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白い容疑者




息苦しい部屋に、蛍光灯の唸る音がやけに響いていた。


「てめぇ!おちょくってんのか!」


それまでの静寂を断ち切る怒号と、叩かれた机が大きく音を立てた。閻魔大王とは、こんな顔をしているのではないか。目の前で憤怒している男を、黒川は悠然と眺めていた。


「田沼さん、少し落ち着いてください」


部屋の隅にいた、気弱そうな男が閻魔大王を宥める。けれどもそれは形ばかりで、二人の間には、繰り返されたやり取り特有の空気が漂っていた。黒川は、無意識に眼鏡を押し上げようとして、ハッとした。今は眼鏡をしていない……パイプ椅子に、力なくもたれかかる。


「もういっぺん聞くぞ。……名前は?」

「黒川と申します」

「下の名前は?」

「生憎、頂いたのは苗字だけで……本来の名前も、とうの昔に忘れてしまいました」


五分前のやり取りを繰り返す。田沼と言う男はまた、拳を机に叩き付けた。気弱そうな男も呆れたように息を吐き、ペンを紙に走らせている。

──さて、どうしたものか。黒川が腕を組むと、黒いパーカーにこびり付いた血が肌に触れて、不快な感触を残す。黒川は狭い取調室の天井を仰ぎ、記憶を辿った。




****




それは昨日のことだった。町の隅にある公民館に、商店街の面々が集まっていた。普段なら絶えない賑やかな雑談も、今は囁く声ばかりが聞こえてくる。座敷にはずらりと座布団が並べられ、黒川もすでにそこに座っていた。


「隣、いいかい?」


眼鏡屋の店主が声を掛けてきた。黒川は頷き、二人は並んで座る。黒川が眼鏡を買う時、それは決まって彼の店から購入している。店主は歳を増す毎に、先々代の店主に良く似た風貌になっていく。懐かしい面影に黒川は、安堵と少しの緊張を覚えた。


「全く、物騒な世の中だねぇ」

「そうですね……そろそろお祭の準備で、忙しくなる頃だと言うのに。会長さんも気苦労が絶えませんね」


誰もが話題の中心は、町を騒がせている事件のことだ。突然の集会にも関わらず、公民館は、用意された席に空きが無くなるほど集まっていた。


「お忙しいところお集まり頂き、ありがとうございます」


会長が現れると囁きが止み、視線が集まる。少し緊張した面持ちの会長が、深く頭を下げた。


「みなさんもご存知かと思いますが、通り魔について幾つかお話します」


どこからか、小さく息を飲む音が響く。今、桜小町商店街は通り魔に怯えていた。

初めは、衣服やカバンが切られる程度の些細な事件だった。それだけでも十分に恐怖を煽るには足りていたが……ついに先日、買い物帰りの主婦が襲われた。夕方、比較的人の多い時間帯での犯行に、町は不安に包まれた。


「──子供たちの安全のため、独自に見守り巡回を実施したいと考えております」


会長の提案に、一同から低い唸り声のような反応が漏れた。商店街の人間は高齢の者が多い。もしかしたら、自分が通り魔と対峙しなくてならないと言う不安が、沈黙となって現れる。膠着する空気の中、黒川は静かに手を挙げた。


「全員で、というのは難しいでしょう。参加出来そうな方だけで、一先ずお話を進めませんか?」


賛同する声が、ざわめきとなって聞こえてくる。ようやく話が進みそうな雰囲気に、会長の表情も和らぐ。


「そうですね! 協力していただける方、挙手お願いします」


何人かが手を挙げ、残りの者は解散となった。人の減った広い座敷で、改めて会議が始まる。どうせなら、お茶とお菓子を持参すれば良かった。黒川は少しだけ後悔した。


「皆さん……本当にご協力、ありがとうございます」

「そんな、会長さんが頭を下げることはありませんよ」


畳に擦り付けるほど頭を下げる会長の背中に、黒川は手を添えた。あのままでは、一人でも実行に移しそうな危うげなさは、昔から変わらなかった。


「それで会長さん、どのように見回りをしましょうか?」

「はい、子供たちの帰宅時間を中心に、二人一組で回れれば……」


会長の提案に、眼鏡屋の店主が首を傾げた。


「二人組って、ひいふうみぃ……。一人あぶれちまうね」


集まった人数では、誰かが一人で見回ることになる。みな互いに顔を見合わせた。


「では、他の方々で二人組を作ってください」

「え……?黒川さんが、一人で回るつもりなんですか?」


黒川の発言に会長が声を上げた。やはり、自分一人で回るつもりだったのだろう。想像通りの反応に、黒川は小さく笑った。


「おや、心配してくれているんですか。ふふ、タカアキくんは本当に優しいですね」


黒川が久しぶりに名前を呼ぶと、会長のタカアキは、恥ずかしそうに頭を掻く。和やかな空気のまま、その日の会議は終了した。


翌日、日が傾くにはまだ早い時間だった。黒川は見回りをしようと立ち上がると、店先の鈴が来客を知らせる。入口には、調理白衣のタカアキが立っていた。


「おや、ちょうど今から、見回りに行くつもりでしたが……何かご用ですか?」

「いえ、用というほどでは。これをお渡ししたくて……」


タカアキは、ポケットから取り出した物を黒川に渡す。きつねを模したキーホルダーは、所々の塗装が剥がれ年季を感じさせている。


「昔、子供が使っていた防犯ブザーです。こんなものくらいしかなくて、申し訳ないのですが……」


揺れるしっぽを引くと警報が鳴るようだ。可愛らしいお守りに、思わず黒川の表情も綻んだ。


「ありがとうございます。とても心強い相棒ができましたね」


きつねの防犯ブザーを手のひらに収め、黒川は店を出ていく。タカアキはその背中を、見えなくなるまで見送っていた。


通学路には、ランドセルを背負った子供と保護者が歩いていた。学校側も対策を取っているようで、教師の姿もチラホラ見える。ここは人目が多そうだ。黒川は道を外れて、脇道に足を運ぶと、途端に人影はなくなった。

眼鏡屋の店主は物騒だと言っていたが、黒川からしてみれば、今はだいぶ治安が良くなった。歩いてタバコを吸う者は姿を消し、夜騒ぎ立てる不良たちも全く見なくなった。


「……良くなったと言うより、人が少なくなったんですね」


言葉がぽつりと零れた。思い返せば、商店街を走り回り、漫画を読みに来る子供は今はほとんどいない。シャッターが降りる店ばかりの通りは、賑やかさを忘れてしまった。──その内、あの場所もなくなるかもしれない。


「……また、浮浪者の真似事はしたくないですね」


忌まわしい過去を脳裏からかき消すように、黒川は首を振った。

しばらく歩いていると、道の向こうから一人の歩行者が見える。黒いフードを深く被り、いかにも怪しい風貌だ。しかし、若者などそんなものかと、黒川は深く考えるのは止めた。


「こんにちは」


黒川が挨拶をするも、歩行者からの反応はない。腹部のポケットに両手を仕舞い、こちらを見ることなく通り過ぎて行く。黒川も、返事が返ってくるとは思っていない。気にせず、歩き続けるその背後で、歩行者がぴたりと立ち止まる。踵を返しこちらに向かってくることを、黒川は気付かなかった。

背後で、小石が地面を擦れる音がした。黒川が振り返ろうとしたその時、歩行者はすぐ後ろにいた。


「……っあ」


黒川が声を上げる間もなく、背中に冷たい衝撃が走った。足に力が入らない。刃物が抜かれた反動で、地面に倒れ込み、持っていた防犯ブザーが目の前に転がる。身体から熱が逃げていく。萎む視界を頼りに、震える手できつねを掴む。しっぽを引き抜けば、それはけたたましく音を立てた。

ここは住宅に囲まれている。音を聞けば、誰か出てきてくれるに違いない……通り魔もすぐこの場を離れるはずだ。しかし黒川の期待に反して、通り魔は刃物を握り返し、再びその刃を黒川の背中に突き立てた。

何度も、何度も、何度も。

道路に転がる、赤く濡れたきつねは鳴り止まない。その音はもう、黒川の耳には届いていなかった。


騒ぎを聞いた住人が通報したのか、遠くから警官らしき人物の足音が聞こえてくる。ようやく黒川から離れた通り魔が、その場を立ち上がった時。──突然身体が歪に痙攣し始めた。通り魔は声も上げず数歩進むと、後はその場に蹲ってしまった。


「大丈夫ですか!?」


駆け付けた警官が、蹲る黒い背中に声を掛けた。しかし反応はなく、両手で顔を隠している。傍らには、背中に刃物が突き刺さった男が転がっていた。犯人と被害者、誰が見ても一目瞭然だった。警官は、慎重にフードの男に近付く。


「もしもし……?」


警官がそっと肩を叩くと、黒い背中がビクリと跳ねた。ふと、視線をズラすと、転がる身体に顔を思わせるパーツが一つもない。思わず警官は小さく悲鳴を上げた。

フードの男が振り返り、覆っていた手を顔からゆっくり放す。そこにも顔がなかったら、どうしよう……警官は息をするのも忘れ、男の動きを目で追う。指の隙間から鋭い目付きが見えた。警官もほっと胸を撫で下ろし、やっと毅然と立ち振る舞う。


「署まで、ご同行お願いします」


死んだはずの黒川がフードを外し、警官の言葉に静かに頷いた。




****




薄汚れた蛍光灯は時々、明滅を繰り返している。今、黒川は『自分を殺害した罪』と言う不可解な罪に問われている。言い訳しようのない現状に、頭が痛くなる。


「このままはぐらかしてても、出られんぞ」


地を這うような低音は、人を震え上がらせるのには十分過ぎる。どう事情を説明したものか……目の前の閻魔大王を納得させるにはとても言葉が足りず、黒川はじっと見据えることしか出来なかった。

田沼からすれば、黒川の態度はスカしている風にしか映らない。自分の血管が静かに、しかし確実に熱を帯びていく気がした。重い空気が流れる取調室に、突然着信音が響いた。部下が慌てて出ると、部屋の隅でぺこぺこ頭を下げていた。


「あの、田沼さん……お電話ですぅ」

「今忙しい! 後にしろ!」

「で、でも、今野さんからなんですよ」


どうやら電話の人物の目的は田沼らしい。田沼は名前を耳にした途端、ぎくりと動きが止まった。声にならない呻きを漏らし、ぎこちなく田沼は差し出されたスマホを奪い取った。


「……少し待ってろ」


そのまま荒々しく扉を閉めて田沼が出ていくと、取調室には静けさが戻る。あの閻魔大王を狼狽させるなんて、一体どんな人間なのだろうか。黒川は少しだけ興味が湧いた。


廊下に出た田沼は、スマホを睨んでいた。あわよくば諦めてくれはしないかと願ったが、向こうは聞いてくれないらしい。深くため息をついた後、渋々スマホを耳に当てた。


「……もしもし」

「遅いじゃないか田沼くん! 待ちくたびれてしまったよ」


甲高い声が頭に響く。思わず田沼はスマホを耳から遠ざけた。


「すみません、取調べの最中だったもので……」


努めて声を絞り出す。そんな田沼の苦労を知ってか知らずか、今野の声色は軽やかだ。


「おやおや、相変わらず熱心だねぇ。ちょうどその件について話したかったんだよ」

「……なんでしょうか」


嫌な予感がする。田沼は今すぐ電話を切ってしまいたい衝動に駆られた。しかし、相手はあの女上司だ。頭の片隅に、電話の向こうで気に食わないあの垂れ目が笑っている気がした。


「今取調べしている男は犯人じゃない。即刻、解放したまえ」

「ふざけないでください!」


田沼はありったけの声量を、電話口にぶつけた。それでも今野は気にも止めず、「まあまあ」と続ける。


「被害者がどうなっていたか、改めて説明してくれるかな?」


まるで子供を諭すような口ぶりに、田沼は苛立ちを隠せない。今はこれが電話で良かったと心から思った。


「……被害者は背後を複数回、刃物で刺され出血多量で死亡しています。容疑者はその場に留まっており、現場の警官が確保いたしました。凶器の刃物も回収済です」

「なるほど、それで被害者の遺体はどんな風だった?」


田沼は遺体の写真を思い出し、背筋が震えた。ただの死体であれば見慣れたものだ。しかし、のっぺらぼうのように顔のない死体を見るのは初めてだった。


「以前、不自然に道路で転がっていた、顔がのっぺり消えて身元も分からない遺体と……同じではなかったかい?」


今野の言葉に記憶が蘇る。それは数ヶ月前、恐らく自動車事故であろう現場があった。しかしそこには顔のない死体と、忽然と消えた車の跡だけが残された不気味な事件だった。あの時の死体と今回の死体、まるで同じのように見える。


「ならば尚更、あの男を調べる必要があるんじゃないですか?」

「その必要はないよ」


きっぱりと言い捨てる今野に不信感が募る。言葉を返さない田沼を咎めることなく、今野は話を続けた。


「私はあの男を良く知っている」


秘め事のように囁く声に寒気がした。不気味なのは事件だけではない、この女も同じだ。


「とにかく、今すぐ彼を解放しなさい。これは、命令ですぞ」


茶化したつもりなのだろうが、そこが余計に腹立たしい。命令と言われれば、部下である田沼に断る術はない。了承の旨を伝えて田沼は電話を切った。


「……っくそ!」


スマホを投げつけてやりたかったが、部下の男の物だったことを思い出した。壁を蹴る音だけが、虚しく廊下に響いた。


田沼が取調室に戻ると、そこには出て行った時と変わらず、黒川が静かに座っていた。眠っていたのだろうか、田沼に気付いた黒川はゆっくり目を開く。


「何か大きな物音がしましたが、大丈夫でしたか?」


何故この男は、こんなにも余裕なのか。もしかすると事前に今野から、事情を聞いているのか……何にせよ、不気味な男だ。田沼は大きく舌打ちをした。


「お前に関係ない。それより、お咎めなしだそうだ。さっさと帰れ」


邪魔だと田沼は手で払う。先程とは違う態度に、部下と黒川は目を丸くした。


「おや、もうよろしいのですか?」

「……なんだ?お前が犯人だって言うのか?」


出来ることなら、今すぐ牢屋にぶち込んでやりたい。あの状況で捕まった容疑者の、どこに潔白な理由などあるのか。田沼には、今野の意図がまるで読めなかった。


「……まあいい、俺はお前を見てるからな」


通り魔だけではない。この男はもしかすると顔のない死体に関係あるのかもしれない。田沼は釘を刺すつもりで放った言葉だったが、黒川は相変わらず涼しい顔だった。


「ええ、ぜひ今度お店に来てください。古本屋なので大したおもてなしはできないかもしれませんが、美味しいお茶とお菓子を用意しておきますよ」

「さっさと帰れ!」


机を蹴飛ばすと、黒川は困ったように笑った。


「では、お邪魔しました」


丁寧に頭を下げた黒川は、部下に連れられ取調室を出ていった。最後の最後までふざけた態度に田沼も流石に怒鳴り疲れた。田沼が腰を落とすと、パイプ椅子が嫌な音を立てた。



黒川が外に出ると、もうすっかり日は暮れていた。着の身着のまま、血染めのパーカーの姿で良かったのだろうか。しかし今戻っても、またあの刑事を怒らせだけかもしれない。黒川は警察署を眺めながら考え込んだ。


「何故、出られたんでしょうね」


あの状況下で黒川が犯人ではないと言うのは、自分でも無理があるとは感じていた。恐らく田沼のあの電話が、黒川を解放した理由なのだろう。しかし警察に、黒川の知り合いがいた覚えはない。


「また面倒になっても困るので、さっさと帰りましょう」


分からないことを考えても仕方がない。警察署を後にした黒川は、暗い道に溶け込んでいった。




「通り魔が捕まったようで一安心ですね! 黒川さんも無事で良かった」


後日、古本屋にはご機嫌なタカアキの声が響いた。どうやら噂では黒川が被害者で、通り魔も逮捕されたことになっているらしい。


「ええ、おかげさまで……ですが、あの防犯ブザーを壊してしまいました。すみません」

「いやいや、いいんですよ。むしろ役に立って本当に良かった」


通り魔に防犯ブザーを踏み潰されてしまったようで、あの後、残骸だけが黒川の手元に戻ってきた。あんなに執拗に刺されることになるなら、鳴らさなければ良かった……タカアキにはとても言えない。


「そうですね。今回はあのきつねに、助けていただきました」


誇らしげに笑うタカアキにつられ、黒川も頬が緩む。通り魔はもう、どこにもいない。

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