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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第八幕 セカンドクラック / Second Crack
41/43

40 おやすみ、新世界

 通信は、そこで途切れた。



 「星野亮のやつ、このまま転んで死ぬまで走り続けるんじゃないかしら」瑾の声が、階下から聞こえた。


 琪はプラットフォームの縁に跪座(きざ)したままだった。背中には探針(たんしん)が刺さったままで、赤い循環液が腰のあたりから滴り落ちている。


 「瑾、どうして邪魔したの」彼女は階下へ向かって問いかけた。


 「あんたが時間を無駄遣いしすぎるからよ」瑾は言った。「それに、あんたに言っておきたいことがあるから」


 「なにを……そんなふうにしてまで……」


 琪は高いところから身を乗り出し、自分と瓜二つの存在をぼんやりと見つめた。その顔には血がにじみ、埃がつき、涙の筋があった。あるいは汗かもしれない。先ほどの決闘は彼女にいくつもの傷を残していた。琥珀色の瞳は、やはり読み取りがたい。手には、端が焼け焦げた黄ばんだ紙の束があった。琪は判決を待っていた。


 「怖い?死ぬことが」瑾は顔を上げて琪に訊いた。


 琪はしばらく考えて、こくりと頷いた。「怖い」


 「でも、前ほど怖くはないかも」琪は付け加えた。「さっき、ちゃんとお別れを言えたから」


 しばらく沈黙が流れた。


 「考えたことはある?もしあの手術が成功していたら、その後どうなっていたか」


 「うん……瑾の意識が、この身体の中で目を覚まして、それで……それで……」


 「そうして、私はあんたと同じになる」瑾が言葉を引き取った。「もし今日のことがなければ、この十八歳の姿のまま存在し続けて、永遠に閉じ込められていた。身近にいた人たちがみんな老いて去っていくまで、身体が壊れて二度と修復できなくなるまで。あんたも思うでしょ、それはちょっと……」


 「とても残酷だね」


 「そうよ。生半可な救済にすぎないわ。だからこそ、父が遺した資料には、『プロジェクト・ペインキラー』の真実のすべては書かれていなかった。正確に言えば、私が見つけ出せた部分には、ね」


 「それって……どういう意味?」



 瑾は、琪の視界の死角へ歩いていった。高台の真下で、彼女からは見えない空間だ。


 「父とおじさまは、あれほど長いあいだ言い争っていた。痛覚のこと、感情のこと、人間の本質のこと。でも、協力をやめたことなんて一度もなかった。『プロジェクト・ペインキラー』の第二段階は、なかなか進まなかった。悠也おじさまは、それをここへ運び込んだの」


 「だ、第二段階?」


 銅の壁には、御堂家の月桂と歯車の家紋が刻まれた区画があった。そこが扉になっている。瑾は、先ほど悠也の遺体の指から外しておいた当主の指輪を取り出すと、指輪の面を鍵穴へ押し当てた。仕掛けが、ゆっくりと幾層にも開いていく。


 「鎮痛剤は、どんな痛みも根治できない。あんたという機械の器も同じよ。父たちは、最初からそれがわかっていた。だから、『プロジェクト・ペインキラー』の第一段階、あんたと私が知っているあの部分は、私がまだ考えられて、感じられるうちに、私をこの痛む身体から一時的に送り出すためのものだった。あくまで一時的にね」


 扉の向こうの空間は、ひどく清潔だった。白い椅子が一脚。周囲には真空管と電極と端末機が並び、天井からは数十本の導線が垂れ下がっている。どの設備にも、うっすらと埃が積もっていた。


 「第二段階は、私の元の肉体を修復すること。第一段階で稼いだ時間を使って、生体科学でそれを成し遂げる。どれだけ年月がかかってもね。なにせ、私たちの家系の得意分野じゃなかったから。彼らが思い描いた最終的な結末は、私が機械の器からもう一度送り返されて、健康な、本物の身体に戻る、ということよ」


 琪は呆然と聞いていた。瑾は椅子の前まで歩くと、上着を一枚ずつ脱いでいき、肌着一枚だけになった。


 「……だから、奇跡さえも、彼らは二つに分けてしまったのよ」瑾は冷たく笑った。「あんたもおかしいと思うでしょ?」


 琪は高台に座ったまま、しばらく反応したのち、ようやく何かを悟った。彼女は赤い液体にまみれた床を押さえて立ち上がろうとする。そのあいだにも、瑾は話しながら椅子に腰を下ろし、電極を一本ずつ手に取って、こめかみ、首の脇、胸へと貼りつけていく。


 「実験設備はここにある。意識の双方向転送も、どちらも可能なはず……理論上はね。彼らは生涯をかけても、臨床検証には間に合わなかった」


 琪は背中の探針を引き抜こうとした。しかし、探針は彼女の神経束(しんけいそく)に深く食い込んでいて、身動きが取れない。


 「いや、待って、瑾!私はこんなのいらない。私はこのままで……」


 瑾は横を向いたまま端末機を調整し続ける。「私には必要よ」


 「待って。私、了承してないよ!どうしてあんたが一人で決めるの……」


 琪は、ようやく探針を一本もぎ取った。


 「私はとても利己的よ。あんた、とっくに知ってるでしょ?」


 瑾は最後の針状電極を、腕の内側の神経へ突き刺した。痛みに、眉をわずかにしかめる。


 部屋全体が光に満ちた。光は導線を伝って昇っていき、頭上に残る「聖殿」の核の光とつながった。琪は、自分の存在がそっと持ち上げられ、そっと剥がされていくのを感じた。彼女は必死で首を振る。


 「瑾!あんたは?あんたはどうなるの!」


 めまいがした。眠りに落ちる直前のように、ぬるま湯に沈んでいく瞬間のように。琪の言葉は最後まで届かず、意識が途切れた。


 どれだけの時間が過ぎたのかはわからない。


 再び目を開けたとき、視界はまだぼんやりしていた。世界が傾いている。地面がすぐ近くにある。自分は、いま椅子から落ちて、床に倒れ伏したところだった。かつてない重さがのしかかる。この身体は息をしていて、胸が上下し、肺が開き、心臓のあたりが鈍く脈打っている。腕を動かそうとしたが、うまく言うことを聞かない。


 そこがどこか、ようやくわかった。高台の下の空間。先ほど瑾が入っていった扉の内側だ。椅子に、端末機に、天井から垂れる導線。視点が変わっていた。


 痛い。とても痛い。


 痛みが全身のあらゆる場所から届く。あの夢の中で味わったものと、よく似ている。


 琪はこの腕で体を押し上げて、なんとか立ち上がろうとしたが、すぐにまた床へ崩れ落ちた。痛みで涙がにじむ。もう一度支えようとして、また倒れる。彼女は床に伏したまま少しずつ前へ這っていき、この部屋から出ようとした。


 広間の割れた窓の外は、まだ夜だった。焦げた煙と火の粉が下の方から立ち昇り、風に散っている。


 窓辺に、人影があった。


 「……瑾。あそこにいるの?」


 銀灰色の髪に、灰青色の瞳。あの子が来たときの服を着ていて、背後には切断された何本もの線がぶら下がっていた。その姿は砕けた窓枠に凭れ、片脚を外へ投げ出している。


 「やめて……瑾……」


 「おまえ、うるさいわね。私の顔で泣きじゃくるなんて、見ちゃいられない」


 琪が見上げると、その手が持ち上がり、保温ボトルが握られていた。亮が出発まえに二人へ押しつけたものだ。中には熱くはないけれど、十分に飲めるコーヒーが入っている。瑾はあのとき「いらない」と言ったのに、結局受け取っていたのだ。


 彼女はふたを回して開け、コーヒーの香りが冷たい空気の中に広がった。うつむいて匂いを確かめ、ひと口飲む。液体が舌先をすべっていく。苦みがあって、わずかな酸味があって、かすかに甘さが返ってくる。これが、コーヒー本来の味。


 「……」


 彼女は眉をひそめて、それから、もうひと口飲んだ。


 なるほど。自分が何を逃してきたのかを、彼女は初めて知った。


 「ねえ、あんた。星野亮に伝えておいて」


 彼女は静かにカップの中の液面を見つめた。自分の一生を、見終えるように。


 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 夜風がひときわ強く吹き、琪は一度だけ瞬きをした。


 窓辺は空だった。もう何もない。保温ボトルが床に転がり、コーヒーが一筋こぼれて、湯気はすぐに消えた。琪は何度も瞬きをした。ついさっきまで、あの人影は確かにそこにいた。指はまだカップの縁に触れていて、唇にはコーヒーのぬくもりが残っていた。いまは、何もない。


 彼女は必死にそこへ向かって這っていった。身体は言うことを聞かず、床の上を引きずられていく。腕はすぐに擦り切れて血が出た。もう、これ以上、力を振り絞ることができない。目の前のものが少しずつ遠ざかり、世界が闇に沈んでいく。


 これが、瑾が毎朝目覚めるたびに感じていたもの。


 これが「生きる」ということ。


 最期に、彼女は自分の心音を聞いた。大きすぎて、近すぎた。


 ひとつ。


 ひとつ。


 ひとつ。



 帝国軍と「無歯輪者」の合同捜索隊は、「聖殿」の最上層でひとりの少女を発見した。呼吸は浅く、指先は、窓辺の方へ何かをつかもうとした形のままだった。


 彼女を乗せた医療車は、停戦したばかりの戦場を駆け抜け、帝都中央病院の救急救命センターへと疾走していった。道中、看護師は何度も血圧を測り、まぶたをめくってみた。瞳孔の対光反応は鈍く、左右で大きさが違うように見えた。だが、だれもそれに気を留める余裕はなかった。


 星野亮は、救急救命センターの入口でそのストレッチャーを迎えた。


 彼は全身ほこりまみれで、服は何箇所も破れていた。通信が途絶えてからというもの、廃墟の中を走り続け、何階ぶんもの階段を上り、渡鴉の隊に引きずり下ろされて撤退の車へ押し込まれたのだ。


 「彼女は御堂瑾です。二十歳で、確かめたいことがあるんです」彼はストレッチャーの手すりを掴んで離そうとしなかった。


 「御堂?あの御堂家の?まあいい、道を開けて。ご家族の方はいったん下がってください」


 「御堂さん!琪、琪はどこにいるんですか!」


 彼は声の限りに叫んだ。「彼女はどこにいるんですか?まだ塔の中にいるんじゃないか。彼女とよく似た、もうひとりの人を、見ませんでしたか」


 看護師が彼を押しのけても、彼はストレッチャーに付き添って走り続け、救護班が彼を処置室の外で制止するまで続いた。


 ベッドの少女は、酸素マスクで顔のほとんどを覆われていた。銀灰色の髪が枕の上に広がっている。傍らのモニターが静かに音を立てていた。処置室の扉が左右へすべり開き、看護師たちが彼女を運び入れようとしたとき、少女はふいに目を開けた。


 彼は、その目を見た。


 右目は琥珀色だった。潤いを孕み、深く沈んでいて、凝固した時や、熟成された酒のようだった。彼が何度も読み解こうとして、いつも扉を閉ざされてきた、あの夜々を思わせた。


 左目は灰青色だった。透き通るような灰色で、極地の氷晶のいちばん表の層のようだった。とある午後、ガラスを抜けた陽光が、スケッチブックの上に落ちたときの、あの光の色だった。


 二つの目が、彼を見ている。二つの目に涙がたまっている。二つの目が、彼に何かを語りかけている。


 「亮くん……」唇がかすかに動き、酸素マスクの内側が曇った。「私は、ここにいるよ」


 「()()()()()()()()()()()()()()



 窓の外は、停戦を迎えた最初の朝だった。廊下では、だれかがひそひそと話している。薬の一覧を確かめている人、隣の病室へ走っていく人がいる。


 亮はその場に立ちつくした。手は宙へ差し伸べられたまま、いつまでも下ろせなかった。


 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


 「おやすみ、新世界」。この夜が、ようやく明けようとしています。


 瑾が自分で選んだのは、約束されていたはずの「救済」ではなく、たった一口のコーヒーでした。機械の口で味わった苦さは、生身の身体では二度と得られなかった、当たり前の味です。一杯のコーヒーが、彼女の人生を閉じる最後の言葉になりました。


 そして、目を覚ました琪。右目に琥珀、左目に灰青という、だれにも説明できない不思議が、この先の答えになっていきます。


 次章はいよいよ、すべての後の物語です。もう少しだけ、彼らの世界に付き合っていただけると嬉しいです。


 ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。


 それでは、次章でまたお会いできますように。


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