留紺の箱庭
留紺の箱庭
何もない暗い空間に、黒川がただ一人立っていた。何故今、自分がここにいるのか定かではない。きょろきょろと辺りを見回すと、見慣れない靴を履いていることに気付いた。これはローファーだ、しかも腰にはスカートを巻き付けている。そこまで確認してようやく理解が追いついた。
「これは夢ですね」
呟いた声は高く可愛らしいものだった。ふと、頭上に気配を感じて見上げれば、黒い大きなぽっかりとした丸が浮かんでいた。
「……黒い、月」
いつか、コウキの家で見た威圧感を放つ禍々しい月に、目が離せない。黒い円の中心から、すうっと白い紐が垂れている。
「……ィヤ」
黒川の意志に反して、口から零れた少女の声が震えている。近付いてくる紐は、うねうねと気味の悪い動きを見せた。
「ぁ……あ……」
開いた口が、閉じることを忘れてしまったのか、身体も金縛りにあったように硬直したままだ。紐、いや……これは線虫だ。それは一直線に、黒川に向かって伸びていく。冷たく湿った線虫が震える唇に触れると、遠慮もなく口内へ滑り込んできた。
「や……ぁ……っ、ぐ……ぅ」
異物が喉を荒々しく掻き回されている感覚に、全身が粟立つ。腹の奥で蠢く線虫がじわじわと膨れ上がる。
「ぅ、ぐ……ぉぇ……っ」
線虫はどこまでも伸びていく。終わりの見えない苦痛に、目尻から涙が溢れる。黒い月が、笑うように歪んだ。
****
「………っ、ハァ!」
無理やり引き戻された意識に、現実感が追いつかない。薄暗い見慣れた天井に、ここが布団の中であることを思い出す。
「はぁ……はぁ……」
ばくばくと動悸がやかましい。それでも、夢から醒めたことに、黒川は安堵を覚えた。あれは恐らくアカリの記憶だろう。ぼんやりと眺めていた天井の蛍光灯から、細い紐が一本垂れている。先程の悪夢がふと蘇り、思わず目を逸らした。
「あれは一体、なんなんでしょうか……」
醜い肉塊、黒い月。長く生きてきた中で、あれ程の怪物は黒川も見たことがない。再び目を瞑るが、完全に眠気は飛んでしまった。無意識に腹をさすると、まだあの線虫が渦巻いている気がした。
****
今日の黒川は欠伸が止まらなかった。いつものように読書をしようにも、目から文字が滑っていく。一向に進まないページに、諦めて静かに本を閉じた。ぼんやりと壁を眺めていると、夢の中へこのまま行けそうだ。ウトウトと船を漕いでいると、邪魔するように入店の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
思いの外微睡んだ声に、黒川は慌てて口を抑えた。店に来たのは中年女性だ。初めて見る顔に、恐らく本を買いに来たのではないのだろう。さて今回はどんな面倒事なのだろうか……眠気が残る鈍い頭に、更にずんと重さが増した。
「あの、相談事を受けてもらえるって、聞いて来たのですが……」
中年女性は恐る恐る言葉を紡ぐ。黒川は咳払いをひとつ、取り繕ってみせた。
「まあ、主にそんな仕事ばかりですね。ご要件はなんでしょうか?」
黒川が務めて穏やかに声を掛けると、女性は緊張が少し解れたのか、強ばっていた肩がふっと落ちた。
「息子を探して欲しいんです」
女性の言葉を聞いて、ぴくりと眉を顰める。機嫌を損ねたと思ったのか、女性はおどおどするばかりだ。
「……すみません、只事ではないと思ったもので」
話を続けるよう、さり気なく手を差し伸べると、女性は緊張した面持ちで言葉を続けた。
「はい……息子は三日前、出てったきり戻ってこなくて──」
相談者、山寺キクコの話によれば、息子のユウジが失踪した日、出かけて行くユウジにキクコが声を掛けたが、まるで夢遊病のように、ふらふらと歩く姿を見たのが最後だった。何でも、ユウジは呪いの品を収集するのが趣味らしい。連絡もつかず、行く宛ても心当たりのない息子は、何か良くないものに呼ばれてしまったのではないか──
「なるほど、何かに呪われているかもしれない。そうお考えなのですね」
キクコの話を要約すれば、そういう事だろう。黒川の言葉に、キクコも深く頷いた。
「何か心当たりのものがあるんですか?」
「家にはそんなものばかりあるので……正直、気味が悪くて、私はほとんど知らないんです」
黒川は眼鏡を押し上げ考え込むが、話だけでは何も掴めない。
「ユウジさんのお部屋を、見せていただくことは出来ますか?」
本当に呪いのせいなら、何か痕跡があるかもしれない。黒川の提案に、キクコの顔も少しだけ明るくなった。
「ぜひお願いします」
黒川は重い腰を上げると、キクコと並んで歩き始める。今年はやたら厄介事が多い。胸の中でひとりごちた。
キクコの家は、昔ながらの瓦屋根の大きな家だった。ユウジの部屋の襖を開けると、掛け軸、日本刀、壺に日本人形……確かにどれも見た目は怪しげな物ばかりだ。
「これは、ずいぶんとたくさんありますね」
「ええ、なんでこんな物ばかり……」
キクコは困惑の表情を浮かべながら、部屋より一歩外にいた。黒川が室内をぐるりと見回すが、それらしい気配はしない。どれも見掛け倒しのようだった。畳の上を滑るように歩いていると、ふと、乱雑に置かれたひとつの木箱に目がいった。手に取ると、模様が美しい寄木細工の箱だった。
「中に何かありますね」
箱はとても軽い。振るとカタカタと小さく音が鳴った。確かこれを開けるにはカラクリがあったはずだ。
「キクコさん、これが何だか分かりますか?」
キクコは小さく首を横に振った。黒川は箱のあちこちを弄り回すと、いくつか板がズレる場所を見つけた。
「ここが、こうで……へぇ、なるほど」
パズルを解くようで、段々面白くなってきた黒川は、畳に腰を下ろし本格的に箱と向き合った。弄る内に、燻したような匂いが鼻を掠める。この部屋で、呪いと呼べる物は、この箱以外になかった。
「開きましたよ」
ようやく箱の解錠が完了すると、中には古びた封筒が一通入っていた。少し黄ばんだ封を開けると、埃臭い紙に墨で書かれた細かい文字が連なっている。軽く目を通すと、どうやらこれは恋文のようだった。
「これは女性が書いたものみたいです、ね……」
──山の中、古い家屋、覚束無い足取りで歩く男。突然頭の中に浮かんできた初めて見る情景に、黒川は言葉を失った。不審に感じたキクコが顔を覗き込んでくるが、黒川の視線は不自然に空を見るばかりだった。
「どうかしましたか?」
今のは何だったのか……怯えたようなキクコの声で我に返ると、黒川は首を振った。
「あの、ユウジさんの写真はありますか?」
「写真ですか?」
黒川の問いに目線を上げたキクコは、思いついたようにスマートフォンを操作する。しばらくして見つけた画像を黒川に手渡した。
「二年前くらいの写真ですけど」
差し出された画像に写っている男と、先程脳内に流れた映像で見た男は同じ人物だった。この手紙が見せたものなのか、それとも──
「ありがとうございます。少しこの箱をお借りしてもよろしいですか?」
「ええ、構いません。あの子が見つかるなら」
「……保証はしかねますが、やってみます」
今、手がかりになる物は、この箱と手紙だけだ。キクコから預かると、黒川は家を出た。
古本屋に帰り、改めて手紙を開く。淡い恋慕を思わせる、普通の恋文だ。それなのに何故だろう、嫌な気配がまとわりついている。
「さっきのは、この手紙が見せたのでしょうか」
箱には他になにもなかった。黒川はしばらく手紙を見つめると、目を瞑り意識を集中させる。──廃屋に着物姿の老人が立っている。ここはどこだろう……映像が山の中を走っていくと、周辺の道路が見えた。青看板に書かれている文字まではっきりと写っている。
「はっ、はっ……」
鈍い頭痛が走り、黒川が目を開ける。手紙が見せているわけじゃない。視えている。眼鏡を外し、痛む目頭を抑えた。
「どんどん、人間から離れていく気がする……」
猫も長生きすれば、化け猫となって言葉を話す。ならば人も、長く生きれば特別な力が付いたりするだろうか。
「……今は人探しに専念するとしましょうか」
浮かんだ思考から逃げるように腰を上げると、本棚から大きな地図帳を取り出す。広げるとふと、目に止まった紙面に、先程見た地名を見つけた。
「ここだ」
指差した場所は、ここから車で一時間ほどの山の集落らしい。古い地図だからこそ、その場所も記載されていた。壁掛け時計に目を移す。今から行くには少し遅い時間だ。
「明日は山登りですね」
一段落ついて、忘れていた眠気が頭をもたげる。一際大きな欠伸が零れた。
翌朝、まだ日も明けきらない内に、黒川は古本屋を出た。始発の電車に乗り込むと、背負っていたリュックを抱え込んで座る。登山は初めてだ。ついつい荷物が多くなってしまった。
「さて、乗り換えを間違えないようにしないと」
わずかな不安を抱えながら、不規則に揺れる電車の中、黒川は静かに目を瞑った。降りた先は、桜小町よりのどかな田舎町だった。慣れない道中、半ばカンを頼りに歩いていくと、峠道にひっそりと集落の入口はあった。石段が連なっているが、奥は薮に紛れて道が続いているのか怪しい。
「ここですね」
石段に足を伸ばすと、黒川の姿はすぐに木々に覆われ見えなくなった。始めこそ道のように見えた山の中は、人の行き来が無くなったせいか、次第にありのままの地面へと変わっていく。草や木が行く手を阻み、思うように前に進めない。思いの外体力を削られ、黒川の息も荒くなる。
「……これは、想像以上に、きつい」
額の汗を拭うと、一度止まった足はなかなか動いてくれない。呆然としていると、遥か遠くから呻き声が聞こえてきた。
「まずいですね」
冷たい汗が背中を伝う。あまり悠長にはしてられないようだ。黒川は震える足に力を込めた。荒い呼吸と、土を踏む音だけが響く。時折枝が顔を掠め、小さな切り傷を作っていく。無心になって進んでいくと、木々の隙間から家が見えた。
「ここが入口か」
ようやくたどり着いた集落だが、映像で見たのはもっと奥にあるはずだ。廃墟を通り抜けていくと、時が止まったかのような残留物が散らかる廃墟に目を奪われる。
「一体、どこに行ったのやら」
ここにも、活気賑わう時があったはずだ。かつての住民の陰が色濃く残る敷地を抜けていくと、また木々に覆われた森を歩く。一歩歩く事に背筋に寒気が走る。目の前に広がる拓けた場所には、黒い影の着物姿の老人が、ぽつりぽつりと数人ほど立っていた。
「こんにちは」
声を掛けるも、揺らぐ黒い影はみな、無言で黒川を見つめている。じんわりと注がれる怨嗟の視線に、懐かしさすら感じた。まさか、亡霊の姿に安堵する日が来るとは思わなかった。
「お邪魔しますね」
こちらを睨む顔をものともせず、黒川は目的の家屋へ足を運ぶ。玄関を開けると、カビ臭い空気が漂っていた。軋む床に注意しながら進むと、奥の部屋の畳に横たわる人影が見えた。
「もしもし、ユウジさんですか?」
近付いて身体を軽く揺すると、次第に開く瞳に困惑の色が滲んでいた。
「……え?だれ?」
「はじめまして、黒川と申します」
微睡んだ声色のユウジをぐるりと見回す。体調面での心配はなさそうだ。黒川が胸を撫で下ろすと、後ろから強い視線を感じた。
「ちょっと待ってくださいね」
まだ覚醒しきっていないユウジの顔を手のひらで覆うと、黒川はくるりと後ろを振り向いた。窓からこちらをねめつける老人たちが、威圧感を放っている。黒川はただ静かに見つめ返していた。
「な、なに……?」
ユウジはわけも分からず、声を上げる。ちらりと横目で確認すると、黒川は「しーっ」と小さくたしなめた。再び窓へ向き直ると、少しだけ目に力を込めた。
『むやくしぃ……』
一際低い声が部屋に響いた。手のひらから、びくっと動揺するユウジの振動が伝わる。亡霊たちは一言だけ残し、すうっと消えていった。
「もう、大丈夫ですよ」
目隠しを外すと、ユウジに手を貸し身体を起こす。少なくとも三日は寝ていたであろう、ユウジは力なく項垂れた。
「あの、俺なんでこんなところに……?」
きょろきょろと見回すユウジは、記憶がないようで疑問符ばかりが浮かんでいた。軽装の彼が操られていたとはいえ、よくここまで歩いてきたものだと感心してしまう。
「まずはお水と軽食を取ってください。説明は帰りながらしましょう」
黒川は持ってきた荷物から差し出すと、ユウジは素直に受け取った。日も陰り始めた。あまりゆっくりはしていられない。
「さて、お疲れでしょうが、そろそろ行けますか?」
「えぇ、なんとか」
ペットボトルをあっという間に空にしたユウジは、ポケットからスマホを取り出すと眉根を寄せた。どうやら充電が切れているらしい。黒川は用意しておいたモバイルバッテリーを手渡した。
「降りる頃には使えるでしょう」
「ありがとうございます。でも、本当に歩いて帰るんですか?」
「ふふ、貴方だって、歩いてここまで来たんでしょう?」
膝の埃を払い、黒川が先立って家を出た。ユウジも慌てて後を着いていく。外に出ると鳥の声だけが風に乗っている。先程の老人たちはもう居なくなっていた。
「さっきの声って、何だったんですか?」
振り返れば、静かにユウジは廃墟を見つめていた。黒川は思案するように顎を摩る。
「貴方を誘い込んだ、亡霊の声ですよ」
「やっぱり!?」
高揚したユウジの声に、黒川は顔を顰めた。
「えー、亡霊見たかったなぁ!なんで俺記憶ないんだよ!」
「まったく、何を呑気なこと言っているんですか……」
能天気な振る舞いに鈍い頭痛を覚える。こういう人間は痛い目を見ても分からないのだ。説教するだけ無駄な気がした。
「ぼんやりしていると置いていきますよ」
わざと大きな足音を立てれば、ようやくユウジも廃墟から視線を外した。
「あの寄木細工は、どこで手に入れた物なんですか?」
草木を分けながら黒川が道を作っていく。後に続いて歩くユウジは、問い掛けられてふと足を止めた。
「よせぎ……?うーん、どれのことだ?」
黒川も立ち止まる。ふいに山の向こうが気になり視線を向けるも、木々が風で仄かに揺れるだけだった。
「それのせいなんですか?俺がこんな山の中にいるのって」
「ええ、恐らく」
耳を済ましても、興奮したユウジの荒い呼吸が聞こえてくるだけだ。黒川が再び歩き始める。その足取りは少しだけ早かった。帰り道は下りが多い、足を滑らせればあっという間に山を下ることが出来るだろう。内心、ユウジが転げ落ちないか不安が過ぎる。
「今まで色んな物集めて来たけど、心霊体験なんて、ほとんどなくて……ああ、早く友達に話したいなぁ!」
「……」
息を乱しながらも軽い足取りのユウジのことを、今か今かと心待ちにしているキクコを思うとやるせない。黒川が呆れてものも言えないでいると、二人分の足音の他に、草木を揺らす音が微かに聞こえた。
「しっ、待ってください」
黒川が手を広げ静止する。辺りを見渡しても、不自然な点は見えない。集中していると言うのに、ユウジは後ろでそわそわと落ち着かないでいた。
「え?まさかまた亡霊ですか!?」
左奥、視線の先の薮が震えている。亡霊であればこんなに緊張はしない。黒川の額にじんわりと汗が滲む。近付くにつれて荒い鼻息がどんどん大きく聞こえてきた。
「……動かないでくださいよ」
黒川が小声で警告すると、突然目の前に大きな熊が現れた。獣臭さに思わず眉根が寄る。始めに聞いた、唸り声の主だろう。
「ひ、ひぃぃぃ!」
ユウジは情けない声を上げて尻もちをついた。ばふばふと熊の呼吸に合わせて、黒川の心音も騒がしく音を立てた。犬猫ならば、黒川の顔を見ただけでどこかへ行ってしまうが、果たして熊はどうだろうか……初めて対峙する猛獣に、黒川も喉を鳴らした。絶妙な距離感での膠着した空気に、時間がゆっくりと流れていく。
「た、た、たすけて……」
動くなと言うのに、ユウジはじたばたと足を動かし忙しない。熊も黒川と視線を交えながら、そちらに気が移りそうな気配を見せた。このままではいけない。黒川は静かに大きく息を吸い込んだ。
「こん」
黒川が一際大きく鳴いてみせた。すると熊は巨体を震わせ、じりじりと後退した後、走って再び藪の中へと姿を消していった。足音が聞こえなくなった頃、黒川も緊張の糸が解れて、肩の力が抜けていく。
「わんと鳴くか悩みましたが……何はともあれ、助かりましたね」
やり切った満足感に頬が緩む。振り向くと、黒川とは正反対にユウジの顔は真っ青だった。
「おやおや。いつまでもそうしていると、また熊が戻ってくるかもしれませんよ?」
手を差し伸べ、立ち上がるよう促すと、青ざめたままユウジは素直に頷いた。道中はまだ長い。流石のユウジも黙々と大人しくついて帰路を急いだ。
その後は熊の気配もなく、順調に進んでいく。ようやく道らしいものが見えてくると、徐々に現世の色が濃くなる。石段を降りていけば、やっと見えたアスファルトにユウジも力なく座り込んだ。
「助かった……」
今頃になって零れたユウジの呟きに、黒川もほっと胸を撫で下ろした。リュックから充電していたスマートフォンを差し出すと、ユウジはすかさず電源を入れた。画面には通知が山のように届いている。そのほとんどは、母のキクコからのものだった。
「これに懲りたら、妙な物に手を出すのはお止めなさい」
黒川が静かに告げると、涙ぐんだ目を擦りながらユウジは小さく頷いた。黒川が振り返ると、相変わらず石段は不気味な色を浮かべ、その奥は木々に覆われ暗闇を宿している。この草木を抜けると存在する狭間に、しばし思いを馳せる。
「親の心子知らず……また、逆も然り、ですね」
帰ったらあの手紙は燃やすとしよう。それでも、あの老人たちは惨めたらしく、あの場に留まることだろう。しかしそんなこと、黒川には最早関係のない話だった。




