04 月桂と星砂の実
「Day 247、Kの日誌。
ユニット03を目撃。新たな偽装は辺境図書館の夜間管理員。誘捕作戦は失敗。
我々は図書館ごと焼き払った。その存在した痕跡を、残らず消し去るために。
備考:貸出カードに記された、あの子たちの名前さえも、燃え尽きるまで。」
琥珀時光の真鍮の呼び鈴が鳴り、戸口から街の冷たい風が流れこんだ。琪の手から木炭の鉛筆が転がり落ち、スケッチブックの上に、刺すような鋭い線がひと筋、走った。彼女はその跡をしばらく見つめたまま、動けなかった。
仕立てのよいチャコールグレーのスーツ、雪のように白いもみあげ、迷いのない足取り。矍鑠とした老紳士が黒檀の杖を手に店へ踏みいると、杖の先が床をとん、と静かに打った。亮はすぐにガラスの攪拌棒を置き、エプロンを素早く直してから、背筋を伸ばして迎えに出た。
「白石教授、ずいぶんお久しぶりです」
声には隠しきれない緊張が滲んでいた。師を前にしたときの、学生の悲しい性分だと自分でも思う。白石教授の視線は店内をてばやく一巡し、やがてカウンターの隅にたたずむ静かな人影のうえで、ぴたりと止まった。サイフォンから最後の一滴がぽたりと落ち、琥珀色の雫がゆっくりとガラスを滑り落ちる。
「星野亮、きみのこの場所はちっとも変わらんな。何ひとつ、変わっとらん。それがいい。」
教授の声にはあたたかな笑みと、歳を重ねた者だけが持つ懐かしさが滲んでいた。けれど、そのやさしさの奥には、つねに冷静な観察のまなざしがひそんでいて、こちらが本当に気をゆるすことはできない。亮はすこし気まずそうに眼鏡のブリッジを押し上げ、紙ナプキンで指先を拭ってから、ぎこちなく琪のほうへ顎をしゃくった。
「こちらは御堂さんです。旅の途中でこの街に立ち寄られて、最近よく足を運んでくださっています」
琪はとうにペンを置いていた。立ち上がり、白石教授にむかって折り目正しく低頭する。そのまなざしはあくまでおおらかで、教授の襟元に光る帝国科学院の金徽章をさりげなく一瞥したが——それは若者が大学者にたいして見せる気後れや憧れとは無縁のもので、どちらかといえば、ちょっと珍しい工芸品を鑑賞するような趣きがあった。
「白石教授、お目にかかれて光栄です」
「御堂さん」
白石教授は会釈を返し、その視線を彼女の顔に一拍ぶん長く留めてから、ひとりごちるようにつぶやいた。
「御堂……面白い名字だ。国の根幹というものは、いつでもそうした古い家名と、切っても切れぬ縁で結ばれている。」
それ以上は追わず、あらためて店内を見わたす。
「この老舗にも、そろそろ若い活気が必要だ。どうやらわが旧友は、店をきみに託して正解だったようだな」
亮はてきぱきと教授の好むストレートを淹れた。雑味や過抽出は一ミリも許されない、あの舌の肥えた教授相手なのだから。やがて三人はカウンター脇の小さな円卓につき、午後のやわらかな陽射しが斜めにテーブルへ落ちてくる。
「御堂さんは絵を描かれるとか。さぞ帝国のさまざまな風土を、画に収めてこられたのでしょう」白石教授はコーヒーを一口すすり、そう切りだした。「わしも若い頃はあちこち歩きまわったものだが——なにしろ大陸中、いまほど——歯車の軋みに満ちてはいなかった」
「ただ、自分の好きなものを描いているだけです。風景は変わっても、光は変わりませんから。わたし、あの、束の間の光をとらえるのが好きなんです」
琪は頬杖をつきながら、カップの縁の模様をそっとなぞった。
「光、か……」
白石教授はそのことばを反芻し、しばし思いに耽る。「たしかに。光は嘘をつかんよ。われわれ人間のほうが、あらゆる偽りの言葉のあいだを、ふわふわと漂っておる。」彼はカップを置き、亮に向きなおり、「今週末、内城西の歌劇場で科学院の内部晩餐会がある。新しい研究の披露もかねてな。たまには顔を出したらどうだ、星野。書類に埋もれてばかりでは、現実というデータを取りこぼすぞ」と声をかけた。
それからふたたび琪へ目を向ける。「御堂さんも、もしよろしければ、ご一緒にどうかね。若いうちはなんでも見聞きするに越したことはない。あるいは、またべつの光に出会えるかもしれん」
亮の瞳が期待に輝く。教授が琪を受けいれてくれた——彼にはそう感じられた。亮が期待をこめて一瞥を投げると、琪は長い睫毛をかすかに震わせた。あまりにかすかな動きで、亮の目にはとまらない。
やがて顔をあげ、教授の探るような眼差しにまっすぐ応えて、ぱっと明るい笑顔を咲かせ、深くうなずいた。
「光栄です、教授。……楽しみにしております」
亮にとってそれはただ、教授のいつものやさしい計らいに思えた。彼は心のなかで琪のためによかったと胸を撫で下ろしたが、テーブルクロスの下で琪が拳をきつく握りしめていることには、誰も気づかなかった。
白石教授は長居せず、呼び鈴の音がその足音とともに消え去ると、琥珀時光はもとの穏やかさを取り戻した。けれど、なにかしら決定的に変わってしまったことも確かだった。
琪はそれからも夕暮れどきに姿を見せ、窓際の定位置に腰をおろした。だが以前のように、目に映るものすべてに首を伸ばし、ひとつひとつの細部に好奇心を燃やしたり、亮に歯車や機械の話をねだることはもうなかった。どちらかといえば、スケッチブックを開いたまま、長いあいだ紙面を見つめて、ペンを宙に浮かせたままでいる時間のほうが多くなった。
亮ははっきりと感じていた。彼女の内側から、なにか生気のようなものが、音もなく抜け落ちていっている。笑顔は以前と変わらず明るいのに、ふと目が合った瞬間、その視線がするりと逃げて、戦火の曇りを映した窓の外をぼんやりと見やる。亮がそっとテーブルにカップを置く、そのかすかな物音に、ようやく夢から醒めたように肩を揺らし、それからわざと大げさな変顔をして、さっきの放心を取り繕うのだった。
「琪さん、このところずっとぼんやりしてるみたいだけど、あまり筆も進んでいないみたいだね」
そんなある夕暮れ、亮は焼きたてのキャラメルナッツビスケットを手に彼女の席まで歩み寄り、とうとう口を開いた。
「ちょっと描きすぎて、目も手も休ませたいだけだよ。それに、インスピレーションも熟成させないとね」
琪ははっとして顔を上げ、笑ってビスケットを受け取った。
「なにか……悩み事でも? 君の絵にはたいてい、たくさんの物語が隠れているように見えるけど、さいきんは、その物語が止まってしまったみたいで」
「物語かあ……」
琪はその言葉をなぞるようにつぶやき、ふと遠くを見るような目をした。
「ただの、旅の断片だよ。南の大時計塔に、北の雪山、それから——」彼女はほんの少しだけ間をとり、「——それから、このカフェ」
「じゃあ、このコーヒーも、君の物語のなかに入れてくれるのかな?」
亮はわざとシナモンを少し多めに挽いて、その香りを彼女の鼻先まで届くようにかき混ぜた。空気をすこしでもやわらかくしたかった。
「もちろん」
琪はカップを受け取った。陶器越しにあたたかさが指に届く。やわらかくて、あたたかくて、それは彼女がまだ学んだことのない言葉だった。だからこそ、いまの彼女にとっては弱点でもあった。
「亮くん、晩餐会の礼服はちゃんと準備できてる? だらしない珈琲師と一緒に出たくないからね」
彼女はすぐに話題をそらし、いつもの軽口をよみがえらせた。笑っていたが、その目は笑っていなかった。
また、ある夜ふけのことだ。
亮はカウンターの奥で書き散らかした資料をめくっていた。ようやく片付けを終え、店の戸締まりをすませ、階段をあがって客室のフロアへ戻る。琪の部屋の前を通りかかると、ドアがわずかに開いていて、すきまからほのあたたかな灯りと、月桂樹と星砂の実の微かな香りが漂ってくる。
「琪さん、まだ起きて絵を描いてるの?」
彼は足を止めて、そっとノックした。
返事はない。
部屋の主灯は消えていて、卓上の電気スタンドだけがオレンジの光を落としている。琪は机に突っ伏し、銀灰色の髪が頬の横にさらさらとこぼれていた。寝息は静かで規則正しい。深い眠りに落ちている。
その手もとには、まだ仕上がっていない色鉛筆画が広げられていた。モチーフは黄昏どきのカウンター、彼がグラスを一心に拭いている後ろ姿だった。もともとは単色の鉛筆スケッチだったものに、いまはあたたかな色彩がほどこされている。そのまわりには色鉛筆の削りかすが散らばっていて、まるで彼女が力を尽くして遺した別れの痕のようだった。
彼女は十数種類もの濃淡の異なるブラウンを尽くして、古い木のテーブルが年月とともに育んだアメ色の艶まで克明に描ききっていた。真鍮の器に蒸気が残した小さな染みさえ、繊細なタッチで光沢を与えられている。シャンデリアの灯りは金色の星屑のように床へこぼれ落ち、そして——彼の質素なリネンのシャツは、あたかもよく晴れた空を切り取ったような、やさしい淡いブルーに塗られていた。その背中はまるごと、暖炉の火のような光のなかに包まれている。
亮は胸がしめつけられる思いだった。感動と、困惑と、そして自分でも名づけようのない微かな痛み。彼は想像したこともなかった。誰かの目に、自分がこんなにもあたたかく映っているだなんて。
なぜ、この一枚だけを、こんなふうに?
彼の視線は彼女の手元に落ちる。まだ青の色鉛筆をゆるく握ったままだ。指先は絵の具で汚れていて、まるで夢のなかでも、もうひと筆あの青を足そうとしているように見えた。
「琪、君は一体——」
もちろん、答えなんて返らない。彼は知らなかった——彼女がこの一枚だけを塗り終えたのは、それが彼女の短い生のなかで、手を伸ばせば届くあたたかな本物だったからだ。彼女はどうしてもそれを残したかった。あらゆる方法を尽くして。
結局、亮は彼女を起こさず、ただそっと歩み寄り、窓を閉めて、夜ふけの戦火のにおいを孕んだ寒気を遮った。それから椅子の背にかけてあったダークカラーのコートを手にとって、注意深く彼女の肩にかけた。コートからは、焙煎したコーヒー豆の焦げたような残り香が、かすかにまだ漂っていた。
踵を返し、ドアを閉める。靴音だけが廊下にひびいて、もろくなった静けさを踏み砕いた。
晩餐会の当日、琥珀時光には早々に「本日休業」の札がぶら下がった。
亮は濃いグレーのスーツに袖をとおした。もとは学会用にと一張羅をあつらえたもので、あらためて着てみると、どうにも身体が窮屈だった。蝶ネクタイも心なしかしこまりすぎていて、彼はカウンター裏の古ぼけた鏡の前で、いつまでも襟元を直している。
階段のほうから、かるやかな足音が響いた。
亮が顔をあげると、琪がゆっくりと階下へ降りてくるところだった。その瞬間、カフェの灯りはすべて彼女のもとへ吸い寄せられたようだった。
彼女は藍色のベルベットのロングドレスをまとい、裾には銀の細かな歯車刺繍が散りばめられ、腰には月桂樹模様のリボンが、その細い線を引き立てるように結ばれていた。肩にかかる銀灰色の髪は、めずらしく二つ結びにされ、わずかに跳ねた毛先が彼女らしいお茶目さをのぞかせる。足もとは黒の編み上げブーツ。つややかな革に小さな銀のバックルがきらめいて、上品さのなかにほんの少し反抗の気配が潜んでいた。
その装いは、活発でいて、しかもどこかあらたまった趣があった。ただ、彼女の瞳の奥には、亮が一度も見たことのない種類の重みが澱んでいた。そこにあるのはやさしさと、諦念と——旅人がついに終着点へたどり着いたときの覚悟。
「どうかな、珈琲師さん?」
彼女は亮の前でくるりとターンして、裾をふわりと揺らしてみせた。
「これくらいなら……未来の大科学者さまの隣に立っても、大丈夫?」
「琪さん、今日は……なんだか、すごく雰囲気が違う。」
亮はうまくことばを継げず、しばらく口をぱくぱくさせてから、ぶきっちょに付け加えた。「とても、綺麗だ」
彼はあわてて踵を返し、カウンターの引き出しから古い木箱を取りだした。
「それと、これ——君に。今日の装いに、きっと似合うと思う」
箱の蓋を開けると、留め金つきの銀の細いチェーンが、深紅のフェルトのうえに静かに横たわっていた。ペンダントトップには深煎りのコーヒー豆が一粒、琥珀色のガラスのなかに閉じこめられ、まるで夜の闇のように黒々と輝いている。それは三つの真鍮のマイクロ歯車にかこまれ、精巧にかみ合っていた。どの歯車もいまにも回りだしそうでいて、けれど時間のなかに永遠に凝固している。
「老店主が残していったものなんだ。はじめて自分で焙煎した失敗作の豆を使ったらしい。不完全なものにも、存在する意味はある——あの人はいつもそう言っていた」
亮はまっすぐに彼女の目を見た。
琪の視線が、ペンダントに釘づけになった。
「きれい……ありがとう、亮くん。でも——」
彼女は眉をほんの少し持ち上げて、そっとたずねた。
「どうして、わたしに?」
「君はいつも機械の機構をじっと見つめているだろう。みんながあまり気に留めない細部に目をとめて、でもその目は、冷たい道具をながめるのとはどこか違って、まるで機械を理解したいと願っているように見えたから」
彼女はペンダントを受け取り、そっと首にかけた。鎖骨のうえに落ちた金属のひんやりとした感触が、たしかなものの存在を彼女に教える。
「今夜のわたしを、覚えていて」
それは誰にも聞こえないほどの、ちいさなつぶやきだった。
まだ外は暮れきっていなかった。亮はカウンターの奥で、心ここにあらずというふうに蝶ネクタイを弄り、ちらちらと琪を盗み見ている。琪は腰かけず、カウンターに片手をついて背を向け、空のコーヒーカップの縁をくわえていた。つま先が床をとんとんと叩くリズムは、どことなく苛立ちを含んでいて、それでいて壁時計の秒針の刻みと、妙にぴったり重なっている。
「琪さん、どうもここ数日、ずっと塞ぎこんでいるみたいだけど——晩餐会のことで、緊張してるんじゃない?」
亮がしびれを切らして口を開く。
その動きが止まった。彼女はくるりと向きを変え、懸命に笑顔をこしらえて、亮の顔のうえを視線で探るように動かした。
「亮くん、私を甘く見すぎ」
彼女はわざと平気そうに言ってのけた。
沈黙。短く、息の詰まるような沈黙が落ちる。その静けさのなかで、琪の視線は亮の横顔をなぞり、彼の背後に整然と並ぶコーヒー缶をなぞり、そしてこの十数日間、自分が身を寄せたあたたかなカフェという空間を、ゆっくりと見渡した。
その瞬間、彼女はついに、なにかを決意したようだった。
「亮くん」
彼女の目つきが不意に陰り、手にした空のカップを置いた。その声は急にひそめられ、いつものおどけた調子はひとかけらもなかった。
「これから言うことを、よく聞いて。三つ数えたら、しゃがんで、カウンターの下に隠れて。理由は訊かないで。ただそうして」
亮はあっけにとられた。このあまりに突然の変わりように、またいつもの悪戯だろうと思った。
「琪、冗談はよしてくれ。そろそろ出ないと——」
「いち」
彼女の声は驚くほど冷たく、目は彼を射抜くように見開かれている。窓の外、濃さを増す霧のなかから、微かだが金属が擦れ合うような響きが届きはじめていた。彼女にはその音が痛いほどわかる——"新秩序"の猟犬たちの刻む、お馴染みのリズムだ。
「もう待ってはくれない」
「ちょ、琪、きみ——」
「に」
亮の笑顔が凍りつく。彼は見た。琪の瞳孔がすっと収縮するのを。その瞬間、彼女はこれまで一度も見たことのない他人の顔をしていた。
「さんっ!」
言い終わらないうちに、彼女は身を躍らせてカウンターの内側へ飛びこみ、亮が反応する余裕すら与えず、全身の力で彼を床に押し倒した。
それと同時に、ステンドグラスが鋭く砕け散り、重機関銃の銃弾が吼えながら、店じゅうという店じゅうを埋め尽くした。シャンデリアは木っ端微塵に弾け、断裂した銅管から蒸気が噴きあげて、窓の外にあがる閃光を白く濁らせる。テーブルは裂け、菓子や茶器がそこらじゅうに散乱した。隅で流れていた真鍮のラジオが、最後に耳障りなノイズをぱちんと鳴らして、そのまま永遠に沈黙する。遠くからは巡回兵のうろたえた叫びと、鋭い警報が響いてきたが、それもすぐに、つづけざまに起こる爆発の轟音にかき消された。
亮の耳には、いつまでも絶えまない高音の耳鳴りだけが残った。琪が体の上に覆いかぶさっている。月桂樹と星砂の実の香りに、濃い硝煙の臭いが混ざっている。彼女のドレスのベルベットが床をかすかに擦る振動が伝わってきて、銀の歯車刺繍が爆炎のなかでちかちかと揺らめいていた。彼が贈ったばかりのペンダントが彼女の襟元からするりと抜け出て、亮の肩のすぐ横でかすかに震えている。
「じっとして! 動かないで!」
琪は鋭く叫び、蒸気の幕を透かして外の暗がりを睨んだ。
銃弾の合間を縫って、彼女は亮をむりやり立たせ、店の奥の倉庫へと引きずりこむ。弾丸がすぐ背後をかすめ、壁に木屑と破片を撒き散らしたが、倉庫の山積みの麻袋がふたりに一時の盾を与えてくれた。琪はためらわず木戸を蹴り開け、霧に濡れた路地へ躍り出る。
この街区の地形が、彼女の頭のなかには克明に刻まれていた。亮の手をひき、迷路のような通りを縫って、帝国軍が慌ただしく設営した検問所や、いまも激しい銃撃戦がつづく前線を、器用にすり抜けていく。やがてふたりは、とある廃棄された蒸気管の脇で足を止めた。
琪は壁にもたれて肩で息をし、うつむいてドレスの裾に付いた埃をさっと払った。布地の上の銀の刺繍は、砕けた星のかけらに見えた。それは、いまこの瞬間、完璧に砕け散った彼女の仮面そのものだった。
亮は激しく咳きこみ、まだ頭のなかが真っ白だった。目の裏に、さっきカフェの硝子が割れた瞬間が何度もフラッシュバックする。恐怖と、困惑と、裏切られた痛み——あらゆる感情が渦になって、理性をずたずたに引き裂こうとしていた。彼は震える手で腰のあたりを探り、古い回転式拳銃を引き抜いた。老店主が護身用に遺したものだ。その銃口を、いまは見知らぬ人のようにしか見えない琪へと突きつける。
「御堂琪……おまえは、いったい……なぜ、襲撃があるってわかった!」
酸欠と動揺で、声は震えきっていた。
真っ黒な銃口を向けられて、琪の身体がこわばった。それから彼女は、ふっと自嘲するように口もとをゆるめた。
「亮くん」
彼女は問いには答えず、霧にかき消されそうなくらい小さな声で、逆に問いかけた。
「きみの、その公式や、アルゴリズムで、予測できる? あたしが、きみを傷つけるかどうか」
この嘘を、彼女が全身全霊で織りつづけてきたこの夢を、いま、この手で破るときがきたのだ。
「きみは……いったい……」
彼の公式では彼女の存在を解けない。シナモンコーヒーのぬくもりも、夜ふけに語り明かした星の瞬きも、スケッチにこめられた優しいタッチも、何ひとつ解けはしない。それらすべての本物で穏やかな記憶が、姉が血の海に倒れたあの光景にぽっかりと口を開けられ、引き裂かれようとしていた。死への恐怖より、裏切りの棘のほうがもっと深く突き刺さる。銃を握る手が大きく震えた。
「バリスタの手に、あたしのせいで、銃を握らせちゃった……」
琪はなおも答えない。ただ、まるで怪物でも見るような亮の怯えきった瞳を、じっと静かに見つめていた。
「撃っていいんだよ、亮くん。そうしなければ、ほんとうに誰かが傷つくことになる」
亮の指は引き金のうえで固まった。彼には彼女がわからない。その行動を理解も予測もできない。だが、彼女の瞳の奥底で必死に抗っている苦しみだけは、はっきりと感じとれた。
ゆっくりと、銃口が下りていく。
「本当のことを言ってくれ、琪! きみは反乱軍の殺し屋なんだろう? なぜ僕を騙した? ここでの日々は……いったい、なんだったんだよ!」
まだ辛うじて手繰り寄せられるはずの信頼を、崩壊のふちで必死に掴もうとする叫びだった。
「ごめんね、亮くん」
琪の身体が軽やかにひらりと回り、足先が跳ねあがって、亮の手首を正確に打った。銃は手から離れ、月明かりの下でくるくると宙を舞い、水たまりに映った星の欠片を砕きながら落ちる。亮がなにが起きたのか認識するより早く、彼女は踏みこみざま、手刀をその頸にきれいに打ちこんだ。
「あたしは機械なんだ……やっぱり、きみたちとは、ちょっと違うみたい」
亮の眼前が暗転し、体から力が抜けて崩れ落ちる。遠のく視界の隅で、彼女の手が宙に伸ばされ、そのまま止まった。月桂樹と星砂の実の匂いが、まだそこに揺れている。あれは果たせなかった抱擁か、それとも、永遠の別れか。
琪はしゃがみこみ、指の腹をそっと亮の額に落ちた前髪へ伸ばしかけて、あとほんのわずかのところで、ぐっと拳を握りしめて引き戻した。もう片方の手で胸もとのペンダントをまさぐる。その瞳から表情が抜け落ちていく。
「あたしがほんとに知りたいのはね。あたしが知りたいのは、ただそれだけ。——きみを傷つけることが、どうして、こんなにも痛いのか」
彼女は気絶した亮を廃材の木箱のあいだに引きずって隠し、服の埃を最後まで払いおえると、そのまま深い夜の闇へと背を向けた。月桂樹と星砂の実の香りと、彼女がついに口にできなかった別れのことばは、すべて帝国の影にひっそりと呑みこまれていった。
もしわたしが言ったら——琥珀時光で過ごしたあの一日一日は、あたしに与えられたものすべてより、ずっと本物だったんだよ、って。
亮くんは、信じてくれるかな。
——あなたの残光のなかで、わたしは初めて、自分の影に触れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の雨時です。
本作は中国語で執筆した長編SF小説『止痛計畫 / Project Painkiller』の日本語翻訳版です。原文の空気感をできるかぎり保ちつつ、日本語として美しく読めることを心がけております。もし不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご指摘ください。
ブックマークや評価、そしてご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
次回——
そして迎えた晩餐会の夜、きらびやかな歌劇場の舞台裏で、少女は仮面を脱ぎ捨てる。
弾ける硝煙、砕けるシャンデリア。すべての嘘が弾けとぶその瞬間、彼女が最後に遺した言葉とは——




