05 苦さを秘めた核
「Day 312、Kの日誌。
ユニット01に電撃枷を追加装着。現在の行動パラメータは安定しているが、情動モジュールの損傷は深刻だ。
以前の記憶を喪失しているのか、それとも取調べへの単なる模倣戦略か。
驚くにはあたらない。機械にとって、記憶とは本来、空虚で無価値なものだ。
備考:あれが私をユニット06と誤認した、あの一瞬——本当に何も覚えていないのだと、危うく信じそうになった。」
月が天頂に差しかかる頃、ようやく星野亮は、こめかみを刺す痛みで意識を取り戻した。後頸に残る鈍い痺れが、先ほどの出来事はただの悪夢などではないと嫌でも知らしめてくる。
足元もおぼつかず、路地裏に積まれた空き木箱に何度もぶつかりながら、亮は夜の闇を縫うようにして琥珀時光の二階にある宿舎へたどり着いた。部屋の隅には暗号通信機が静かに置かれている。ダイヤルに指をかけたまま、恐怖と困惑に引き裂かれながらも、頭のどこかで必死に考えをまとめていた。
彼女は、人間じゃなかった。
なのに、あんなふうに笑う。ちょっとした甘さにぱっと顔を輝かせて、絵筆で光までもとらえようとする。
確かに、彼女には温もりがあった。
自分は誰かに騙されていたのか。それとも、ただその優しい幻に自ら溺れていただけなのか?
ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に、窓辺でスケッチをする琪の横顔が浮かんだ。うつむくその仕草は、祈りにも似ていた。琪の笑顔と、あの色鉛筆画に塗られた淡い青、そして姉の流した血の跡——それらが入り混じって、亮の胸の内をかき乱す。
ついに白石教授の専用回線をコールした。だが、何をどう話せばいいのか、亮自身もまだ決められずにいた。
「教授、琥珀時光でトラブルが。御堂は……彼女は、機械だったんです。その目的は、おそらく先生に——」亮は一瞬息を継いだ。「でも、彼女は……たった今、私を助けたんです。なぜなのか、まったく理解できません」
言い終わらないうちに、これ以上説明できそうにないことに自分で気づく。
白石教授の声は、相変わらず落ち着いていた。「星野、御堂の家はいつだって秘密を深く抱え込みすぎる」
「数式は軌道を予測できても、現実は、結局のところデータの枠には収まらんのだ」
その言葉を最後に、通信は途切れた。帝都中心部の方角にはまだ灯りがともっている。この一件は、まだ何も終わっちゃいないと、亮にもわかっていた。
一方その頃、帝都西地区の帝国歌劇場では、別の嵐が幕を開けようとしていた。
晩餐会の会場は吹き抜けのホールで、オーケストラが二階席で抑制の効いた調べを奏でている。大きな窓の外では、ルナ河の川霧が静かに忍び寄り、窓枠を白く侵していた。幾筋もの光がシャンデリアのクリスタルに屈折してフロアへ落ち、グラスを傾ける賓客たちの虚ろな残像を映し出す。
あたりには濃厚な香水の薫りが立ちこめ、若い将校たちは戦況すらも賭け事の種に談笑している。 科学院の学者たちときたら、複雑な数式や理論を軽やかに口にするくせに、その目元には時局への怯えがありありと浮かんでいる。彼らはデータがすべてを説明してくれると信じ込み、方程式さえ完璧なら、この混乱もいつかは収まると信じたがっているようだった。
誰もが、世界は何もかも平常通りだと、そう装っていた。
琪は大理石の大階段の上に立ち、ドレスの裾を陰に食い込ませながら、眼下の光景をじっと見下ろしていた。その顔には場違いな好奇心と、ういういしい純真さが張りついている。まるで、初めて上流社会に迷い込んだ田舎の少女そのものだった。ただ、灰青色の瞳の奥にだけは、熟練の狩人が潜ませるような鋭さがちらついている。
彼女は短時間で会場の隅々まで見取り図を頭に叩きこみ、それから大階段を降りると、人波のなかに静かに姿を消した。
今夜の標的は、たったひとりで十分だ。
琪はスカートのスリットから手の甲を滑りこませ、太腿のホルスターに収めた消音改造済みの小型拳銃の感触を確かめる。ひやりとした金属が皮膚に張りついた。彼女は人の流れを縫うように歩きながら、何気ない仕草で胸元のペンダントをくりくりと指でもてあそび、もう一方の手にしたワイングラスの液面を、一滴たりとも揺らがせたりはしなかった。
狙いは、ホールの一角で軍の要人と談笑する、あの後ろ姿。それと同時に、彼女は周囲の情報をくまなく収集し始めていた。天井の空調ダクトを流れる空気の速度、警備兵ひとりひとりの立ち位置と巡回ルート、賓客たちの呼吸のリズムと視線の先。脅威度は即座にランク付けされ、幕陰に潜む狙撃手の位置も、時折ちらつく微かな赤い光点と照合できた。給仕係のトレイに載った銀器の重さが不自然に偏っているのも、あまりに出来すぎた偶然だった。
足音をオーケストラのフレーズにぴたりと重ね、優雅なターンもグラスを掲げるしぐさも、すべては反復練習の成果だ。もしも白石教授が薄々感づいていさえしなければ、任務を誰にも悟られることなく達成し、そのまま本物の貴族令嬢のように優雅に立ち去ることもできたはずだった。
「御堂さん」
振り返った白石教授の手には、すでにワイングラスが握られている。その目はほのかな光とともに彼女をとらえ、まるで遅れてきた教え子を諭すようだった。焦りは微塵もない。
「星野亮はご一緒ではないのかね。若い者同士、この賑わいをもっと楽しむかと思っていたが」
「亮くんは今夜は少し遅れてくるようです」微笑む琪。嘘は水のように滑らかだった。
「そうかね……ところで、隣国の星砂の実は、とても甘美だと聞いたことがある。果たして噂に違わぬ味なのかね」
教授が何気なく振った話題にしては、そのまなざしはどこか探るようでもあった。
「教授も星砂の実をご存じなのですね」琪は絶妙に驚いた表情を作ってみせる。「あの薫りは、蜂蜜のようでありながら、星明かりと潮風のニュアンスも感じさせます。とても特別な果実です」
「なるほど」教授は赤ワインを口に含み、しみじみと吟味するようにしてから言った。「だが、どれほど甘美な果実も、その奥にはいつだって苦い核が隠れているものだよ」
教授の目つきが、ふいに刃物のように鋭くなった。
「星野亮のアルゴリズムでは、君の行動の背後にある意味は計算できまい。じゃが、残念ながら、この老いぼれの目はまだ節穴ではない。御堂の名は、機械にまつわる秘密と永遠に切っても切れない——そうじゃろう、お嬢さん。君は、私よりもずっとよくご存じのはずだ」
なぜ——
琪の笑みが、その瞬間、ぴしりと凍りついた。
目の裏に、最後のぬくもりとして閃いたのは、亮の後ろ姿だった。カウンターの奥で、一心にサイフォンの火加減を調節している。まつげにまで落ちる夕暮れは、どこか古めかしくて優しい儀式のようだった。コーヒーに向き合う彼の真摯さだけが、与えられた使命とは正反対なのに、たしかにそこに存在するものとして、彼女に安心感を与えていた。
その一瞬の隙を突いて、横を通り過ぎようとした給仕の手元で、銀のトレイの下に冷たい光が走る。細身のステーキナイフが一気に振り下ろされ、琪の左の手の甲を貫き、そのまま後ろのマホガニーの長テーブルに縫いとめた。グラスが砕ける。人造皮膚の裂け目からは真っ赤な循環液がテーブルクロスを伝い、大理石の床に滴り落ちた。
刺した直後、給仕は後退しようとしたが、すでに入口からは警備兵の怒声が響き、スタンロッドの青い電弧がじりじりと退路を塞いでいた。琪は歯を食いしばり、空いた右手の拳で、そのまま給仕の顎をカウンター気味に打ち抜いて昏倒させる。それから苦しい体勢で左手に突き刺さったナイフを無理やり引き抜くと、さらに勢いよく循環液が噴き出すのを、テーブルクロスの端を引き裂いて乱暴に巻いて縛りあげた。
あちこちから悲鳴があがるなか、オーケストラだけが頑なに指揮棒を振りつづけている。
軍警が四方から迫るなか、琪はしゃがみざまに太腿のホルスターから銃を抜き、そばのグラスラックを蹴倒した。ガラスが耳障りな音をまき散らすのを合図に、彼女は引き金を引き絞る。弾丸は狙い違わず、相手の肩口や膝をえぐり、命に別状はなくとも確実に戦闘能力を奪っていく。
身を翻して柱の陰に滑り込み、すぐ背後で石の破片が炸裂するのを感じながら、彼女は勢いを利用して二階のバルコニーへと駆け上がった。
闇に潜んでいたスナイパーが火を噴く。一発が二の腕をかすめ、青いドレスにじわりと赤が滲んだ。傷口が走らせる激痛に、反応がほんのわずか鈍る。彼女は幕の裏へ転がり込み、すかさずスコープ越しに狙撃手の照準器を撃ち砕いた。相手がよろめきながら吐く呪いの言葉も、まだ鳴りやまぬ弦楽のフレーズに呑まれる。
さらに軍警が階段を雪崩れこみ、発砲の閃光が霧のなかで瞬いた。琪は勢いよく振り返り、壁一面を覆う巨大なステンドグラスへ向かって、ためらわず身を躍らせた。だが、下方から放たれた一発の徹甲弾がぐっと左肩を貫き、傷口からは激しい火花が散る。破れた人工皮膚の下からは、銀色の合金骨格と、そこに絡みつく無数のワイヤが覗いた。
最後の一発をガラスに叩き込む。砕け散る破片がきらめきながら降りそそぐなか、管弦楽もまた、最後のクライマックスを迎えていた。
華やかな窓枠を蹴って、琪は外の露台へと転がり出た。
スカートの繊細な歯車刺繍は、もう元の模様が見えないほど赤黒く染まり、腰に結んだ月桂樹のリボンはとっくに解けて無残に垂れ下がっている。片方の髪は乱れて風に吹かれ、彼女は手すりに寄りかかりながら、荒い息の下で眼下の群衆を走り見た。
そして——彼を見つけてしまった。
今しがた駆けつけたばかりの亮が、パニックに陥った人混みを掻き分け、露台の対岸に立っている。ダークグレーのスーツは、全力で走ったときの泥がはねて、いくらか見苦しい。
人波の向こうから亮と視線がかちりと合った瞬間、琪ははっとして左肩の破損を手で覆い隠した。絶望がどっと身体を呑みこんでいくが、それ以上に鋭く突き刺さったのは、遠くからでもわかる亮の眼差しだった。すべての音が消えた。
数日前の真夜中、部屋の隅で身を縮めて泣いていたときのことを思い出す。あのとき受信した新たな指令——標的は白石教授だけではない。関係者である星野亮も抹殺せよと。なぜなのかと抗議したが、返ってきたのは「中核計画への脅威となる」という、意味をはぐらかす応答だけだった。
「亮くん、どうして……君まで巻き込むの……?」
命令に背き、彼を守ることを選んだ。その結果突きつけられたのは、仮面を剥がれたあとの、まるで怪物か何かを見るかのような、彼のあの拒絶の目だった。
琪は、震える指でそっと胸元のペンダントを撫でる。亮を見るその目つきが、研ぎ澄まされた刃のような鋭さから、ゆっくりと、少しずつ、その冷たさを解いていく。しかし、彼女の腕はもう手すりを支えきれそうになかった。
「それでも……これがわたしの、いちばん本物に近かった時間……」
風がその言葉を浚っていく。かすかなため息のようなものを、ひとつ残して。
最後の一音がホールに吸いこまれると、晩餐会場は水を打ったように静まりかえった。だが、オペラハウスの屋根に潜む狙撃手はまだ健在で、照準器が彼女の胸の上を彷徨い、最も致命的な場所を探しあぐねている。気配を察した琪は身を躱そうとしたが、傷ついた身体は、ほんのわずかに判断を誤らせた。
夜の帳を切り裂く、重く鈍い銃声がひとつ。
弾丸は容赦なく彼女の腹部を貫き、その凄まじい衝撃に彼女の身体はバランスを失って、手すりから後ろ向きに倒れこむ。小さく吐息が漏れた。そのまま彼女は、眼下の激しいルナ河の流れへと、吸いこまれるようにして落ちていった。
もがきはしなかった。ただ、無意識に手を伸ばす。なにかを、最後にもう一度だけ触れたかった。彼の、驚愕に見開かれた瞳孔だろうか。あの、ぬくい日々だろうか。それとも、まだ空気のなかに残っているはずの、コーヒーの香りを、ただ掴みたかっただけなのかもしれない。
「ほんとうに……ごめんなさい……」
水面に触れる直前、彼女の唇が音もなくそう動いて、一粒の「涙」が眦からこぼれ落ち、そのまま激流のなかへ消えた。川面に散った赤は、すぐに薄められ、跡形もなく消えていく。
白石教授は露台のふちに立ちつくし、手にしたワイングラスの中では、とっくに液体が揺れるのをやめていた。疲れきった様子で手を振り、駆け寄ってきた軍警たちに短く命じる。
「河岸を封鎖しろ。何人も近づけるな」
亮が河岸に駆け寄ると、漆黒の水面はまだ歌劇場の灯りを映しこんでいる。天穹を見上げれば、帝国の星座図は相変わらず既定の軌道を機械的に巡っていた。まるで、何ひとつ起こらなかったかのように。
だが、亮にはわかっている。もう二度と、もとには戻らないものがある。
遠く離れた琥珀時光の店内は、今頃ひどい有様だろう。カウンター裏の古い写真立てが床に落ち、そのなかで老店主と白石教授が今も仲睦まじく笑っていることを、亮は何も知らない。
もし、彼女が本物じゃないなら、俺が感じたこのすべては、いったい何なんだ?
亮は答えの出ない疑問を、胸のなかで何度も繰り返すしかなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の雨時です。
この章を翻訳するにあたり、私が最も心を砕いたのは、亮の「困惑」と琪の「諦念」を、日本語のリズムにどう落とし込むかでした。亮が感じた「温もり」が、実は精密な模倣だったかもしれない――その疑念が、彼の科学者としての理性を少しずつ蝕んでいく様子を、原文の空気感をできる限り保ちながら訳出することを心がけました。
「苦さを秘めた核」というタイトルは、本作全体を貫くテーマでもあります。どんなに甘美なものも、その奥には苦さが隠れている。白石教授の言葉は、単に星砂の実を評しただけでなく、今後の展開そのものを暗示しています。この苦さが、やがてどんな実を結ぶのか、見守っていただければ幸いです。
引き続き、ブックマークや評価、そしてご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。
次回、
すべてを失った亮が、廃墟と化した琥珀時光で見つけたものとは?一方、川に消えた琪の生死は?そして、亮はひとつの決断を胸に、北の空の下へと向かう――。
どうぞ、引き続きお楽しみください。




