第16話 野猪の晩餐(後編)
「結論は、すでに出ています」
カードをめくると、それは音もなく黒いベルベットの上に滑り落ちた。
私がめくったカードは、燦然と輝く太陽のカードだった。
『太陽(THE SUN)』…正位置。
「…太陽?」
「ええ。眩しすぎるほどの成功。…ですが、この『成功』が具体的にどういう形でもたらされるのか」
私は開かれたカードの絵柄……白馬に乗った子供と、降り注ぐ太陽に指先を触れた。
……象徴潜行。
心の中でそう唱えて、絵柄に触れる。
瞬間、意識が白く飛ぶ。
個室の湿った空気が無菌室のような無臭に変わり、私は影の一切ない「真昼の荒野」に立っていた。
目の前には、カードに描かれている「レンガの壁」。
その日陰には、背広を着たドブネズミたちが群がり、カビた紙束を貪り食っている。彼らは光を恐れ、壁にしがみついて震えていた。
そこへ、一頭の白馬が歩いてくる。
背に乗っているのは、何も身につけていない…全裸の「子供」だ。
子供は、手綱も持たず、無邪気な顔で、手に持っていた「真紅の旗」を壁の隙間に突き刺した。
――ドォォン。
たったそれだけの衝撃で、壁が音を立てて崩れ落ちる。
堅牢に見えた壁は、実は内側から腐りきった「張りぼて」だったのだ。
遮るものがなくなった瞬間、頭上の太陽が青白く変化し「殺菌光線」のように降り注ぐ。
ネズミたちの皮膚は光に耐えられず、瞬く間にただれ、黒い煙を上げて発火していく。
だが、全裸の子供だけは燃えない。
彼には、光が反応する『燃料』がないからだ。
殺菌光線は、隠し事のない彼を素通りし、ただその輪郭を強烈に照らすだけ。
彼は、黒焦げになっていくネズミたちの断末魔など聞こえないかのように、焼け野原を悠々と進んでいく。
「…なるほど。光に焼かれるのは『不純物』だけ。『本物』は無傷で通る」
そこまで視て、私は意識を浮上させた。
瞬きを一つすると、視界は再び薄暗い個室に戻っていた。
その間、せいぜい数秒。意識の中では長く感じる時間も、実際はほんの一瞬の出来事なのだ。
私は、固唾を飲んで見守る男性の目を、真っ直ぐに射抜いた。
「…やはり、貴方は生き残る」
「ほ、本当ですか……?」
「このカードの構造的定義は『幸福』ではありません。『完全な可視化』です」
「完全な……可視化……」
「影が一切ない状態。全ての記録、全ての隠し事が、白日の下に晒されるということです。これを『破滅』と取るか、『証明』と取るかは貴方次第」
私は動かなくなったカードを指先で叩いた。
「……今のままでは、貴方の声はノイズとして処理されるだけだと」
静寂の中で、男性がゴクリと唾を飲み込んだのがわかった。
「でも、全ての罪を被れるほどの実務を担ってきた貴方なら、ボスの指示を裏付ける『決定的な記録』を持っているはずよ。それを自ら開示すれば、ボスの不正も、貴方の立場も、すべてが可視化される。…嘘がつけない絶対的な明るさの中に、今回の疑惑に関するすべてが引きずり出されるわ」
「俺がそれを『開示』すれば、この古いルールは終了するんですね?」
「ええ。古いルール(法王)は強制終了し、新しい環境(太陽)で塗り替えられる。…ルールにそぐわない異端児として消される前に、貴方がルールを書き換えれば良いのです」
男性はこちらに身を乗り出していて、今にでもこちら側に飛び込んできそうな勢いだ。
「ただし…」
そこに冷水を浴びせるように、私ははっきりと伝えた。
「その記録や隠し事の中に少なからずあなたも関与しているのなら…」
その言葉を聞いて、男性はゴクリと息を呑み、身を引いてソファに沈み込む。
「あなたも無傷では、いられない」
ソファに深く沈み込んで私をじっと見つめていた瞳が、揺らぐ。
「それは…」
男性は、少し掠れた声でそう言った後、再びゴクリと喉を鳴らした。
「自業自得です。仕方がない。でも…一人で刑務所の中で無念のまま死ぬよりは、マシです」
男性の瞳に、強い光が宿り、室内が静まり返る。
そして、しばらくの沈黙の後、乾いた笑い声が聞こえてきた。
「……はは」
男性の口から、乾いた笑いが漏れた。
「そうか…やっとわかった。俺はずっと、古いルールに基づいて作られたマニュアルを読んでいたんだな。…なら、最新版にアップデートしてやる。そして、この古い組織を終わらせる」
男性が立ち上がった。
その背中から漂っていた「乾いた紙」の匂いが消え、代わりに熱い血潮と、研ぎ澄まされた牙の気配…「システムを食い破るウイルス」のような、危険で野性的な香りが立ち上り始めた。
「ありがとう。……目が覚めたよ」
男性は来た時とは打って変わって憑き物が落ちたような晴れやかな顔で、迷いなく個室を出て行った。
その背中には、もう消されるのを震えながら耐えるだけの男の気配はない。
腐りきったシステムを強制的に書き換える「更新プログラム」として、明日の会見場へ向かうのだ。
***
カラン、コロン。
男性が去った後の個室には、彼が脱ぎ捨てていった「隷属の首輪」のような、重たい鉄の塊だけが残っている。
「…やれやれ。随分と活きのいいのが出て行きましたね」
コウがその「塊」を回収し、キッチンの銀色の鍋に放り込んだ。
赤ワインと共に煮込むと、厨房から芳醇で野性味あふれる香りが漂ってくる。
「お待たせいたしました。予定を変えて、買い置きではなく採れたてを使いました」
コウが老紳士の前に皿を置く。
『野猪の赤ワイン煮込み』。
「……ほう」
老紳士はフォークで肉を突き刺し、口へと運んだ。
「…美味い」
喉を鳴らし、ワインを一口。
「飼い慣らされた豚かと思ったが…後味に、強烈な鉄の味がする。飼い主に牙を剥いた瞬間の、反逆の味だ」
老紳士は皿に残ったソースをパンで拭いながら、ニヤリと笑った。
満足そうに料理にかぶりついている人狼から視線を外すと、フロアに落ちている新聞が目に入った。
出て行く時に落としたのだろうか。
この店には新聞を読む者がいないため、久しぶりに目にしたその活字の集まりをなんとなく眺めてみる。
一面には見出しとともに、いかにも政治家という男性と先ほどまで目の前にいた男性らしき姿が目隠しとともに掲載されている。
ふと、心臓がトクトクと鳴った。
「え……?」
私、今、『頑張れ』って…思った?
そんなはずはない。
感情が欠落しているのだから。
説明ができない現象に遭遇して、どう判断したらいいか迷う。
「明日のニュースが楽しみだな。…久々に、骨のあるショーが見られそうだ」
その声にハッと我に返る。
背後から響く人狼の声を聞きながら、さらに下へと視線を滑らせていくと、
『交換殺人失敗 愛人も死亡』
という見出しが目についた。
「交換殺人…今時そんな手の込んだことをする人間がいるのね…」
そうつぶやいて読み進めていくと、犯人とされる二人の男性の片方に見覚えがあった。
「あら…共倒れ。私の占いは『当たった』ってことになるわね」
私はそのまま新聞をたたむと、カウンターの裏にあるゴミ箱に差し込んだ。
窓の外では、風が強まり始めていた。
台風が来る。
だが、明日、日本中を巻き込む嵐は、気象庁の予報にはない、一人の男が起こす「革命」の嵐になるだろう。




