41 お誕生日おめでとう、わたし
Day ?,琪の日誌。
あの後、世界はもちろん、すぐによくなったりはしなかった。
この戦争は帝国の気力をあまりにも多くすり減らし、猜疑と陰謀が、それからも長くくすぶり続けた。生き延びた者たちは防空壕から出てきて、互いの顔を、呆然と見つめ合った。
「無歯輪者」の存在は依然として公に認められていない。けれど、目に見えない多くの場所で、彼らは亮くんのような学者たちと共に、新しいルールを織り始めていた。
人間と機械の境界についても、感情と論理の共存についても、それらの議論は、平和の到来とともに新たな命を吹き込まれた。それでも、本当の意味で根づくには、ひと世代分の時間が必要なのかもしれない。
亮くんは、彼の研究についに資金を出してくれる人が現れたと話した。その知らせを聞かせてくれたときの彼は、表情をあっさりしたままだった。でも、わたしには見えていた。彼が背を向けた後、こっそりと、くすりと笑っていたのを。
それから彼はすぐに笑みを引っ込めて、眼鏡を押し上げ、コーヒーマシンを磨くふりをした。彼は良い知らせを受け取るのが苦手だ。早く喜びすぎると、世界がそれを取り上げてしまうような気がするのかもしれない。わたしも同じだった。
だから、わたしたち二人はこうして、それぞれの場所で、良いことを信じる練習をしている。
「プロジェクト・ペインキラー」の本来の意味は、ひとりの少女を、もう苦しませないことだった。結局、わたしたちは別のやり方で、それを成し遂げたのだと思う。
ユニット06の行方は、わかっていない。捜索隊は残骸を発見できなかったし、判別可能な核の破片も検出されなかった。
わたしはかつて、機械にも心があるのかと彼女に尋ねた。彼女は答えないまま、火の海へ落ちることを選んだ。
生き残ったのは、わたしだった。
この身体の痛みは本物で、片時も離れない。息をすることが痛く、陽の光が肌に落ちることが痛く、指がペンを握りすぎることも痛い。
もう一度コーヒーを口にしたとき、わたしは長いこと泣いてしまった。だって、それが本当に痛かったから。亮くんは自分がうまく淹れられなかったのだと思ったらしく、しばらく慌てた後、棚からコーヒー豆をぜんぶ引っ張り出して、一袋ずつ匂いを嗅いでいた。これは湿気ってる、これは焙煎しすぎてる、これは……わたしは彼の袖を掴んだ。
亮くんのせいじゃないよ。
彼女は言った。痛みには慣れればいいのだと。わたしは、まだ慣れる途中にいる。
医者によると、わたしの左目は虹彩色素の沈着が異常で、右目は元のままだということだった。
彼らは長い時間をかけて説明してくれた。専門用語もたくさん使われたけれど、わたしにはよくわからなかった。亮くんは隣で真剣にうなずきながら、ときどき質問をし、すべてのことを彼の小さな手帳に書きつけていた。
実をいうと、その理由は知っている。
琥珀色は彼女が遺したもので、灰青色はわたしが連れてきた物語。わたしは彼女そのものではないし、かつてのわたしでもなくなった。
毎日、鏡を見るたびに、左右非対称のこの目と、しばらく見つめ合う。あるときは琥珀色が語りかけ、あるときは灰青色が応えてくれる。
わたしはまだ、両方の目で同時に物を見ることに慣れていない。ときどき、目まいがする。
この二つの目が映す世界は、もともと、それぞれに違っていたのだろう。
彼女がどこへ行ったのか、わたしにはわからない。
ときどき夢の中で、遠くからピアノの音が聞こえる。あの曲はとても懐かしいのに、名前を思い出せない。折に触れて、月桂の花の香りがする。誰もいない廊下で、乾いた画用紙のへりで、眠る前に灯りを消した、その一瞬で。
もし彼女がまだどこかにいるのなら、どうか、あまり寒くありませんように。
もし機械にも来世があるのなら、彼女に甘い味を知ってほしいと思う。
誰かが彼女にも、おかえりなさいと言ってあげられますように。誰かが彼女に、砂糖をたくさん、たくさん入れたコーヒーを、一杯淹れてくれますように。
わたしはここで、毎日、彼女のためにあの窓際の席を空けておく。
琥珀時光の看板は、もう一度掛け直された。亮くんは前より一回り小さいと言うけれど、わたしには、これで十分いいものに見えた。
ステンドグラスは普通のガラスに替えられた。前ほどきれいじゃない。昔のあの柄を、もう一度作ってくれる職人は見つけられなかったのだ。
コーヒーマシンも、もう元のものではない。亮くんが長い時間をかけて、中古市から古い機械を一基、組み上げてきたのだ。圧力計はよく引っかかるので、二度ほど叩くと、やっと動き出す。
店内の壁には、わたしの絵が何枚も掛けられている。海もあれば、子猫もある。バリスタの後ろ姿を描いた絵も一枚、掛けてあった。亮くんは机を拭きながらあの絵を通り過ぎるたび、無意識に背筋を伸ばしている。彼はわたしが見ていないと思っているらしい。
ずっと昔、はじめてこの店のドアを押し開けた日のことを思い出す。あの頃のわたしは、自分が誰なのかも知らなかった。このコーヒー店が、やがてわたしの世界ぜんぶになることも知らなかった。カウンターの奥に立つあの人が、いつかわたしの絵を壁いっぱいに飾ってくれるなんて、想像もしていなかった。
ときどきは、わたしも窓の外を、ぼんやり眺めている。
この通りに、ふたたびたくさんの灯りがともるのを見たい。そして、いつかこの戦争をまったく知らない子供たちが、親の手を引いて店に入ってきて、ココアを一杯注文する。そんな日が来るのを、見たいのだ。
渡鴉が一度、ここへ来た。その日は小雨が降っていて、彼女の煙草は火が点かず、彼女は入り口に立ったまま悪態をひとつ吐いた。
ただの通りがかりだと言ったくせに、カウンターの前にまるまる午後いっぱい座って、何も入れないブラックコーヒーを何杯も飲んでいた。
最後はわたしが入り口まで見送った。彼女は振り向いて雨の中へ歩いていく。煙草は、それでも火が点かなかった。
車に乗り込んでからも、彼女が長いことエンジンをかけなかったのに気づいた。
ひとはもしかすると、誰にも見えないところで泣くほうに、慣れてしまうのかもしれない。
終わりの、そのまた終わり。もう、たいした出来事は、何も残っていない。
いま亮くんが、外でわたしを呼んでいる。入り口の銅のベルを掛け終えたから、聞きにおいで、と言うのだ。
銅のベルが、ちりんと鳴った。昔のそれよりも少し低い音だけれど、やっぱり、きれいな音だった。
今日も体は痛む。それでも、わたしたちはここにいる。コーヒーも、ちゃんとここにある。
だから、琥珀時光へようこそ。あなたが誰でも、どこから来たのでも、瞳がどんな色であっても。
どうぞ、座ってください。
コーヒー、お砂糖はどうしますか?
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。
本当に、長い道のりでした。
この章を書くにあたって、わたしが考えていたのは「その後」です。大きな戦いが終わった後、世界がすぐに良くなるわけでもない。歯車はゆっくりと止まり、傷はゆっくりと治っていく。語るべきドラマのない、静かな日々のなかで、それでも人はコーヒーを淹れ、絵を飾り、誰かの帰りを待つ。そういう話にしたかった。
この物語が、ここまで来られたのは、読んでくださる方がいたからです。ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。
それでは、この後、コーヒーを一杯どうぞ。お砂糖を入れて。




