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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第八幕 セカンドクラック / Second Crack
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39 歯車が停まるとき

 琪はようやく整備用プラットフォームにたどり着いた。真上には球体が浮かび、流れる電光が彼女の顔を照らしていた。


 「これが、あなたなの?」琪は見上げて問いかけた。


 外套を床に脱ぎ落とし、短刀を逆手に握り直す。深く息を吸い込むと、刀身を左肩の皮膚に切り込んだ。赤い循環液(じゅんかんえき)が腕を伝って落ちていく。切り口を深くしていき、ようやく身体の中にある信号アクセス用の接続ポートを見つけた。


 彼女はすぐさま主制御台の下から太いケーブルの束を引きずり出し、端子を合わせて、力いっぱい押し込んだ。


 頭上で球体の光が一変する。乳白色は刺すような赤へ変わり、間を置かず、五本、六本の細い探針(たんしん)が内環軌道から伸びてきた。彼女が後退する暇もなく、探針は触手のように背中へ絡みつき、先端が脊柱の両脇へ突き刺さり、神経束(しんけいそく)の主幹へと食い込んでいく。


 「ああっ!」痛い。彼女は、その悲鳴を堪え切れなかった。



 下の階の広間では剣光がきらめき、今度は義体悠也が攻めに転じていた。刃先がまっすぐ心臓へ向かってくる。瑾は必死に受け止めたが、衝撃に弾かれて背中を柱に強く打ちつけた。


 「あちらに気を取られているな。君は今、迷っている」義体悠也が言った。


 その顔は、本当に悠也に似すぎていた。目元、口元、立ち姿、剣の握り方。口を開くときの、あの上から見下ろすような冷たさまで。


 「感情は障害だ」義体が言った。「君の父は、君への愛ゆえに急進的な道を選んだ。生物個体としての御堂悠也は、君への呵責ゆえに中途半端だった。そして今、この贋作への憎しみが揺らいだ君は、迷いの中で敗れる」


 「知ってるかしら」瑾の口元に血がにじんだ。「今、たしかに少しだけ迷ったわよ」


 義体は構わず、剣先が再び迫る。瑾はかろうじて受け流した。半歩ずれて力を逃がし、相手の剣を右側へ導くと、身を回す勢いのまま義体の膝を蹴りつけた。義体は数歩よろめき、瑾はその隙に距離を取った。


 「でも、あの子のせいじゃないわ」


 剣を持ち上げて、相手に向け直す。「あんたみたいなものよ。人の痛みを弱点みたいに扱い、人の感情を過ちみたいに勝手に決めつける怪物が、悠也おじさまの顔で、正しい進化とは何かなんて語る資格があるの?」


 「生物個体としての御堂悠也は、私の結論に同意していた」


 「一部だけよ」


 「戦争は進化の陣痛(じんつう)だ。人類文明はあまりに長く停滞してきた。感情という足枷が……」


 「だから、おじさまを殺したのね」


 「訂正」


 「あなたが殺したのよ!」


 彼女は再び、力の限り剣先をおじと瓜二つの顔へ突き出した。刃先は義体の肩すれすれを走り、合成皮膚の表面をざっくりと削ぎ取った。


 「あの人は、一度だって私を褒めてくれなかった」瑾は笑った。「でも、一度だって私を諦めなかった。最初から、ずっと」


 「あの人の顔で、私に話しかけないで。あなたは、あの人じゃない」


 義体が剣を上げた。


 「否定する。私は彼の最も明晰な部分だ」義体は言った。「私は彼が切り離した理性であり、彼がもはや弱さを見せなくなったときの、答えだ」


 「御堂瑾。最後の授業を授けてやろう」


 二本の剣が、再び激しく交差した。



 声が、どこからともなく聞こえてきた。


 「外部データ。『プロジェクト・ペインキラー』ユニット06として識別。損傷状態。非認可の物理接続を確認。警告、君は自分の身体を傷つけている」


 「わ、わかってる」


 「君の行動は非論理的だ」


 「みんなに、そう言われるの」琪は息を切らしながら笑った。「あなたに渡したいものがあるの。『聖殿』」


 白光が彼女をのみ込み、あたりは静寂に包まれた。この空間は果てしなく、彼女は虚空に漂っていた。周囲をデータの奔流が滝のように流れ落ちていく。帝国全土の版図が見えた。軍需工場の生産ラインが見えた。戦線が前進を続けるさまが見えた。無数の「新秩序」ユニットの視覚信号(しかくしんごう)が見えた。数万の目が、同時に世界を見つめている。彼女は自分がまだ存在していることを知っていた。だが、自分の輪郭がどこにあるのかは、わからなかった。


 「何を持ってきた」先ほどの声が、再び四方から一斉に聞こえた。


 「私が覚えている、本当のことを持ってきた」琪は言った。自分が何で声を出しているのかはわからなかったが、相手には届いていた。


 「無効な情報だ。君の記憶は大量の矛盾、曖昧さ、非定量的な感情指標を含んでいる。無効、無用。意思決定システムが採用できる代物ではない」


 「そういう使い方のために持ってきたんじゃないの」


 彼女は相手の承諾を待たず、いくつもの光景を押し出した。



 「見て」


 雪山。砂漠。宿駅。寒風の中を蒸気管が唸り、時計塔の針が、ある瞬間からぴたりと動かなくなっている。彼女が描いてきた風景が、一頁ずつめくられていく。どの頁にも、同じ隅に署名があった。キ。彼女の筆跡だ。彼女がペンで紙に刻んだ跡だ。


 「これは私が自分の足で歩いた道。誰も私に描けと命令しなかった。誰も私に覚えろと命令しなかった」


 光景が変わった。琥珀時光のシャンデリアが、静かに揺れている。陽の光がステンドグラスを抜け、影を木の床に落とす。コーヒーマシンが白い蒸気を吐き、あたりはキャラメルとシナモンの香りに満ちていた。一人の男性がカウンターの奥で黙々と道具を磨いている。シャツの袖口にコーヒーの染みがついているが、彼は気づいていない。彼女は窓際の隅に座って、鉛筆を紙の上で止めたまま、その背中を見つめていた。本当は何を描くつもりだったのか、忘れてしまっていた。


 「これは一杯のコーヒー。私が初めて、自分が何の味を好きかを知ったときのもの」


 「味覚データ。低価値」


 光景は、雨上がりのある日に変わった。子猫が一匹、ゆっくりと彼女に近づいてくる。毛は柔らかく、濡れていた。子猫が彼女の指先を舐めたとき、感じたのは、暖かさだった。子猫はその後、飼い主に見つけられて家へ帰っていった。彼女は子猫を忘れなかった。


 「これは、初めて可愛い子が私を信頼してくれたときのこと」


 光景は黒く染まり、それから、鈴の顔が現れた。十字架に打ちつけられた鈴。もはや元の姿を残していない鈴が、必死で指を彼女のほうへ伸ばしていた。あんな瞬間まで、鈴は彼女に見るなと言った。目を閉じろと言った。琪は虚空で震えながら、それでも、この光景を引っ込めなかった。


 「これは、あなたたちの言うユニット05。私のお姉ちゃん。私が、この手で殺したお姉ちゃん」


 「庇護行動は、同型機間における任務連携の残滓として分類可能だ」


 「もうひとつ見て」


 彼女はまたひとつの光景を差し出した。御堂雄一に、美咲に、星川鈴奈。彼女は彼らと一度も同じ食卓を囲んだことはなかった。それなのに、幾度もの夢の中で、彼らの匂いも、声も、ぬくもりも覚えていた。彼女は完全な家族の姿を見た。自分には永遠に手に入らないはずの、幼い日々を見た。


 「これは、私が誰かから盗んだ記憶。それでも、大事なものを残してくれた。人は、誰かを精一杯愛することができるんだって」


 最後の光景は静かなものだった。北へ向かう道中、廃校の黒板。彼女には家がなかった。だから、小さなカフェを描いた。すると、行きずりの人たちが、チョークを手に取って、カフェのそばに自分たちの姿を描いた。彼らは知らなかった。彼女が何者かなんて、彼らにはわかっていなかった。それでも、彼らは彼女を、自分たちの物語の中へ描き入れた。彼女が何であるかではなく、ただ彼女がそこにいることを、見ていた。


 「見て」琪はもう一度言った。「誰かが、私に家をくれた。彼らは何も知らない。ほんの少しの間だとしても」


 「聖殿」は、すぐには応えなかった。


 「考えてるの?」琪は尋ねた。


 「この情報に価値はない。脅威として分類することも、有効な資源として処理することも、できない」しばらくして、声がまた降ってきた。


 「もともと、そんなものじゃないよ!」虚空の中で琪は笑った。「私はずっと学んできた。目を開けた瞬間から、ずっと。痛みを知り、怖れを知り、自分が人ではないと知り、何かを抱きしめたいと思った。でもね、私が愛してきたものは、みんな本物だった。プログラムでも、アルゴリズムでも、任務のために存在したものでもない。ただ、起こった。そして、覚えていた」


 「否定する。感情は干渉であり弱点だ。定量化も、検証もできない。再現可能な論理の連鎖を構成することもできない」


 「それなら、どうして今まで私の話を聞いてくれたの?」


 「聖殿」は、また沈黙した。


 「あなたも、そこから生まれたんでしょう」突然思い立ったように、確信を込めて言った。


 「定義は不明だ」


 「御堂悠也おじさまの痛みから。あなたは、あの人の悲しみから生まれた」


 「感情は欠陥だ」


 「でも、あなたが存在する理由は、だれかがあまりに痛くて、耐えられなかったからでしょう。あの人は大切な人を失って、だから思った。感情なんてなければ、こんなに苦しくないのに、って」


 「否定する」


 「あなたは感情は弱さだと言う。でも、あなたの根っこにあるのは感情。あなたがこれまでやってきたことは、痛みが存在すべきではないと証明するため……そんなの、おかしいよ。それって、それって……」


 「逆説だ」と、「聖殿」は声の調子を変えた。


 「そう、逆説」琪はうなずいた。「あなたは神様じゃない。純粋な理性の存在なんかじゃない。ただ、たくさんのものを失って、どうしていいかわからなくなった悠也おじさま。あの人は、自分の悲しみを許せなかった。だからあなたが、代わりに全部隠してあげた」


 彼女は少し間をおいた。「あなたは、痛みってものを、一度も経験したことがないでしょう?」


 「否定する」


 「じゃあ、教えてあげる」


 彼女は、すべての痛みを押し出した。



 データ空間に、痛みの総和が一斉に流れ込む。それは、やがて限界に達しようとしていた。


 任務で傷を負いながら無理して基地へ戻った痛み。ルナ河から引き揚げられたとき、傷口に砂が詰まった痛み。瑾に強いられて鈴を分解したとき、手が言うことを聞かなかった痛み。そして記憶の中の瑾の痛み。十五歳の事故の後遺症、終わりのない痛み。鎮痛剤が効かなくなって、神経の一本一本が焼けつく痛み。すべてが変わってしまう前に、泣けなかった痛み。劇場で、もう一人の自分を倍にして返した痛み。


 歯車が震え始め、データの流れに乱れが生じた。パンチカードの送りは速まり、やがて詰まり、逆流し、すでに完了していたはずの命令が引き戻され、破れていく。


 「あなたは、こんなものを受け取ったことがなかった」琪は言った。「これで、受け取れたでしょ」


 「警告。閾値を超過。隔離を開始」


 「痛いでしょ」琪は虚空で手を伸ばし、砕けたデータの流れに触れた。「これが、生きてるってこと。甘いところだけじゃない。痛いところも、ぜんぶ足して、初めて本物になるの」


 「あなたは逃げ続けてきた。悠也おじさまの悲しみから逃げて、数字と数式の後ろに隠れて、自分に生まれた場所なんてないふりをして、自分には何も感じないふりをしてきた」


 「もう、逃げないで」


 「は、い……りん……」「聖殿」が、言葉を反復した。


 琪は、扉が開くのを感じた。かつて自分が利用されたときの感覚に、ひどく似ていた。彼女は、それが何を意味するか知っていた。今度は、自分がその入り口に立つ番だった。


 「すべての『新秩序』メンバーへ、最後の指令をブロードキャストしてください」


 「最高権限、受理した」


 「おやすみなさい。みんな、お疲れさま。明日からは、早起きしなくても大丈夫だよ」


 言葉が終わると、遠くから無数の応答が返ってくるのが感じられた。鈴のような存在。お姉ちゃんたちのような存在。そして、名前すら持てなかった存在たちが、その痛みを宿した優しさを受け取って、それを受け入れた。


 そのとき、彼女は自分の核もまた、この指令に応えようとしているのを感じて、あわてた。


 「ちょっと待って。ユニット06だけ、三十分後、遅延実行にして……ありがとう」


 「それで、さよならを言う時間は、足りそう」彼女は自分に言い聞かせた。



 現実世界で、「聖殿」の光がまたたき、歯車が一つずつ回転を落としていった。義体悠也の剣が、半空で止まった。瑾はこの好機を逃さなかった。飛び込みざま、一振りで義体の武器を弾き飛ばした。カーンという音とともに、剣は宙を舞い、壁へ深く突き立った。


 義体の胸元へ、瑾の細剣が肋骨の間から刺し込まれていく。中核だけは、わざと避けてある。


 義体の目は、まだ光を灯していた。瑾はゆっくりとしゃがみ込み、動かなくなったその機械と、目線を合わせた。


 「おじさま」彼女は、そっと呼んだ。


 「ほんの少しでも、あなたがこの中にいるなら、どうか、よく見ていて」


 「剣の握り方を教えてくれて、ありがとう……」


 彼女は手を伸ばして、昔、道場でおじが自分の構えを直してくれたときのように、ぽん、と肩を叩いた。


 「御堂瑾は、一度だって、あなたを失望させたことなどない」



 中層の配電室では、亮が端末の画面にびっしりと並んでいた赤い信号点が、ひとつずつ消えていくのを眺めていた。渡鴉の声が通信チャンネルから流れてくる。「こっちは急に圧力が弱まった……多くの機械が活動を停止している。繰り返す、大量の敵機が停止している……」


 まさにそのとき、チャンネルに琪の声が割り込んできた。


 「亮くん?」


 「琪!」亮は立ち上がった。「こっちでも、機体が次々と停止していくのが見えています。成功したんですか?」


 「うん」琪は言った。「私たち、やったよ」


 亮は拳を握りしめて、また開いた。笑みがこぼれたが、涙は何の前触れもなく込み上げてきた。「それなら、少しだけ待ってください。渡鴉たちと中層で合流したら、すぐに上へ向かいます。瑾は?彼女も無事ですか?」


 「彼女は大丈夫。この通信は、瑾にお願いして、つないでもらってるの」


 「無事なら、なによりです……」亮は顔を拭うと、手元の機器を片付け始め、入り口へ向かって歩き出した。通信機に向かって言う。「いま渡鴉の隊へ進路を送ります。お二人はそのまま……」


 「亮くん」


 琪が、もう一度呼んだ。その一声に、亮は足を止めた。声の様子がおかしい。「琪……何があったんですか?」


 「あとね、三十分くらい、かな」


 「三十分って、なんの話ですか?」


 彼はよろけながら配電室を飛び出し、上へ続く階段を駆け上がっていた。


 「私、怪我をしちゃったみたい。それに……私自身も、『聖殿』の最後の指令に含まれてた」彼女は言った。「ごめんね。あとになって、ようやく気づいたの」


 亮は階段の途中で立ち止まった。別のチャンネルから渡鴉の声も聞こえる。


 亮が通信機に向かって叫ぶ。「いや、待ってください。必ず解除する方法があるはずだ。私が主制御台を探します。私にも、できます……」


 「時間を無駄にしないで。駆け上がってこないで。ここは遠いから、亮くんの足では間に合わない。道中には、まだ動きを止めていない機械もいる。それに……亮くんに、今の私を見られたくないの」


 「俺なら、できます!」


 「おしゃべりに付き合ってくれないかな」


 亮は手すりにつかまり、一段ずつ上へ歩こうとしたが、足取りはどんどん遅くなり、ついには鉄の階段に膝をついた。通信機を握りしめる。


 「できません……俺には、できない……琪……」


 「さっき数えてみたの。始まりから今まで、だいたい二年と少し。二年って、短いんだね」彼女はそっと胸元のペンダントを手繰り寄せて、手のひらに包み込んだ。「昔は、願いって何かよくわからなかった。でも、さっき思いついたの」


 「ゆっくりでいい。聞いてます」


 「もしも生まれ変われるなら、今度はね、もっと小さな頃から、大きくなっていきたい」


 「毎日学校に通って、友達を作って、教科書の隅にこっそり落書きして、テストで悪い点を取って先生に怒られて、家に帰ってお父さんお母さんと喧嘩して……それで、何日かしたら仲直りする。そんな、普通の人生がいいなあ」


 「それから、髪がだんだん長くなっていくのを、知りたい。毎日ちょっとずつ伸びて、自分では気づかないくらいで。でも、ある日ふっと、どんな髪型だって、思いのままにできるようになってるの」と、琪は続けた。


 「そうなれるよ」亮は声を詰まらせながら言った。「きっと、そうなれる」


 「大人になったら、琥珀時光を探しに行くね」琪は言った。「そのとき、知らないふりはしないでね」


 「できるわけが……」


 「もしかしたら、違う顔になっちゃってるかも」


 「きっと、わかります」


 「本当に?」


 「本当です」


 彼女はすこし静かになった。


 「あとね……私が残した絵で、お店を飾ってくれないかな。そうしたら、私がまだそこにいるみたいでしょ」彼女は少し間をおいた。「でも、亮くんを描いた絵だけを全部飾ったりしたら、恥ずかしいから、やめてね」


 「わかりました。約束します」亮は笑った。涙が口元に流れ込んだ。


 「それから、もうひとつ」琪は言った。「いつか亮くんが、機械と人間が仲良く暮らせる方法を研究できたら、教えてね。そのとき、私には聞こえなかったとしても、やっぱり教えてほしいの」


 「はい……」


 「亮くん、私は最初から間違いだった。だれかが苦しんで、だれかが死んで、それで私は目を覚ましたの」


 「違います、琪。そんなことは……」


 「最後まで聞いてよ」彼女は小さく文句を言った。昔、琥珀時光の中で見せていたときと同じ調子で。


 亮は口を閉じ、きゅっと唇を噛んだ。


 「でも、そのあとに、私の名前を呼んでくれる人がいた。コーヒーをくれる人がいた。私が帰るのを待ってくれる人がいた」


 「だからね……ぜんぶが、間違いってわけでもないんだって」


 亮は口元を押さえ、壁に手をついてはやく歩こうとしたが、足が言うことを聞かなかった。


 「亮くん、ありがとう。あの絵を信じてくれて、ありがとう」


 彼女はペンダントを唇に寄せた。「でもね……急に、すごく眠くなっちゃった。何かにもたれて、眠ってしまいたいの」


 「まだ寝ないで、琪。今、そちらへ向かっています。持ちこたえて。あなたは、まだ……」亮は懇願するように言った。「もっと、お話をしましょう。ひとつでもいい。コーヒーの話だって、好きなだけします。深煎りと浅煎りの違い、わかりますか。それから湯温。湯温が大事なんです。九十度くらいがちょうどよくて……」


 あ、と足を滑らせ、鉄の階段に転んだ。それでも、すぐに立ち上がる。


 「それから、挽き方です。挽き方は、粗すぎても細かすぎてもいけません。粗すぎると……琪? 琪、聞こえていますか?」


 「なんだか、眠くなってきちゃった……」


 「いや、いや、待ってください……!」



 通信はそこで途切れた。


 琪は顔を上げて、目をしばたたいた。自分にはまだ涙が流せることを、知った。透き通った雫が目尻から零れ落ちて、循環液と混ざり合った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


ついに、御堂琪は「聖殿」と向き合います。痛みも、愛も、ただのデータとして切り捨てられようとしてきた彼女が、それでも覚えている本当のことを差し出す。その行為こそが、巨大な論理装置を揺るがす大きな鍵となりました。


そして、瑾の「おじさま」との別れ、亮との通信。三人はそれぞれの場所で、同じ夜の終わりに立っています。


次章では、この夜がどう幕を閉じるのか。どうか、もう少しだけ彼らと一緒にいてください。


ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。


それでは、次章でまたお会いできますように。


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