29 砕けた欠片は、もう繋がらない
久しぶり、久しぶり、久しぶり。
だがそれは、けっして待ち望んだ再会ではなかった。
時間が、時間が足りない。星野亮は、自分がただ実験室に座っているだけの学者だということを、これほど呪ったことはなかった。
車の正面が屋敷の鉄門を押し破り、急停車したのは母屋前の噴水の脇だった。ここ数時間、星野亮はアクセルを踏み込み、片手でオフロード車のハンドルを握り、もう一方の手で軍用地図を広げて助手席に押さえつけていた。北の境の拠点から首都圏近郊の都市まで、山あいの渓流沿いや林道、公道をひたすら飛ばし、何度かカーブを曲がりきれず谷底へ転落しかけた。冬の夜霧をエンジン音が切り裂き、警告の銃声も砲声も無視した。車体は弾痕と擦傷にまみれ、フロントガラスはほぼ全面に罅が入っている。
彼は誰よりも、自分が遅すぎたことをよく分かっていた。
亮はドアを蹴るように開けて運転席から飛び降りた。急な姿勢の変化に、危うく砂利道に倒れ込むところだった。エンジンすら切っていない。灼けた車体からはまだ白煙が立ちのぼる。百キロ余りをともにした壊れかけの車を振り返る時間すらなく、彼はよろめきながら母屋へ走った。
もしかしたら、琪ならどんなに不利な状況でも、しばらくは自分を守れるかもしれない。反乱軍の暗殺者としての彼女の腕前を、彼は目の当たりにしてきたのだ。
もしかしたら、瑾にまだ少しばかりの理性が残っているかもしれない。
もしかしたら、取り返しのつかないことが起こる前に、自分が間に合うかもしれない。
道すがら、彼はそんな推測をくり返し自分を奮い立たせてきた。だが、理性的な思考の部分は、完全には捨て去れなかった。
もしかしたら、すべてはとうに終わっているのかもしれない。
もしかしたら、この旅の唯一の意味は、この悲劇の後始末をつけることだけなのかもしれない。
母屋のなかは漆黒だった。壁面の蝋燭はすべて燃え尽きている。亮の懐中電灯の光が額縁を撫で、彼はそのなかにあの少女の肖像を見つけた。御堂瑾だった。絵のなかの瑾はあざやかに微笑んでいた。すべてが起こる前、苦痛が降りかかる前、彼女がまだ持つことのできた笑顔だ。両親のあいだで、愛に包まれて立っている。運命がどんな贈り物を用意しているか、まだ何も知らない。
亮は深く息を吸い、無理やりに視線を剥がした。直感に従って屋敷の奥へと進み、いくつかの曲がり角を抜け、何枚もの閉ざされた扉の前を通り過ぎた。どの扉の向こうにも、この家族の秘密が隠されているのだろうが、いまは気にかけている余裕がなかった。
やがて彼は一枚の紅木の大扉の前に立った。ここだけ、扉の下の隙間から光が漏れている。亮が取っ手に手をかけると、冷たい感触に身震いが走った。自分の心臓の音が聞こえる。
頼む。
まったく無意味な祈りのあと、彼は取っ手を回し、思いきり扉を押し開いた。
まずは臭いが襲ってきた。とっさに手で口と鼻を覆ったが、あの異様な臭いはすでに鼻腔の粘膜の奥へと深く焼きついていた。彼は無理やりにもう一歩踏み出し、劇場の敷居を越えた。
嗅覚のあとに視覚が追いつく。内部の照明が空間全体をまばゆく照らし、視界はその突然の光にしばし奪われた。彼は目を細め、瞳孔が慣れるまでの数秒を待った。
スポットライトの光柱のなかに、彼は舞台の上の「彼女」を見た。
御堂琪が「血の海」に跪いている。彼女のまとうドレスは、もはや血に染まった屍衣だった。裾から襟元まで、袖口から帯まで、白い布地という布地がすべて、赤黒い染みに覆われている。かつては精巧に彫琢されたレースやフリルは一塊に張りつき、液体を吸って重く垂れ下がっていた。髪は乱れて肩にかかり、幾筋もが絡まって束になり、ところどころからはまだ赤いものが滴り落ちている。
琪の傍らでは、十字架に残された半身が無力に吊り下げられていた。両脚を失い、左腕を失い、胸腔を無惨に抉り開かれた、損壊した人の形。頭は垂れ、目は半開き、長い濃灰色の髪がばらばらと広がっている。それでも亮には、その顔を識別できた。
ユニット05、鈴。
琪の「姉」。
亮の脳は目の前の光景を処理することを拒否した。琪の周囲に散らばるものを、かつてひとりの「人」に属していたと認めることを拒否した。けれど彼の視覚は忠実に、あらゆる細部を伝えつづけてくる。両脚は制御を失って力をなくし、喉の奥から酸っぱい液が込み上げた。彼は舌先を強く噛み、痛みに無理やり現実へと引き戻された。吐くことも、気を失うことも、逃げ出すこともできない。琪がまだそこにいる。自分はなんとしても。
彼は扉枠にすがりつき、激しく喘いだ。琪はうつむき、両手を「血の海」のなかで忙しく動かしている。彼女は地面から千切れた神経束を拾い上げ、鈴の空っぽになった腹腔へと押し戻そうとしている。つぎに螺子を拾い、歪みきった合金の骨格に押し込もうとした。
「ちがう……ここじゃない……」
「つなげば……つなげば治るの……」
彼女の動きは不器用で、頑なだった。何度も狙いを定め、何度も外れ、何度も拾い直して、また押し込もうとしては落とす。そのくり返し。すべては空しかった。
「琪!」
亮は舞台に駆け寄り、よろめきながら上がった。数歩ぶんの距離で足を止め、亮は彼女の顔を見た。まだらの血糊にまみれ、涙はとっくに乾き、蒼白い痕を二筋残している。まるで死人だ。彼女の眼差しは散り、全身が震えていた。
「琪、ぼくの声が聞こえるか?」
亮は手を伸ばして彼女の肩に触れようとしたが、指先はあと数センチのところで止まった。触れるべきかどうか確信が持てなかった。その接触がどのような予測不能の反応を引き起こすかわからなかった。それ以上に、いま目の前で真紅のなかに跪いているこの存在が、かつて砂糖入りの珈琲に満ち足りた笑みを浮かべていたあの少女と、ほんとうに同じなのかどうかすら、半ば確信を失っていた。
琪は応じない。彼女は狂ったようにユニット05のコアを手の甲で拭き、上の赤い汚れを落とそうとしている。けれど拭くほどに汚れ、拭くほどに絶望が深まった。
「琪、それを置くんだ」亮はできるだけ声を平静に保った。「ゆっくり、まずは置いてくれ」
琪の指がわずかに収縮した。拒んでいるかのようだった。
「琪」
亮がもう一度呼びかけ、今度はようやく腹を決めて、そっと琪の手首を握った。これにはじめて、彼女は反応を示した。彼女はゆっくりと顔を向け、その灰青色の目が亮の視線とかち合った。たっぷり半分鐘、ただ見つめ返すだけで何の反応もなかったが、ふいに彼女の瞳孔が収縮した。
「亮くん……なの?ひさしぶり……だね」
彼を認識したようだったが、その顔には困惑が浮かんでいた。
「ああ、ぼくだ」亮は強く頷き、声に少しでも多くの確かさと温もりを込めようと必死だった。「琪、ぼくだ。来たよ」
「亮くん、ちょうどよかった」琪はまばたきをして両手を持ち上げ、なかの部品を見せた。「手伝って。わたし……姉さんを壊しちゃったみたい……手が滑って、部品が戻らなくて……」
「わたしの手……手がいうこと聞かないの……勝手に動いて……やめたかった、ほんとうにやめたかったのに……どうして……どうしてなの……」声には泣き声が混じっているのに、涙は出てこなかった。
「あなたはすごい科学者で……こういうの詳しいから……きっとどうにかできる……」
彼女はよろめきながら亮のほうに数歩這い寄り、また振り返って残骸を見つめた。
「これをつなげば……つなぎさえすれば……姉さんは目を覚ますよね」彼女は亮を見上げ、コアを掲げ、もう一方の手で断線した神経束をひっきりなしに撫でつけている。「目を開いて、わたしの名前を呼んで、昔みたいに髪を撫でてくれる……よね、亮くん。わたし、姉さんを殺してないよね。そうでしょ?」
「琪……やめてくれ。頼む……やめてくれ」亮は吐き気を催すような空気を深く吸い込み、無理やり足を踏み出した。慎重に片膝をつき、いまもなお無益に死体の修復を試みつづける琪の両手に、自分の手を重ねた。
「でも……でも姉さんが……」
「聞いてくれ、琪」亮はできるかぎり優しく言った。「鈴はもういないんだ」
「もういない?それって……いないって……ちがう!嘘だ!もう一回だけ——」琪が突然もがき暴れだし、亮は危うく振り飛ばされそうになった。
亮は必死に彼女を押さえつけ、その両手を彼女自身の胸に押さえつけた。ますますヒステリックになる彼女の言い訳を遮り、「ぼくを見ろ!琪!ぼくを見るんだ!」
琪の抵抗はしだいに弱まり、痙攣と震えだけが残った。
「わたしがやったの……?わたしが……姉さんを……」
「君じゃない……君のせいじゃない……これは……これは事故なんだ……」亮は彼女の耳元で、嗚咽を堪えながら繰り返した。
彼女の唇は震え、指がゆるゆるとほどけていった。コアが掌から滑り落ち、血の海のなかへ落ちる。琪は空っぽの掌をぽかんと見つめ、涙が絶えまなくこぼれ落ちた。彼女は声を出せず、泣くことさえできなかった。
「亮くん……痛いよ……」彼女は自分の胸のあたりの服を握りしめた。「ここが……痛いの……」
その瞬間、亮は彼女の目のなかで、最後の一片の希望までもが消えゆくのを見た。彼女は全身を前のめりに倒した。慌てて手を伸ばして彼女を受け止め、腕のなかに抱き寄せる。琪の身体はぐったりと力なく、頭を亮の胸に預け、乾ききらぬ液体が髪から亮の服へと染み込んだ。
「遅かった……」
亮は彼女を強く抱きしめ、片手で彼女の後ろ頭を支えた。腕のなかの身体は氷のようだ。自分の体温で温めようとしながらも、それがもはや無力であることを彼は知っていた。彼女の心は。もしそこにほんとうに心が存在するのなら、もう完全に砕けてしまったのかもしれない。
亮は深く息を吸い、顔を上げると、舞台の向こう側でずっと彼らに背中を向けつづけている漆黒の人影を、きつく睨み据えた。自分の脳裡で何かがついに切れるのを感じた。学者としての理性、傍観者としての抑制が、もはや欠片も残っていなかった。
御堂瑾。
グランドピアノの傍らで、彼女はいつの頃からか身を翻し、ここで起きているすべてに背を向けはじめていた。少なくとも亮が劇場に踏み込んでからいまに至るまで、彼女は一度も振り返らず、一言も口にしなかった。その肩は微かに震えており、いまこうして目を瞠り全神経を集中して見つめていなければ、けっして気づけなかっただろう。
笑っているのか。それとも泣いているのか。亮にはわからなかった。ただ込み上げる怒りだけがあった。
「満足か」亮は一語ずつ刻みつけるように問うた。
瑾は答えない。
「なんとか言え。理由を言え。このすべてが何のためなのか教えろ」
亮は腕のなかの、すでに昏迷状態に陥った琪を解放し、彼女がしばらくは過激な反応を起こさないことを確かめると、十字架の足元にもたれかけさせ、自分はゆっくりと立ち上がった。亮は瑾を凝視したまま、右手を腰にまわした。
「御堂瑾、これが君の望んだことか?これが復讐だっていうのか?こっちを向いてよく見ろ、自分の傑作をな!どうした、直面できないのか!?」
それは彼が生涯で出したことのない声だった。そして拳銃を引き抜き、黒い銃口をその背中に向け、指を引金にかけた。ひとりの学者として、珈琲師として、いま彼は人を殺す鉄器を握っている。瑾は背後の脅威をまったく意に介さず、背を向けた姿勢のまま沈黙しつづけている。
「あれだけのことをひとりで経験し、あれだけのことをひとりで計画しながら、自分がどう考えているのか、他人にはけっして話そうとしなかった。どうしてなんだ、御堂さん。ぼくは言ったはずだ。君の周りにはずっと、君の状態を心配している人たちが大勢いる。何か困難にぶつかったなら、みんながどうにか助けになろうとするだろう、と。君はいつもだんまりで、ぼくたちが勝手な推測をし、そのせいで焦り、恐怖に怯えるのを、面白がって見ていたのか。聞かせてくれ」
「いや、わかったぞ」亮は冷笑した。「君たちはどうもぼくに本心を明かすのが好きじゃないらしい。その点では、君たち二人はまったく同じ鋳型から出たようなものだな」
「ここ数日ずっと考えていた。なぜ君はぼくに、機械の『崩壊』現象の存在を何度も確認させたのか。もうずっと前に見抜いていたはずなのに。いまこの瞬間になってようやく、少しばかり見当がついてきた。君は『無歯輪者』の力を借りて二年ものあいだ調査し、あれだけ多くの機械を解体し、あれだけの資料を分析してきた。無駄だったはずがない。悔しかったんだろう?」
瑾はまだ沈黙している。
「君の父親が君を新しい身体に移植する過程で、君の全感覚を破壊せんばかりのあの巨大な苦痛が、おそらく最初のデータとしてユニット06にも注ぎ込まれた。それは新しく生まれた存在にとって、凌遅刑にも等しかったはずだ。あの瞬間、今夜と同じような現象が起きていて、何かほかの企みを持つ者に利用されたとしても、少しも不思議じゃない」
「御堂家の変にせよ、機械反乱にせよ、もちろん悲劇だ。だがなぜ君は、すべての憎しみを彼女たちに押しつける。君は自分を騙し、逃げているだけだ。君は被害者だ、それは間違っていない。だが君は正義でもない、そうだろう。彼女たちに魂があるかどうか、君はほんとうに気にしていないのか。認めるのが悔しいだけじゃないのか」
亮の声はつまり、彼は荒い息をつき、銃口が揺れた。
「彼女たちも痛みを感じ、泣き、互いのために犠牲になるんだ!」亮は怒鳴った。「それは多くの人間よりもずっと真実だ!君よりも……いまの君よりもずっと、生きた人間らしい!」
その背中が微かに動いたが、なおも口を開かない。
そのとき亮の視界の端が、舞台下の座席に硬直して座る十数体の死体を捉え、彼はそのなかに渡鴉の姿を認めた。「無歯輪者」の北の拠点を離れるまえに繰り広げられていたあの惨劇を思い返し、怒りが極まって彼は笑った。
「君は一線を越えた。君は彼女たちを君に変え、このすべてを地獄に変えた。君は復讐しているつもりか。違う、断じて違う。君は悲劇を複製しているだけだ!」
「……疲れた」
空気がしばらく固まった。瑾がそっと言った。
「なに?」
「私が……疲れたの」
「それだけか!?それが一番踏みにじってはいけないものを踏み潰した理由か、もう一度言ってみろ!!!」亮は自分の耳を疑った。
「私!は!疲れたの!」
「御堂瑾……この……救いようのない化け物が!!!」
だん、だん、だん、だん、だん、だん。からからから。
理性は完全に崩壊した。すべてを破壊したいという衝動があまりにもリアルだった。
火の光が煌めき、連続する発砲音が劇場に谺した。怒りの咆哮とともに、亮は目を堅く閉じて一気に引金を引き絞った。回転式弾倉のなかの六発の弾丸を、すべて撃ち尽くした。硝煙が渦巻き、火薬の臭いが立ちこめた。自分が何をしているのか、彼にはわからなかった。銃声が止み、空の弾倉が空回りするかちかちという音だけが残って、亮はゆっくりと目を開けた。
煙塵が徐々に晴れていくと、瑾はやはりそこに立っていた。
弾丸はすべて逸れていた。一発だけが瑾の頬をかすめて血の筋を作り、あとは舞台の上のスポットライトを撃ち抜いてガラスの破片を飛び散らせ、あるいは背後の壁に打ち込まれて石屑を跳ねさせ、あと一発は瑾の顔の横の銀灰色の髪を数筋なぎ払って、切れた髪がふわりと肩や床に舞い落ちていた。
亮は、自分の手首が誰かにぎゅっと握られているのにようやく気づいた。
「琪!?」
「やめて……亮くん、汚れちゃだめ……私と同じになっちゃだめ……」
彼女はどこからそんな力が出たのか、発砲の瞬間に飛びかかり、両手で必死に亮の腕を抱えて、銃口を無理やり逸らしたのだ。彼は愕然と目の前の少女を見た。その血と汚れにまみれた顔を。琪の表情はあいかわらず呆然としていて、亮の心のなかの怒りは瞬く間にその大半を水で流され、代わりに深い挫折感が込み上げた。彼はがっくりと床に膝をつき、涙がどっと溢れ出した。
「すまない……すまない……ぼくは……なにもできなかった……」
琪は答えず、ゆるゆると星野亮を掴む手を離した。
「もし君が私を打っていたら、それもまたひとつの鎮痛剤になったのに。惜しいことをした」
舞台の向こう側で、瑾はゆっくりと手を上げ、頬の血のあとを撫でた。彼女は指先の鮮紅を、照明の下で長いあいだ見つめてから、ようやく口を開いた。
「君が来るのは私の予想より少し早かった。君はこれらを見るべきじゃなかったのに。私が甘かったのね。彼女に対する君の執着を、見くびっていた」
彼女が振り返り、亮はその顔をはっきりと見た。
「区別なんてないんですよ、星野さん。それを知ったところで、何が変わるんです。すべてはもう起こってしまった」
「区別がない?」
「わかっているんです。このすべての背後には、私がまだ解き明かせていない秘密が、あまりにもたくさん隠されている。それもわかっています。もし私にあと少し時間が、あと少し力があったなら、本当の元凶を突き止めて、思い知らせることができたかもしれない。もしかしたら……」
彼女は口を噤んだ。
「でも疲れた、星野さん」瑾はそっと言って、自分の両手を持ち上げて目の前に掲げた。
「だから……だから私は、まだ手の届く標的を選んだ。彼女を選んだ。私の家族のすべての希望を背負わされ、本来なら私を救うはずだったのに、すべてを滅茶苦茶にしたあの存在を。彼女の存在そのものが嘘だった。せめて、私に起因するこの過ちだけは、この手で正さなければならなかった」
「ただそうしたかっただけです。完全に倒れてしまう前に、もう剣を握る力さえなくなる前に……」
「彼女に価値はないと証明すること。このすべてに意味はないと証明すること」
「ただそれだけです。私の終着点なんて、とても利己的だったでしょう」
そう言い終えると、瑾は力のすべてを使い果たしたように見えた。身体が揺らぎ、彼女は手を伸ばしてピアノに縋りつき、どうにか体勢を保った。亮は口を開きかけて何かを言おうとしたが、何ひとつ言葉は出てこなかった。
「いますぐ彼女を連れていってください、星野さん。そうしたいと思うなら」
彼女は手を差し伸べ、琪の眉間を指さした。
「私の気が変わるまえに、その贋作を抱えて私の世界から消え失せてください。二度とその顔を見せないで」
「君は……」
「失せろ!!」
亮は嘆息し、彼女を深く見つめた。彼は自分の外套を琪に着せてかがみ込み、背負った。彼女の重みは想像よりずっと軽く、胸が痛むほどだった。赤く染まったドレスが亮の背中に貼りつき、なすがままの姿はまさに屍体そのものだった。
彼は背を向けて立ち去った。
劇場の出口まで来たとき、ごくかすかな咽び声が聞こえたような気がした。彼は足を止め、振り返って遠く舞台の上の黒い人影を見つめた。その弱さが、その絶望が、そしてその乾ききった魂が見えた気がした。
「御堂さん、知っていますか。ほんとうの終わりとは死ではないんです。誰のことも、君に代わって許す資格はぼくにはない。けれど、これが結末ではないことを願っている。誰の結末も、君が決めていい権利なんてないんだ。君自身の結末でさえも」
瑾は答えなかった。
足音が遠ざかり、最後の音も夜のなかへ消えた。屋敷はふたたび死の静寂に沈んだ。
劇場には御堂瑾だけが残された。
スポットライトはなおも灯りつづけ、彼女は一面の血の汚れと部品とを見つめていた。残骸のあいだに、ひときわ目立たない小さな金色の筒がひかりを反射していた。さきほど琪が狂ったように解体しているとき、ユニット05の胸腔の奥からそれを引き抜き、そのまま無造作に脇に放り投げていたのだ。瑾は以前、ユニット01から04の身体のなかでこれに似た部品を見たことがなかった。彼女は身をかがめて円筒を拾い上げ、検分した。なかに何かが入っているようで、鉛封の近くに細かな文字が刻まれていた。
AD KIN
円筒はあやうく瑾の手から滑り落ちるところだった。この筆跡は、この筆跡は彼女があまりにもよく知っているものだった。あの美しい筆記体を書く少女。いつも無邪気に笑い、彼女の耳元でぴいちくぱあちくと喋りつづけた、たったひとりの親友。
星川鈴奈。
震える手で彼女は封を切った。なかには乾からびた一枚の月桂の花弁と、爪の先ほどの保存チップが巻かれていた。彼女は周囲を見回し、チップを舞台投影の読取端末に差し込んだ。数秒の遅延のあと、投影幕が明るく灯る。
「ゴホン。テス、テス。ええと、現在は3121年3月23日17時34分、うん、合ってる!」
いま学校から帰ってきたばかりらしく、まだ制服を着ている。背景はまっ白い部屋だった。彼女は咳払いをし、レンズに向かって手を振った。
「はい、瑾。それとも、未来の瑾?もしかしたら未来のあたしも隣にいるのかな?うーん、なんか変な感じ。幽霊と喋ってるみたいだね、あはは!」映像のなかの鈴奈は嬉しそうに手を叩く。その声は透き通って快く、活力に溢れていた。
「もしあなたがこれを見つけたなら、そろそろ秘密を教えるときだね。実はね……あたしもこのプロジェクトに参加してるんだよ」
「あのね……実は、雄一おじさまと悠也おじさまが、ボランティアに協力してくれってあたしのところに来たときは、最初は断ったんだ。あたしの記憶と人格データの一部を抽出して、ユニット05って呼ばれてるあの試作機をテストするのに使うんだって。なんだかすごく怖くない?頭のなかのものを抽出するとか……」
鈴奈は頭を掻き、ちょっと照れくさそうだった。
「でも、これは君のためなんだって。ユニット06、つまり君の未来の新しい身体が安定して動くようにするためには必要なんだって。それに危険はないって保証してくれた。せいぜいちょっと目眩がするくらいで、眠れば治るんだって。あたし、あの技術のことはぜんぜんわかんないけど、でも、あの人たちが君をほんとうに深く愛してるってことは、はっきり伝わってきた」
「それじゃ仕方ないよね。君はあたしの一番の親友なんだから。だから引き受けたよ。今年の冬の成人祝いには、あたしからの分も入ってるんだからね!ちょっと痛いかもしれないけど……でも平気。瑾ちゃんのためなら、こんなのなんでもない」
「そうそう!さっき、まだ完全にはできあがってないユニット06をこっそり見ちゃった。しーっ」
「ほんとに瑾ちゃんとそっくりなんだよ。でも……なんだか気のせいかな、ちょっとだけ幼く見えるんだよね。頬にまだ赤ちゃんみたいな丸みがあって、むにっとしてて、すごくかわいいの」
「それで昔の瑾ちゃんを思い出しちゃった。事故に遭うまえの、まだ病気になってなかったころの君を。あの頃の君はね……」
「だから……だからあたしは思うんだ。もしこのプロジェクトでほんとうに君が痛くなくなったなら、君はきっと、絶対に、またあのよく笑う瑾ちゃんに戻れるって」
映像のなかの鈴奈がふいにカメラに顔を近づけ、表情がまじめなものに変わった。
「瑾ちゃん、よく聞いて」
「この何年か、君がすごくつらい思いをしてきたのを知ってる。君はいつも無理して平気なふりをして、あたしのまえでは決して泣かなかったけど、あたしは全部知ってる。毎回君が痛くて耐えられない様子を見るとき、薬を飲んだあとのぼうっとした君を見るとき、そのたびに……」
「あたしの心までほんとうに痛くなるの。代わってあげられたらなっていつも思う」
「瑾ちゃん、絶対に元気になって。絶対に健康になって。新しい身体になって、もう痛くなくなったら、また一緒に馬に乗りに行こう。旅行にも行こう。美味しいものをたくさんたくさん食べに行こう……」
「で、これね、うん、いわばタイムカプセルかな。臨床試験に参加する交換条件として、あたしのほうからおじさまたちにお願いしたんだ。えへへ、こいつの『心』のなかに隠してもらうようにね。このユニット05って試験機がこれからどうなっていくのかはわからないけど、おじさまたちの話じゃ、たぶん永久に封印されるんだろうな。もし……もしだよ、いつか将来、このロボットがまた起動することがあったら、そのときはなかのこの小さな『あたし』も、一緒に君のそばにいられるかもね?」
「その頃には、ほんもののあたしはもう年を取って、歩けなくなって、髪もまっ白かもね。あはは!」
「でも大丈夫!」
画面の外から呼び声がした。
「あっ、看護師さんが呼んでる」鈴奈が振り返って返事をし、それからまたレンズに向き直って手を振った。「それじゃ、このへんで」
「がんばってね。あと九ヶ月、君が手術を受けるその日、君が目を覚ましたときに真っ先に目に入るのは、絶対にあたしだよ。天が落ちてきても絶対に離れないからね」
「これ、約束だよ!」
彼女は小指を差し出し、レンズに向けて曲げてみせた。映像が一瞬ちらつき、最後に鈴奈のあざやかな笑顔で静止した。
「瑾。大好きだよ。ずっとずっと、君の一番の親友だからね」
「……」
「……」
「……」
「みんな……みんな……」
「……ばかみたい」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身、雨時です。
本章では、亮がようやく御堂家の劇場に辿り着いたところから始まります。そこで彼が目撃した光景は、これまで物語が積み重ねてきた残酷の極点でした。自らの手で姉を解体し終えた琪は、砕けた部品をかき集め、もとに戻そうと必死に試みつづけています。その姿に、亮はただ寄り添うことしかできませんでした。
また後半では、亮が瑾に向けて、これまで誰も口にしなかった問いを真正面から投げかけます。そして物語の最後、ひとり劇場に残された瑾の手に渡った、思いがけない遺品。
ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。
次章でまたお会いできますように。




