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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第六幕 残滓 / Coffee Grounds
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26 聖餐式と祭壇

 明け方の帝都に雪はなかったが、空気は冷え切っていた。遠くの街並みはまだ薄闇に沈み、地平線にほんの僅かな黄味が滲むばかり。街路には淡い霧が漂っていた。琪は琥珀時光の壁の内側、瓦礫の隅にうずくまったまま、ぼんやりと頭を押さえていた。鞄から小さな櫛を取り出し、絡まった髪を適当に整える。それから損壊したカウンターの内側へ回り、今にも途絶えそうな細い水流で、手早く顔を洗った。


 そろそろ行かなくては。


 「君の探す光と影は、すべてここにある」


 差出人の署名はなかった。古式の圧搾製法によるカードストックに、仄かな月桂の香りが染みつき、縁には金箔が押されている。帝国の旧貴族が慣習的に用いる書簡の様式だ。鈴が「無歯輪者」を名乗る武装集団に連行されたのは、先週のことだった。いつからか彼女は、独り言のように「ごめんなさい」と繰り返すようになっていた。自分に対してか、姉に対してか、それとも二度と元には戻らないあの珈琲店に対してなのか、自分でもわからなかった。


 いまの彼女に、この街で頼れる者は誰もいなかった。手がかりを求めて街中を彷徨い歩き、人類側の憲兵の巡回を避けながら捕虜収容所の外周をうろつき、爆撃で潰えた廃墟を漁り、闇市の情報屋の前で丸一日以上も座り込み、たった一筋の可能性に賭けた。


 あらゆる道が途絶えた果てに、この書簡が届いたのだ。昨日の夜更け、虚ろな目の少年がこれを彼女の手に押しつけてきた。少年は彼女の居場所を前から知っていたかのようにまっすぐ駆け寄り、そしてすぐに転がるように走り去った。琪が何かを尋ねる間もなかった。書面には余計な文言は一切なく、ただ宛先だけが記されていた。


 「旧翡翠山道七番地、月桂荘園」


 そして、彼女の防壁を易々と瓦解させる、たったひとつの言葉。


 琪は書簡を折り畳み、上着の内ポケットに大事にしまい込んだ。これは罠だ。疑いの余地はない。いったい誰が、彼女が何を探しているかを知っているというのか。だが他に選択肢はなかった。この住所は彼女の不安をさらに強く掻き立てた。どこかで見覚えがある。なぜだかはわからなかった。


 店を去る間際、琪はもう一度振り返り、瓦礫と、破片と、床いっぱいに散らばったままの珈琲豆とを見つめた。それから彼女は、ゆっくりと歩き出した。


 ここで誰かが彼女のために立ち止まることは、もう二度とない。



 旧翡翠山道。それは時そのものに忘れ去られた名だった。


 帝国が最も栄えた百年のあいだ、この場所には権力と富が集い、敷石の一枚一枚が香水と美酒に浸されていた。しかし現在は、ただ衰微へと向かう通り道に過ぎない。街路を挟む両側の邸宅は、夜明け前の空を背に、沈黙したまま聳え立っていた。琪はひとりで荘園の鉄柵の前に立っていた。門は固く閉ざされ、交差する歯車と月桂樹の枝があしらわれている。どうやら家門の紋章らしい。この場所は彼女の「夢」のなかに何度か現れた。胸の裡で、悪い予感が静かに膨らんでいく。


 彼女は歩み寄り、そっと鉄柵に触れた。門はかすかな軋みを上げ、触れると同時に開いた。門の先では、私道の奥に母屋の輪郭が望める。どの窓にも灯りはなく、正面玄関の上に掲げられたガス灯だけが、昏い光を放っていた。琪は周囲に目を凝らし、明らかな伏兵がいないのを確認してから、私道を進んだ。腰の得物から手を離さないまま。母屋へ近づいたとき、ひとつの人影がその灯りの下に静かに佇んでいるのが見えた。伝統的な燕尾服に身を包んだ機械で、背筋を伸ばし、銀色の顔面には五官と呼べるものが何もなかった。


 ここの執事だろうか。


 「Veritas in silico」


 「新秩序」の機械同士で交わされる合言葉だ。彼女は小声で唱え、相手の応答を待った。執事機械はその合言葉に応じず、しばし彼女の顔を見つめてから、一礼した。


 どうやらこの場の規則は、帝国のものでもなく、「新秩序」のものでもない。


 「お嬢様、お帰りでいらっしゃいます。長らくお待ちしておりました」


 「え、いや、わたしは——」彼女は否定しようとしたが、どう自分を定義すればいいのかわからず、口籠もった。


 「どうぞ、こちらへ」


 執事は彼女の躊躇いをまったく意に介さず、扉へと導いた。琪は深く息を吸い込み、階段を上がっていった。



 屋敷に足を踏み入れた瞬間、強烈な既視感が彼女に襲いかかった。初めて訪れたはずなのに、すべてが恐ろしいほど馴染み深い。まるで自分がこの場所で生まれ、育ち、長いあいだ暮らしていたかのようだった。それが誰の記憶なのか、彼女には判然としなかった。


 天井は高く、影が隅々にまで濃く沈み込んでいる。大広間の照明は一切点いておらず、玄関から廊下の奥まで、壁という壁に白い蝋燭がずらりと差し込まれていた。どの蝋燭も白く、揺らめく灯りが歴代の家族の肖像画をぼんやりと浮かび上がらせる。華やかな衣装の先祖たち、夫婦で馬に跨る肖像、そして最後の一枚、家族の肖像。琪の目はその家族写真に釘付けになった。画のなかの夫婦は柔和で品のある微笑みを浮かべ、その中央に立つ銀髪の少女は、誇らしげな眼差しで、彼女と瓜二つの顔をしていた。


 「自分」の顔にぎょっとして、思わず一歩後ずさった。琥珀色の瞳。御堂瑾だ。ここは御堂家だ。まさか。彼女の手は無意識に腰の短剣へ伸びたが、すぐに離した。罠だというなら、彼女はとっくにど真ん中にいる。そうでないなら、この場所で鈴を見つけなければならない。どちらにせよ、進むしかなかった。


 彼女が立ち止まったのを見て、先を行く執事が振り返り、一礼した。


 「お嬢様、沐浴のご用意が整っております。長旅の埃を、まずお流しくださいませ」


 琪が返事をする間もなく、執事は手を伸ばして扉を開き、彼女に入るよう促した。


 浴室は広く、中央には大理石で築かれた円形の浴槽があった。湯はすでに満たされ、水面には紅白の薔薇の花弁が浮かび、濃密な芳香を放っている。蒸気が立ち込め、空間全体を朦朧とさせ、現実感を奪っていく。


 琪はその場に立ち尽くしたまま、揺れる湯気を見つめていた。断る理由もなければ、受け入れる義務もなかった。だがこの旅路は、彼女の身体と意志を限界まで追い詰めていた。海沿いの小さな町から一路北へ、泥濘の戦域を抜け、廃駅で夜を明かし、難民のトラックの荷台に身を潜め、それでも彼女は、毎日欠かさず身体を清めることを己に課してきた。可能なときは冬の川の水でさえ身体を拭い、全身が凍えるように痛んでも、汚れをため込むことだけは決して許さなかった。


 記憶のなかの骨の髄まで凍る寒さが、目の前の目も眩むような熱気と香りに、ゆっくりと覆い隠されていく。


 しばらくして、琪はぼんやりとした動作でトレッキングブーツを脱ぎ、次いで風霜にまみれたケープを、シャツを、ズボンを、最後に、湿って冷たくなった肌着を脱ぎ去った。首元のペンダントだけはそのままにした。彼女は浴槽に歩み寄り、水面に指先を触れた。身体がびくりと震えた。この温もりは彼女にとってあまりに贅沢で、それゆえに痛かった。


 琪はゆっくりと花弁のあいだへ身体を沈めていった。湯が足首を越え、脛を越え、やがて胸のあたりで止まった。彼女は目を閉じ、全身を熱い湯に委ねた。皮膚の隅々までが優しく包まれ、温かな流れが髪を、頬を撫でていく。


 あらゆる物音が遠のいていく。旅の寒さと疲労、隠れ潜んだ日々、鈴が連れ去られた光景。それらすべてが幾重もの泡の向こうに遮断されていく。水の流れは何ひとつ洗い流してはくれなかったが、その瞬間だけは、このぬくもりに溺れて、ここへ来た目的さえ忘れてしまいそうだった。



 そのとき、声が聞こえた。


 「愛しい娘よ、明々後日はあなたの成年礼です。特別な贈り物を用意しましたからね」


 中年の女性の声だった。優しく、しとやかで。


 琪ははっと目を見開き、水を掻き分けてあたりを見回した。浴室には誰もいない。胸のあたりがどきどきと高鳴っている。幻覚なんかじゃない。声はあまりに明瞭で、まるで耳元で囁かれたかのようだった。また、彼女ではない誰かの記憶なのか。


 違う、違う、なにかがおかしい。こんな場所にこれ以上いたくない。琪は震えながら浴槽を這い出て、タオル掛けへ向かった。冷たい床石が世界の現実を再び彼女の感覚に叩き込む。そのとき、いつのまにか機械の侍女が戸口に控えているのに気づいた。執事と同じく、銀色の顔面には五官がなかった。琪は思わず腕を抱き、傍らの大きなタオルで身体を包み、どこか落ち着かない足取りで侍女の前まで行った。侍女の手には、きちんと畳まれた衣装が載せられている。


 「お召し替えをお手伝いさせてください、お嬢様」


 「けっこうです、自分で。あ、これ——」


 琪が衣装を受け取り、広げかけた手が止まった。純白のドレスだった。彼女は目を見開いた。これほど手の込んだ衣服を身につけたことなど一度もないし、そもそも自分がそんなものを着る日が来るとは想像したこともなかった。


 「お手伝いさせてください、お嬢様」侍女は重ねて言った。


 琪は一瞬迷ったあと、小さく頷いた。侍女の手つきは手慣れたものだった。彼女にインナードレスを着せ、コルセットの紐を結び、スカートの裾を整える。十八歳の御堂瑾のために用意されたはずのこのドレスは、いま彼女の身体にぴったりと収まっていた。侍女が装飾品を取りにほんの少し場を外した隙に、彼女はこっそりと拳銃のホルスターと短剣を太腿にもう一度括りつけた。もっとも、この衣装は彼女には少し重すぎて、動くのにかなり難儀したのだが。


 またあの女の声が耳元で響いた。今度はさっきよりずっとはっきりと。


 「瑾の十八歳の誕生日には、帝国で一番美しいお姫様にしなくてはね」


 「これは御堂夫人の言葉でございます、お嬢様」侍女もその声が聞こえたかのように言った。「お嬢様の十八歳の誕生日の二ヶ月前、奥様がご自身でお選びになったお衣装でございます」


 琪は愕然として侍女を見つめた。事態はすでに彼女の理解の範疇を超えている。


 「ちがう、わたしは御堂瑾じゃない。もう、みなさんも私をお嬢様と呼ばないでください。わたしはただ、人を探しに来ただけです」ようやく彼女はその言葉を口にした。


 「ご冗談を、お嬢様。あなた様はまさしく我が家のご令嬢にございます。ただ長くお屋敷を離れていらしたので、いくつかのことをお忘れになっているだけで」


 言い返す間もなく、侍女は彼女を鏡台へと導いた。髪を乾かし、梳かし始めた。その手つきは、本物の令嬢に幾度も同じことをしてきたかのように、滑らかだった。琪は鏡のなかの自分の姿を見つめた。純白のドレス、結い上げられた銀の髪、首元に重ねられた真珠の首飾り。写真のなかの瑾そのものだった。この倒錯に彼女は恐怖を覚え、全身がこわばった。


 どうすればいいのか、わからなかった。鈴を探しに来たはずなのに、いま彼女は、他人の人生を演じる滑稽な芝居のなかに閉じ込められている。だいいち、このすべてがあまりに馴染み深いことこそが、彼女を戦慄させた。まるでこの身体が勝手に覚えているみたいだった。彼女自身の意識が覚えていなくても。


 「お化粧が整いました、お嬢様。昔と変わらず、ほんとうにお美しゅうございます」侍女は一歩下がり、自らの作品を誇らしげに眺めた。


 琪は鏡のなかの自分を見つめた。この顔は彼女のものであり、彼女のものではなかった。困惑と恐怖の滲む灰青色の瞳は、彼女自身の感情だ。だが完璧な造作の輪郭、生まれついての高貴なたたずまいは、御堂瑾から受け継がれた「遺産」だった。


 わたしはいったい、何なのか。


 だがいますべきは、鈴を見つけることだ。彼女をここへ呼び寄せた人物を見つけることだ。それが誰であれ。



 それから、すっかり着飾った彼女は食堂へ導かれた。長い食卓にテーブルクロスが掛けられ、中央にはただ彼女ひとりのために夕食が用意されていた。木苺のムース、カスタードプディング、栗のケーキ。どれもが甘味ばかりで、それから湯気を立てる飲み物。シナモンとカルダモンを加えたホットココアのようだった。


 「お食事をどうぞ。どれもお嬢様の大好物ばかり、厨房が特別に拵えました」


 執事が椅子を引き、ナプキンを彼女の前に広げた。琪に食欲はなかった。肉体はとっくに不安と焦燥に占められていて、食べ物の入り込む余地などなかった。彼女は無言で着席し、形ばかり水を一口含み、フォークでほんの少しムースをすくって口に運んだ。甘みが口中に広がっていく。何の快さも感じなかった。彼女はただ、この茶番を一刻も早く終わらせ、この場所の「主」に会いたかった。そして、鈴に会いたかった。


 「もう十分です」琪はカトラリーを置き、ナプキンで口元を拭った。「責任者のもとへ案内してください。誰でもいいから、とにかく早く」


 「お嬢様、お食事の作法が、以前よりずいぶんお崩れになったようで」執事が傍らで穏やかに指摘した。


 琪は返す言葉もなく、もはやそれを訂正しようとも思わなかった。


 「お嬢様の舞台の幕が、間もなく開きます」


 彼女は思わず眉をひそめた。開演。どういう意味だ。だが執事はそれ以上何も言わず、低頭して一礼すると、彼女を食堂から連れ出し、屋敷のさらに奥へと導いた。廊下は次第に狭まり、蝋燭の灯りもまばらになっていく。空気のなかに張り詰めた気配を感じながら、彼女は歩を進めた。屋敷のどこかで、ずっと聴こえるか聴こえないかのピアノの調べが響いている。。一歩進むごとに、その旋律はわずかずつ明瞭さを増し、やがて無視できないほどになった。


 「こちらでございます、お嬢様」


 執事は最後の角を曲がり、一枚のマホガニーの大扉の前で立ち止まった。ピアノはすぐ背後から聴こえる。あの音だ。琪の胸の裡で不安が固形化し、彼女を押し潰そうとしていた。彼女は拳銃を抜いて握りしめ、もう一方の手をドアノブにかけた。ノブを回して、扉を押し開く。


 扉の向こうは小劇場だった。傾斜のついた観客席と、半円形の舞台。劇場全体が漆黒の闇に沈み、舞台中央のグランドピアノだけが一筋の照明に照らし出されている。純黒のイブニングドレスに身を包んだ後ろ姿がひとつ。銀灰の髪が、指先が白と黒の鍵盤の上を舞い、それがあの旋律の源だった。琪はしばし戸口に立ち尽くし、その音楽と、その背中に完全に心を奪われていた。


 やがて我に返り、彼女は拳銃を握りなおし、観客席の階段を静かに降りていった。暗闇に慣れた目が、しだいに観客たちの姿を捉え始める。十数人の人影が中列から後列にかけて座っている。全員が舞台のほうを向いたまま、ぴくりとも動かない。誰も振り向かなかった。舞台の上の演奏は続いている。あの背中はいまも自らの世界に没入していた。曲調はますます哀しみを深めていく。それが彼女にもはっきりと感じられた。


 舞台の縁にたどり着くかというとき、音楽がふつりと止んだ。劇場全体が完全な静寂に包まれる。奏者は両手を膝に戻し、静かに鍵盤蓋を下ろし、それからゆっくりと立ち上がった。


「ようやくまた会えたわね」


 その背中が振り返り、ピアノ椅子を回り込んで、舞台の上から琪を見下ろした。照明がその姿の上に降り注ぐ。衣装の黒はどこまでも深く、顔立ちはくっきりと照らし出されている。琥珀色の瞳が、ほのかな微笑みを浮かべて。


 「おかえりなさい」



 ぱたり。


 手から拳銃が滑り落ちた。


 琪は呆然と口を開けたまま、その場に立ち竦んだ。夥しい疑問が頭のなかを渦巻いている。けれどそのどれも、言葉にはならなかった。異様な空気の満ちるこの劇場で、周到に仕組まれたこの対面のなかで、琪はどちらの予想もしなかった行動に出た。あらゆる危険も、あらゆる警戒もかなぐり捨てて、彼女は早足で歩み寄り、舞台に上がって瑾の前に立った。


 そして両腕を伸ばし、一度も「会ったことのない」この「自分自身」を、抱きしめた。


 「夢のなかで、あなたに会った……」


 「まだ……痛むの?」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身、雨時です。


本章は、鈴を奪還するために琪が足を踏み入れた「月桂荘園」での、異様な晩餐と再会を描きました。御堂家の旧邸という、彼女の「夢」のなかにのみ存在していた場所で、機械たちに「お嬢様」として傅かれ、瑾の十八歳のドレスを纏わされ、そして劇場でついに瑾本人と対峙する。すべてが仕組まれた罠であると知りながら、彼女の取った行動は、憎しみでも恐怖でもなく、ただその身体を抱きしめることでした。


このふたりの「同じ顔」を持つ存在が、この先にどんな結末を迎えるのか。引き続き見守っていただければ幸いです。


ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。


次章でまたお会いできますように。


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