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灰桜の傀逅 後編



浴室の蛇腹の扉が開くと、先程風呂に入ったばかりのさくらが、衣服を脱ぎ捨て立っていた。一瞬、理解が追いつかない黒川が腰を上げるも、すかさずさくらが湯船に飛び込んできた。温かい水飛沫が、黒川の顔を濡らし動きを鈍らせる。気付けば少女が膝上に乗っていた。


「……何しているんですか」

「だって、一緒に入りたかったんだもん」


悪びれることもなく、さくらはくすくすと笑った。遠慮もなく密着する少女の柔肌に、黒川は触れることさえ躊躇う。結局は情けなく両手を上げ、降参の構えを取る他なかった。


「ほら……こうしたら、絶対気持ちいいって思ってたんだぁ」


抵抗がないのをいいことに、さくらは無邪気に身体を擦り寄せた。これほど近ければ、視力の悪い黒川も嫌と言うほどよく見える。今だけは、欠落した機能に救われた。


「せっかく拭いた髪も、台無しじゃないですか」

「また拭けばいいじゃん」


好きに言ってくれる。内心、小さく腹も立てたが、段々、両手を上げている自分が馬鹿らしくなってきた。黒川の耳元で、少女の熱っぽいため息が零れる。


「……ずっと、暗くて、広いとこにひとりぼっちだったから」


密やかに囁く声は悲哀の色が滲んでいる。黒川は少し冷えた両腕をゆっくり水面に這わせると、さくらの身体を囲った。

──人肌を感じるのはいつ以来だろうか。お湯とは違う、じんわりと交わる熱に、黒川の心も絆されていく。


「それは……とても寂しいですね」


いつか、地面ばかりを眺めていた自分が重なる。あの時、古本屋の先代が手を差し伸べてくれなかったら……黒川自身、どうなっていたかなど想像すら出来なかった。


「……そういえば」


黒川は言いかけて視線を落とせば、さくらの濡れた毛先が乱れて、目に掛かりそうだ。黒川が拭うと、緑と赤茶色の入り交じった瞳と視線が交わる。


「貴方は器と言ってましたが、その中身はどうしているんですか?」

「……ああ、アイツね」


黒川の肩に掛けていた小さな手に力が籠る。さくらは顔を歪ませ、視線を逸らした。


「まだ宙にいるよ。すっごくワガママで、さくら大っ嫌い」


なるほど、彼女にそこまで言わせるのなら相当なものだろう。黒川は口にはせず、困ったように笑みを浮かべた。


「……でも、アイツがうちらの中で、一番強いの」

「そうですか、それは厄介ですね」


以前見た、黒い月の威圧感を思い出すだけで寒気が立つ。数多の怪奇現象を見たきたが、敵わないと痛感した異形は、あれくらいだった。


「何故、さくらさんのように降りてこないんですかね」


見つけた、と告げられてからだいぶ月日が経っている。アカリの件を除けば、他に近付く気配は感じられない。さくらは少しだけ、怪訝そうな表情を見せた。


「……アイツは大きいから、タイミングが来ないと降りてこれないんだよ。だけど……」


さくらは言い淀んだ後、しばらくして決心したように顔を上げた。


「もうすぐ、来るよ」

「……なるほど」


黒川を見つめる少女は、面影を残しつつもやはり別人だ。最後に見たハルカの、面映ゆい笑みが忘れられない。


「……ねぇ、こっちを見てよ」


さくらの両手で頬が潰され、黒川が間の抜けた顔で向かい合うと、混色の瞳が悲しげに揺れている。黒川がそっと手を重ねると、少女の手は微かに震えていた。


「ふふ、貴方も大概、わがままですね」


さくらの手のひらに頬を預け、黒川の目が細く弧を描いた。するとみるみる、さくらの顔が紅潮していく。


「おや、逆上せましたか?」


気付けばいつもより長湯をしていた。黒川が腰を上げようと浴槽の縁を掴む。膝上のさくらは首を横に振って、立ち上がる黒川の邪魔をした。


「……ほら、もう出ますよ」

「きゃああ!」


掛け声を上げ、勢いをつけて立ち上がる。さくらは離れないまいと、細い足を黒川の腰に巻き付けた。何とも情けない格好だ……他の誰にも見せられたものではない。黒川は心の中で呟いた。


浴室から出れば、冷えた空気が身体から熱を奪っていく。黒川は手早く腰にタオルを巻き付けると、もう一枚手に取り、さくらの身体を覆った。


「ねぇねぇ、拭いて!」

「もう、仕方ないですね」


口ではボヤきながら、予想していたことだ。子供がいたらこんな風なんだろうか。ありもしない空想を浮かべて、黒川はほくそ笑んだ。時計に目を移せば、日付を越しそうな時間帯だった。


「さて、そろそろ寝ないと」


さくらの頭を乾かしながら呟くと、返事は欠伸となって返ってきた。さすがに疲れたのか、居間に着くなりさくらも素直に毛布に包まれた。


「おやすみなさい」


肩まで掛け直してやり、黒川が立ち上がる。気配を察したさくらが、微睡んだ目を向けズボンの端を掴んだ。


「……どこいくの?」


それはか細い声だった。しゃがんで頭を撫でれば、さくらはとろんと瞼が蕩けた。


「布団が一組しか敷けなかったので、店内で今日は寝ます」

「一緒に寝ればいいじゃん……」

「……狭いですし」

「さくら、広いのイヤ」


どうせ店内の椅子で眠っても、さくらきっとは来るだろう。黒川の疲労もすでに限界だった。諦めてその場で眼鏡を外す。


「わかりました……もう少しだけ、向こうに寄ってください」

「きこえなーい」


黒川が布団に入ると、さくらは足を絡め、隙間を埋めるように身体を密着させた。


「……あのさ」


二人しかいない布団の中で、内緒話をするようにさくらは声を潜める。


「さくらがアンタの名前、いいの考えてあげる……」


それだけ言い残すと、さくらの寝息はすぐに聞こえてきた。


「名前、ですか……」


腕の中に収まる少女は、黒川の心を乱すばかりだ。伝わる熱の心地良さに、黒川も眠気に抗えず。ゆっくりと瞼を閉じた。



翌朝、黒川は腕の痺れで目を覚ました。軽いと思えた少女の頭も、一晩敷けば神経を脅かすことを初めて知った。


「だいじょーぶ?」


さくらが首を傾げる横で、黒川は左腕を突き出し、項垂れている。


「大丈夫……とは、言い難いですね」


じんじんと血流を感じながら、ゆっくり身を起こした。雑然とするダンボールが目に入り、黒川は早朝から深いため息を吐いた。



****



朝から片付けを済ませ、黒川はさくらを連れて商店街を歩いていた。黒川の両手には買い物袋が複数握られている。これらは全て、さくらの物ばかりだった。


「思いの外、買ってしまいましたね」


隣のさくらに視線を向けると、薄曇りの空を眺めていた。黒川も同じように空を見上げる。吐いた白い息が眼鏡を曇らせるだけで、なんてことの無い冬の空だ。


「……やばいかも」


ぽつりとさくらが低く呟き、おもむろに黒川の腕を掴むと、どこかへ向かって走り始めた。


「ち、ちょ……っ」


突然引っ張られたことで、黒川はバランスを崩しそうになる。無言で走る少女の背中を眺めていると、嫌な予感が胸を過ぎった。


「……」


さくらは何も語らない。宛もなく走っているとかと思えば、着いた先は見慣れた古本屋だ。滑り込むように店内に入れば、さくらが脱力したように床に腰を下ろした。


「一体、何だったんですか?」


黒川の息を乱しながら、問いかけた。さくらはまだ周囲を警戒しているのか、緊張した面持ちで黒川を見つめ返す。


「うまく言えないけど……やばいのが来そう」

「それは、『中身』ですか?」


さくらは少し考えた後、小さく首を横に振った。


「アイツじゃないけど、関係あるものだと思う」

「……今度は何が来るのやら」


扉に目を向けても、黒川は何も感じない。しかし突然、木の扉はカタカタと騒がしく音を立てた。人影は見えない。黒川は立ち上がったばかりのさくらを背中に隠した。


「どちらさまでしょう」


扉に向かって声を掛けても。揺する音しか返って来なかった。後ろで服の端を掴む、さくらが震えている。黒川は背中に嫌な汗が滲むも、扉を睨みつけていた。

やがて音は唐突になくなった。いなくなったのだろうか……ちらりと後ろに目を向ければ、さくらは小さく首を横に振る。


「今の内に、奥へ行きますか……」


黒川が小声で促したその時。扉が軋みながら、ゆっくりと開く音が響いた。入口を見ると、少しだけ空いた隙間からぬるりとした、水気を帯びた節ばった手が覗いている。


「……斥候だ」


さくらがぽつりと呟いた。小さな隙間から、無理やり身体をねじ込むカエルのような姿に、黒川は大きく目を見開いた。アカリの家に居た、醜い肉塊に似た異形は店内に侵入すると、口から細長い舌を伸ばしてきた。


「危ないっ!」


黒川はさくらを庇いながらしゃがむ。鋭く伸びた舌は勢いよく壁を突き刺した。


「バカ……! あれはアンタを狙ってるんだよ!」


さくらの文句も今の黒川には意識の外だった。──どこか、身を隠せる場所……いや、そもそもアレをどうすべきか。黒川は横長の瞳孔を睨みつけた。


「あれと意思の疎通は可能ですか?」


さくらをぎゅっと抱き寄せれば、首を横に振る小さな振動が黒川に伝わった。立ち上がろうとする黒川を察したさくらが、腕を掴んで静止する。


「だから、アイツはアンタを狙ってるんだって!」

「それは分かりましたよ」

「わかってない!」


再び伸びてきた舌を避けるため、黒川はすかさず本棚へさくらと身を隠す。舌が本棚を突き抜けると、埃と一緒に本がバラけて落ちていく。


「さくらさんはここにいてください」

「はあ!?」


崩れる音が止むと、黒川はさくらから身体を離す。動いたことで被っていた埃がまた舞い上がり、小さく咳払いが零れる。不満気なさくらの頭を撫でれば、複雑な表情を浮かべた。


「……弱っちぃアンタに、何ができるの」

「おやおや、耳に痛いことを言いますね」


ゆっくりさくらの頭から手を離し、白い頬についた埃を払う。足元に視線を移せば、本や木屑が無惨に散らばっている。この店は、あの人から譲り受けた物だ。昨日から燻っていた苛立ちは、すでに臨界点だった。


「……ですが、一発くらい殴らないと、気が済みません」


長い間、ずっと考えていた。何故、自分がこんな目に合わなければならないのか。あの時、あの魚を食べなければ……あの時、あの家に行かなければ……いくつも重なる後悔が、頭から離れたことはなかった。

黒川は足元に転がっていた分厚い本を一冊手に取ると、そのまま異形へ向かって歩き始めた。ちょうど舌を収めたばかりの異形は大きな口を開けている。黒川は持っていた本を、勢いよくそこへ投げ込んだ。


「……お前さえ、いなければ!」


本は見事に口に収まり、大きな音を立てて異形は倒れ込んだ。すっぽりハマった本がなかなか抜けないのか、ジタバタともがいている。黒川はゆっくり近付き、異形の身体を踏みつけながら、口元の本へ右足をぐっと置いた。


「斥候、だと言っていましたね……でしたら伝えて頂けますか?」


右足に力を込めると、異形は黒川の足を払い除けようと必死にもがく。抑え込むように、黒川は更に足へ体重を載せた。


「流星雨の夜、新しい桜小町でお待ちしておりますよ」


黒川が静かに足を退けると、異形は這いずりながら距離を取る。口元の本へ手を伸ばすが、やはり取れないようだ。諦めたのか、異形はよたよたと店から出て行った。

異形がいなくなると、薄暗い空気が晴れたような気がした。巻き上げられた埃の中、立ち尽くす黒川の背中を、さくらはただぽかんと、口を開けて眺めることしか出来なかった。


「また、片付けなければなりませんね」


少し困ったように笑いながら黒川が振り返ると、半壊した本棚から、さくらはゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。


「……大丈夫?」


視線を落とすさくらは、いつか見たハルカを思わせ、黒川の胸を締め付けた。振り払うように小さく首を振ると、そっとさくらの頬を撫でる。


「ええ、なんとか」


黒川ほどではないが、さくらの身体に埃や木屑があちこちに付いている。軽く払えば、びくっと小さな身体が跳ねた。


「……さくらさんが無事で良かった」


ほっと息を零した黒川を、見つめ返す混色の瞳は何故か怪訝そうに揺れていた。何か、気に障ることでも言っただろうか……黒川は首を傾げ、視線を交える。


「……”さん付け”……イヤ」


──なるほど。黒川は妙に納得して頬を緩めた。


「本当に、わがままな娘ですね」


黒川が柔らかく目を細めれば、少女は花を咲かせたように微笑んだ。


『やっと、見てくれた』


さくらは心の中で小さく呟くと、思いっきり黒川に抱き着つく。身体に掛かった埃が鼻をくすぐり、二人揃ってくしゃみをした。

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