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第15話 野猪の晩餐(前編)

暦の上では夏はとうに終わったというのに、夜気にはまだ粘りつくような熱と湿気が残っていた。

台風が運んできた温かい風が、路地裏の落ち葉をカサカサと鳴らしている。


「…最近の肉は、どうも味が薄くていかん」


カウンターの奥で、低い唸り声のような独り言が響いた。

声の主は、一見、銀色の髪をオールバックになでつけた、恰幅の良い老紳士だが、実際は「人狼」だ。

深みのあるグレーのスーツを着こなしているが、その瞳は夜行性の獣のように鋭く光っている。


「飼い慣らされた家畜ばかり食っていると、牙が鈍る。…もっとこう、鉄の味がするような、野生の肉はないかね?」


「ご注文の多いお客様ですね」


コウが苦笑しながら、グラスを拭く。


「では、本日のメインディッシュは『野猪サングリエの赤ワイン煮込み』などいかがでしょう。管理された豚肉にはない、森を駆け回る猪の、濃厚な赤身肉です」


「ほう、野猪サングリエか。…悪くない」


老紳士が満足げに喉を鳴らした、その時だった。


カラン、コロン。


重たいドアが開く音と共に、湿った風と、乾いたインクの匂いが流れ込んできた。


入ってきたのは、40代半ばほどの男性だった。

仕立ての良いスーツを着ているが、ネクタイは緩み、ワイシャツの襟は汗で黄ばんでいる。

彼が全身から放っているのは、先ほどの老紳士が求めていた「野生」とは対極にある匂いだった。


(……乾いた紙と、錆びた鉄の匂い)


私はそっと鼻を動かした。

それは、長年組織のルールに縛られ、感情をすり減らしてきた人間の、パサパサに乾いた事務的な匂い。

生き物としての瑞々しさが、完全に枯れ果てている。


男性は、まるで逃亡者のように周囲を警戒しながら入ってくると、カウンターの端に座り込んだ。

その手には、夕刊紙が強く握りしめられている。


『与党大物議員、巨額汚職疑惑』

『秘書の独断か? 明日にも緊急会見』


見出しの太文字が、店内の薄明かりの中でもはっきりと読み取れた。


「いらっしゃいませ」


コウが声をかけると、男性はビクリと肩を震わせた。


「…みてもらいたい。ここには個室があると聞いたんだが…」


男性の声は、砂を噛むように掠れていた。


「誰にも……誰にも聞かれたくないんだ」


「ええ、ございますよ。秘密厳守の『特別鑑定』ですね」


コウが前払いの鑑定料を受け取りながら、私に目配せをする。

私は無言で頷き、奥へと彼を誘い、廊下の突き当たりにある個室の重厚な扉を開けた。


***


個室の防音扉が閉まると、そこは外界から隔絶された静寂に包まれた。

男性はソファに沈み込むように座ると、握りしめていた新聞をテーブルに投げ出した。


「……明日だ」


男性がポツリとつぶやく。


「明日、この件で会見を開くことになっている。…先生の指示だ。『全て私が独断でやりました』と、罪を被って自首しろと」


彼は震える手で顔を覆った。


「『家族の面倒は一生見る。ほとぼりが冷めたら戻してやる』…そう言われた。でも、嘘だ。あの人は、用済みになった人間を生かしておくような人じゃない。俺は、きっと刑務所の中で『自殺』に見せかけて殺されるのだろう」


トカゲの尻尾切り。

永田町ではよくある話だが、当事者にとっては死刑宣告に等しい。


「…逃げたいのですか? それとも、助かりたいのですか?」


私が静かに問うと、男性は顔を上げた。

その目は充血し、涙で潤んでいる。


「助かりたいに決まっている! でも、どうすればいい? 警察も検察も、先生の息がかかっている。逃げ場なんてどこにもないんだ!」


「感情論はやめましょう。貴方のような実務家には、もっと冷徹な『構造分析』が必要です」


私は黒いレースの手袋を嵌めると、テーブルに黒いベルベットのクロスを広げた。


今回は、単純な3枚引きでは足りない。

私はカードをシャッフルし、六角形を描くように7枚のカードを並べていく。


テーブルの上に、運命の幾何学模様が浮かび上がる。


「……ほう」


並べられたカードを見て、私は思わず声を漏らした。


「どうかしましたか?」


「見てください。7枚中、実に5枚が『大アルカナ』と呼ばれる運命のカードです」


私はテーブルを示した。


「通常の悩みなら、もっと日常的な『小アルカナ』が出ます。……ですが、これは違う。貴方の問題は、単なる仕事のミスや人間関係のトラブルではありません。…貴方の魂そのものが試されている『運命の特異点』だという証拠です」


男性が息を呑む。

自分の状況が、ただならぬ重みを持っていることを直感したようだ。


「…運命、ですか。俺はただの使い捨ての駒なのに」


「いいえ。駒だからこそ、盤面をひっくり返せることもある。さあ、運命を解析していきましょう」


私は中央に置かれた7枚目のカード……『最終結果』だけを伏せたまま、まずは周囲のカードから読み解き始めた。


「まずは『過去』。…『法王(THE HIEROPHANT)』逆位置」


描かれているのは、信徒に説教をする宗教的指導者。


「このカードの本質は『決まりきったルール』です。……ですが、逆位置」


「ルール……?」


「ええ。貴方は長い間、組織の『決まりきったルール』に従って生きてきた。ボスが絶対であり、従えば守られるというルール。…ですが、それは逆さまになっている」


私はカードを指で弾いた。


「今の状況において、そのルールはもう『期限切れ』です。ボスにはもう、貴方を守る力も意志もない。貴方は廃止されたルールを、一人で必死に守っているだけよ」


男性がハッとする。

「…期限切れ。確かに、先生はもう派閥の長を外されて久しい。俺が信じていた『力』は、もう幻想だったのか…」


「次に『環境』。……『正義(JUSTICE)』逆位置」


天秤と剣を持った裁判の女神。


「このカードの本質は『監査』。…正しいデータを入力すれば、正しい判決が出る機能。ですが、これも逆位置です」


「……」


「つまり、監査システムが機能していない。今の司法や世論という『環境』は、貴方の言い分を公平に聞く気がないわ。結論ありきの『出来レース』。……まともに戦っても、貴方の声はノイズとして処理されるだけ」


男性の顔色が土気色になる。

薄々は気づいていた裏切りの予感。それが目の前に突きつけられた瞬間だった。


「ルールは期限切れ、監査も機能不全……。じゃあ、俺はどうすればいいんだ。どこにも出口がないじゃないか!」


「いいえ。…出口がないのは『あなたが所属する組織』での話よ。でも、貴方の本音はどうかしら」


私はテーブルの下部、彼の足元に近い位置にあるカードをめくった。


『深層心理』。


現れたのは、女性がライオンの口を押さえつけているカード。

ただし、逆さまだ。


『力(STRENGTH)』…逆位置。


「定義は『潜在的な制御』」


「潜在的な……制御?」


「ええ。獣を鎖や檻で縛るのではなく、信頼や精神力で従わせる機能。…つまり、『あからさまではない制御』です」


私はカードのライオンを指差した。


「貴方はこれまで、暴力や強制ではなく、自分自身の『忠誠心』や『我慢』といった目に見えない力で、怒りや恐怖といった内なる獣を必死に抑え込んできた。誰に言われるでもなく、自分で自分を律してきたのよ」


男性が息を呑む。

それは、彼が秘書として誇りにしてきた「自律」そのものだった。


「ですが、逆位置です。…その『あからさまではない制御』が、もう効かなくなっている」


「……効かない」


「ええ。静かな制御で抑え込むには、貴方の中の獣は傷つきすぎた。…もう『我慢』や『忠誠』といった精神論で御せるレベルを超えているわ」


男性の震えが止まる。

その代わりに、握りしめた拳から血の気が引いていく。


「そうか……。俺は…もう我慢できないんだ」


「制御不能よ。…貴方の中の獣は、もう鎖を引きちぎる準備ができている。あとは、貴方がその扉を開けてあげるだけ」


男性が固唾を飲んで見守っている。


「では、その獣を『外』に解き放ったらどうなるか。……未来を見てみましょう」


私はテーブルの上部に置かれたカード、『未来』を示す位置に指をかけた。

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