表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第六幕 残滓 / Coffee Grounds
29/33

28 黒きミサの夜

 「残念なことに、今夜は私たち二人とも、まだここに立っている。あなたは私を宿す新しい身体にも、私の鎮痛剤にも、なれなかった」


 御堂瑾が首を振ると、背後の投影が再び明るく点った。今度は監視記録映像だった。画面は激しく乱れ、画質は粗く、緑色のノイズが全体を覆っている。この映像そのものが破壊的な損傷を経験したことは明らかだった。タイムスタンプは二年前の深夜、帝国暦3121年12月11日23時39分。瑾の十八歳の誕生日前夜、「御堂家の変」が起きたまさにそのときの手術室の内部だった。


 映像に音声はなく、残された時間もごく僅かだった。けれど血の色だけは、はっきりと残っていた。赤い、赤い血の色。


 「どうか、よく見て」


 手術台の周囲は惨憺たる有様だった。血溜まりの中央で、銀灰色の髪の背中が拳銃を握りしめ、銃口からはまだ硝煙が立ちのぼっている。その足元に、一組の中年夫婦が倒れていた。男は背後にいる誰かを守ろうと両腕を広げた形のままで、女の真珠の首飾りは千切れ、珠が血のなかに散らばっている。


 琪は呆然と、殺戮(さつりく)を続ける「自分」がゆっくりと振り返り、手を上げ、監視カメラに銃口をまっすぐ向けるのを見つめていた。


 だん。


 音はないのに、琪にはその耳をつん裂く銃声が聞こえた。画面は銃火の閃光のなかでぷつりと途切れ、やがて砂嵐に変わった。


 「ああ、どうやらあのときもあなたが監視カメラを壊したみたいね。でも、これだけあれば十分だわ」瑾は残念そうに肩を竦めた。「思い出した?みんなを殺したのは、あなただ」


 「いや、いや、あれは私じゃない、私じゃない、私じゃない……」


 琪はその場に凍りつき、目を見開いて自分の両手を凝視した。その手は、彼女の目にいまも鮮やかな紅色に染まっている。発砲の反動で痺れた虎口、跳ね返った熱い薬莢が頬をかすめた灼熱、人体を引き裂くときの湿った音。すべてが一気に戻ってきた。あれは彼女がやったことだ。封じられていた記憶が、残らずこじ開けられていく。


 「これがあなたの生まれ方、ユニット06。私の十八歳の誕生日が間近に迫ったその瞬間、あなたは予定より早く目を覚ました。私はこの目で見たのよ。あんたが、私の顔で、私の身体で、私の両親と親友を殺し、その場に居合わせたすべての人間を殺すのを。あんたは痛みを止めるどころか、私の愛のすべてを、この手で抉り取った」


 「どうして……どうして私が……わざとじゃない……なにも知らなかった……いやだったのに……」琪は泣き疲れて力尽き、床にくずおれた。


 「なにも知らなかった?は」


 瑾は一歩一歩、崩れ落ちた琪に近づき、しゃがみ込むと、手を伸ばして琪の顎を掴み、無理やり顔を上げさせて自分の目を見つめさせた。寸分違わぬふたつの顔が、触れ合わんばかりの距離で向き合う。


「だから言ったでしょう。あんたがこの世界に生まれ落ちたその最初の一秒から、その手はもう血に塗れていたんだって。珈琲の香りが漂う小さな店に逃げ込んで、無邪気な画家のふりをすれば綺麗に洗い流せるとでも思ったの?夢を見るのも大概にしなさい」



 「さあ教えてよ、琪。いったいどっちがより残酷なのかしら。復讐のために生きてきた私か、それとも生まれつき殺戮のためにつくられたあなたか」


 瑾の指先が一層強く食い込み、爪が琪の頬のなかに沈んでいく。


 「……もう、やめて……瑾、お願い、ごめんなさい……」


 「この、穢らわしい……化け物」


 「あああああああああああああっっ!!!」


 鋭い悲鳴のあと、御堂琪はふつりと静かになった。頭を垂れ、両腕を力なく体側にぶら下げている。しばらくして再び顔を上げたとき、その灰青色の瞳はうつろで、生気がなかった。涙の痕はまだ残っているのに、表情という表情が、その一瞬ですべて消え失せていた。それを見た瑾の、さっきまで氷のように冷たかった顔に、笑みが浮かんだ。


 「ああ、ようやく静かになったのね」


 瑾は立ち上がって手を叩いた。舞台の背面幕がゆっくりと巻き上げられ、このミサのほんとうの祭壇が露わになる。


 「でも、話を戻すけど、あんたはこれが罠だとちゃんとわかっていながら、それでも自分の大切なものを探すために、たったひとりで危険を冒してここへ来た。その勇気だけは認めてあげる」


 「この贈り物はね、あなたのために特別に用意したの。この日のために、ずいぶん骨を折ったんだから。必ず、しっかりと受け取って」


 瑾は振り返り、舞台の後方へと向かった。そこには、人の背丈を超える十字架が屹立していた。幾重もの重い鎖に雁字搦めにされた人影が、両腕を引き伸ばされ、長い釘が両の掌を貫いて横木に打ちつけてある。両足は宙に浮いていた。一振りの刺突剣が鎖骨から身体を貫き、十字架の背面まで突き刺さり、まるで標本のように固定していた。


 それはユニット05だった。


 鈴だった。


 彼女は見る影もなく、衣服はぼろぼろに裂け、下からは無数の痛々しい傷痕が覗いていた。ほとんど原形をとどめていない。頭は深く垂れ、胸元にごく弱い起伏があるだけだ。十字架の前の小机の上には、さまざまな工具がずらりと並べられていた。


 「さあ、自分の手で贈り物を開けてごらん、泣き虫のお嬢ちゃん」



 瑾の声が終わるか終わらないかのうちに、琪の灰青色の瞳の瞳孔が急速に収縮し、やがて針の先ほどの黒点になった。静かで、冷淡で、一片の生気もなかった。


 琪が動いた。小机から高周波振動切断刀を手に取り、十字架の前まで歩くと、鈴の足元にしゃがみ込んだ。刃が唸りを上げ、琪は切っ先を鈴の左足首の関節に宛がった。


 「……琪ちゃん?これはいったい……」


 十字架上の鈴は、激痛のなかで目を開き、か細く呼びかけた。彼女は必死に瞼を持ち上げ、その顔を見た。命を懸けてでも守り抜くと誓った、あの顔を。


 ジジジ――


 刃が食い込む。耳障りな切断音が劇場いっぱいに響き渡り、赤い循環液が噴き出して、琪のドレスの裾に幾輪もの花を咲かせた。


 「あ……っ!」


 鈴は短く呻き、鎖に縛られた身体が痙攣する。鉄鎖ががちゃがちゃと激しく打ち合い、十字架も震えた。


 琪は足首の人工靭帯をすべて切断し、続いて合金の骨格を断った。それからカッターを置き、油圧プライヤを手に取ると、もう千切れかけた脛の部分を挟み込み、力を込めて捻り切った。鈴の左の下腿がもぎ取られ、琪は無表情のまま、それを脇のトレイに置いた。


 「琪ちゃん……やめて……」鈴の目尻から涙が伝い落ちた。「自分が……何をしているのか、わかっているのか……」


 琪の身体が一瞬こわばったが、すぐに次の道具を手に取った。彼女の「魂」は、手に伝わる振動のひとつひとつを感じていた。空気のなかに濃くなっていく焦げた臭いを嗅ぎつづけていた。姉の身体が砕け、崩れていく音を聞きつづけていた。それでも彼女は、目を閉じることさえできなかった。


 切断し、分離し、解体する。足首から膝へ、膝から大腿へ。琪は鈴の脚の人工筋肉を辛抱強く剥がし、なかのセンサーを一枚一枚つまみ出しては、断ち切っていく。赤い液が琪の両手を染め、腕を伝って袖口のなかへ流れ込み、やがて床へと滴り落ちる。


 「御堂瑾……」


 鈴はようやく、そう遠くない場所でピアノに向かって座る、あの黒い人影を捉えた。


 「これが……おまえの望みか……?彼女を……妹を、放してやってくれ……」


 瑾は両手で顎を支えていた。


 「綺麗な手並みでしょう。私はただ、あなたたちを本質へ還してあげているだけよ。父の設計は完璧だわ。『心』を失っても、彼女はやはり優秀な処刑人だ。見てごらんなさい、あの集中ぶりを、あの没頭ぶりを」


 「続けて。お姉さんをあまり待たせてはいけないわ」



 琪の手のなかの道具は骨鋸(ボーンソー)に替わった。彼女は鈴の腹部に取りかかる。鋸歯が腹腔を切り開き、鈴はついに堪えきれず悲鳴を上げた。


 「琪ちゃん……大丈夫だからね……」


 激痛の合間に、鈴は眼前の無表情な顔を見つめ、それから突然、限りのある力のぜんぶを振り絞って、優しく言った。


 「おまえのせいじゃない……まちがってもいない……」


 鈴は必死にもがき、釘から片手を抜き取ろうとした。掌は裂け、鮮血が滴り落ちた。それでも彼女は懸命に手を伸ばし、琪の虚ろな目を隠そうとした。


 「見るな……目を閉じて……いまの姉の姿を、見てはいけない……」


 その声に、琪の手がはげしく震え、逸れた鋸刃が鈴の腹に不規則な長い裂け目を刻んだ。火花が散った。琪の瞳孔がきゅっと縮まり、すぐにまた散った。だが次の瞬間には、彼女の手はもう平静を取り戻していた。鈴の震える指が琪に触れようとした、その刹那。ぱきり。琪は突然、鈴の手首を掴み、逆方向へ捻り折った。五本の指がきれいにへし折られ、力任せに引き千切られる。


 「う……っ!」


 琪は手を休めなかった。切り開かれた鈴の腹腔のなかに手を差し入れ、精密に張り巡らされた管や臓器モジュールのあいだを器用に指を這わせ、生命維持のための回路を次々と断っていった。唯一切り離さなかったのは、意識を保つ主神経叢だけだ。それが意味するのは、鈴が完全に清醒なまま、己の身体が少しずつ抉られていく過程を感じつづけるということだった。


 ほどなく、鈴の身体の半分以上は完全に消え失せ、いまはただ半身の躯幹だけが十字架に吊り下げられていた。赤い液が滝のように流れ落ち、琪の足元の床を血の海に変えた。琪の白いドレスはすべて紅色に染まり、顔には星のように血しぶきが散っている。それでも彼女は、あの美しい灰青色の目を見開いたまま、まばたきひとつせず、手のなかの「仕事」に一心に向き合っていた。


 琪は電動ドリルを手に取り、鈴の胸骨の真ん中に狙いを定めた。鈴は琪を見つめていた。眼差しの光はかすみはじめ、彼女はもはや藻掻くことも、叫ぶこともなかった。まだどうにか動くほうの手を、力の限りに持ち上げ、震えながら琪の顔へと伸ばしていく。ドリルが胸骨を貫いた、まさにそのとき。鈴の血まみれの指先が、そっと、琪の頬に触れた。今度は琪も避けなかった。その手が自分の顔に血の痕を残すに任せ、それから彼女は無表情のまま、ドリルの出力を上げた。


 最期の刻が訪れた。


 胸腔が一部開かれ、幽かな青い輝きを放つコアが露わになる。琪はドリルを放り出し、両手を伸ばして、ゆっくりとそのコアを包みこんだ。それはひどく温かく、かすかな鼓動を続けている。まるで本物の人間の心臓のように。


 「やめて……」


 それは琪自身の声だったのか、それとも鈴の声だったのか。


 琪の指がコアの周囲に食い込んだ。小気味よい断裂音のなか、幾多の神経束に繋がれたコアが、胸腔から無理やり引きずり出された。噴き出した赤い液が、琪の顔を濡らした。鈴の身体は完全に支えを失い、灰青色の目の光は消えた。最期の優しさを宿したまま、永遠に、その瞬間に留められた。



 ぽたり、ぽたり。劇場に響くのは、液体の滴り落ちる音だけになった。


 琪は次第に冷めていくコアを胸に抱き、指先にまだ何本かの千切れた電線を絡ませたまま、血の海のなかに立ち尽くしていた。やがて彼女の目の光点が一瞬ちらつき、冷たい膜が剥がれ落ちる。彼女は何度か瞬きをし、手のなかのものを見つめ、それから目の前の、見る影もなく解体された残骸を見つめた。


 何かが、音を立てて崩れ去った。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


本章は、本作のなかでも最も残酷で、最も読むのが辛い章のひとつです。瑾が仕組んだ「黒きミサ」の全貌が明らかになりました。二年前の映像、封じられていた記憶の覚醒、そして十字架に架けられた姉、鈴。琪は自らの意思を完全に奪われたまま、今度は最も大切な存在を自らの手で解体していきます。


加害と被害の境界が溶けていくこの夜の先に、いったい何が待っているのか。引き続き見守っていただければ幸いです。


ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。


次章でまたお会いできますように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ