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青い家




商店街から少し離れた住宅地に、青い屋根の一軒家が建っている。何の変哲もない、普通の二階建て住宅だ。三人分の洗濯物が、ベランダで風を受けて揺れている。それを遠くから、黒川は静かに眺めていた。


「……あまり良い趣味とは言えませんね」


この数日間、黒川はあの家を観察していた。本当は直接、尋ねられればいいのだが……かれこれ数十分、眺めていたが変化は何一つない。家から視線を外し、古本屋へくるりと足を向けた。

秋祭りが終わった商店街は、一層寂しげに見えた。秋の重い空のせいだろうか、何となく黒川にも、どんよりとした気分が纏わりつく。──安藤アカリ。祭の時に見た、人形のような少女。サヤが渡された赤い日記も、彼女が持っていた。出来れば一度、会って話がしたい。


「さて、どうしたものか……」


もやもやとした杞憂が黒川を急かしている。祭が終わってから、鉛を飲み込んでいるような不快感が拭えないままだった。店に戻って壁掛け時計に目を移せば、そろそろいつもの時間だ。気弱なところは見せられない。黒川は自分の頬を叩くと、店内には乾いた音が響いた。


「お邪魔しまーす」


丁度見計らったように扉が開くと、乾いた空気と元気な声が入ってくる。振り返るとそこには、カナデが一人で立っていた。


「いらっしゃい、カナデさん」

「奥の部屋、また借りるね」


黒川は頷くと、カナデを居間へ案内する。靴を脱ぐ時見えた、少女の指にはいくつか絆創膏が貼られている。健気な姿に、じんわり心が和んだ。

古本屋には立派な裁縫道具がある。それは以前、亡くなった手芸屋の店主から譲り受けた物だったが、黒川が使うことはほとんどなかった。カナデが箱を開くと、作りかけのフェルト生地を取り出す。


「……よしっ」


気合いを入れて針を持つと、カナデはぎこちない手つきで糸を通した。


壁に掛けてある暦には、カナデが書いた二重丸がどんと存在感を示している。祭が終わった次の日、カナデから受けた相談はお守り作りの手伝いだった。


「梨でも剥きますか」


ふと思い付き、本をカウンターに置いた。居間を通り抜けると、手元に集中しているカナデは黒川が入ってきたことに気付いていないようだった。白と黒の生地が、あちらこちらに落ちている。サッカーボールの形を作るのは、意外と難しいらしい。

黒川は梨と果物ナイフを手に取ると、器用に切り分け白い皿に載せた。


「カナデさん、どうぞ」


切った梨を目の前に置くと、カナデがホッと息をついた。同じ姿勢が続いたせいか、固まった身体をほぐすために背伸びする様が猫のようで、黒川も思わずクスリと笑いが零れた。


「あーあ、ホント私、不器用過ぎてイヤ」

「そうですか?お上手ですよ」


机に置いてある、作りかけのお守りは少し歪な丸型ではあったが、その分可愛らしさが滲んでいる。


「ふふ、ヒロムくんも幸せ者ですね」

「ヒロムにあげるんじゃないし!」


黒川の言葉を即座に否定しても、赤い頬では説得力はない。照れ隠しなのか、カナデは梨を大きな口を開けて頬張った。もうすぐ、高校サッカーの地方大会が始まる時期だった。


『アカリちゃんに、俺の良いとこ見せつけるから!』


浴衣を着付ける時、ヒロムが自慢げに語っていたことを思い出す。大会の日であれば、あの安藤アカリと接触出来るかもしれない。黒川も楊枝に手を伸ばす。齧った梨が、しゃくっと口の中で瑞々しく音を立てた。


「……この梨、美味しいですね」

「うん、めっちゃおいしい!」


仄かな甘さ、心地よい歯触り。貰い物の梨が思いの外美味なことに、黒川の思考が梨に吸い寄せられていく。


「ちょっとまた剥いてきますね」


どんな杞憂も、食欲には勝てない。何より微かに見えた兆しに、ついつい鼻歌が零れた。



****



後日、昼過ぎに古本屋に訪れたのは、ヒロムの母だった。まるで別人のように青ざめた顔に、黒川も反射的に腰を上げた。


「どうしました?」


駆け寄ると、ヒロムの母はぽろぽろと涙を流し始める。思うように声が出せない様子に、黒川は静かに待つしかなかった。


「……ヒロムを、見ませんでしたか?」


最後にヒロムと会ったのは、秋祭りの日だ。黒川が首を横に振ると、母親はまた、涙でタオルを濡らした。


「あの子、家に帰ってないんです」

「いつからですか?」

「……三日前から」


母親の唇が震え、ようやく絞り出された言葉だった。今までヒロムが家出をしたことは一度もなかったはずだ。


「スマホも家に置いたままで、どこに行ったのか……」


黒川の脳裏にふと、安藤アカリの顔がちらつく。いや、決めつけるには早い。思考を振り払うように、小さく首を振った。


「何か分かれば、こちらもすぐ連絡しますね」

「……よろしくお願いします」


深々と頭を下げた母親は、覚束無い足取りで店を出て行った。カナデはどうしているだろうか。今は誰もいない店の奥を、黒川は静かに見据えた。

数刻後、カナデも店にやってきた。ヒロムの母親ほどではないが、やはりその表情は暗い。


「ヒロムくんが、行方不明だと聞きました」


黒川の言葉に、カナデがこくんと頷いた。その手には、ここで作ったお守りが握られている。本来であれば、それはもうヒロムの手に渡ってもおかしくないものだった。


「……ヒロムだけじゃないの」

「え?」

「他の男子も、何人かいなくなってる……」


告げられた事実に、黒川は息を飲んだ。


「安藤アカリも、学校に来てない」

「アカリさんもですか?」


目の前の小さな肩が震えている。アカリの名を聞いて、黒川の表情もわずかに険しくなった。


「アカリは連絡がつくから、行方不明じゃない。でも……」


ふっと顔を上げた、カナデの力強い視線とぶつかる。


「私、アイツのせいだと思う」


涙と怒りが滲んだ声に、黒川はすぐに言葉を出すことが出来なかった。


「……何故、そう思うんですか?」

「いなくなった子達って、アカリの取り巻きばかりなんだよね」


秋祭りの時、アカリの周りにはヒロムを含めた複数の男子達がいた。彼らが、行方不明者ということなのだろう。カナデがアカリを疑うのも無理はなさそうだ。


「警察も動いているはずです。決め付けてしまうのは良くないですよ」


それはまるで、自分に言い聞かせているようだった。カナデも納得いかない表情を見せつつ、黒川の言葉に素直に頷いた。


「……ごめん、また来るね」

「ええ、気を付けて帰ってください」


とぼとぼ帰る背中を見送ると、自然とため息が漏れた。黒川はしばらく考え込むと、思い立ったように店を出て行った。




表札には『安藤』の刻印。黒川は初めて、青い屋根の家の前に立っていた。カナデの話が本当なら、今もアカリはここにいるはずだ。インターホンを押すと、無機質なチャイムが響く。少し間を開けて、女性の声がした。


「突然すみません、商店街で古本屋をやっています。黒川と申します」

『……はい?』


恐らくアカリの母親と思われる女性の声は、戸惑いの色が滲んでいた。


「お話したいことがありまして、アカリさんはご在宅でしょうか?」

『アカリ、ですか……』


静かな間合いに、黒川は喉を鳴らした。たった一言でも、アカリと言葉が交わせればそれで良かった。これは賭けだ。


『すみません。夜にまた、来て頂けますか?』

「……夜ですか?」


思わぬ返答に、拍子抜けした声が漏れてしまった。インターホンを見つめるも、カメラに反射した戸惑う黒川しか映らない。


『お待ちしてます……』


母親が告げると、それっきりぷつりと通信が切れた。


「……また、来ますね」


人気のない扉に向かって声を掛ける。当然、返答はなかった。不自然なくらい、静かな空気が流れるだけだった。




古本屋に戻った黒川は、本棚をじっと見つめていた。脳裏には、いつかのゴミ屋敷のことがチラついている。あの時は急な誘いだった為、準備が不十分だった……いや、それは言い訳だ。結局、自分は何も出来なかったのだ。


「……二の轍は踏みたくないですからね」


一冊の本を手に取ると、挟まっていた押し花の栞を抜く。


「持っていきますか」


経験上、何度かこのまじないには助けられている。カーディガンのポケットにしまい込むと、黒川はいつもの定位置に深く腰を下ろした。家主には夜に来いと言われたが……とりあえず、今は暗くなるまで待つしかない。黒川は壁に背を預け、静かに目を瞑った。

──あれは、まだヒロムとカナデが小学校に上がる前のことだ。二人は仲良く手を繋ぎ、初めてのお使いに絵本を買いに古本屋にやって来た。


「これ、くーだーさい」


二人は同じ絵本を持って、家族に教えてもらった呪文を唱える。少し緊張した面持ちの子供たちに、黒川は柔らかい笑みを浮かべた。


「はい、どうぞ」


小さな財布から出された小銭を黒川が受け取ると、代わりに袋に入れた絵本をそれぞれに手渡す。すると二人は無邪気に跳ねて、店内を笑い声で満たした。黒川は今もあの時の光景を、昨日のことのように思い出せる。


ゆっくりと目を開くと、店内の棚の影が床と同化していく。そろそろ頃合だろう。黒川が椅子から立ち上がると、ピタリと動きが止まった。ふと思い立ったように居間の奥を見つめると、そちらに向かって歩き始めた。



****



薄暗い道を、住宅の明かりが仄かに照らしている。再びアカリの家まで赴いたが、この家の窓から光は漏れていない。やはり時間稼ぎだったのだろうか。黒川は肩を落としつつ、チャイムを押した。


『どうぞ、お入りください』


返答はすぐだった。機械から午後と同じ女性の声が家へと誘う。こちらの意志を聞くこともなく、ぶつりと不自然に切れた通信に背筋に寒気が走る。黒川がドアノブを回すと、扉は簡単に開いた。


「お邪魔します」


暗い廊下はしんと静まり返っていた。ついさっき、声がしたばかりだ。すぐ近くに居てもおかしくないが、人の気配もない。黒川は玄関先のスイッチに手を伸ばすが、何度押しても反応しなかった。


「誰かいませんか?」


声を掛けても、今度は返答がなかった。仕方なく靴を脱いで部屋へ上がる。壁伝いに歩き、すぐ横のリビングに入るがやはり誰もいない。──いや、中央のソファに横たわっている、人影のようなものが見える。ゆっくり近付くと、それは安藤アカリだった。


「アカリさん……!」


アカリに触れると、黒川の手のひらの温度が吸われていく。身体を軽く揺さぶると、ゴロンとこちらを向いた顔は、瞼が開いたままだった。


「傀儡か……?」


これは人間ではない。黒川がアカリから離れると、頭上からごそごそと、何かが動く音が聞こえてきた。


「また、二階ですか」


黒川は苦虫を噛み潰したような眼差しで、天井を睨みつけた。何気なく、ズボンのポケットを確かめるように撫でると、硬い感触に緊張が走る。


「出来れば、これを使うことがないといいのですが……」


思わず小さく呟いた。窓から入る外の光がなければ、とても歩けないほど家の中は暗い。慎重に階段を登ると、板が軋む音だけがやたら響いた。二階に上がると、一番奥の扉が黒川を誘い込むようにゆっくり開いた。


「……」


開いた扉から、淀んだ空気が這うように廊下を満たす。不穏な雰囲気に臆することなく、黒川はまっすぐ部屋へ向かった。


「失礼します」


室内には、どこからともなく呻き声が響いていた。黒川が一歩、部屋へ進むと足先に触れたものがあった。その瞬間、栞のまじないが反応して、床に火花が散る。閃光に照らされた部屋の奥には、山のように盛り上がった塊がちらりと映った。


「……何だ?」


足元で、何かが動いた。視線を落とす。一瞬、それが何か分からなかった。異様に細い、骨のように乾いたそれが、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。腕だと気付くのに、数秒かかった。


「ヒロム……くん……」


見覚えのある面影に、黒川は目を見開いた。ヒロムが呻き声を上げながら、床の上で藻掻いている。ミイラのような枯れきった身体は、以前の快活なヒロムからは想像もつかない有様だった。


「ヒロムくん、聞こえますか!」


黒川が名前を呼んでも、ヒロムからの反応はない。ヒロムの下半身は、脈打つ露出した肉の膜と繋がっている。ゆっくりと視線で辿ると、山のようにうず高く積み上がった肉塊に行き着いた。


「な、んだ……これは……」


醜悪な肉塊から人が生えている。みな、苦悶の表情を浮かべ、言葉にならない呻き声ばかり上げていた。肉塊の頂点には、へらへらと下卑た笑みの顔が黒川を見つめていた。


「あなたは何者なんですか!」


声を荒らげた黒川に、肉塊は尚も笑っている。ヒロムがまた黒川の足元に手を伸ばし、バチッと強く弾かれた。


『……どうすればいい!』


見たこともない怪物に、黒川の額に汗が滲む。ズボンのポケットに手を入れると、小さな果物ナイフを手に持った。護身用にと持ってきた物だが、この短い刃先では、あの肉塊から彼らを切り離すのは難しいだろう。


「……っ、て……」


部屋を満たす低い呻き声に紛れて、か細い声が聞こえてきた。黒川が声がした方へ顔を向けると、肉塊の視線とぶつかる。


「……た、すけ……て」


声は確かに少女のものだった。だが、その顔は笑っていた。口の端が裂けるように吊り上がり、目だけが、必死にこちらを見ている。


「たすけて」


今度は、はっきりと聞こえた。


「……アカリさん、ですか?」


黒川が呟くと、肉塊が小さく頷いたように見えた。アカリもまた、怪異の被害者らしい。目の前の現実が受け止められず、黒川は呆然と立ち尽くしていた。


「どうしろって言うんだ……!」


苛立ちを隠せず、果物ナイフを握り締める。ふと頭に浮かんだ一つの案に、黒川は被りを振った。──これは駄目だ。だが、いくら思案を巡らせても、他に何も思い浮かばなかった。


「ヒロムくん、目を覚ましてください!」


諦めきれず呼び掛けても、やはり返答はない。そこに意思は感じられなかった。


「……これしか、ないのか」


黒川は持っていた果物ナイフの鞘を抜くと、緩やかに自分の喉元へ当てた。


「はっ……はっ……」


息が上手く吸い込めない。カタカタと震える刃先が、肌を掠める。柄を持つ手に力を込めるが、やはり安定はしなかった。


「……く……る、しぃ……た、すけ……」


アカリの声が、ヤケにはっきりと黒川の耳に届く。──やはり一度、引き返すべきか。黒川の思考が揺らいだ瞬間、強い力で足を掴まれた。


「っ!」


まじないの効果が切れたのか、ヒロムが黒川の足元にぬるりと縋り付く。もう躊躇っている時間はなかった。今は自分の呪いを信じるしかない。黒川はナイフを首元に突き刺した。


「っ、か……はっ!」


動脈が切れて、勢いよく血が溢れ出る。気道も潰れ呼吸もままならず、空気を吸おうとしても喉から血と一緒に漏れるばかりだ。身体から力が抜けて、その場にしゃがみ込むと、ヒロムが黒川の上に覆い被ってきた。


「はぁ……はぁ……ぁ」


萎んでいく視界に、肉塊の醜い笑顔が映る。本当にこれで良かったのか……耳元で、ヒロムだったものの声がする。意識は、そこで途絶えた。



****



外からサイレンの音がする。ヘッドライトの明かりが部屋の中を一瞬だけ照らすと、黒川の意識がふと戻っていく。ゆっくり起き上がると、にちゃりと粘着質な音が響く。何も身に付けていない身体に、粘液がまとわりついていた。


「なんだ……?」


視界がぼやける。凝らした目先にぼんやり見えたのは、横たわっているかつての自分の身体だった。


「……っ」


やけに重い身体を何とか起こせば、黒川が立っているところは、肉塊が鎮座していた場所だった。部屋には生臭い湿気た臭いだけが漂っている。よたよたと自分の死体に近付くと、眼鏡を取り上げる。部屋は酷い有様だった。黒川が階段を降りていくと、ペタペタと水気を帯びた足音が響いた。


「……はぁ」


洗面所は花のいい香りがした。水流と一緒に、黒川のため息が排水溝に吸われていく。正面の鏡に視線を移すが、表情は伺えない。見えないことに、黒川は少しだけ安堵した。


「……どうすれば、よかったんだ」


流れ続ける水道水が、ごぽごぽと音を立てている。陶器の温度すら感じず、深く項垂れるしかなかった。



****



翌日、学校から帰宅途中のカナデが、ふらりと古本屋を尋ねてきた。手にはフェルト生地のお守りを持っている。黒川はそれを見た途端、一瞬だけ表情を歪めた。


「なんか店長、調子悪い?」


些細な変化を見逃さなかったカナデが、黒川の顔を覗き込む。その澄んだ瞳を直視するのは今は心苦しかったが、グッとこらえ笑顔を作った。


「いえ……昨晩、徹夜してたからかもしれませんね。お気遣いなく」

「へぇ、珍しいね」


カラッと笑うカナデに、また胸が締められるような痛みが走る。しかし今度は気取られぬよう、困ったように微笑んだ。


「それでカナデさんは、今日はどのようなご用事ですか?」

「……えっとね」


お守りを握りしめながら、カナデの視線が揺らぐ。徐々に下がる眉に不安の影が差した。


「変な話なんだけどね。このお守りさ、ここで作ってたでしょ?」

「……そうですね」


黒川の声は少しだけ震えている。指を傷付けながらも懸命に縫っていたあの姿は、忘れられるはずがなかった。


「私、なんでこれ作ってたのかさ……分かんなくなっちゃってさ……」


ぽたぽたと落ちる雫を、フェルトが吸って濃い色に変化していく。たどたどしい言葉に、黒川も表情を隠すことが出来なくなっていた。


「ねぇ、私……これ、誰にあげるつもりだったんだろう?」


黒川はカナデからお守りを受け取ると、そっと抱き寄せた。耐えきれなくなったカナデが、腕の中で泣きじゃくると、黒川も深く眉を寄せた。


「……ごめんなさい」


もうヒロムはどこにも、誰かの記憶にすらいない。カナデの嗚咽に混じる、黒川の小さな謝罪は彼女の耳には届かなかった。

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