07 非論理的執着
廃墟のなかで、星野亮は長いこと立ち尽くしていた。
意識がまだ虚ろなままでいると、背後からかすかな物音がした。
振り返ると、人影がひとつ、静かに立っている。壊れた扉の隙間から差しこむ朝日に、その輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。こんな時に……人が?
逆光に目を細め、ようやく亮はそれが高い位置でポニーテールに結った少女だと見てとった。背は琪よりもいくぶん高く、線はより細く、引き締まった立ち姿だった。ダークグレーの長い髪をひとつに束ねている。その整った顔立ちに、亮は思わず琪を連想した。まるで同じ創り手による作品のように、造形が似ている。彼女もまた灰青色の瞳をしていたが、琪の目に漂っていた戸惑いは薄く、代わりにどこか人を寄せつけない傲然とした光が宿っている。
何より目を引くのは、左耳に連なる銀のリング飾りだ。彼女がわずかに首を傾けるたび、風鈴のような「チリン」という澄んだ音を立てる。
ぞくりと冷たいものが後頭部を走った。この顔、この気配、この常人の枠を超えた存在感、彼女の出現はつまり、琪が川に落ちたからといって、自分への追跡が終わったわけではないことを意味していた。
「あんたが星野亮ってことでいいわね」
少女は、服に埃をこびりつかせた亮を、頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように見つめた。
「初めまして、鈴と呼んでくれていいわ」
「あんたも……『あいつら』の差し金か」
口にしてから、亮はそれが愚かな問いだと気づいた。必死に平静を装ったが、身体の震えは止められない。無意識に一歩後ずさり、背中が原形をとどめないカウンターにぶつかった。
「『あいつら』ねえ……ずいぶん雑で偏見に満ちた呼び方じゃない」鈴は鼻を鳴らした。「いい、人間。あたしは別に、あんたのためだけに来たんじゃないの。少々、言うことを聞かなくなった妹をね、連れ戻しに来ただけ」
その声は噂に違わず鈴のように澄んでいたが、亮には冷たく響いた。
「妹……? 琪のことか?」
鈴と名乗ったこの少女を凝視しながら、亮は最初の恐怖がすこし遠のくと、逆にひとすじの希望が湧いてくるのを感じていた。もしかすると、彼女は琪の行方を知っているのでは……
「でもまあ、その前にね」亮の目にちらついた期待などまったく無視して、鈴は続けた。「あたしはあんたに興味があるのよ。うちの妹に『異常な情動変動』を起こさせた、その特別な変数ってやつに」
「琪の、異常な情動変動……?」
「今回の作戦——っていうか、本人は『旅』って呼びたがってたけど——琪ちゃんが最初に受けたタスクは、『新秩序』への脅威となる帝国科学院の重鎮、白石を特定し、排除すること。ただそれだけ。いっぽうで星野亮、あんたはというと、もともとは監視対象ですらなかった。せいぜい、白石の教え子ってことで、いざという時の囮か人質に使えるかも、程度の観察対象。ところが、あんたの脅威評価が急に引き上げられてね。優先排除対象に格上げされた」
亮の脳裡に、あまりにも多くの映像が走馬灯のように駆けめぐった。
晩餐会の二日前。妙に元気がなく、いつもより口数が少なくて、ためらいがちだった琪。自分へ向ける、あの複雑な目。彼女が執拗に暖色で塗りこめた、たった一枚の色鉛筆画。あのときすでに、彼女は自分をこの手で殺せという新たな命令を受けていたのだろうか?
その事実が、ちくりと亮を刺した。
いまさらながらに想像する。琪はあの数日、たったひとりで、どれほどの苦悩を抱えこんでいたのか。いったいどうやって、毎日顔を合わせながら、いつか必ず自分の手で終わらせなければならないと知って、なんてことだ。亮はあのとき、初めての晩餐会に緊張しているだけだとか、長旅の疲れが出ているだけだとか、そんな風に簡単に決めつけていた。それが、生と死の選択を迫られるほどの苦しみだとは、露ほども思わなかった。自分の鈍さが悔しくてたまらない。
ふと、記憶は少し前の、ある深夜に引き戻された。琥珀時光にはまだあたたかな灯りがともっていた。
琪は窓際のテーブルにだらりと突っ伏し、指先にちょんとつけた水滴で、机のうえに何かを描いている。星、月、それから亮には判別のつかない模様。
「亮くん」
ふいに彼女が口を開いた。
「もし、ある日、自分がずっと信じてきたものが、ただの嘘だったってわかったら、どうする?」
論文をめくっていた亮は、その重い問いに思考を断ち切られた。顔をあげ、オレンジ色の灯りにぼやける彼女の横顔をしばらく眺めてから、おもむろに口を開く。
「僕なら……真実を探しにいく。それがどんなに残酷なものでも」
学者らしい口調だった。
琪の指先が止まった。水滴がゆっくりと消えていく。彼女は顔をあげ、じっと亮を見た。
「たとえ……その真実が、いまの自分を支えてるすべてを壊すとしても?」
「うん」
たった一言だったが、迷いはなかった。
琪は何も言わなかった。また机に向かい、絵ともつかないものを指でなぞりはじめる。いま思えば、あれこそは確かに、声なき救難信号だった。それなのに、自分は冷たい理屈で答えを返してしまった。
「あたしたちにはかなりの裁量が与えられてるけど、それにしたって、琪ちゃんとあんたの交流は度を越してた。もっと言えばね」
鈴の声音から、ふと軽薄さが消えた。
「『聖殿』が彼女の行動ログから、あってはならない萌芽を検出した。『非論理的執着』と名づけられたその変動は、後続タスクの安定性を損なう潜在的脅威と判断された」
「あんたの排除は、中核任務への干渉要因を取り除くためのものだった」
「『新秩序』の掃討部隊が介入して現場が混乱するなか、あの子はあんたを守るほうを選んだ。おかげで自分の正体まで晒してね。でも、そのあと彼女は結局、白石への排除任務を続行した。たぶん、あんたがいても任務に支障はないってことを『聖殿』に証明したかったんだと思う。それでも彼女は、すべての主要指令を完璧にこなせるんだって。もちろん、結果はご覧の通り。大失敗。その原因は、あんた」
まるで本当に、手のかかる妹とその不出来な友人を叱るような調子だった。鈴の「新秩序」への忠誠はたしかに固いのだろう。だが琪に向けるまなざしには、忠誠だけでは割りきれない感情が透けて見える。姉としての、妹を案ずる情が、取り繕った表皮から今にも溢れだしそうだった。
「琪は……いま、どこに? 傷を負って、ルナ河に落ちた。何か居場所の手がかりは……?」
亮の口からは、情報の奔流を咀嚼するひまもなく、疑問があふれ出た。
「正直なところ、まだわからないの」鈴はかぶりを振った。「ただ、状況は芳しくない。軍の捜索は続いてるし、『新秩序』も捜索用のユニットを放った。それに、あの川は、傷ついた彼女には過酷すぎる」
一拍おいて、ため息がこぼれる。その吐息のなかで、鈴のまとい続けていた傲然とした空気がほんの少し綻んだ。
「あのバカな妹はね、白石があのちっぽけな店に顔を出した、その最初の一度で、きれいに片をつけることだってできたはずなのよ。あんたみたいな、どうでもいい部外者の目の前でね。こんなに込み入らせることも、ぐずぐず引きずることもなかった。なのに彼女ときたら、自分から危険に飛びこんで……ほんと、バカみたい。全部あんたのせいよ」
鈴の口ぶりには、どこか「わからない」という戸惑いも滲んでいた。琪がとった、あの「理屈に合わない行動」を、彼女自身もまだ整理しきれていないのだろう。
「あたしは彼女を見つける。誰よりも先に」
鈴は、硝煙の立ちこめる街へと視線を投げた。
「あの子を口説いて、自分の過ちを認めさせ、本隊に戻らせる。もちろん、できる限りの口添えはするつもり。もう、これ以上は失えない……姉たちはみんな、いなくなってしまった。琪ちゃんにまでいなくなられたら……」
言葉の終わりがふっと途切れ、鈴は言いすぎたことに気づいたように唇をきゅっと結んだ。
「じゃあ……彼女は、あんたを守るために、命令を裏切ったっていうのか……?」
「彼女に『裏切り』っていう言葉は当てはまらない」
「彼女は特殊な個体で、あたしたちとも少し、違う。でも、ともかく——」
彼女は半歩、亮に詰め寄った。亮には、鈴の瞳孔のなかに映る自分自身の、驚愕に歪んだ顔が見えるほど近かった。
「琪ちゃんに免じて、今日のところは手を出さないでおく。だがあんたへの排除指令が撤回されるわけじゃない。次に来るのはあたしみたいな、まだいくらか親しみやすさのある人間の形をして、こうして長々と説明してくれる相手じゃない」
黒い手袋に包まれた人さし指が、とん、と亮の胸の真ん中を突いた。
「だからお願い、余計な同情心や、的外れな罪悪感はしまっといて。もし本気であの子のことを想うなら、彼女にまつわるすべてから手を引きなさい。彼女の世界から消えるの。それがいま、星野先生にできるたったひとつのこと」
言い終わると鈴はくるりと背を向け、出口へと歩き出した。
「でも、どうやらここで過ごした時間は、あの子にとっても悪くなかったみたいね」
振り返らずに彼女は言った。
「このコーヒー屋……もし、あの子がもう一度、ここに来ることがあるなら、帰るように言ってやって。ありがと、星野先生」
鈴の姿は朝もやに溶け、いくつかの身軽な跳躍で路地のむこうに消えた。後に残ったのは、遠ざかる「チリン」という音だけだった。
鈴は去っていった。
彼女は数多くの謎を置き土産にし、その一方で、亮はたしかに目の当たりにしたのだ、琪が選択を迫られた時の苦悩と、鈴という「姉」が「妹」である琪に寄せる、機械の域を超えた懸念を。
こんなことはすべて、自分の理論で演繹できるどんな事象よりも、ずっと複雑だ。
「このまま、何も関わるなっていうのか……」
亮はうわごとのようにつぶやいた。廃墟のなかをあてもなく歩き回る。時間が刻々と過ぎていくなか、思考はぐちゃぐちゃに絡まるばかりだった。
漆黒のリムジンが、音もなく路地の入り口に止まった。防弾ガラスがゆっくりと下がり、助手席から白石教授の秘書が顔を見せる。
「星野さん、教授が至急お呼びです。すぐに来ていただけますか」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の雨時です。
本章の翻訳で意識したのは、鈴というキャラクターの「声」です。彼女は姉としての優しさと、戦士としての冷徹さを同時に持ち合わせています。亮への辛辣な言葉の裏に、妹への深い愛情が透けて見える。
さて、ついに鈴が明かした「非論理的執着」という概念。これは本作の中核をなすテーマの一つです。機械であるはずの琪が、なぜ命令よりも亮との時間を選んだのか,その謎が、亮自身の研究テーマとも深く関わっていくことになります。
次回、亮が白石教授の研究室を訪れます。御堂家の闇、二年前の事故、物語の舞台は、地下深くへと広がっていきます。どうぞお楽しみに。
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