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翠緑の穴居




薄暗い部屋の中で、白髪混じりの女が一人、腹を抑え低く呻いていた。拙い足取りでリビングを歩いている。ついに痛みに耐えきれず、膝から崩れ落ちそのまま床に蹲った。


「……ぅぅ、い、いた……ぃ」


腹を抑えた指の下で、何かが蠢いているのを感じる。痛みと共に、輪郭を徐々に表すそれが、女の身体を食い破ろうとしている。


「ぃいやぁぁぁぁあ!!」


肉が裂け、腹から勢い良く血が溢れ出た。それと一緒に、何かがぽとりと零れ落ちる。力が抜けた女が倒れ込むと、自らの血が容赦なく顔に跳ねた。滲む視界の先に、血溜まりの中を何かが動いている。それは緑色に光る、異様な胎児だった。


「はぁ……はぁ、はぁぁ……」


力を振り絞り、手を伸ばして胎児をすくい上げる。闇に輝くそれは宝玉のように美しく、女は恭しく掲げた。


「きゃうわぁ」


胎児が鳴き声を上げた。恍惚とした面持ちで女はうっとりと目を細め、光る胎児に頬を寄せた。


「……よしよし、おなかがすいたの?」


目も開かぬ胎児が、きゅうきゅう鳴きながら手足をばたつかせている。それを愛おしそうに見つめる女を、怪しく緑の光が照らしていた。




****




茹だるような暑さに、黒川は本も開く気すら起きなかった。壁に掛かった暦に目を移せば、秋と呼んで差し支えない季節だというのに、相変わらず夏が居座り続けていた。


「ゴマちゃんは、涼しそうでいいですね」


水槽と化したすり鉢の中、赤い金魚が悠然と泳いでいる。黒川は羨ましそうに、それを上から眺めていた。


「ごめんください」


声と共に店先の鈴が鳴る。汗を拭いながら入ってきた会長と、その後ろには見覚えのない、痩せ型の中年男性がいた。


「初めまして、北区の会長をしてます。上島といいます」


上島は深く頭を下げる。北区といえば、商店街の地区から少し離れたところだ。同じ町とはいえ、見たことないのも頷ける。会長のタカアキが上島の背中を押し、こちらに向かってくる。また、何をさせられることやら。黒川は目を細め、タカアキをじっと見つめた。


「上島さんは今年の秋祭りの年番で、私も色々お世話になっているんですよ」

「おや、それはそれは。ウチの会長さんは今年が初めてなので、どうぞよろしくお願い致します」


タカアキは少し緊張した面持ちで、ペラペラと話し始めた。いつもよりあまり交わらない視線に、黒川は苦笑いを浮かべた。


「……それで、ご要件はなんでしょうか」


長引きそうな前座を断ち切り、黒川は本題を促す。上島とタカアキは互いに目を合わせ後、上島が静かに前に出た。


「実は、ウチの地区にここ十年ほど問題になっている、ゴミ屋敷があるんです」

「ゴミ屋敷……もしかして、線路の近くにある、あの大きな家のことでしょうか」


上島はゆっくり頷いた。町のハズレにそんな家があったことを、黒川はふと、思い出した。


「ええ、そうです。虫や悪臭が酷くて、役場と何度も注意しに行っているんですが、聞く耳を持ってもらえず困っているんです」


遠くから見ただけでも、あの場所が異質であったことを覚えている。敷地を埋め尽くすほど粗大ゴミがあれば、雨水が溜まり、虫や臭いが立つのも無理はないだろう。想像の中ですら、臭いが漂ってきそうだ。


「貴方なら、何とかしてくれるのではないか。と教えて頂いたもので……」


上島と黒川は、タカアキの方へゆっくり顔を向ける。集まる視線に、タカアキはバツが悪そうに頭を掻いた。


「なるほど、何とか出来るか分かりませんが、やれることはやってみましょう」


タカアキを視界に捉えたまま、黒川はにっこりと微笑む。その笑顔から滲む圧に、タカアキは上島の陰に隠れ、身体を小さくした。


「では上島さん、詳しいお話聞かせてもらえますか」


これ以上、タカアキを揶揄うと止まらなくなりそうだ。黒川は上島に向き直り、彼の話に耳を傾けた。




その家には、五木サチ子とその両親が住んでいた。数年前に両親が他界した後も、独身のサチ子が一人で今も住み続けている。ゴミ屋敷になる前のサチ子は、地域の活動にも積極的に参加しており、人当たりの良い女性だった。

ある日を境に、サチ子は家の庭に粗大ゴミを集め始めた。心配した住人が声を掛けても、人が変わったように怒鳴りつけ、誰も近寄ることが出来なくなった。近所の人は痴呆じゃないかと囁くが、本当のところは誰にも分からなかった。




「ゴミだけではなく、色んな場所で鳩や猫に餌やりもしていて……本当に迷惑しているんです」


昔はあんな人ではなかったのに。呟く上島の表情には、これまでの苦労が滲んでいる。一筋縄ではいかなそうな案件に、黒川は目を伏せ思案を巡らせた。


「分かりました。とりあえず、そのお家に行ってみます」

「よろしくお願いします」


深くお辞儀をする上島につられ、タカアキも一緒になって頭を下げた。


残暑の日差しが照りつける中、黒川は件の家の前にいた。どこから持ってくるのか、自転車や家電が以前見た時より高く積まれている。周囲を少し歩いただけで黒川の周りに蚊が集り、追い払う微風に乗って、悪臭がやってくる。


「これは確かに、困ってしまいますね」


廃材に隠れ微かに見える家は、カーテンが閉まっていて様子を伺うことは出来ない。呼び鈴を押しても、辺りを見渡しても、家の主は見当たらない。出直すか……黒川は眉間を抑えた。しばらくその場で佇んでいると、道の奥から、こちらに向かってくる老婆が見えた。


「こんにちは、五木サチ子さんでしょうか」


黒川は手を振り挨拶するも、老婆は目も合わさず通り過ぎていく。歩く風に乗って、染み付いた体臭が黒川の鼻を突いた。少なくとも昨日、彼女は風呂に入ってないだろう。


「はじめまして、商店街で古本屋をやってます。黒川といいます」


敷地に入っていく老婆は、器用に粗大ゴミを避けながら進んでいく。彼女が五木サチ子で間違いなさそうだ。黒川は声を掛け続けた。


「少しお話しませんか?」


行ってしまったかと思ったサチ子が怪訝そうに眉を寄せ、粗大ゴミの陰からひょっこり顔を見せた。黒川は相変わらず、にこやかに手を振った。


「うるさいよ、アンタ……どうせ、片付けろとか言うんだろ」

「いえ、貴方の敷地の物に口を出すつもりはありませんよ。ただ、お話に来ただけです」


反応が返ってくるとは思ってなかった。鋭い視線を向けるサチ子に負けじと、微かな手応えを感じた黒川は笑顔で返す。その内サチ子は興味を無くしたように、また粗大ゴミの合間に姿を隠してしまった。


「明日もまた来ますね」


今日はこのくらいでいいだろう。見えなくなったサチ子の背中に聞こえるように声を上げ、黒川はその場を後にした。


次の日も、同じ時間にサチ子の家に黒川は来ていた。サチ子はちょうど、外でゴミをいじっている。やってきた黒川に気付くと、やはり怪訝そうに睨みつけた。


「こんにちは、サチ子さん」

「……」


サチ子は何も答えず、黙々と作業を続けている。良く観察すれば、辺りのゴミはやたら尖っている物が多い。侵入者を拒む要塞に、黒川は興味を引かれた。


「ウチは古本屋なので、並ぶのは本ばかりですが……色んな形の物が並ぶと圧巻ですね」

「……」

「暑くありませんか?飲み物ありますよ。さっきそこの自販機で買ったものです」

「……」

「お茶かスポーツドリンク、どちらがお好きですか?」


二人を隔てる低い塀の上に、黒川は飲み物を並べ始める。サチ子はちらりと横目で見つつ、それでもガチャガチャとゴミをいじり続けている。その足元に、鳥の羽が散らかっているのが見えた。


「取り入ろうったって、無駄だよ」


地面に視線を落としていた黒川に、サチ子は釘を刺すように吐き捨てた。それだけ言い残すと、さっさと家の中へと入っていってしまった。


「明日もまた来ますね」


昨日と同じように、声を掛けてその場を去ろうとした時、黒川はハッと思い出し立ち止まる。


「飲み物置いておくので、好きなのどうぞ」


並べた飲み物を袋に入れ直し、塀の内側に置く。向こうの方から聞こえてくる扉が乱暴に閉まる音に、黒川は溜めた息を吐いた。地面には粗大ゴミに紛れ、小さな動物の骨が落ちている。家に目を向けると、不気味な静けさが漂うばかりだった。


次の日もまた、同じ時間に黒川はサチ子の元に向かっていた。静かな住宅街に、一際異様な雰囲気を放つゴミ屋敷。上島の言う通り、虫や悪臭が酷く、とても健やかに過ごせそうな所ではなかった。それはきっと、粗大ゴミのせいだけではない。恐らくサチ子は、小動物の死骸もあの場所に集めている。人を遠ざける臭気を放つ要塞……あの家の中には一体、どんな物が隠されているのだろうか。どうしても黒川は、サチ子が好んであのゴミを集めているようには思えなかった。


「こんにちは、サチ子さん」


その日のサチ子は、大きな袋を下げて庭に立っていた。漂う獣臭さに、黒川の表情筋が試されている。サチ子はじっとこちらを見つめていた。


「今日はお菓子を持ってきました。最中はお好きですか?」


黒川が差し出しても、サチ子は微動だにしなかった。行き場の無くなった箱は、塀の上に一先ず置いておく。昨日の飲み物は、その場から消えていた。


「毎日暑いと、気が滅入りませんか?」


声を掛けるも、やはり返答はなかった。それでも拒絶の色は薄い。それは最初から感じていたことだった。


「今度ウチのお店に来ませんか?美味しいお茶をご用意しますよ」

「……」

「お客さんはほとんど来ない店なので、サチ子さんのお好きな時間でかまいません。いつでもどうぞ」

「……アンタ、何がしたいんだい」


睨みつける瞳に、戸惑いの色が滲む。今すぐ、こちらに引き寄せたい気持ちを、黒川はグッと堪えた。


「おや、言いませんでしたか?お話に来ただけです」


サチ子は袋を握りしめ、振り払うように顔を背けると、家まで走って行ってしまった。

焦ってはいけない。彼女がゴミを積み上げた年月を思えば、今この時間は些細なものだ。黒川は昨日と同じように、最中の入った袋を敷地に置いていく。顔を上げると、二階のカーテンが揺れている。ほっそりとした人影が、一瞬だけ見えた。


「……誰か、いる」


目を凝らして見るも、もうそこには何もいなかった。




****




玄関を開けると、ゴミ袋の山がサチ子の行く手を阻む。早く、早くあの子のところに行かなくては。脳裏にチラつくあの男を消したくて、一心不乱にゴミ袋をかき分け奥へと進む。やがて、ぽかんと空いた空間にたどり着くと、そこには階段があった。その場所には一切物は散らかっておらず、綺麗なままだ。もたつく足取りで二階に上がると、歌声が聞こえてくる。


「……スイ」


サチ子は歌声がする扉の前に立つと、うっとりと目を細めた。


「スイ、ご飯持ってきたよ」


控えめに扉を叩くと、静かに開いた隙間から、細く緑色の手が伸びる。


「ありがとう、母さん」


サチ子が袋を渡すと扉が閉まり、石臼で何かを挽くような、鈍く重たい響きが漏れる。


「ねえ、母さん。あの人はだぁれ」


あの人とは、古本屋の男のことだろう。扉の向こうから聞こえてくる、甘い砂糖菓子のような声にサチ子は心音が跳ねる。はくはくと浅い呼吸を繰り返すばかりで、言葉が紡げずにいると、扉の声はクスクスと笑った。


「母さん、私は怒ってないよ。……でも、私もあの人とお話したいな」

「本気かい?」


サチ子は目を見開き、扉を見つめた。あの古本屋の男……町内会の差し金であるのは分かりきっている。だが、不思議な雰囲気を纏う男を、何故か無下に出来ずにいた。何を期待しているというのだろうか、サチ子はこの数日間戸惑っているばかりだ。扉の向こうからまた、歌声が聞こえてくる。鬱屈とした思考を蝕むように、身体から力が抜けて蕩ける感覚に酔いしれた。


「スイが、望むなら……」


そうだ、この子が望むなら何でもしよう。サチ子は扉に縋り、天使のような歌声にひたすら耳を傾けた。




****




黒川が古本屋に戻ると、店先に上島が立っているのが見えた。小走りで駆け寄ると、気付いた上島は軽く頭を下げた。


「お待たせしてしまったようで、すみませんでした」

「いえ、こちらも連絡もなしに伺って申し訳ありません。……その後、どうでしょうか」

「では、中でお話しましょうか」


ちょうど聞きたいこともある。黒川は店の扉を開けた。


「残念ですが、あのゴミをすぐに無くすことは難しいと思います」

「やはり、駄目ですか……」


上島は大袈裟に肩を落とした。一体タカアキは何と伝えたのだろうか。期待を裏切るようで、黒川は少しだけ心苦しく目を伏せた。


「正確なことは言えませんが……彼女が何か抱え込んでいるように感じました。それを解消しない限り、解決は難しいでしょう」

「抱え込む、ですか……」


思い当たりはないのか、上島は唸りながら頭を捻っていた。黒川はハッと顔を上げ、上島に向き直る。


「あの家には、サチ子さんがお一人で住んでいるんですよね?」

「え?ええ、確かそうですよ。他にいるとは、聞いたことも見たこともありませんが……誰かいましたか?」

「いえ……」


二階の影は一瞬だった。サチ子が走って戻ったとはいえ、あんなに早く二階まで行けるものだろうか。憶測でものは言えず、黒川は言葉を濁した。


「とにかく、一長一短でどうにかなるものではないでしょう。もう少し時間を頂けますか?」


上島も納得したのか、静かに頷いた。時間だけは、黒川の味方だ。明日の手土産はどうしようか、目下の悩みはそこだった。


翌日、サチ子の家に向かうと、家の手前でサチ子が佇んでいた。こちらを真っ直ぐ見つめる瞳に、昨日までの戸惑いの色は見えない。どこか異質な気迫に、黒川は内心首を傾げた。


「……待ってたよ」

「おや、お待たせしてましたか。それはすみませんでした」


唐突な態度の変化に、背筋に薄い違和感が走る。しかし、黒川はそれをおくびにも出さずに笑顔を作った。


「着いてきな」


低く言い放つと、サチ子は敷地へ入っていった。黒川は二階を見上げる。カーテンは固く閉ざされ、内側の気配は読めない。庭を埋める粗大ゴミの隙間を、迷いなく進むサチ子の後を黒川が追う。時折、鉄くずが黒川の袖を引っかいた。

玄関の扉を開くと、中はさらに息苦しい。積み上げられたゴミ袋が壁のように迫り、空気が淀んでいる。サチ子は躊躇なく、袋と袋の隙間に身体を滑り込ませる。続く黒川も肩に、背中に袋が擦れる。


「……低身長も、捨てたもんじゃないですね」


呟きはビニールの擦れる音に呑まれた。視界の先で、サチ子の背中が揺れ消える。


「サチ子さん」


咄嗟に袋を掴むと、裂け目が走る。どさり、と崩れ落ちた中から溢れ出たのは、無数のゴキブリだった。黒光りする背中が折り重なり、足元から一斉に散る。一匹が黒川の腕に取りつき、手で払うもキリが無さそうだった。

 

「サチ子さん、待ってください」


返事はなく、黒川も進んでいるのか、沈んでいるのか分からなくなる。やがて、隙間の向こうに階段が見えた。最後の袋を押し退けると、ようやく足裏に硬い床の感触が戻る。


「毎日、これでは……大変じゃないですか?」


黒川が声を掛けても、やはり反応はない。階段にはゴミ袋はないものの、獣の毛や血のような汚れが目立っていた。二階に近付くにつれ、微かに歌う声が聞こえてくる。薄暗い廊下に、清らかな声が不気味に響いていた。


「スイ、連れてきたよ」


猫なで声を上げ、サチ子は扉を叩いた。ゆっくりと扉が開く。中は廊下より暗いのか、隙間からは何も見えない。スっと、暗闇から細い手が伸びてくる。扉の縁をなぞるそれは、仄かに緑の光を放っていた。


「ありがとう、母さん」


鼓膜を揺さぶる甘い声に、黒川は思わず耳を塞いだ。サチ子は恍惚な笑みを浮かべている。扉の向こうにいる怪異こそが、この巣の主だった。


「……ねぇ、母さん。私、お腹が空いたな」

「え?もうかい?」

「母さん、お願い」


切なく語りかけてくる声が、薄暗い廊下に怪しく響いた。サチ子は扉の向こうの声に従い、無言で頷くと黒川一人を残し、階段を降りていってしまった。隙間から覗く手が、ひらひらと揺れている。何の準備もしてなかったこと、黒川は今更後悔した。


「ねぇ、中に入ってお話しない?」

「いえ、結構です」


気をしっかり持たなければ、声に惑わされそうだった。今すぐこの場から離れたい衝動に駆られる。しかしこれを排除しなければ、サチ子は囚われたままだ。今、何が出来るのか……黒川はまだ見出だせずにいた。


「お願い、こちらに来て」

「ご冗談を。親御さんの留守に、娘の部屋へ入る趣味はありません」

「母さんとは、あんな楽しそうにお話してたのに」


仄かに緑の光を放つ、手招く指に目が奪われる。彼女は一体なんだというのか、妖怪でもお化けとも違う気配に黒川は戸惑いが隠せない。目の前を舞う、手のひらばかりに気を取られ、床を這い近付くものに、黒川は気付くことが出来なかった。


「そんなにお話がしたいなら、貴方が部屋から出てくればいいじゃないですか」


扉の隙間から聞こえてくる、クスクス笑う声が煩わしい。黒川は眉を顰め、暗闇を睨みつけた。


「いいえ、貴方がこちらに来るの」


黒川の足首に、冷たいものが絡みつく。気付いた時には遅く、触手に巻かれた足が部屋へと引きずり込まれる。抗う暇もなく、暗闇の中へと飲み込まれた。

黒川は一瞬、何が起こったのか分からなかった。上体を起こすと、室内は暗く、ズレた眼鏡を押し上げても、レンズ越しの輪郭は定まらない。次第に焦点が合う瞳に、光る人影が映る。緩いウェーブがかかった長い髪に、ほっそりとしたシルエット。小ぶりな顔に収まりきらぬほどの黒い瞳が、真っ直ぐこちらを射抜いていた。


「随分と乱暴、ですね……っ」


絡んだ触手によって、女の方へと引き寄せられる。女は座ったまま、妖艶な笑みを浮かべている。黒川が床を掴んで耐えていると、転がる動物の残骸が身体に当たった。


「大丈夫、貴方を食べたりしないわ」


ふと視線を上に向けると、もう一本、針を宿した触手が、黒川の頭上で狙いを定めている。鋭く伸びた針を間一髪で避けると、黒川の口の中に鳥の羽が飛び込んできた。


「逃げないで」

「……何をするつもりですか」


足に絡みつく触手を、やっとの思いで振り払い、黒川は入口の扉に飛びつく。しかしドアノブは固く、全く言うことをきかなかった。


「貴方に──私を、孕んで欲しい」


再び触手が、黒川の方へ伸びてくる。絡みつこうとする触手を避けながら黒川が周囲を見渡すと、窓から僅かに日光が漏れている。だが、それは女の背後にあり、容易には近付けなさそうだ。

不自然なほど暗い部屋。一か八か、黒川は窓を目掛けて駆け出した。女と距離が近付いたことで、触手が再び黒川に絡みついた。


「っく……!」


足元を掬われ、体勢を崩しながらも何とか手を伸ばし、黒川はカーテンを引きちぎった。


「……残念でした」


窓ガラスには板が貼り付けられ、光は微かな隙間からしか見えない。床に引き倒された黒川の後ろで、女が甲高い声で笑った。力なく床に伏せた身体の上を、ゆっくりと女が覆いかぶさる。細い指で黒川の顎を撫で、女の方へと引き寄せられる。


「貴方、一体何者なんですか」

「さあ?……何かしら」


大きな黒目に顔を顰めた黒川が映り込む。女は愛おしそうに、黒川の口元を指でなぞった。その背後で、針の付いた触手が静かに揺れている。


「貴方なら、ずっと私を産んでくれる。……アイツに感謝しなくちゃね」

「アイツとは、サチ子さんのことですか?」


女はきょとんと目を丸くし、何が可笑しいのか突然、ケタケタと笑い始めた。


「いいえ、母さんじゃないわ」


針先が黒川の首筋をゆっくりと這う。女の顔がグッと近付くと、柔らかな髪が黒川の頬を擽った。


「宙を我が物顔で泳ぐ、傲慢なアイツ……貴方の寄生主……」


女は吐息まじりに囁き、黒川の耳を食む。顎を持ち上げられると、触手が黒川の喉元へ、針を突き立てた。


「私が横取りしたって知ったら、どんな顔するかしら」

「……っ」


細い首筋を針が突き刺し、冷たいものが血管へ流れ込む。女は天井を仰ぎ、官能的な声を上げる。その一瞬の隙に、黒川は女を力強く蹴飛ばた。


「きゃ……っ!」


女の身体が床に跳ね、黒川は窓の鍵へ手を伸ばす。


「……やめてっ!」


女の静止も聞かず窓を開け放つと、西日が部屋を射抜いた。暗闇に慣れた目には強過ぎる日差しに、黒川も顔を覆い隠す。


「きゃああああああ!!」


女の叫びが、頭に響く。黒川の目論見は成功したが、毒のせいか手足の痺れが止まらず、その場で膝をついた。


「貴方は、何者なんですか」

「いや……いや、いやぁ……」


顔を覆い隠し、か細い足で部屋を彷徨う女は錯乱している。彼女は、黒川が何者かを知っている。今の黒川は、当初の目的が頭から抜けていた。


「寄生主とは、誰なんですか……!」

「ま、ぶしい……お願い、閉めて……眩しいの!」


髪を振り乱し、女は窓の元へ駆け寄る。光で目が眩んでいる女は、そのまま窓の外へ身体を投げ出した。


「待って……!」


黒川が慌てて手を伸ばしたが、虚空しか掴めず、女の身体は下へと落ちていく。鈍い音が後から耳に届いた。


「……まずい」


窓を見下ろすと、女の身体が尖った鉄の棒に突き刺さっていた。その場から慌ただしく離れ、外へと向かう。しかしまた、ゴミの山が黒川の行く手を阻んで思うように進めない。やっとの思いで女の元に着いた頃には、すでに息絶えていた。

光を失い、くすんだ緑の肢体が力なく垂れ下がっている。この世の生物とは思えない造形に、黒川は無言のまま立ちすくんでいた。


「……スイ?」


遠くから、サチ子の声がした。串刺しとなった娘を視認した途端、持っていた袋を投げ捨てると、中から数羽、鳩の死骸が転がった。


「スイ、スイ!」

「サチ子さん……」

「アンタ!この子に何をしたの!?」


黒川の胸倉を掴み、凄まじい形相のサチ子が睨みつけた。


「サチ子さん、彼女は人間じゃない。ましてや、貴方の娘ですらないんです」


泣き喚くサチ子を宥め落とすよう、ゆっくりとした口調で語りかけるも、黒川の言葉は耳に入ってはいなかった。


「あの子を返して!返しなさいよぉ!!」


掴んだ身体を激しく揺さぶり、それでも怒りが収まらないサチ子は、胸や顔を殴りかかってくる。秋の緩やかな風が吹くと、女の死体がホロホロと崩れ、欠片が散らばり黒川の顔に当たった。


「……だめ……スイ、死んじゃ、いや……あぁ」


黒川を突き飛ばし、地面に落ちた女の破片を、サチ子は這いつくばりながら集める。しかし、手にした途端、それは塵となり風に乗って消えていく。


「あぁ……あぁぁ!!」


串刺しになっていた身体も、跡形もなく崩れていく。サチ子は空に手を伸ばすが、欠片が虚しく掠めていくだけだった。黒川は掛ける言葉が見つからず、哀れな老婆をただ見下ろすことしか出来なかった。




翌日、黒川は古本屋のカウンターで、静かに泳ぐ金魚を呆然と眺めていた。朝早くに来客を知らせる鈴が鳴ると、興奮した様子の上島とタカアキが駆け寄ってくる。


「黒川さん!貴方のおかげです!」


上島は高ぶるテンションのまま、強引に黒川の両手を掴み喜びを表した。その後ろで、タカアキも満足そうに頷いていた。


「あの家、全部撤去することになったんです!」

「……そう、ですか」


結局あの後、言葉を交わすこともなく、サチ子は家へと戻っていた。憔悴しきった老婆の背中が、黒川の瞼の裏にまだ焼き付いている。


「いやー、もっと早く相談すべきでした。貴方のような方がいて、商店街の皆さんが羨ましいです」

「黒川さんは、ウチの商店街の守り神ですから!」


和気あいあいと語る二人を尻目に、黒川はまた金魚へと視線を落とした。サチ子は助けを求めていた。けれども娘も愛していた。どうすれば良かっただろう……金魚を眺めながら、黒川はあの家で聞いた歌を口ずさむ。


「また懐かしい曲ですねぇ。確かその曲って──」


気付いた上島がタイトルを口にした時、黒川は思わず目を見開いた。あの二人は、本当に母娘だったのかもしれない。今となっては分かりようもないことだ。

じくりと痛む胸に、黒川は静かに手を当てた。


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