表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/44

第14話 煮詰まった想い

バケツをひっくり返したような土砂降りが、アスファルトを叩きつけている。

湿った風と共に、店内に重苦しい空気が流れ込んできた。


(……焦げ臭い)


私は眉をひそめ、手元の本を閉じた。

雨の匂いではない。

カラン、とベルを鳴らして入ってきた客から、強烈な「焦げた匂い」が漂っていたからだ。


薄暗い店内の奥……影に沈む一番奥の席では、すでに常連の吸血鬼が一人、優雅にグラスを傾けていた。

人間である客の目には「色白で整った容姿の若き紳士」としか映らないだろうが、私には彼が放つ異質な冷気が肌に突き刺さるように感じられる。


彼は入ってきた客を一瞥すると、興味深そうに血のように赤い唇を歪めたが、何も言わずに壁の絵画に視線を戻した。


「いらっしゃいませ。…ひどい雨ですね」


コウが音もなく歩み寄り、慇懃にタオルを差し出す。

その声音は柔らかいが、琥珀色の瞳は冷ややかに客を値踏みしているようだった。


客は、真夏だというのに喪服のような黒い長袖のドレスを着た、初老の女性だった。

彼女は濡れた傘を握りしめたまま、入り口で立ち尽くしている。


「お客様、ご予約はございますか?」


コウが穏やかな声で尋ねる。


「……いいえ」


「左様でございますか。

幸い、只今でしたら奥の個室にて、ゆっくりとお話を伺う『本格鑑定』もご案内可能ですが、いかがなさいますか?」


コウは商売人らしく、しかし押し付けがましくない口調で提案する。

手渡されたメニューに目を落として少し迷ったようだが、私の顔を見て、縋るように言った。


「…いいえ。そんな大層なことじゃないの。ただ、少しここで休ませてくれれば…」


なるほど。

おおよそ、女性はここがタロット占いを提供している店だとは知らず、雨宿りのつもりで入ったのだろう。


「畏まりました。では、こちらのテーブル席へどうぞ。

当店はワンドリンク制となっております。ご注文のお客様には、サービスとしてカードを一枚引かせていただいております」


コウは流れるような所作で席を示した。


案内されたのは、壁際のテーブル席だ。

彼女が歩くたびに、足元からどろりとした黒い影が滲み出し、床の木目を侵食していくのが見えた。

彼女は奥にいる先客(吸血鬼)のことなど目に入らないほど、自分の中の「闇」に没頭しているようだった。



私は彼女が注文したコーヒーをテーブルに置くと、そのまま彼女の前に座る。

そして、一枚引きのサービスを利用するとのことだったので、無言でタロットカードをシャッフルした。

一枚引き。今の彼女に最も必要な答えを出す。


めくったカードは…『吊るされた男(THE HANGED MAN)』。


木に片足で吊るされ、身動きが取れない男。しかし、その頭には後光が差している。


「……20年です」


運ばれてきたコーヒーに口もつけず、女性がカードを見つめて独り言のように語り始めた。


「あの男に全てを奪われてから、20年……。彼がのうのうと笑っているのを見るたびに、私の内臓は焼け付くように痛むのです」


「復讐をご希望ですか?」


「殺してやりたいくらいには…」


ふと口に出して、彼女はハッとした顔をして言い直した。


「いえ…殺したいわけじゃない。ただ、私が味わったのと同じ『地獄』を、彼にも味わせたい。死ぬまで、じっくりと」


彼女の瞳の奥で、暗い炎が揺らめいた。

それは瞬発的な怒りではない。

弱火でじっくりと時間をかけ、水分が飛び、凝縮された「怨恨」の重みだ。


「…素晴らしい『投資』ですね」


私は静かに告げた。


「え……?」


「このカードの意味するところは『忍耐』ではなく『投資』です」


私はカードの絵柄を指差した。


「貴方は20年間、被害者として虐げられていたのではありません。自らの手足を縛り、現実的な幸せを放棄することで、人生という『時間』をすべて復讐のために『投資』していたのです」


「投資……」


「ええ。貴方は『彼が不幸になる』という配当金を受け取るために、自分の若さも、時間も、可能性も、すべてを注ぎ込んだ。彼に一泡吹かせるためだけに、20年という莫大なコストを支払ったのです」


「そ、そうよ! だから私は、彼から回収しなきゃいけないの! 私の20年分を!」


女性が身を乗り出す。自分の執念が「正当な権利」として認められたと思い込んだようだ。


だが、私は冷徹に、次の言葉を突き刺した。


「…ですが、残念なお知らせがあります」


「え?」


「その投資先である彼は、貴女の期待通りに『暴落』しましたか?」


「……は?」


「貴女は冒頭で言いましたね。『彼がのうのうと笑っている』と」


私は、彼女が最初に吐き捨てた言葉を、そのまま突き返した。


「それが答えです。貴女が20年かけて呪詛を送り続けても、彼は痛くも痒くもなく、笑って過ごしている。…つまり、貴女の投資は失敗したのです」


「う、嘘……嘘よッ!!」


「事実です。貴女の20年は、彼にかすり傷ひとつ負わせることなく消えました。今となってはただの『不良債権』です。あなたの希望する配当金は永遠に戻ってきません」


私の言葉が、彼女の「復讐という生き甲斐」を粉々に砕いた。


「ふざけないでッ!! 私の20年が…無駄だったと言うの!? 返して……返しなさいよぉッ!!」


ダンッ! と彼女がテーブルを叩く。

その瞬間、背後の黒い影が一気に膨れ上がり、棘となって私に襲いかかろうとした。


「お客様」


涼やかな声と共に、コウがスッとテーブルの脇に立った。


「他のお客様のご迷惑になります。……お静かに」


彼が軽く手をかざす。

ただそれだけの動作だったが、膨れ上がった黒い影は、見えない圧力に押さえつけられるように霧散した。

客の目には、単に店員に嗜められただけに見えただろう。

だが、その瞬間に彼女の憑き物は落ちていた。


「あ……」


全てを吐き出した女性は、糸が切れた人形のようにガクリと崩れ落ちた。

一瞬の激昂と共に、恨みも、執着も、生きる気力さえも吸い取られ、そこにはただ「空っぽの器」だけが残った。


「…私、何を…?」


「お疲れのようですね。本日はもうゆっくりお休みになった方がよろしいかと」


私は淡々と告げた。

鑑定(一枚引き)は終わった。彼女が抱えていた「闇」は、もうない。

空っぽにはなったが、これ以上自分を焦がすこともないだろう。


「…そう、ね。なんだか、急に眠く……」


彼女は代金を置くと、ふらふらと立ち上がろうとしたが、もう一度椅子に腰を下ろすと、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。

20年間彼女を突き動かしてきた熱量。そのすべてを失ったのだ。急激な疲労や睡魔に襲われたのだろう。


基本的に店での居眠りはお断りだが、今日は土砂降りで客は彼女と吸血鬼しかいない。

もう少し眠らせておいてもよいかと判断した私は、コウを呼んだ。


「……さて」


コウが彼女にブランケットを掛け、テーブルの片付けを始める。

女性が座っている席の周りには、真っ黒な煙のようなもやが、どろりと滞留していた。

彼女が吐き出した、20年分の怨念の残り香だ。


「随分と濃厚な『置き土産』ですね」


コウは手慣れた仕草で、空気を撫でた。

そして懐からガラスの小瓶を取り出すと、その黒い靄を掬い取るようにして中に収め、静かに蓋をした。


「煮詰まったエスプレッソのような、極上の苦味。……これは良い仕事をしてくれそうです」


コウは楽しげに小瓶を振り、吸血鬼の元へと歩み寄った。


「お待たせいたしました」


コウは恭しく一礼すると、吸血鬼の目の前に置かれたコーヒーに、小瓶の中身を一滴、ポタリと垂らした。


黒い雫がコーヒーの表面に広がり、芳醇で、どこか鉄錆のような香りが立ち上る。


彼はそれを優雅に持ち上げ、ゆっくりと口に含んだ。


「……ふむ」


そして、満足そうに目を細める。


「……20年ものか。素晴らしい熟成エイジングだ。

カカオ99%のチョコレートのような苦味と、喉に絡みつく絶望の余韻……。若い娘の悲鳴とはまた違う、重厚な趣がある」


「お気に召して光栄です」


彼は満足げに、空になったカップを置いた後、チラリと眠る彼女に視線を向けた。


「彼女も若い頃は美しかったのだろうな」


そしてそれから店内をぐるりと見まわし、私と視線がぶつかると、フッと軽く口角を上げて微笑んだ後でこう言った。


「しかし、やはり美しさは永遠に閉じ込めてこそだ。劣化も、老いも、変化も許さず。完璧な瞬間を、永遠に」


その言葉に、私は何も答えなかった。


「永遠の美こそ…正義」


そうつぶやいて壁に飾られた絵画を見つめた彼は、音もなく席を立つと、テーブルの上に「金色のチップ」のような光の欠片を残して、店を後にした。

彼が去った後には、豪奢な残り香だけが漂っている。


少しの静寂の後で、いつもなら嬉々として回収にくるコウが来ないことに気がついた。


ふと周りを見回すと、カウンターの奥から入り口のドアをじっと見つめる…いや、睨みつけるような視線を送っているコウを見つけた。


コウは私の視線に気がつくと、ハッとした顔をして、その後すぐに笑顔を見せた。


「永遠の美こそ正義、だなんて…失礼ですよね。」


そう言ってブツブツと文句を言いながら、吸血鬼が残した光の欠片を小瓶に回収しながら、琥珀色の瞳を細める。


「人間の『不幸』というのは、どうしてこうも彼らの舌を肥やすのでしょうね」


「……知らないわよ」


私は興味を失い、冷めきった自分の紅茶に口をつけた。

静かな店内で、ただ苦いだけの液体が、私の喉を通り過ぎていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ