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群青の影

*編集中*




鉄がぶつかり高い音を立てる。重機が忙しなく動き回るため、会話するにも自然と大声になるのも無理はなかった。現場監督と作業員が、タブレットを片手に画面を注視していると、遠くから悲鳴が聞こえてきた。


「なんだ?」


不自然に傾いた鉄骨に人集りが出来ている。傍らにあったクレーンのワイヤーが大きく揺れていた。現場監督が駆け寄ると、地面に赤黒い血溜まりが、じんわりと染み込んでいる。


「……祟りだ」


誰かがポツリと呟いた。工事現場に不気味な静けさが漂っていた。



****


不揃いなブラスバンドの演奏が聞こえてくる。画面の中では球児たちが声を張り上げていた。

甲子園ではないが、我が県の代表を懸けた一戦だった。どちらの学校も、桜小町とは関係がない県南の高校。それでも目が離せないのは、黒川にとってこの時期の習慣だったからだ。


今年は声援も実況すらも、例年にないほど白熱していた。普段であれば二回戦止まりの公立校が、破竹の勢いで勝ち上がり今、この場に立っている。盛り上がらないはずがなかった。


試合は延長十回裏。相手の投手は捕手の指示が気に入らないのか、しきりに首を振る。何度目かでやっと心が決まったらしく、深く頷きすっと構える。

演奏を凌駕するほどのスタンドの声援は、相手の投手にしてみれば呪詛のように思えるだろう。投手の張り詰めた空気が、画面越しにも滲んでいた。


ようやく投手から放たれたボールは、打者の内側を攻める。やや打ちづらそうに、それでも打者の渾身の一振は、鋭く遊撃手と三塁手の間を転がっていく。

勝敗が決まった一打だった。

勝利に歓声を上げる公立校が映る画面の端で、負けた常勝校の投手がマウンドに泣き崩れる。

力なく捕手が投手の元へ歩み寄り、互いに支え合い整列へと向かう。

彼らとて、今日この日のために積み重ねてきたものがあった。しかし観衆の関心は公立校へと注がれる。


「可哀想に、などと言うのは、あまりにも無責任ですね」


自嘲気味に笑いながら、ただ眺めるだけの黒川は湯呑みを傾けた。




店の外に出ると膨張した空気が黒川を包んだ。

やる気を削ぐ熱さに、蝉すら鳴かない。昔は良く店の前で打ち水などしたものだが、それも今は無意味に思えた。


「…暑い」


買い物に出ることさえ重労働だと言うのに。あの球児たちはこの気温の中、試合をしていたのかと思うと目眩がする。

しかし今、黒川の口はあの冷たく白い細麺を求めている。

恨むべきは真夏の日差しより、食材補充を怠った過去の自分だった。




入った食料品店の中は、鳥肌が立つほど空調が効いていた。

手早く済ませて早く帰ろう。あの陽炎の中、また歩いて帰ると考えるだけで気が重くなる。

目的の棚に向かうと、見知った二人が立ち話をしていた。一瞬、声を掛けるのを躊躇うも、欲しい物はすぐそこにある。黒川は小さく息を吐いた。


「こんにちは。キョーイチさん、ミワコさん」

「ああ、黒川さん。今日も暑いですねぇ」


黒川に気付いた居酒屋の奥さんが振り向くと、水滴が舞うように見えた。ハンカチでも差し出したくなるほどだが、この薄い布では拭うには足らないだろう。


「今、眼鏡屋さんとも話してたんだけど」


ミワコは一瞬だけ言い淀み、周囲を気にするように視線を走らせた。


「……あの工事、事故があったらしいの。死人が出たって」

「工事ですか…どこのことでしょうか」


黒川は顎を擦りながら記憶を探るが、思い当たるものがなかった。するとミワコの陰に隠れていた眼鏡屋の店主が、ひょっこり顔を見せた。


「相沢さんトコの土地だったあそこだよ。なんでも、工事関係者が事故で死んだらしいってさ」


その場所は長く雑木林になっていた土地だった。そう言えば以前、どこかの企業が買ったと、誰かが噂をしていたことをふと思い出す。


「やっぱり私は噂の祟りなんじゃないかって。あの大きな木も切っちゃったんでしょ?あれが良くなかったのよぉ」

「ああ、一際大きい桜の木でしたね」


土地の持ち主だった相沢は、もう随分前に亡くなっている。黒川も昔、そこで彼と花見をしたことがあった。祟りの正体も知ってはいるが、今二人に話したところで、早く帰りたい黒川にとって面倒になる気がした。


「しかも買い取った所って、あの定食屋さんの息子らしいのよ」

「へぇ、そりゃ初耳だ」

「定食屋さんって、アキラくんのことでしょうか」


驚く二人にミワコは大きく頷いた。女の耳は、いつの時代も恐ろしいほど早い。

あの気弱な男の子は、今どうしているだろうか。久しぶりに聞く名前に黒川も頬が緩んだ。


「懐かしいですね。出来ればアキラくんはお会いしたいものです」

「何言ってんの黒川さん!タカアキさんがカンカンだったわよ。それにね…」


ミワコの止まらない言葉の嵐に、キョーイチと目を合わす。どうやら、彼女の気が済むまで解放はしてくれなさそうだ。


体の芯まで冷えた頃。ようやく外に出られたと思えば、今度は焼き尽くすような日差しに黒川は眉を顰めた。

早く切り上げればいいものを、ミワコの話運びは妙に巧みで、でつい聞き入ってしまった。よたよたと熱気に煽られながら黒川は帰り道を歩いていく。

道の先、ちょうど古本屋の辺りで揺らめく人影が見えた。近付くとスーツ姿の男女二人が店の前で佇んでいる。避けたくともそこは黒川の店だ。何よりこの暑さでは、自分も彼らも外にいるのは危険だ。

観念した黒川が声を掛けようとすると、先にこちらに気付いた男が歩み寄り、頭を下げた。


「…おや、もしかしてアキラくんですか?」


話題に上がらなければ分からなかったが、微かな面影に黒川は思わず手を叩く。大人の落ち着きを纏ったアキラに、黒川は目を細めた。


「…お久しぶりです。お忙しいところ申し訳ありませんが、少しお時間よろしいでしょうか」

「ええ、構いませんよ。お待たせしてすみませんでした。さあ、中へどうぞ」


どうやら買ってきた素麺は、夜のお楽しみへと変わりそうだ。それでも黒川は、鼻歌が零れるくらいには上機嫌だった。


店内は少し留守にしていただけにも関わらず、籠った熱が部屋を満たしていた。最近来客が多い。そろそろ椅子の一つでも、置いておく必要がありそうだ。


「ちょうどさっき、アキラくんの話をしていたところだったんですよ」

「そうですか…」


黒川とは対照的に、アキラとその隣に並ぶ若い女の面持ちは暗い。改めて女へと視線を移す。目鼻立ちが整った美しい女だったが、纏う雰囲気に黒川は違和感を覚える。


主に顔……いや、耳元か。


深緑の小さな石が着いた耳飾りに、黒川の視線が留まった。


「紹介がまだでしたね。彼女は部下の山田です」


黒川の視線に気付いたアキラが身体をずらし、山田を前に出す。凝視する黒川に居心地の悪さを感じたのか、彼女もぎこちなく頭を下げた。


「すみません。あまりにも綺麗な方だったので、つい見惚れてしまいました」


黒川は取り繕うように笑ったが、どうやら彼女に対して不信感を与えてしまったようだ。挨拶を済ませた山田は、一歩下がりアキラの陰に隠れてしまった。


「それで、アキラくんのご用はなんでしょうか?」


何時までも二人を立たせているのも忍びない。アキラとの雑談も楽しみたかったが、黒川は本題を促した。


「あの雑木林だったところに、ショッピングモールが立つことはご存知でしょうか」

「ええ、噂程度には。アキラくんの会社だと言うこともお聞きしました」


昼を逃してまで話を聞いて良かったと、今なら素直に感謝が言えそうだ。


「驚きましたが、流石はアキラくんですね。とても誇らしいです」

「…誇らしい、ですか?」

「ええ。今、こんな古本屋に立たせていることが申し訳ないくらいですよ」


アキラの表情が歪む。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には元に戻ってしまった。少し後ろに立つ山田も、そわそわと落ち着かない。


何を相談されることやら。黒川は頬杖をつき、アキラの言葉を待つ。しかし、アキラが口を開こうとした時、店の扉が大きく音を立てた。


「この…裏切りもんがぁ!」


一同が向けた視線の先には、会長が立っていた。走ってきたのか、真っ赤な顔に調理白衣も乱れている。


「おやおや、騒がしいですね。会長さん」

「すみません…でも今は、そこの馬鹿に話があるんです」


会長はアキラを指差し、今にも殴り掛かりそうな勢いだ。あまりの気迫に、山田もアキラの背中に縋るよう隠れた。


「この商店街の面汚しが!どれほどお前の両親が苦労してたか知らんのか!」

「…」


詰め寄る会長にアキラは沈黙で応える。反論がないのも気に入らないのか、会長の憤りは収まる気配はなかった。


「祟りの桜の木まで切りやがって、そんなんだから呪われて人まで死んじまうんだ!」

「会長さん、落ち着いてください」

「これが落ち着いてられるか!大体お前は…」


黒川の静止も聞かず、会長の怒りは増すばかりだ。それでもアキラは沈黙を貫いていた。


「タカアキくん」


注意のつもりで出した声は思いの外低く、黒川はハッと口に手を当てる。しかし効果はあったようだ。会長もぴたりと動きを止め、目を丸くして黒川を見ていた。


「…タカアキくんの気持ちはよく分かりました。ですが、今彼らはここのお客様です」


黒川は努めて穏やかに会長を諭す。


「今日のところは帰りなさい。あとで話を聞きますから」

「…っぐ」


会長は強く拳を握るも、黒川に言われては何も言い返せず。アキラへ一瞥だけ残し、静かに店を出ていた。


「はぁ…」


緊張から解放されたアキラが、ため息を零した。成長を感じさせる勇敢な姿勢に、黒川は頬を綻ばせた。


「タカアキくんは今年から会長さんになって、色々気が張っているんですよ」

「商店街の組合会長ですか。タカアキさんらしいですね」

「そうでしょうか?」


アキラは黒川の返答に小首を傾げた。タカアキは昔から商店街の活動に熱心だった覚えがあったからだ。


「まあ彼のことはさておき、お話を続けましょうか。アキラくんは何を聞きたいんですか?」

「…はい、率直な意見が欲しいんです」


黒川の眼鏡に反射したアキラが映る。その顔は、自分で見てもどこか幼く思えた。


「この町にショッピングモールが立つことを、黒川さんはどう思いますか?」


祟りの相談かと身構えていた黒川は、ぽかんと口を開けた。しかし答えを静かに待つアキラの表情に、黒川が想定しているより責任重大だと思い知る。

さて、どう答えたものか。黒川は少しだけ、悩む素振りを見せた。


「そうですね。とてもいいことだと思いますよ」


黒川の質素な返答に驚くアキラと山田の反応は、まるで正反対のものだった。


「嫌じゃないんですか」


割って入る山田が初めて声を上げた。


「もし、ショッピングモールが立ったら、この商店街がなくなってしまうかもしれませんよ」

「おや、こんな小さな商店街を心配してくださるとは、お優しいんですね」


立てる側の言葉とは思えない山田の反応に、黒川は眼鏡を押し上げる。


「ですが……それがなくても、この商店街は近いうちになくなるでしょう」


静かになる店内には、外の音さえ聞こえてこない。それが何より証明していた。


「ショッピングモールが立つのなら、そこで買い物する人も働く人も増える。いいことだと思いますよ」


黒川の返答に落胆したのか、山田は視線を落とした。ちらりと髪の間から覗く耳飾りが、やはり気になる。黒川は再び眼鏡を押し上げた。


「さて、お話は以上でしょうか?」

「…はい、ありがとうございました」


名残惜しそうに、それでもアキラは真摯に頭を下げた。その潔さが、黒川には気持ち良かった。


「ふふ、意地悪が過ぎましたね。祟りのこと、気になりませんか?」


アキラ達はたった今、現場で祈祷式を改めて行なった帰りだった。神妙な面持ちで声を潜める黒川に、二人は喉を鳴らした。


「祟りなんてないので、心配しなくて大丈夫ですよ」

「ええ!?」


素っ頓狂な声を上げる二人に黒川は悪戯が成功した子供のように笑った。


「でも、さっきの人も祟りだって…」


山田は会長のことを差しているのだろう、戸惑いながらも、黒川と視線が交わる。


「土地の所有者だった相沢さんは、名前こそ知れ渡っていますが、今、彼を知っていた人間は残っていません」


黒川の脳裏に、ボサボサ頭の野暮ったい男が浮かぶ。偏屈と有名だった彼だが、そんなところが黒川は好ましかった。


「あの雑木林も、昔は立派な桑畑でした。彼の代で廃業してから荒れ放題で、近所からよく文句を言われていたものです」


まるで昨日のことを語るような黒川の昔話に、アキラも山田も静かに耳を傾けた。


「桜の木の祟りは、整地を放棄するための彼の言い訳が始まり。それがいつの間にか定着してしまった、そんなところです」


嘘から始まった祟りは、偶然が重なり真実味を帯びて人々に伝わってしまった。よくある話だ、と片付けてしまえば簡単だ。だがそうして放置してきた自分にも、責任がないとは言えなかった。


「じゃあ、祈祷をしても意味はなかったのか」

「そうとも限りませんよ」


気の弱さは相変わらずらしい。肩を落とすアキラを遮るよう黒川が言葉を続けた。


「周囲が呪いのせいだと不安に思っているのなら、対処をする姿勢は必要です。大事なのは、アキラくん自身が毅然していることです」

「弱音を吐くな、と言うことですか」

「そういうことになりますね」


心当たりがあるのか、アキラは小さく唸り顎を摩る。山田もアキラの背中にそっと手を当てる。見つめ合う二人に黒川は納得したように頷いた。


「タカアキくんも、本当はアキラくんが羨ましいんですよ」

「羨ましい?タカアキさんが?」


アキラの驚く表情が幼い頃のままで、 黒川は懐かしさに胸が擽られた。


「彼は昔、夢がありこの町から出ることを強く望んでいました」


夢を語る学生服を着た少年の、飛び飛びの音色と少し外れた歌声は、思えば久しく聞いていない。


「結局は家を継ぐこととなり、タカアキくん自身も、今ではそれも後悔はないと思います。ただ…」

「自分の夢を追っているアキラくんを、羨む気持ちがないと言えば、嘘になるでしょうね」


黒川は口に出して改めて気付く。二人は案外、似た者同士なのかもしれない。


「てっきりあの人は、昔から商店街思いなのかと思ってました」


アキラが子供だった頃、すでにタカアキは寿司屋として修行をしていた時期だ。そう思うのは不思議ではないだろう。


「彼は本当に真っ直ぐな子ですからね。でも、商店街の人間はみんな、貴方を応援してますよ」

「…そんな」

「おや、信じられませんか?大きな商業施設が出来ると、みんなわくわくしてますよ」


目新しいものに興味が惹かれるのが人間だ。実際、今日のミワコの口振りからも期待感が溢れていた。口に出さないだけで、本当はショッピングモールが立つことを誰もが望んでいるはずだ。


「祟りの噂とタカアキくんのことは、こちらが何とかします。だから、安心してください」


アキラはぎゅっと口を結んだ。でなければ、溢れる涙を堪えることは難しかったからだ。

声もなくアキラは深く頭を下げる。

山田も口を噤んだまま、複雑な胸中を押し隠すように頭を垂れていた。


今の黒川に出来ることは、これが精一杯だ。

帰る二人の背中を眺め、幾許かの不安に黒川は深く目を瞑った。



***



その夜、楽しみにしていた素麺は、つるりと清涼感が喉を通り過ぎ、黒川を大変満足させた。

居間では洗い物とテレビの音が混ざり合う。

奇跡の優勝。ニュースで取り上げられるのは公立校ばかりで、そこに対戦校のことは一切触れられない。


ふと、カタカタと入り口を叩く音が聞こえてくる。時計を見ると、針はすでに九時を回っている。扉には小柄な影が一つ。思ったより早い来訪に、黒川も安堵した。

扉の外には、山田が立っていた。


「こんな時間に一人で出歩くのは、あまり関心しませんよ」


尋ねておいて目を丸くしている山田を、茶化しながら招き入れる。黒川への不信感は拭えていないようで、店内に入っても山田は入口近くで足を止め留まる。そのまま向かいあっても妙かと思い、黒川は昼間と同様、カウンターに腰を掛けた。


「失礼なことは承知の上で、お願いがあります。どうかあの人に、建設を中止するよう助言してください」


今日一番の深いお辞儀に、黒川は困ったように笑った。


「可笑しなこと言いますね。貴方の会社が、計画したことではないんですか?」

「その通りです。でも、私はあの人に失敗をして欲しくないんです」

「…失敗ですか」


昼間と違い、山田の真っ直ぐ見つめる瞳に迷いはない。それでも頼りなさげに手を組む様子に、黒川も今は耳を傾けた。


「この計画は、社内ではあまり評判はよくないんです。こんなところに建てても、採算が得られないんじゃないかって」

「ふふ、まあここは何もない田舎ですからね」


失言に気付いた山田がハッと口元を抑えたが、黒川は続けるよう無言で手を差し出した。


「すみません…でもこの計画を推す人達は、彼の失脚を望んでいる者ばかりで、今回の事故以前もトラブルは絶えなくて…」

「あの人が地元を想う気持ちは、よく理解してます。でも…」


言外に巡る思いも痛いほど伝わってくる。涙ぐむ彼女の声色に嘘はなかった。


「なるほど、貴方の気持ちはよく分かりました。つまりみんな、アキラくんが失敗することを望んでいたってことですね」


─貴方も含めて。

黒川は山田を見据え、淡々と言った。


「違います!私はあの人に失敗して欲しくないんです!」

「ですが、アキラくんがここにショッピングモールを建てたい、と言う気持ちを否定しているのは、他の方と変わらないのでは?」

「…それは」


山田が俯くと突然、カタカタと後ろの戸が音を立てた。振り返って見ても、そこには何も映っていない。


「風ですよ。気にしないでください」


山田がここまで来る間、風を感じた記憶はない。その事実が、胸の奥をざわつかせた。


「少し言い方が意地悪でしたね。貴方がアキラくんを、貶めようとしているとは思っていませんよ」


柔らかい声に、山田の視線が誘導される。穏やかな笑みを浮かべること男の目が、どうも居心地が悪くて仕方なかった。


「妬みでも慈愛だとしても、彼の成功を誰もが望んでいない。それはさぞかし、寂しいことでしょうね」


そんなつもりはなかった。それでも突き付けられた事実に、山田は呆然とした。



ガン ガン ガン



再び激しく硝子が揺らされる音に、山田は小さく悲鳴を上げた。

誰かが、扉を叩いている。入口から距離が取りたくて、山田は急いでカウンターまで駆け寄った。


「だ、誰か来てるの?」

「さあ?風じゃないですか」

「風なんか吹いてなかった!」


古い木製の扉は、誰でも簡単に壊せそうに思えた。恐怖に震える山田を横目に、黒川は何事もないかのように涼しい顔をしている。


「貴方の耳飾り、とても素敵ですね。どこで買ったものですか?」


今それどころではないだろう。黒川の的外れな質問に、山田はムッとした。

─しかし、どこで買ったんだっけ。意識が耳元へ移り、そっと触れる。小さな深緑の硝子玉のピアスは近頃お気に入りだったが、いつから持っていた物かは記憶にない。


ドン ドン ドン


強く叩かれた戸に、今度は人影がはっきり見えた。風ではない。誰かが、外にいる。


「店長さん。お、お客さんかもしれませんよ?」

「こんな時間にここを尋ねてくる人なんて、貴方くらいですよ」


山田のそれは願望からの言葉だったが、黒川に簡単にあしらわれてしまった。扉に映る影がゆらゆらと山田の恐怖心を煽る。見たくないはずなのに、目が離せない。

─誰か、助けて。声にならない叫びが、胸の奥で渦巻いた。


「心配しなくても、あれはここには来ません」


やっぱり風じゃないのか、口には出さず、山田は頬を膨らませた。何が可笑しいのか、黒川は含みのある笑みを浮かべ、眼鏡の位置を直した。


「ですが、あれほど存在感を示すのも珍しい。それもその耳飾りが、そうさせたんでしょうか」

「えっ?」


一瞬、黒川の言っていることが山田には理解できなかった。ずっと感じていた黒川の視線、それはこのピアスだったのだろうか。

途端に気持ち悪い物に思えて、山田は外そうとピアスへと手を伸ばす。


「外さないでください」


有無を言わせぬ調子で、黒川は言い放つ。その気迫に山田も動きを止めた。訳がわからず、怖くて涙が零れそうになる。


「ここにいれば大丈夫です。下手な扱いは、もっと危険な目に遭いますよ」


さらっと恐ろしいことを言われ、山田は黒川の言う通りにする他ない。ノックする音は聞こえなくなったが、もう山田には、後ろを向いて確認することは到底できそうになかった。


「それにしても驚きました。アキラくんは自分の意見を押し通すような子ではなかったので」

「…そう、なんですか?」

「ええ、気遣いができると言えばよく聞こえますが、人目を気にして我慢してしまう、そんな子でした」


黒川がぽつりと語り出す言葉に、山田は視線を上げた。気を紛らわせるための昔話だとしても、彼の過去なら興味を持たないはずがなかった。


「貴方はお願いがあると、ここに来ましたが…それはこちらも同じです」


山田を見つめ、一拍置いた後、黒川は静かに口を開いた。


「貴方にお願いがあります。どうか、アキラくんを支えてあげてください」

「失敗するかもしれません。それでも貴方がいれば、また彼は立ち上がれます」


応援していますよ。

微笑む黒川に、何故アキラがここへ足を運んだか、分かった気がした。


「…はい」


涙が目尻から零れる。これ以上言葉にしたら、もっと溢れてしまいそうになるのを、山田はグッと堪えた。


「さて、お話はこれで終わりですが、こんな夜更けに一人で帰すのは忍びないですね」


黒川が手を叩くと乾いた音が響いた。恐怖心や扉の影も、もう感じない。先程まであった淀んだ空気が、さっぱりとなくなってしまったようだ。


「良ければ、アキラくんの子供の頃のお話をしましょう。お茶を入れますよ」


黒川は立ち上がり、奥の居間の扉を開く。ついさっきまでの自分なら断っていただろう。でも今は素直に頷ける。


「お願いします」


案内されるがまま、山田は畳の部屋へ足を踏み入れた。




***



日差しが部屋に差し込むと、朝だと言うのにじんわり室温が上がっていくのを感じる。

畳に敷かれた布団には山田が、昨晩のスーツ姿のまま寝息を立てている。結局昨日は、夜通し話続けていた。黒川も大きな欠伸をかく。

彼女を寝かせる時も、服が皺になることを一瞬気に掛けたが、若い娘相手に良くないと思い、そのまま布団に押し込んだのが数刻前のことだ。

ふいに、ちゃぶ台に置かれたスマートフォンが部屋に鳴り響く。画面を確認すると、そこにはアキラの名前があった。


「はい、もしもし」

『…え?店長ですか?』


思いも寄らない相手に困惑する、アキラの様子が黒川には手に取るように分かった。


「おはようございます。彼女なら今寝ていますよ」


口にした瞬間、黒川はハッとして、慌ててスマートフォンを持ち直す。


「やましいことはしてませんよ?」

『あはは、分かってますよ』


そんなに可笑しかったのか、電話の向こうでアキラの笑い声が途絶えなかった。


「アキラくんは今、どちらにいらっしゃるんですか?」

『駅前のビジネスホテルです。朝、彼女を見かけなかったので電話したんですが…何かありましたか?』


一人で街灯も少ない道を、ここまで歩いてきた彼女は、ただアキラのためだけに来たのだろう。寂し気に歩く背中が脳裏に浮かぶ。


「少し昔話をしただけですよ」


嘘はついていない。でもアキラに全てを話す必要も感じなかった。


「アキラくん。出来れば、彼女を迎えに来ていただけますか?そうですね…」


黒川は、時計と山田に目を配る。


「一時間後くらいにお願いします」

『一時間後ですか?もう出れるので、今すぐ行きますよ』

「いいえ。必ず、一時間後に来てください」

『わ、分かりました…』


どこか納得してなさそうに、アキラは電話を切った。黒川も小さく息をつき、スマートフォンを元の場所へと戻す。その隣には、深緑の耳飾りが置かれていた。


「まずは片付けからしちゃいましょうか」


つまみ上げた硝子玉は、朝日を反射して輝いている。だが、これは人の命すら奪ったとんでもない代物だ。取り扱いを間違えれば、どんな災いが訪れるのか、それは黒川にも分からない。黒川が指先にほんの少し、力を加える。するとそれは飴細工のように、呆気なく簡単に砕けてしまった。


「さて、可哀想ですが、起こしてあげなければいけませんね」


跡形もなく粉々になった塵を、手早く払った。アキラには一時間後とは伝えたが、もしかしたらすぐ来てしまうかもしれない。山田を軽く揺すり起こしてやれば、部屋は一気に騒々しくなった。


「アキラくんもまだまだですね」


一時間では足りなさそうな彼女の支度を、アキラは想像すらしていないだろう。居間を追い出された黒川は、眠気を紛らわすため目を擦った。このまま眠ってしまいたいが、今日はそうもいかない。


「今日のお昼は、いなり寿司にでもしましょうか」


さて、寿司屋へ誘うのは誰にしようか。思い浮かぶいくつかの顔に、想いを馳せる。

今日も一日忙しくなりそうだ。

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