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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第一幕 キャラメルマキアート / Caramel Macchiato
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03 雨上がりの路地

 「Day 196、Kの日誌。

 ユニット02が逃走を放棄。人型機械の完全回収はこれが初めてだった。覚醒状態のまま解体を実行した。

 あの日のことを覚えているか、問いたかった。だが答えは得られなかった。

 備考:あれが痛覚を持つとは。偽りの模倣反応にすぎぬはずだ。すべてのセンサーをこの手で検証する。」



 秋雨が帝都の片隅を灰色に染め続けていた。琥珀時光カフェはいつにもまして静まりかえり、雨宿りの数人の客が隅に身を寄せ合い、その話し声もすぐに雨音に呑まれていく。午後になるにつれて雨足はますます強まり、世界にはざあざあという雨音だけが残った。亮はカウンターの奥で新しいハンドドリップのレシピに取り組んでいた。細く落とす湯の軌跡が濾紙の上に螺旋を描き、コーヒー粉は静かに膨らみ、呼吸し、香りを解き放つ。彼にとってこの一連の動作は、とっくにただのコーヒー淹れではなかった。この混乱のなかで、わずかでも秩序を取り戻したいと願う、ほとんど祈りに近い儀式だった。


 琪はカウンターのスツールに頬杖をつき、所在なげに脚をぶらぶらさせながら、古代機械の構造についての古書を鉛筆の先でつついていた。灰青色の瞳はいつもよりずっとくすんで、窓の外の空と同じ色の薄雲をまとっている。


 この沈黙を重く感じた亮は、手を拭いてからカウンター裏の木箱にしまってあった古い蓄音機を引っ張り出した。レコードのジャケットには幾重もの埃が積もり、あまり聞き覚えのない名前が印字されている。オペラの歌姫だの、交響楽団だの、そんな名前は帝国の新しい娯楽に押されて、いまでは気にかける者もほとんどいない。どれも老店主が遺した蒐集品で、あの断片的なコーヒーノートと一緒に、亮はどうしてもここから動かせずにいた。


 埃を落とし、ターンテーブルとトーンアームを丁寧に拭きながらも、彼のなかに機械というものへの日頃のためらいはなかった。たぶんそれは、この蓄音機が単純で、賢くなく、論理回路もなく、暴走も裏切りもしないからだ。ただの金属と歯車の塊が、ひたすら物理の法則に従い、過去の音を忠実に繰り返すだけの、妙に安心できる機械だった。


 一枚のレコードを選ぶ。ジャケットのラベルはかすれてよく読めない。針が盤面の最初の溝に落ちると、かすかなノイズのあとからピアノの旋律がゆるやかに流れ出し、いちばんかすかな序奏の部分を、雨音がちょうどよく覆い隠した。


 ふと、去年この街に着いたばかりの自分を思い出す。海の向こうの故郷を離れ、戦火の迫る帝都へ学びに来たばかりのあの日、白石教授に紹介されて初めてこのカフェの扉を押したのも、やはりこんな雨の午後だった。店は同じように静まりかえり、老店主がかけていたのも同じレコードだった。あの頃は「新秩序(しんちつじょ)」と呼ばれる機械反乱はまだずっと辺境の地で燻っているだけで、帝国の大方の市民にとってはニュースのなかの新奇な単語にすぎなかった。琥珀時光は変わらず穏やかで、古書の匂いとコーヒーの香りに満ちていたのに。



 「この曲には……物語があるの?」


 琪の声に、亮は現実へ引き戻された。いつのまにか彼女は窓際のいつもの席に戻り、膝の上にスケッチブックを広げて、耳を澄ませている。いつものあの冴え冴えとした両の瞳が、いまは音楽に呼応するようにどこか翳っている。


 「あると言えば、あるのかな」亮は笑って、自分のぶんの湯を注いだ。湯気が眼鏡のレンズを白く曇らせる。「この曲を聴くと、老店主を思い出す。いいバリスタはコーヒーの淹れ方を知っているだけじゃなく、どんな音楽を流すかも知らなきゃいけないって、あの人はよく言ってた。どっちも結局は、時間とつきあうって意味では同じことなんだって」


 亮の視線が窓の外へしばらく漂ったあと、彼は言葉を継いだ。


 「琪さんと同じで、僕も帝国で育ったわけじゃない。来たばかりの頃、初めて戦争の脅威ってやつを肌で感じた。前線は遠いと頭ではわかっていても、どこか落ち着かなかった。そんなとき、ふと思うんだ。老店主の言うとおり、まだ音楽が鳴っているうちは、世界もそこまで狂ってはいないはずだって」


 琪は応えず、ただじっと亮を見つめていた。近ごろはこうして見つめられることにも、ずいぶん慣れてきた自分がいる。やがて彼女は画帳を手に取り、迷いのない線で、亮と蓄音機のシルエットをさっと描きとめた。



 「亮くんにとって、いちばん大事な記憶ってなに?」


 不意をつかれた。誰かにそんなことを訊かれるなんて、こんな静かな雨の午後にでもならなければ、想像もできなかった。脳裏にさまざまな場面が去来した。師や同門に褒められた学術の成果や、この琥珀時光での穏やかな時間。けれど最後に浮かび上がったのは、意識してずっと封じてきた光景だった。九歳の自分。まだ怪我をする前の姉が、笑いながら、歯車の部品で組み立てた小さなロボットの模型を手渡してくれた。ずんぐりした胴体に、ナットでできた丸い目がついていて、あれは姉が手作りしてくれた、最後の贈り物だった。


 あの模型を、事故のあと、自分の手で金槌で粉々に叩き壊したことを、亮はまだ覚えている。あの音も、散らばった部品も、全部覚えている。


 彼は詳細を語らず、ぼんやりと答えた。


 「たぶん……もう永遠に失ってしまったもの、かな」


 琪のペン先が紙の上で止まり、小さな黒い点をひとつ残した。彼女は紙に描かれた亮を見つめ、それから顔を上げて、現実の亮を見る。


 「じゃあ……」彼女はためらい、さらに声を潜めて問いかける。「もしも、すごく苦しいけど、同じくらい大切な記憶があったとして、亮くんはそれを残したいと思う? それとも……きれいに忘れてしまいたい? もし、選べるなら」


 その問いは亮の胸の奥をまっすぐ貫いた。姉の皮膚に刻まれた無数の傷跡を思った。そのために日増しに疲弊していった両親の目を思った。機械の駆動音を聞くたびに部屋の隅で震えていた幼い自分のことも。あの記憶こそが彼の苦しみの根源であり、機械への警戒心の理由であり、いまの研究の出発点でもある。毒でもあり、解毒剤でもある。どれもが、いまの自分を形作っている。


「よくわからない」彼は正直に言った。「たぶん、しまっておくんだと思う。このレコードみたいに、箱のなかに閉まって、普段は忘れたふりをしてる。でも、たまにこうやって雨の日がくると、どうしても引っぱり出して、聴いてしまう」


 「苦さからは逃げられないけど、本物ではあるからね。僕が僕であるための、抗いがたい理由なんだ」


 ピアノが終わり、針が最後の溝を擦るかすかな音だけが部屋に残った。ふたたび静寂が満ち、窓の外には絶えまない雨音だけがつづいている。琪は黙ってスケッチブックを閉じ、顔を上げて亮にほんの少しだけ微笑んでみせた。亮はその微笑みが、これまでのどんなときよりも素直で、やわらかいことに気づいた。


 「亮くん、音楽をありがとう。それから……あなたの話も」


 その瞬間、亮は初めて、彼女の瞳の奥底にあるものをはっきりと見た気がした。それは天真爛漫でもなければ、いたずらっぽさでもなかった。


 あれは、本物への渇望だったのだ。



 雨が上がり、日が差すと、街には少しずつ湿った土の匂いが戻ってきた。琥珀時光にも、天気の回復とともにわずかながら活気が戻ってくる。


 そろそろ材料が切れそうなものも出てきたため、亮は取引先へ買い出しに行く支度を始めた。彼がコートを手に取ったところで、琪が突然ついていくと言い出す。スケッチブックをひらひらさせながら、用意してきたとばかりの口実を並べ立てる。「雨のあいだ暗いものばかり描いてたから、そろそろ陽の光で中和しないとね。ついでに市場でなにか新しい素材も見つかるかも」


 亮が迷ったのはほんの少しで、なにしろ彼女のあの、期待に輝く瞳には何よりも強い説得力があった。


 薄霧の名残がまだ漂う通りを、ふたりは並んで歩いた。ここはかつて帝都の外れでも指折りの暮らしの場だったが、いまでは「市場」といっても路地裏に自然発生的にできた青空市にすぎない。戦乱の封鎖でかつての活気は失われ、多くの露店は板を下ろしたままだ。残るのは地元産の野菜や香辛料、手細工の品を扱う小商人ばかりで、銃を手にした巡回兵のほうが買い物客よりも多い。束のまの平和にすぎなかった。


 だが琪はまったく気にしていないようだった。彼女は興味の赴くままあちこちを見て回り、手作りの歯車細工の露店の前では立ち止まり、精巧な機械のからくりを指でそっとはじいて瞳を輝かせる。飴細工の老婆に引き寄せられて、色とりどりの飴玉を大袋で買い、そのほとんどを亮に押しつけて、自分はひとつも口にせず、ただ手のひらにのせて、陽の光に乱反射するきらめきを飽かず眺めていた。


 彼女の立ち居振る舞いはどれもこの場にそぐわず、まわりがみな沈んだ顔のなかで、彼女だけが影を帯びていない。あの純粋な好奇心は旅慣れた者が持つものではなく、ついさっき初めて五感を得たばかりの新生児が、この世界のあらゆる質感と色彩と温度をひとつ残らず刻みつけようとしているかのようだった。



 亮が問屋と品物を照合しているときだった。ふと背後で小さなざわめきが起こり、振り返ると琪が果物屋の脇にしゃがみこんでいる。目の前には一匹の痩せた子猫が、全身の毛を逆立てて、低くうなり声をあげていた。琪は手を伸ばして近づこうとしているが、その仕草はどこか不器用で、絵を描くときの滑らかさはかけらもなかった。


 「あらあら、どこの子かねえ」果物屋の女将があきれ顔で言った。「ほっときな、嬢ちゃん。この子は怖がりで、近づく相手には誰かれ構わず引っかくんだよ」


 「まずは近づかないこと。あれは怯えてるんです」


 亮がうしろからそっと琪の腕を引きとめた。さっき彼女からもらったビスケットをポケットから取り出し、ひとかけらを割って手のひらに乗せ、遠くから差し出す。


 「傷ついた小さな子には、焦っちゃだめなんです。まず、敵意がないってわかってもらわないと」


 そう言いながら、姿勢を低くするやり方、声をかけるときの抑えめの声量、気長に待つことの根気。ひとつひとつを実演すると、彼女はとても真剣な顔で見ていた。


 やがて警戒しきっていた子猫が、彼女の澄んだ瞳からなにかを読み取ったように、こわばった体をゆるめ、おそるおそる歩み寄り、ピンクの舌で彼女の指先のビスケットの屑をそっと舐めた。濡れてざらついた舌の感触に、琪ははっと息を呑んだ。生きているものの温度が、指先からじかに伝わってくる。


 亮は近くの薬屋で手に入れたガーゼと副木で、子猫の傷ついた脚を手早く固定した。そのあいだ、琪はずっと静かにしゃがみこみ、真剣な表情で鉛筆を走らせながら、子猫の姿を写し取っていた。



 「この子、治るかな」


 つぶやくように尋ねる琪の視線は画帳から離れない。それはほとんど、なんらかの誓いを乞う声に近かった。


 「もちろんだよ。ちょっとした怪我だから、そんなに心配いらない」


 彼女の肩を軽く叩いて亮が言うと、琪ははっと顔を上げた。午後の陽が、灰青色の瞳にきらきらと透きとおっている。


 「ねえ」彼女が言った。「この子、今日のこと、覚えててくれると思う? やさしくされたこと、小さな動物にもわかるのかな。それとも、なんの未練もなく自分の世界に帰って、ぜんぶ忘れちゃうのかな」


 その尋ね方には妙な執着があった。ただ子猫のことを尋ねているのではなく、記憶や存在の重みそのものを問うているようでもある。


 「きっと……覚えてると思う」亮はしばらく考え、扉の枠にもたれたまま、彼女の銀灰色の髪の先が陽の光に薄く金の縁取りをまとうのを見つめながら言った。「どんなに小さなことでも、実際に起きたことなら、なにかのかたちで残っていくものだと思う」


 琪はもう言葉を返さず、画の最後の筆を集中して走らせた。


 やがて、小さな女の子が路地の口から駆けてきた。「ミミ! やっと見つけた!」


 ついさっきまで琪の足もとでおとなしくしていた子猫は、その声を聞くやいなや、よたよたと走りだし、力いっぱい主人の胸に飛びこみ、きゅっと抱きしめられた。女の子は失くしていた猫を抱いてぼろぼろと涙をこぼしながら、琪と亮に何度もお辞儀をし、すすりあげながら、何度も何度もお礼を言った。


 琪はただ静かにその再会を見つめ、それからうつむいて、画帳のなかの子猫をそっと指さしては、隠しきれない寂しさを目に浮かべていた。



 帰り道、琪はほとんど口をきかず、フードをいっそう深くかぶったままだった。何か声をかけようとして、亮はかけられなかった。


 「見て、亮くん」


 唐突に彼女は立ち止まり、壁の角を指さした。そこでは、名も知れぬ紫色の花が、煉瓦の隙間から首をのぞかせ、秋の終わりの冷たい風に震えている。


 「冬が来るって、ちゃんとわかってるのにね」


 亮もその指の先を目で追った。くすんだ景色のなかで、その花の色だけがひどく鮮やかで、場違いなほど美しい。ふと気づくと、彼はもうずっと長く、こんなふうに新しい命に目を凝らしたことがなかった。自分の世界はとっくにデータと数式と記憶でぎっしり埋めつくされ、花ひとつ愛でることも忘れていたのだ。


 「描かなくていいの?」亮はたずねた。


 琪はかぶりを振った。


 「ただ、見てもらえればいい」



 そんなふうに日々は過ぎていった。


 亮は琪が来るのを待つようになっていた。新しいコーヒーをいちいちもっともらしく批評する彼女の顔。ペン先で机をとんとんと叩きながら、空想みたいな質問の雨を降らせる彼女の癖。月桂樹と星砂の実の混じったあの香り。そして、彼女がいつか自分のことをもっと話してくれるかもしれないという、かすかな期待さえも。


 でも、この静けさがどれほど儚いかも嫌というほどわかっていた。戦火の影はひたひたと迫り、ラジオは繰り返し警告を鳴らしている。あの霧の向こうに隠れているのは、硝煙と戦火だけじゃない。彼はあえて、いまだけは目を逸らすことにした。


 せめてこの瞬間だけは、琥珀時光のシャンデリアはまだ輝いている。亮はカウンターの奥に立ち、うつむいて真剣に絵を描く琪の姿を眺めながら、心のなかでささやかな願いをかけていた。こんな夜が、あとほんのわずかでも、どうか長くつづいてほしい。


 「亮くんはさ、毎日むずかしい数式ばかり研究してるけど、世界を変えたいって思ってるの?」


 顔を上げた琪が、鉛筆を指先で軽やかに回しながら言った。ずいぶん大きな問いだが、口調はとても軽い。


 「世界を変えようなんて、そんな大層なもんじゃないさ」亮はグラスを磨く手をちょっと止め、小さくかぶりを振った。「ただ……悲劇をまた繰り返したくないだけなんだ。機械が、どんなことがあってももう二度と人を傷つけなくなるなら、それでじゅうぶんだ」



 琪はしばらく黙り、コーヒーマシンから噴き出す白い蒸気に目をやった。蒸気は刻々と形を変え、やがて空気のなかに静かに溶けていく。


 「じゃあ、亮くんは……機械が、夢を見るって、思う?」

読了ありがとうございます。著者の雨時です。


なお、本作は中国語で執筆した長編SF小説『止痛計畫 / Project Painkiller』の日本語翻訳版です。原文の空気感をできる限り保ちつつ、日本語として美しく読めることを心がけております。もし不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご指摘ください。


ブックマークや評価、そしてご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


次回──


店を訪れたのは、亮の恩師である白石教授。その鋭い観察眼が、静かな日常にさざ波を立てる。


「御堂……面白い名字だ」


教授の何気ない一言に、琪の指がかすかに震えた。珈琲の香りと、交錯する視線。そして訪れる、科学院内の晩餐会への招待──それが、これから始まる嵐の前触れとも知らずに。

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