第14話 煮詰まった想い
バケツをひっくり返したような土砂降りが、アスファルトを叩きつけている。
湿った風と共に、店内に重苦しい空気が流れ込んできた。
(……焦げ臭い)
私は眉をひそめ、手元の本を閉じた。
雨の匂いではない。
カラン、とベルを鳴らして入ってきた客から、強烈な「焦げた匂い」が漂っていたからだ。
薄暗い店内の奥……影に沈む一番奥の席では、すでに常連の吸血鬼が一人、優雅にグラスを傾けていた。
人間である客の目には「色白で整った容姿の若き紳士」としか映らないだろうが、私には彼が放つ異質な冷気が肌に突き刺さるように感じられる。
彼は入ってきた客を一瞥すると、興味深そうに血のように赤い唇を歪めたが、何も言わずに壁の絵画に視線を戻した。
「いらっしゃいませ。…ひどい雨ですね」
コウが音もなく歩み寄り、慇懃にタオルを差し出す。
その声音は柔らかいが、琥珀色の瞳は冷ややかに客を値踏みしているようだった。
客は、真夏だというのに喪服のような黒い長袖のドレスを着た、初老の女性だった。
彼女は濡れた傘を握りしめたまま、入り口で立ち尽くしている。
「お客様、ご予約はございますか?」
コウが穏やかな声で尋ねる。
「……いいえ」
「左様でございますか。
幸い、只今でしたら奥の個室にて、ゆっくりとお話を伺う『本格鑑定』もご案内可能ですが、いかがなさいますか?」
コウは商売人らしく、しかし押し付けがましくない口調で提案する。
手渡されたメニューに目を落として少し迷ったようだが、私の顔を見て、縋るように言った。
「…いいえ。そんな大層なことじゃないの。ただ、少しここで休ませてくれれば…」
なるほど。
おおよそ、女性はここがタロット占いを提供している店だとは知らず、雨宿りのつもりで入ったのだろう。
「畏まりました。では、こちらのテーブル席へどうぞ。
当店はワンドリンク制となっております。ご注文のお客様には、サービスとしてカードを一枚引かせていただいております」
コウは流れるような所作で席を示した。
案内されたのは、壁際のテーブル席だ。
彼女が歩くたびに、足元からどろりとした黒い影が滲み出し、床の木目を侵食していくのが見えた。
彼女は奥にいる先客(吸血鬼)のことなど目に入らないほど、自分の中の「闇」に没頭しているようだった。
私は彼女が注文したコーヒーをテーブルに置くと、そのまま彼女の前に座る。
そして、一枚引きのサービスを利用するとのことだったので、無言でタロットカードをシャッフルした。
一枚引き。今の彼女に最も必要な答えを出す。
めくったカードは…『吊るされた男(THE HANGED MAN)』。
木に片足で吊るされ、身動きが取れない男。しかし、その頭には後光が差している。
「……20年です」
運ばれてきたコーヒーに口もつけず、女性がカードを見つめて独り言のように語り始めた。
「あの男に全てを奪われてから、20年……。彼がのうのうと笑っているのを見るたびに、私の内臓は焼け付くように痛むのです」
「復讐をご希望ですか?」
「殺してやりたいくらいには…」
ふと口に出して、彼女はハッとした顔をして言い直した。
「いえ…殺したいわけじゃない。ただ、私が味わったのと同じ『地獄』を、彼にも味わせたい。死ぬまで、じっくりと」
彼女の瞳の奥で、暗い炎が揺らめいた。
それは瞬発的な怒りではない。
弱火でじっくりと時間をかけ、水分が飛び、凝縮された「怨恨」の重みだ。
「…素晴らしい『投資』ですね」
私は静かに告げた。
「え……?」
「このカードの意味するところは『忍耐』ではなく『投資』です」
私はカードの絵柄を指差した。
「貴方は20年間、被害者として虐げられていたのではありません。自らの手足を縛り、現実的な幸せを放棄することで、人生という『時間』をすべて復讐のために『投資』していたのです」
「投資……」
「ええ。貴方は『彼が不幸になる』という配当金を受け取るために、自分の若さも、時間も、可能性も、すべてを注ぎ込んだ。彼に一泡吹かせるためだけに、20年という莫大なコストを支払ったのです」
「そ、そうよ! だから私は、彼から回収しなきゃいけないの! 私の20年分を!」
女性が身を乗り出す。自分の執念が「正当な権利」として認められたと思い込んだようだ。
だが、私は冷徹に、次の言葉を突き刺した。
「…ですが、残念なお知らせがあります」
「え?」
「その投資先である彼は、貴女の期待通りに『暴落』しましたか?」
「……は?」
「貴女は冒頭で言いましたね。『彼がのうのうと笑っている』と」
私は、彼女が最初に吐き捨てた言葉を、そのまま突き返した。
「それが答えです。貴女が20年かけて呪詛を送り続けても、彼は痛くも痒くもなく、笑って過ごしている。…つまり、貴女の投資は失敗したのです」
「う、嘘……嘘よッ!!」
「事実です。貴女の20年は、彼にかすり傷ひとつ負わせることなく消えました。今となってはただの『不良債権』です。あなたの希望する配当金は永遠に戻ってきません」
私の言葉が、彼女の「復讐という生き甲斐」を粉々に砕いた。
「ふざけないでッ!! 私の20年が…無駄だったと言うの!? 返して……返しなさいよぉッ!!」
ダンッ! と彼女がテーブルを叩く。
その瞬間、背後の黒い影が一気に膨れ上がり、棘となって私に襲いかかろうとした。
「お客様」
涼やかな声と共に、コウがスッとテーブルの脇に立った。
「他のお客様のご迷惑になります。……お静かに」
彼が軽く手をかざす。
ただそれだけの動作だったが、膨れ上がった黒い影は、見えない圧力に押さえつけられるように霧散した。
客の目には、単に店員に嗜められただけに見えただろう。
だが、その瞬間に彼女の憑き物は落ちていた。
「あ……」
全てを吐き出した女性は、糸が切れた人形のようにガクリと崩れ落ちた。
一瞬の激昂と共に、恨みも、執着も、生きる気力さえも吸い取られ、そこにはただ「空っぽの器」だけが残った。
「…私、何を…?」
「お疲れのようですね。本日はもうゆっくりお休みになった方がよろしいかと」
私は淡々と告げた。
鑑定(一枚引き)は終わった。彼女が抱えていた「闇」は、もうない。
空っぽにはなったが、これ以上自分を焦がすこともないだろう。
「…そう、ね。なんだか、急に眠く……」
彼女は代金を置くと、ふらふらと立ち上がろうとしたが、もう一度椅子に腰を下ろすと、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。
20年間彼女を突き動かしてきた熱量。そのすべてを失ったのだ。急激な疲労や睡魔に襲われたのだろう。
基本的に店での居眠りはお断りだが、今日は土砂降りで客は彼女と吸血鬼しかいない。
もう少し眠らせておいてもよいかと判断した私は、コウを呼んだ。
「……さて」
コウが彼女にブランケットを掛け、テーブルの片付けを始める。
女性が座っている席の周りには、真っ黒な煙のような靄が、どろりと滞留していた。
彼女が吐き出した、20年分の怨念の残り香だ。
「随分と濃厚な『置き土産』ですね」
コウは手慣れた仕草で、空気を撫でた。
そして懐からガラスの小瓶を取り出すと、その黒い靄を掬い取るようにして中に収め、静かに蓋をした。
「煮詰まったエスプレッソのような、極上の苦味。……これは良い仕事をしてくれそうです」
コウは楽しげに小瓶を振り、吸血鬼の元へと歩み寄った。
「お待たせいたしました」
コウは恭しく一礼すると、吸血鬼の目の前に置かれたコーヒーに、小瓶の中身を一滴、ポタリと垂らした。
黒い雫がコーヒーの表面に広がり、芳醇で、どこか鉄錆のような香りが立ち上る。
彼はそれを優雅に持ち上げ、ゆっくりと口に含んだ。
「……ふむ」
そして、満足そうに目を細める。
「……20年ものか。素晴らしい熟成だ。
カカオ99%のチョコレートのような苦味と、喉に絡みつく絶望の余韻……。若い娘の悲鳴とはまた違う、重厚な趣がある」
「お気に召して光栄です」
彼は満足げに、空になったカップを置いた後、チラリと眠る彼女に視線を向けた。
「彼女も若い頃は美しかったのだろうな」
そしてそれから店内をぐるりと見まわし、私と視線がぶつかると、フッと軽く口角を上げて微笑んだ後でこう言った。
「しかし、やはり美しさは永遠に閉じ込めてこそだ。劣化も、老いも、変化も許さず。完璧な瞬間を、永遠に」
その言葉に、私は何も答えなかった。
「永遠の美こそ…正義」
そうつぶやいて壁に飾られた絵画を見つめた彼は、音もなく席を立つと、テーブルの上に「金色のチップ」のような光の欠片を残して、店を後にした。
彼が去った後には、豪奢な残り香だけが漂っている。
少しの静寂の後で、いつもなら嬉々として回収にくるコウが来ないことに気がついた。
ふと周りを見回すと、カウンターの奥から入り口のドアをじっと見つめる…いや、睨みつけるような視線を送っているコウを見つけた。
コウは私の視線に気がつくと、ハッとした顔をして、その後すぐに笑顔を見せた。
「永遠の美こそ正義、だなんて…失礼ですよね。」
そう言ってブツブツと文句を言いながら、吸血鬼が残した光の欠片を小瓶に回収しながら、琥珀色の瞳を細める。
「人間の『不幸』というのは、どうしてこうも彼らの舌を肥やすのでしょうね」
「……知らないわよ」
私は興味を失い、冷めきった自分の紅茶に口をつけた。
静かな店内で、ただ苦いだけの液体が、私の喉を通り過ぎていった。




