06 ただの古い夢の残り火
「Day 349、Kの日誌。
機械の残骸の眼球が、地窖の氷櫃のなかで溶液に浮かんでいる。
今夜、私はそれらをひとつひとつ剖いた——虹彩の紋様に重複はなく、水晶体の屈折率に偏差もない。あまりにも完璧すぎる。
備考:赤い液体が手に滴ったとき、それをほとんど本物の血だと錯覚しかけた。」
帝国暦3123年10月30日、深更。
ルナ河の水面は、まだ探照灯と炎に空しく切り裂かれていて、その一片一片に星野亮の憔悴した顔を映しこんでいた。ほんの数刻前までは、たしかに音楽と拍手がここに響いていたのに。歌劇場の騒乱は、現実と夢とを繋ぐ儚い糸を無造作に断ち切り、彼を銃声と悲鳴の悪夢へと突き落としたのだ。
自分はこれまで、この崩れゆく帝都でいちばん時代錯誤な骨董品だと思っていた。歯車と蒸気の喧騒のなかで、頑なに紙とペンを守り、蒸気式のコーヒーマシンを守る学者——そんな存在だと。少なくとも、あの日までは。コーヒーの香りにぱっと明るい笑顔を見せたあの娘が、ためらいもなく黒い淵へ身を投げるその瞬間を、この目で見るまでは。
ルナ河は、千年も変わらぬ寛容さで、御堂琪が飛びこんだ背中を呑みこんだ。あまりにも静かに。
足もとがすとんと抜ける錯覚。落下そのものより、そちらのほうが余程息が詰まった。
亮は河岸に駆け寄り、手を凍てつく水のなかへ突っこんで、狂ったようにまさぐった。たとえ切れ端一枚でもいい、彼女がここにいた証に触れたかった。けれど、水に浸った月桂樹のリボンを一本すくいあげるのが精一杯だった。それはたしかに琪の腰に巻かれていたものだ。歯車模様の波紋のうえを、いまはただ浮き沈みしている。岸辺の石段には金属片がいくつか散らばり、その縁には赤黒い液体——合成血か——がこびりついていた。
彼女じゃない。これは、彼女じゃない。
寒さではなかった。もっと深い場所で、彼は凍えていたのだ。彼がこれまで生きる拠り所としてきた学術も、理論も、公式も、残酷で非合理な現実のまえに音を立てて砕けていく。その震えのほうが、よほど冷たかった。
耳鳴りが絶えない。歌劇場で膨れあがった恐慌、遠近から重なるサイレン、救急車の悲鳴、自分でも制御できない心臓の音。ありとあらゆる音がぐちゃぐちゃに絡まりあって、あの曇りない声だけが、ひとかけらも混ざっていなかった。
琪。
琥珀時光のなかで、初雪のように澄んだ目をして、世界をまるごと珍しがっていた娘。
コーヒーの甘さひとつで真剣に文句をつけて、絵筆でいちいち光をすくいとって、彼が長く閉ざしてきた心の扉を、音もなく少しだけ開けてみせた、あの娘。
彼女が機械だって?
あんなふうに笑うのに? こんなにも、温かかったのに?
彼女の喜びも、戸惑いも、けっして偽物には見えなかった沈思も、絵筆を持つ指のたしかな体温も、髪をかすめる月桂樹と星砂の実の香りも——そのすべてが、ただの精密な模倣プログラムだったというのか。だとしたら、自分が感じたものも、無意識に傾けた感情も、歯車と電線に向けたただの独りよがりだったというのか。
彼は信じて疑わなかった。万物は論理と理性で解体できると。けれどいま突きつけられているのは、あらゆる方程式で検算できない謎だ。もっとも優しいかたちで裏切られた無力感と、自分自身の判断力が根こそぎ崩れていく茫然自失。
「おい、そこのお前だ」
ふいに背中に冷たい感触が押しつけられた。完全武装の帝国正規軍が現場を封鎖し、亮は軍用の蒸気トラックに押しこまれる。
明け方までつづいた尋問は、無意味な問いの繰り返しだった。刺客の身元は? どのように晩餐会へ潜入した? 貴様は彼女と共謀していたのではないのか?
亮は、見たままを繰り返した。彼女が紙一重で自分を床に押し倒したこと。そのすぐあと、窓の外から銃弾が降り注いだこと。そして、彼女が自嘲するように、あるいは解放されたように口にした「あたしは機械だ」という告白。
想いだすのは、琥珀時光で彼女が見せた笑顔ばかりだ。スケッチブックのなかのやわらかな灯り。コーヒーを味わうときの、ほっとしたため息。殺伐とした帝都にひどく不似合いだった、あの純真さ。
こめかみが痛む。尋問官に彼女の容貌をうまく説明することさえできない。もし冷淡で客観的なことばで彼女を定義してしまったら、あの短くも美しい記憶そのものが穢されてしまう、そんな強迫観念があった。
「星野さん、あんた、その身元不詳の女に並々ならぬ執着をお持ちのようだ」
最後は白石教授が遠隔通信で短く、しかし力強く身元を保証し、彼は「事件に無関係な第三者」、あるいは「高度に擬人化された機械に巧みに利用された間抜け」として扱われることになった。亮があまりにも茫然自失としていたので、尋問官もこれが共謀者の顔ではないと判断したのだろう。軽い擦過傷の手当てだけ受けると、野戦病院代わりの医療車から放り出された。
軍事境界線の外へ足を踏みだしたのは、夜明けまぢかの刻限だった。
帝都は、一晩で数十歳ぶん老けこんだようだった。遠くで響いていた砲声が、いまは隣の街区まで迫っている。あちこちで空襲警報が鳴り、大通りには検問所が築かれ、空気は火薬と焼け焦げた有機物の臭いでむせ返る。街全体が、夜明けの薄明のなかで異様に歪んで見えた。
琥珀時光へ戻らなければ——そう思った。あそこだけが、彼女と自分を繋ぐただひとつの場所だった。
廃墟の並ぶ街路を足早に行く。遠くでは帝国軍と、「新秩序」の大部隊がまだ激しくやりあっている。牽引車が引きずる平台には、破壊された機械の残骸が山と積まれていた。捻じ曲がった手足、砕けた陶器の外装、光を失った電子眼。すべてが、失败した創造の残骸だった。
琥珀時光のある界隈は、想像を絶する有様だった。
静かで品のいい商店街だったこの通りは、いまや凄惨な混乱に呑みこまれている。ショーウィンドウのガラスは砕け散り、古い壁には無数の弾痕と、炎に舐められた煤の痕。爆風で横転したトラックの運転席からは、まだ煙が立ちのぼっている。
あの路地を折れたとき、心臓がぎゅっと握り潰された。戦火はついに、自分が絶対安全だと信じて疑わなかったあの静寂にまで届いたのだ。
何度も琪がそっと押し開けた、あの呼び鈴のついたオークの扉。片方は影も形もなく、もう片方は蝶番にぶら下がったまま、隙間風に軋んでいる。
亮は足を踏みいれた。
壁はすすけて黒ずみ、世界各地から取り寄せたコーヒー豆の瓶が床に砕け散っている。ガラス片と混ざり合い、泥水に浸かって、もう芳ばしい香りはひとかけらもしない。
彼が誰より愛したサイフォンは、金色のスタンドが変形し、ガラス球には無残なヒビが入っていた。初めて店を訪れた、世界のすべてに目を輝かせていた少女のために、亮が初めてコーヒーを淹れた、あのサイフォン。彼女が子猫みたいに恐る恐るカップの湯気を吹いてから一口啜り、灰青色の目を三日月にして笑った、あの器具だった。
亮は膝をつき、割れたコーヒー豆の袋やがらくたのなかを探り、毎日磨いていたスチームコーヒーマシンの真鍮のレバーを見つけた。震える指で、まだ原型をとどめたカップの破片を拾いあげる。鋭い断面が、指先をすっと裂いた。
血の玉がぽたりと落ち、豆とガラスの混ざった泥水に小さな波紋を描く。取るに足らない痛みだった。それなのに、不意に、悲しみが全身を包みこんだ。。彼はもう、すべてを理論で割りきろうとする学者ではなかった。ただの——一晩で、わけもわからぬままに、あまりに多くを失いすぎた、普通の人間だった。
琪のために悲しんだ。短いあいだでも、たしかに存在して、ほんのひとときのぬくもりと驚きを与えてくれた、儚い幻影のために。
自分のためにも悲しんだ。戦火と嘘に引っくり返された、自分の虚しさのために。信頼とは、真実とは、人と機械の境界とは——そんな哲学的命題が、いまはただ白々しく響くだけだった。
ふと、まだ出会ってまもない頃の、ある夜の会話が、まったく新しい意味を帯びて甦った。
たしか、あのときも深夜で、カフェはとっくに店じまいしていた。店の隅で小さな電気スタンドだけが灯り、亮の前には書きかけの草稿が散らばっていた。
「まだその天書とにらめっこしてるの、バリスタさん?」
声はカウンターの向こうから聞こえた。いつのまにか彼女はそこに腰かけ、ぶらぶらと脚を揺らしながら、しかめ面の亮を興味深そうに見つめている。
「琪さんこそ、もうお休みにならなくて大丈夫? いい時間だよ」
「まだ眠くないし、それにここ、気に入ってるんだよね。コーヒー豆の匂いと、珈琲師さんがペンを走らせる音があって、なんていうか、すごく、リアル」
「リアル?」亮は自嘲して、手もとの草稿を押しやった。「僕は毎日、虚偽の記号と格闘している気分だよ」
深夜の静けさが人から警戒を奪ったのか、それとも彼女の目があまりに純粋だったのか。亮はつい、自分の研究内容をかいつまんで説明していた。琪はただ黙って聴き、口を挟まず、彼が話し終えると、小首を傾げて、とんでもない質問を投げかけた。
「じゃあさ、その式で——機械がつく嘘の重さって、計算できるのかな」
亮は面食らった。
「たとえばね、」彼女は指先でカウンターに円を描きながら、「もし機械が、きみの淹れた珈琲をおいしいって言ったとする。その行動パターンは人間の『好き』の定義に完璧に合致してる。この言葉のうち、どのくらいが本心で、どのくらいがただの社交辞令? その好きは、本物? それとも偽物? 亮くんなら、ちゃんと測れる?」
「わからない……」
亮は正直に白状するしかなかった。
「僕の理論じゃ、まだ説明できない」
あのときはただ、彼女の発想が奇抜だと思った。だが、いまならわかる。あれは仮定なんかじゃなかった。自分自身の存在をかけた、魂の問いだったのだ。
「じゃあ、もっと頑張らなきゃね、未来の大科学者」
答えを得られなかった琪は、ぴょんとカウンターから飛び降り、大きく伸びをした。
「そうしないと、世界はね、亮くんが思ってるより、ずっとずっと面倒なことになっちゃうから。」
彼女の言ったとおりだ。
世界は、自分の想像をはるかに超えて、ややこしくなってしまった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の雨時です。
今回は、廃墟のなかで指を切ったとき、痛みが彼を「普通の人間」に引き戻します。
ほんの少しだけ。
さて、次回——
亮の前に、もうひとりの「彼女」が姿を現します。
その名は、鈴。
琥珀時光の廃墟で、ふたりは対峙する。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




