星の界
星の界
夜明けが近い。薄らと星が消え、重たい雲が見えそうな空を、髪の長い女が見つめていた。目の前には、青い屋根の家がある。表札に目を移せば、不自然に文字が掠れて消えていた。
女が家へ入ると、据えた臭いが鼻をくすぐる。床には血と、少し泡立った粘液のようなものが垂れていた。土足で階段へと足を運ぶと、臭いは更に強くなる。二階の一番奥の部屋の扉が空いている。女はため息を一つ零し、その部屋へ足を踏み入れた。
「……酷い有様だな」
部屋には死体が一つ転がっている。喉を刺したのか……刃物は見当たらないが、おびただしい血溜まりから懐かしい匂いがした。女は長い足を折り曲げ、しゃがんで死体の顔を覗き込む。しかし、そこにはのっぺりとした皮膚があるだけだった。
「やれやれ、困った跡継ぎだ……」
女がふーっと息を吹きかけると、青い炎が死体を包む。それはほどなくして、消し炭すら残すことなく燃やし尽くしてしまった。女は立ち上がり、生活の気配だけが不気味に残る家を足早に後にした。外の冷えた空気が心地よい。それでも、女の表情は暗かった。
「……頼んだぞ、黒川」
自分に出来ることは、これで精一杯だった。この所、頭上にある不穏な存在に、胸のざわめきが収まることを知らない。今野は静かに目を伏せ、朝焼けの光に紛れていった。
****
桜小町商店街は、にわかに騒がしかった。普段はシャッターが降りるばかりの通りには、お祭りのように出店が並んでいる。その活気は、雑然としている古本屋の中まで届いていた。
「ホント……何があったら、こんなに散らかっちゃうの?」
箒を片手に、居酒屋の娘のカナデが首を傾げていた。壁には穴、本棚も不自然に砕けている様は、ここだけ嵐があったのかと思うほどの有様だった。
「……ちょっと、色々あったんですよ」
本の仕分けをしながら黒川は、視線を泳がせ言葉を濁した。傍らでは、さくらが黒川に沿うように座っている。カナデがちらりと視線を向けると、気付いたさくらが眉を寄せ唸り声を上げた。
「その子、なんなの?」
何故、敵意を向けられているのか理解出来ず、カナデは困ったように箒を握りしめた。
「……色々、あったんです」
なんと説明したらよいのやら……適当な文言すら浮かばい。
「お止めなさい、さくら」
カナデを睨みつけるおでこに、静止するよう手を添える。黒川は膝を軽く払うと、まだ無傷な本を抱え立ち上がった。
「カナデさん、片付けを手伝っていただきありがとうございます」
「ううん。いいよ、これくらい」
カナデの柔らかな雰囲気に、悲しみの色は見えない。ほっとするも、黒川の胸の内は晴れなかった。
「店長はどこで、今日の流星群見るの?」
「そう言うカナデさんは、どこで見る予定なんですか?」
さり気なく言葉の矛先を変えれば、カナデは顎に指を添えた。町の者はみな、今日の流星群を心待ちにしている。それは黒川も変わらない。さくらだけが、不安げな眼差しを黒川へ向けた。
「学校かな? サヤと一緒に見るつもり」
「そうですか、いいですね」
確か、今夜は特別に屋上を解放する話を聞いている。組合会会長のタカアキから聞いた、まだ一部の人間しか知らない話だ。少しだけ黒川は悩む素振りを見せて、小さくカナデを手招いた。
「ここだけの話ですが、早めに行くことをおすすめしますよ」
黒川の意図を察したカナデが、目を輝かせて大きく頷いた。片付けの礼に、これくらい教えても罰は当たらないだろう。
「私、もう行くね」
「ええ。暖かくして行ってらっしゃい」
手を振り見送ると、店内はしんと静まり返った。早めに……とは言ったが、まだ時計を見れば午後になったばかりだ。思わず黒川も笑いが零れた。
「さて、ひと段落つきましたし、休憩しましょうか」
とは言ったものの。さくらは傍にいるだけで、片付け一つしていなかった。それにも関わらず、まるでひと仕事終えたようにさくらは満足気に鼻を鳴らしていた。相変わらず気ままな娘だ。苦言は心の内だけに漏らし、黒川も居間へ足を向けた。
「ねぇ、どうするつもりなの?」
腰を下ろすと、すかさずさくらはちゃぶ台に置かれた最中を一口で平らげた。黒川は視線をずらし、湯呑みを傾ける。
「さて、どうしましょうかね」
悩むように呟くが、黒川は静かに湯呑みを回していた。ふと、外から小さな気配がする。黒川が立ち上がると、さくらも後ろについてきた。さくらを一瞥すると、黒川は決心したように扉を開けた。
「貴方からいらっしゃるとは、思いませんでしたよ」
さくらの視界には、扉を開けた先に人影は見えなかった。黒川の視線は下を向いている。同じ方向へ顔を向ければ、大きな虎柄の猫が一匹座っていた。
「……げっ」
視認するなり、さくらは思わず後退る。すると、ハルカの化け猫は一層険しい表情を見せた。
「なんでソイツがいるんだ……」
化け猫の声に怒りが滲んでいる。黒川の背に隠れたさくらは、負けじと化け猫を睨みつけた。
「残念ですが、もうハルカさんはいないんですよ」
悲哀が滲む声色に、さくらは掴んだ裾に力がこもる。化け猫は更に毛を逆立て、さくらに向かって威嚇の声を上げた。
「お前、ハルカに何をした!」
牙を向ける化け猫は、どうしてか泣いているように見えた。さくらはただじっと、口を固く結んでいる。間に立つ黒川が小さくため息を零した。
「力不足だったことを謝ります。だからどうか、この場は下がっていただけませんか?」
「イヤだ! 今すぐ、ソイツを殺してやる!」
強い敵意だった。さくらは身体を震わせ、黒川の背中に縋る。今にも襲いかかってきそうな化け猫の前で、黒川は大きく手を広げた。
「よしなさい。痛い目を見るのは、貴方の方ですよ」
「構うもんか!」
化け猫のしっぽが大きく膨らんでいる。小刻みに震えているのは怒りのせいなのか、それとも……さくらの胸にぎゅっと痛みが走る。気付けば、さくらは化け猫の前に出ていた。
「……ごめん、なさい」
地球に降りれば、楽しいことがいっぱいあると思っていた。両手をきつく握りしめ、ただ静かにさくらは化け猫を見つめる。
「……」
化け猫は、さくらを見るなり耳をしゅんと垂らした。
「帰りなさい、マタタビ」
「……」
黒川が促すと、膠着していた空気が緩んだ。化け猫は何も言わず、くるりと背を向け走っていく。黒川がさくらに視線を向ければ、地面を見つめていた。
「マタタビには、まだ時間が必要なんです」
そっと頭を撫でると、さくらは小さく頷く。黒川は自嘲気味に、白い息を小さく零した。
日も暮れてくると、外は一層賑やかな声が響いている。散らかっていた店内も、ようやく片付いたところだ。あれからさくらは上の空で、同じ場所ばかり掃いていた。
「少し外を回りませんか?」
黒川が覗き込むと、気が付いたさくらがハッと顔を上げた。
「行きましょう」
黒川はさくらの手を取り、そのまま扉を開ける。騒がしい人集りにさくらも目を細めた。つい先日、寒空の下この通りを二人で走った時は閑散としていた。目の前を走る小さな背中に、胸を締め付けられたことを思い出す。
「あの時……また一人になるのかと思いました」
「……え?」
振り返ると、大きな混色の瞳が光を反射して揺れている。唐突の告白に、さくらは戸惑っているようだった。黒川は声を潜め、微笑んだ。
「みんな、いつの間にか俺を置いていくんだ……」
懐かしい友人も、恩人の先代も、黒川の手を引いて走る背中はみな、どこかへ行ってしまった。いつもとは違う、黒川の砕けた口調にさくらも目を丸くした。
「……寂しかった?」
ハルカの記憶の中の黒川は、いつも柔らかく笑っていた。さくらが見ていた黒川は、いつも怖い顔をしていた。
「ええ、とても……」
でも今は、見たことのない表情を浮かべている。握っていた小さな手が、弱々しく黒川の手を握り返した。
「でも、これからは違う。そうでしょう?」
「……うん、そうだね」
それは一瞬のことだった。すでに黒川は、穏やかな笑みをさくらに向けていた。さくらが空を見上げる。──もうすぐ、アイツが来る。
「何か買って帰りましょうか」
もしかしたら、次に置いていかれるのは自分かもしれない。さくらは目頭が熱くなるのを、少し乱暴に擦って誤魔化した。
時計の針が真っ直ぐ上を指す。喧騒から離れ、黒川たちは古本屋の中で静かにその時を待っていた。ちゃぶ台には、屋台で買ってきた残骸が散らかっている。
「……そろそろ、行きますね」
黒川が湯呑みを置き立ち上がると、さくらも一緒になって立ち上がった。
「さくらは待っていてください」
「えー!」
さくらは中腰のまま、黒川の思っていた通りの反応を返した。黒川は苦笑いを浮かべ、眼鏡を押し上げる。
「今まで、この家で留守を任されていたのは、金魚のゴマちゃんだけなんです」
指差した先の大きなすり鉢が、ちゃぷっと水音を立てた。黒川は金魚の傍に置いていた日本人形を手に取ると、さくらに手渡した。
「貴方に"おかえり"と言って欲しい」
「……」
さくらは受け取った人形を握りしめ、声にならない唸り声を上げる。
「……ぜったい、帰ってきてよね」
「ええ、もちろん」
そんなに強く握っては、着物が皺になってしまう。それでも、目の前で今にも泣きそうな顔を見れば、口には出来なかった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい……」
思えば、この店で誰かに見送ってもらったことも初めてだった。静かに扉が閉まると、スっと黒川の表情が変わった。頭上を見上げてばかりの人混みの間を、滑るように歩いていく。黒川を気に止める者はいなかった。
ショッピングモールの建設予定地には、人一人いない。敷地にはすでに、立派な建物が足場に覆われ立っている。どうやら、アキラの計画は順調に進んでいるようだ。立ち入り禁止と書かれたフェンスを乗り越え、黒川は真っ直ぐ建物へ足を伸ばした。外付けの足場を頼りに、梯子のような階段を登っていく。細いパイプの建材は、風に煽られ音を立て揺れる。黒川が思わず下を覗き込むと、その不安定さに血の気が引いた。
「……落ちれば、笑えませんね」
首を振り、黒川は上だけを見ることにした。登るにつれて、目の奥がじわりと熱を帯びていく。視なくても、彼の者が来るのは分かっている。何せ、ここを指定したのは他でもない自分だ。震える足で一番上まで登れば、駐車場が広がっている。平たいコンクリートの感触に、黒川もようやく安堵の息を漏らした。
夜空をかける星の筋が、雲の輪郭を照らしていた。その時、一際強く光る流れ星が一つ。それは真っ直ぐこちらに向かってくる。徐々に近付く閃光は、辺りを昼間のように照らした。あまりの眩しさに、黒川は手のひらで顔を覆い隠す。不自然なくらい無音の白い光に、黒川の身体は包まれていった。
次に目を開けた時、黒川は真っ白い空間に身を置いていた。まだ光に目が眩んでいているが、何かがこちらに向かって真っ直ぐ伸びるものが見える。異様に腕が長い、人の手のようだった。黒川に触れる寸前、それは火花を散らし弾かれた。次第に合っていく焦点が、朧気な輪郭を映し出す。伸びてくる手の奥に、大きな塊が姿を表した。
「……ずいぶんと、巨体ですね」
遥か先にあると言うのに、見上げるほどのその塊はさながら芋虫だ。身体のあちらこちらに触手のような細い手が生えている。いつか見た黒い月が、全身至る所に目玉として点在していた。
「こんな小さな身体に、とても入るとは思いませんが」
黒川は苦笑いを浮かべ、ふと、さくらのことが頭に過ぎるった。──いや、深く考えたくはない。思考を振り払うため、素早く頭を振る。すると目の前の怪物が、突然咆哮を上げた。ビリビリと空気を震わせ、地面と靴が擦れる音を立てる。
「ずっと考えていましたよ、貴方のこと」
コウキの家で初めて黒い月を見た時、全身が恐怖で震えた。あの時は声も上手く出せなかったが、今は違う。黒川は左のポケットへ手を入れると、そこには歪なサッカーボール型のお守りがあった。
「勝負しましょう。どちらが業が深いのか」
黒川が持っていたお守りが足元に落ちると、刃を剥き出しにした果物ナイフが現れた。察した怪物が鋭い高音を響かせ、黒川目掛け無数の手を伸ばす。しかしその手が届くより早く、躊躇いもなく黒川は自らの喉元へ刃を突き刺した。
「……っぐ、ふ……ぅ」
しっかりと握りしめた柄に力を込める。急激に下がる血圧に、身体がふらついた。目の前で伸びてくる手がバチバチと花火のように弾かれていく。
──早く、早く……! じりじりと焦げる匂いが黒川を急かす。もう息絶えていてもいいはずだ。それなのに、なかなか意識の帳が降りてこない。
『痛い……くる、しぃ……』
身体は冷えていくのに、瞳が燃えるように熱い。ついに、黒川を守っていたお守りは焼き切れた。ここぞとばかりに、黒く焦げた無数の手が黒川の身体を掴み、天高く持ち上げた。もう抵抗する余力はない。喉から刃物が抜け落ちると、黒川はだらりと四肢を垂らした。怪物の背に裂け目が走り、大きく開いた口に平たい歯が並んだ。
「……いや……だ」
実際には喉から空気が漏れるだけで、それは声にはならなかった。怪物の手が黒川から離れると、重力に従い、頭から暗く大きな穴へ吸い寄せられていく。黒川の身体が暗闇に飲み込まれた瞬間、彼の瞳から最後の光が消えた。
****
頬を何か柔らかいものが撫でている。目を開ければ、木陰の隙間から日差しが柔らかく揺らいでいる。黒川がゆっくり上体を起こす。目の前には田畑と民家が広がっていた。
「ここ、は……」
思わず声が上ずる。懐かしい故郷の風景に信じられず、眉間に指を添える。しかし、そこにあるはずの硬いフレームはない。それにも関わらず、遠くの木々もはっきりと映っている。
「よぉ、目ぇ覚めたか?」
後ろから声を掛けられ、振り返る。見覚えのある着物に、癖のある短い毛先が風に揺れていた。
「……勘太郎」
今まで忘れていたはずの友人の名前が、自然と口から零れた。勘太郎は大きく口を横に広げ、目を細める。
「よっ、久しぶりだな!」
黒川の瞳にじわりと熱いものが込み上げる。しかしその次の瞬間、黒川はハッと顔を青ざめた。
「俺は……負けたのか?」
黒川は視線を落とし、掴んだ土が爪の中に食い込む。それを見下ろす勘太郎は、そわそわと忙しなく身体を揺らした。
「んー、まあ……お前は頑張ったよ」
その一言は、顔を上げた黒川の表情を曇らせるには十分過ぎた。
「でも、もういいんじゃないか?」
「え……?」
手を差し伸べる勘太郎を、黒川は静かに見つめる。
「……いや、駄目だ」
黒川は首を横に振り、手を伸ばそうともしなかった。
「俺は帰らなきゃいけない」
「そっか」
土を払いながら、黒川は立ち上がる。勘太郎は少し黙ってから小さく笑った。
「……ちゃんと帰れよ」
勘太郎がそっと黒川の胸を押す。すると地面が消えて、身体がゆっくり落ちていく。
「じゃあな! き……お……」
遠ざかる勘太郎の声が、それでもはっきりと黒川の耳には届いた。
「……俺の、名前」
そうだ、確かに勘太郎は言った。どこまでも落ちていく中、ゆっくりと瞼を閉じた。
「───」
どこからか、声がする。勘太郎か……違う、この甲高い声は、誰だったか。
「……っ、く……わ……」
身体が重い、何をするのも億劫だった。それでも止まない声が急かしている。
「……起きろ! 黒川!」
一際大きな呼び声に、ハッと目を開いた。黒く長い髪が黒川の顔を撫でている。覗き込む垂れた瞳は視線が絡んだ瞬間、柔らかく揺らいだ。
「やっと、目が覚めたか……」
「……は…………ックシ」
黒川が覚醒すると、始めに感じたのは異様な寒さだった。頭部には、古本屋先代の膝の柔らかさを感じるが、背中は硬いコンクリートが、黒川の身体を冷やしていく。辛うじて掛けられた上着だけの裸体には、冬の寒さを耐え凌ぐには無理があった。
「さ……さむい……」
カタカタと止まらない震えに、気付いた先代がふーっと息を吹きかける。すると仄かに光る青い炎が黒川を包み込んだ。
「すまないな。眼鏡と上着しか回収してなかった」
先代はからからと笑いながら、黒川の身体を起こす。傍には、血塗れの衣服が散乱している。先代は軽く埃を払うと、無造作にそれを黒川に手渡した。
「ありがとう、ございます……」
黒川は鼻を鳴らし、血で固まった服に袖を通す。見上げると、空が白んできている。広い駐車場には自分達以外、誰もいなかった。
「よくやったな。お前なら、やれると信じていたぞ」
もう黒川の身体を纏う炎は消えている。不思議な人だとは思っていたが、再び目の前にしてようやく彼女の正体を理解した。
「……なんで、何も言わずに行ってしまったんですか」
「おやおや、せっかくの再会だと言うのに、愚痴かい?」
変わらぬ飄々とした態度に黒川は大きく肩を落とした。しかし一つだけ、どうしても言いたいことがあった。
「あれから、ロクスケさんにどれほど迷惑を掛けたことか……」
「なぁに、アイツはあれで世話好きな男だったろう?」
「そう、ですけど……」
込み上げる苛立ちを抑え、黒川は鋭く先代を見つめた。
「最期くらい、見送ってあげても良かったじゃないですか」
ロクスケは先代のことを多く語らなかった。それでも、時折見せる寂しそうな背中は、今でも忘れられない。
「そうだな……でも、いちいちそんな事もしてられんだろうに」
目を伏せながらも、先代はあっけらかんとしていた。黒川は眉を曇らす。
「……俺はやってます」
不貞腐れたような呟きに、先代の視線が黒川に向く。黒川は俯きながら言葉を続けた。
「知らせがあれば、見送りに行ってます」
それは時に便りから、それは時に噂から。何人と別れを交わしたのか、それは黒川にも分からないくらいだった。
「ははははは。やっぱり、私の目に狂いはなかったな」
大きな笑い声が朝焼けに響き渡る。黒川は顔を顰めつつ、眺める先には見慣れた町並みが広がっていた。
「……帰えろう」
町を見つめながら呟いた黒川の横で、先代は優しく目を細めた。しかし、次第に黒川の表情が曇り、大きくため息を吐いた。
「何だ、帰るんじゃなかったのか?」
「いや、その……」
ここまで来るのに細い足場を登ってきた。つまり、帰りはあれを降っていかなければならない。
「なぁんだ、そんなことか」
先代は笑い飛ばすと、黒川の身体をひょいと横抱きに持ち上げた。
「しっかり掴まっていろよ?」
誰かに抱き上げられることなんて久しぶりだ。ぐっと近付いた顔に、嫌な予感がする。先代は唐突に走り出した。
「ちょ……っ、待って……!」
黒川の静止も聞かず、とんっと軽やかに、先代は黒川を抱えたまま宙に浮いた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
冷たい風を浴びながら下降していく。あっという間に天から地まで降りた先代は、ふわりと地面に足を付けた。
「ははは。怖かったか? よぉしよし」
地上に降りても黒川は先代にしがみつき、動けずにいた。心音がバクバクとうるさく音を立てた。
「……死ぬかと思った」
「止めてくれ。今お前に死なれたら、私が消えてしまうではないか」
縄張り争いをする鳥が、けたたましく鳴く声が耳につく。先代から離れても、浮遊感が抜けない身体がふらついた。
「送ってやろうか?」
「……いえ、結構です」
見上げる先代は、初めて会った時と変わらず、凛として美しかった。話したいことは山ほどあると言うのに、それでも黒川は静かに胸の中に言葉を閉まった。
「……さようなら」
黒川はくるりと背を向け、ゆっくり歩き出した。朝日に消えていく黒川を、先代は静かに眺めている。見えなくなった頃、そこにいたはずの女の姿は消えていた。一匹の狐がキャンと鳴き、どこかへ走って行った。
いつもの殺風景な商店街を、日差しが柔らかく照らしている。古びた看板の古本屋の文字が、酷く懐かしく映った。扉に手を掛けると、小さく鈴が鳴る。居間のちゃぶ台には、小さい背中が伏せて丸まっている。近付けば、微かな寝息が聞こえてきた。
「ただいま」
黒川が静かに声を掛ける。ゆっくり瞼が開くと、混色の瞳に光が差す。
「おかえり、黒ちゃん!」
目を丸くした黒川に、さくらは少し俯いた。
「名前、考えてたんだけど……これしか思いつかなかったの」
さくらはぎゅっと黒川のシャツを掴み、小さく呟いた。
「そのままはイヤだったから……ダメ?」
「いいえ……初めてです。そんな風に呼ばれたの」
黒川はふっと笑う。さくらを抱き締めると、その温かさに張っていた糸が切れた。
「……さすがに、疲れました」
重たい頭を持ち上げれば、さくらが顔を覗き込み、白い指先が黒川の顔をなぞっていく。
「じゃあ、一緒に寝る……?」
さくらは目を細め、甘く囁いた。
「そうですね……もう、布団もそれぞれ敷けますからね」
「そうじゃなくて!」
黒川はさくらから離れると、押し入れを開ける。後ろでさくらが騒がしく喚いている声が、今は何より愛おしい。長い、長い夜だった。室内に差し込む光に、黒川は柔らかく目を細めた。




