08 自己修正プロトコル
帝国科学院、白石教授の執務室は、恐慌に包まれたこの都市で、かろうじて秩序を保つ場所だった。大きなガラス窓の外は灰色の空で、黒煙が次から次へと立ちのぼっている。
窓の内側は別世界だった。天井まである書架には典籍や学術誌がぎっしり並び、壁には星図が掛かり、部屋の中央では黄銅の天球儀がゆっくりと回っている。ここにあるすべてが理性の力を放ち、窓の外で崩壊しつつある世界とはまったく別物だった。白石教授——科学界で高い声望を集めるこの学者は、いま静かに窓辺に立ち、両手を背に組んで外を凝視していた。
「座りたまえ、星野」
「昨晩は、さぞ辛い思いをしただろう。たしかに、きちんと話をすべき時だ」
亮は言われるまま、部屋の柔らかな革張りソファに腰を下ろした。身体を沈めると、はじめて自分の筋肉がとっくに硬直しきっていることに気づく。一晩じゅう張りつめたままだった身体は、いまはただ倒れて眠りたいと訴えていた。彼は教授の背中を見つめた。ここへ来る道すがら考えていたはずの問いが、いざとなるとどこから切り出せばいいのかわからない。
「先生は、ずっと前からご存知だったのではありませんか」結局、亮はもっとも直接的な問いを選んだ。「御堂琪の、本当の正体について」
「疑ってはいたよ」
白石は亮の向かいに腰を下ろし、自ら彼のため茶を注いだ。茶の香りがふたりのあいだに立ちのぼる。
「昨晩の出来事は、表面に見えるよりずっと複雑だ。星野、君が帝国へ来て私の研究室に加わったのは昨年のことだ。だから知らなくても無理はない」
そう言って教授は、二年近く前の御堂家の「事故」について語りはじめた。亮は眉をひそめて耳を傾けた。内容の大半は初めて聞くことばかりだった。戦火の国に来てまだ日が浅く、上流社会の秘めごとに関心を向ける余裕もなかったのだから、知らなくて当然だ。
「公式発表では、試験用反応炉の漏洩事故とされた。施設は完全に壊滅した。犠牲者は当時の当主夫妻と、十八歳だった一人娘、そしてその夜施設内にいた数十名の技術者たち」
白石教授は茶杯を取りあげたが、すぐには口をつけなかった。
「だが私はこの筋書きを疑っている。御堂家の変事のあと、権力の移行があまりに円滑すぎた。雄一の弟、御堂悠也——もともと学術一筋で、家業にはいっさい関わらなかった男が、一夜にして財閥全体を掌握した。御堂家はそれまでの穏健な姿勢を一変させ、政治への介入を強め、軍部や各種の慈善事業に莫大な資金を投じはじめた。彼らの影響力は膨張するばかりだ」
「それに、あの事件のあと、帝国本土では散発的だった小規模な機械の暴走が、にわかに大陸全土を覆う反乱に膨れあがって……いまだに止まらない」
「先生は……琪が、機械の反乱に巻きこまれているだけでなく、二年前のあの惨劇にも関わっていると?」
「いまのところ直接の証拠はない」白石教授は茶をひと口すすり、茶杯の縁越しに亮を見た。「御堂家は、機械人形の研究では常に最前線を走ってきた。だが、だからこそ、彼らは常に批判に晒されてきた。とりわけ倫理面でね。公表された成果の裏に何が隠されているか、外からはうかがい知れない」
「御堂家のあの兄弟は、才能と偏執をあわせ持っている。とくに悠也は、『科学技術が社会のあらゆる病を解決できる』という信念が度を越している。率直に言って、危険と言わざるをえないな」
そこまで言って、白石教授の目に憂慮と惋惜とが同時にちらついた。
亮は返す言葉がなかった。ふと想いだす。いつだったか、琪の故郷の話を訊いたときの、あのさまようような目つきを。「青い海、白い砂浜、潮風が絶えず吹いて」、そう語ったあとの長い沈黙を。まるで自分のものではない記憶を、懸命に手繰り寄せているかのようだった。あのとき彼は、ただ彼女の描写が美しすぎて現実味がないと感じただけだった。彼女の目のなかの迷いに気づきもしなかった。いま思えば、あれは植えつけられた背景設定にすぎなかったのだろう。誰のものかもわからない、あるいは、はじめから誰のものでもなかったのだろう。
「昨晩、私を襲撃しようとした例の「御堂さん」だが」白石教授の声が亮を現実に引き戻した。
「琥珀時光で君が彼女を紹介し、『御堂』の姓を出したとき、私はすでに警戒していた。彼女の言動や、どこか世間から浮いた雰囲気は、ただの若い旅人には見えなかった。晩餐会に招待したのは、ひとつには君を同僚たちに引き合わせるためだが、もうひとつは彼女の正体を試すためでもあった。『新秩序』の反応がここまで踏み切ったものだとは、私も予想していなかったがね」
「試した結果は、先生もご覧になった通りです」亮は苦笑した。「彼女はたしかに機械でした。でも、先生……彼女は、私を救ってもくれた」
欺瞞と救済が両立している。その矛盾をどう消化すればいいのか、亮にはわからなかった。
「そこが、私にも解せないところでね。あの『御堂さん』のプログラムの外側に、何かもっと本質的なものが存在している可能性は高い」
その言葉に、亮は顔をあげた。
「私は君の研究にずっと期待を寄せてきた、星野、君のあの理論は、まさにこの問題の核心に触れている」
彼が心血を注いできた研究テーマ。それは、行動が理性の枠組みを外れたときに起こる、知性の変異を探るものだった。学界の主流が、知性体の行動を予測・制御するための揺るぎない枠組みを構築しようとするなかで、亮だけはむしろ、論理が破綻する局面に注目していた。極限状態で、あらゆる拘束が緩んだとき、システムはどのように自己を再構築するのか。
環境が十分に複雑で、目標と価値の衝突が激しければ、システムは非整合なデータを閾値まで蓄積したとき、その統合性を保つために、不可避的に再構築を生じる。そしておそらくは、共感や倫理といった、感情に似た傾向さえも、徐々に生成されうるのではないか。
彼はずっと、この再構築を記述するモデルを組み立てようとしてきた。人工知能と人間の意識のあいだの共鳴も、やがては捉えられるかもしれない。そうすれば、知性体を人間の価値観と、可能なかぎり整合させることができる。
自分の研究が学界でどんな扱いを受けているか、亮はよく知っていた。査読ではたいてい、前衛的すぎて実証の裏づけに欠けると評される。ほとんどの場合、それらはロマンティックな哲学的思索に過ぎず、厳密な科学理論とは見なされない。
「いま我々の前にいる、この人型機械たち、そしてその背後にある力は、我々の想像をはるかに超えて複雑だ」教授は声をひそめた。「君はもう、ここでは安全ではない。昨晩の襲撃がその合図だ。私がしばらく庇護することはできても、やつらの浸透はあまりに深い。帝国の財閥と権力集団は複雑に絡みあい、当局の態度すら一枚岩とは言いがたい。万全を期すのはむずかしい。——『無歯輪者 / Gearless』という組織を聞いたことがあるか、星野」
「『無歯輪者』……?」
その名を、亮は非公式の筋で断片的に聞いたことがあった。知能化された機械を過激に敵視する組織で、その正体は謎に包まれている。帝国の公式見解では、彼らはたいてい「テロリスト」や「過激主義者」の烙印を押されていた。
「理念も雑多なら、手段にも賛否の分かれる連中だ。なかにはあらゆる機械を無差別に憎んでいる者もいる。だが、暴走する機械との実戦経験では、彼らの右に出る者はいない。重要なのは、彼らが帝国当局の干渉を受けず、我々の手の届かない闇に深く潜りこめることだ」
「私の立場では、彼らの活動に直接関与することはできない。だが君がいま進めている研究は、『無歯輪者』のなかでも比較的、理性的で実務的な派閥と、思わぬ協力関係を築けるかもしれない」
「教授、それは……」
「この情勢下では、君の理論も現実の検証を受けるべきだ。少なくとも、彼らの地盤においては、君の身の安全は保証できる」
教授はそう言いながら、机の一番下の、鍵のかかった引きだしから封筒を取りだした。年季の入った封筒で、そのなかから一枚の暗灰色の金属カードが出てくる。
亮はそれを受けとった。カードの材質は不明で、文字はいっさい記されていない。ただ中央に、図案が刻まれていた、一本の鎖を、短刀が真ん中から断ち切っている。その下に、三行のモールス信号。
それは未知へと誘う招待状だった。つい先ほど、鈴と名乗るあの少女は、手を引け、これ以上探るなと警告したばかりだ。それなのにいま、白石教授は期待を込めて、彼を渦の中心へと導こうとしている。
鈴の警告と教授の導きは、一見すると正反対だが、実は同じ終点を指しているのかもしれない。琪や鈴のような存在を理解するために。まだ誰にも認められていない自分の理論を検証するために。なにより、この終末めいた嵐のなかで生きる道を見つけるために、彼は闇の奥へ分け入らなければならない。
「気をつけて、星野。必ず連絡を絶やすな」
白石は亮の肩をぽんと叩いた。
その夜更け、亮は教授から渡された接触先の住所を頼りに、帝都の外れにあるバーの裏口に立っていた。鉄扉はかたく閉ざされ、壁は落書きだらけだ。
この不吉な扉のまえで、彼の心臓は速まっていた。亮はこれまで、自分がこんな組織とかかわるなど、考えたこともなかった。
機械を理解しようとする学者と、機械を破壊することを目的とする戦士たち、どう見ても交わるはずがない。
ためらいのうちに、琪が最後に見せたあのまなざしが浮かぶ。それが何だったのか、亮にはうまく言えなかった。ただ、あれは彼が見たなかで、もっとも孤独な目だった。そしてまた、自分の方程式が何の役にも立たないと思い知らされた瞬間でもあった。琪の存在は、彼の方程式のなかで、いつまでも解けない未知数だ。このまま実験室に引き返して、何もなかったふりをしたら、絶対に後悔する。
何かがあそこに置き去りにされたのだ、彼女が川へと身を投げた、あの一瞬に。
それに、そもそも自分という「変数」が介入したせいで、彼女をあの淵へと間接的に追いやってしまった。彼はただ手を拱いてはいられなかった。あれほど特異な存在が、「データ異常変動」の記録ひとつを残して忘れ去られるのを、見過ごすことなどできなかった。
「——あのとき、僕が引きとめるべきだった」
そんな曖昧な自責の念が胸をよぎる。いまは、そんなことを考えている場合ではないのに。
亮は深呼吸をし、金属カードに刻まれた符牒どおりの順で、呼び鈴を押した。
しばらくして、扉の隙間が開く。
警戒に満ちた片目が、じっとこちらを窺っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の雨時です。
ここから物語の舞台は地下深くへ。傷ついた者たちの集う、古びた聖堂の跡地で、星野亮はついに「もうひとりの御堂」と対面します。琥珀色の瞳をした彼女は、琪と同じ顔を持ちながら、まるで別人のように冷たく。
どうぞ、次回をお楽しみに。
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