも、君のおかげだがね。彼女が家を出ていなければ成立しなかったことだ」
その言葉には心当たりが全くない…いや、ちょっと待って。
「彼女…?」
頭の中では薄々このストーリーがつながり始めている。
「そう。先日ここでいただいたカクテル『信頼の崩壊・愛人添え』の提供者だ」
その一言で、それは確信に変わる。
「まさか…彼女の夫が……?」
メフィストフェレスは大きく頷くと、今回の交換殺人について語り始めた。
あの後、彼女は、言われた通りに家を出た。
そして、弁護士も立てて所在調査をしていた矢先、夫から連絡が来た。
交換殺人を行うための、所在地を確認するための連絡だったが、彼女は夫に怪しまれないように家にいると伝えていた。
ちょうど同じタイミングで、夫の浮気相手が夫から盗んだ鍵で自宅に侵入をしていた。
狙いは、家に置きっぱなしだと見栄のために嘘をついた高級時計を盗むためだったが、そのタイミングで宅配便が届いてしまい、怪しまれないために妻の姉妹を装って応答した。
が、実は宅配便というのは嘘で、訪問者は交換殺人を依頼した相手、先日の相談者だった。
写真は受け取っていたものの、ここでの鑑定結果による動揺と緊張、そもそも知らない人間がこの家にいるわけがないという思い込みから、出てきた女が妻だと確信して、刺してしまう。
こうして、妻は助かり、愛人は殺され、その不自然を鍵に捜査が進んだ。
その結果、交換殺人は成功せず、すでにもう一方の殺人も実行済みだったため、夫とこの男は逮捕された。
それが真相らしい。
メフィストフェレスはそこまで語り終えると、満足そうにカクテルをもう一口含んだ。
「捩れるほどに、それは上質に…」
その言葉にハッとして彼を見る。
「あれはやはり貴方が……」
「君は完璧に私の望み通りに動いてくれた。捩りに捩れた想念は、それはそれは極上だった…心から礼を言うよ」
グラスを置いたメフィストフェレスが、ふと思いついたように口を開いた。
「…ああ、そうだ。極上の獲物といえば」
「先ほど入り口ですれ違った、あの野犬。…ひどく鼻が利くようだが。彼が嗅ぎ回っているのは、あの交換殺人の件かな?」
「ええ。そうみたいね」
私が答えると、メフィストフェレスは「くくっ……」と肩を震わせた。
「人間界の警察が、悪魔《我々》が引いた糸に辿り着けると思っているとは。実に滑稽で、実に愛おしい。…猟犬がどこまでこちら側の深淵に近づけるか、見ものだね」
悪魔は楽しげに目を細め、私に視線を向けた。
「まあ、私は今回の件でかなりの魔力を蓄えたからね。しばらくは魔界でのんびりと休暇を過ごすよ。人間界は空気が悪くて敵わん」
メフィストフェレスは残りのカクテルを飲み干すと、カウンターに代金である『金色のチップ(魂の引換券)』を置き、優雅に立ち上がった。
「ごちそうさま。休暇を終えたらまた来るよ、美しき占い師殿」
彼は芝居がかった一礼を残し、こちらに背を向けて歩き出した。
…が、
「ああ、もう一つ言い忘れたことがあった」
そう言って振り返ると、私としっかりと視線を合わせた。
「ここのオーナー……ああ、君の叔母さんだが…」
悪魔の口から叔母という単語が飛び出したことで、ぼんやりと見送っていただけの意識が覚醒する。
「え……?」
それを見越したように、彼は言葉を続けた。
「早く助けてあげないと、『同化』してしまうよ」
その言葉の意味がさっぱりわからず、一瞬の沈黙が訪れる。
私の意識が戻ってきた時には、彼は再び夜の闇へと溶けるように消えていってしまった後だった。
カラン、コロン。
ドアベルの音が止み、店内に重たい静寂が降り積もる。
「……いったい、どういう……」
どういう意味だろう? とコウに問いかけたつもりだったが、横を向いた瞬間、言葉が続かなくなった。
常に柔らかな営業スマイルか、冷笑しか浮かべないはずのコウが。
底知れないほど険しい顔で、ドアを見つめたまま誰にともなく低くつぶやいたのだ。
「あいつも仲間なのか……?」
その声はひどく低く、冷たく、今まで私に向けられていた甘く丁寧な響きは一切剥がれ落ちていた。
「……仲間って?」
私が静かに聞き返すと、コウはビクリと肩を揺らし、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
その瞬間、彼の琥珀色の瞳の奥で渦巻いていた暗い炎は、まるでスイッチを切り替えたようにフッと消え去った。
「いえ、何でもありません。ただの独り言ですよ」
いつもの、温度のない完璧な営業スマイル。
だが、今の私にはそれがひどく白々しい『仮面』に見えた。彼は私の問いを、明確な意思を持ってはぐらかしたのだ。
叔母の『同化』。悪魔の警告。そして、コウの剥がれ落ちた化けの皮。
外にはこちらを嗅ぎ回る野犬がいて、内側には決して私に真実を明かそうとしない身内がいる。
この店は、安全な避難所などではない。私はただ、見えない何かの目的のためにここに閉じ込められているだけなのかもしれない。
感情を失ったはずの私の脳が、初めてそう冷徹に警鐘を鳴らした。




