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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第四幕 カッピング / Cupping
20/22

19 残り火の告解

 一ヶ月にわたる漂泊と潜伏を経て、御堂琪はようやく帝国首都圏の外縁部まで辿り着いた。遠くの地平線には、すでに街の輪郭がおぼろげに浮かんでいる。


 崖下に広がる道を見下ろせる、風を避けられる斜面で、彼女は裸木の根元に腰を下ろした。膝を抱え、その上に古びた地図を何枚も広げる。帝国全図の上を、炭で引かれた曲線が幾筋も走っていた。流転の軌跡だ。どの線も途中で途切れている。戦域が通行不能だったのか、封鎖線が厳重すぎたのか。けれども必ず、数十キロも迂回した先で、その線はしぶとく繋がっていた。


 休憩は予定より長くなった。本来ならば白日のうちに十分以上も留まるべきではなかったのだが、座り込んだ途端に込み上げてきた倦怠が、彼女をすぐに立ち上がらせなかった。地面にはうっすらと霜が張り、寒気が身体の奥へ沁みていく。温かいものといえば、自分の吐く息だけだった。


 琥珀時光カフェ。


 指先を地図の一点に置き、彼女はその名を胸のうちでなぞる。ここだけは鉛筆で何度もなぞりすぎて、紙が毛羽立っていた。市街地へ潜入するためのもっとも安全な経路を、頭のなかで幾通りも描いてみる。だが本当は、ただ記憶のなかのいちばんよく知った道を、そのまま引き返したいだけだった。


 あと少しだ。


 何が待っているのか、彼女にはわからない。もしほんとうに彼と再会できたとして、その先に何が起こるのか、想像することすら怖かった。何も起こらないかもしれない。もっと絶望が待っているかもしれない。それでも、行かねばならなかった。この決意は彼女のあらゆる戦闘任務よりも固く、そして不格好だった。ただもう一度あの灯りのもとを歩くことができれば、この旅も無駄ではなかったと、自分に言い聞かせられる。そう思った。


 彼女は乾いて固くなったパンを口に押し込み、顎が痛むほど噛みしめ、冷たい水でどうにか流し込んだ。こんな状態の食物ではエネルギー変換効率も低いが、彼女はさして気にしなかった。


 旅のあいだに、彼女は飢えを味わうことを覚え、疲労を感じ、寒さを身に沁みさせた。この粗く味気ないものこそが、傷ついた大地との繋がりを与えてくれる気がして、世界の真実にまた少し近づけたように思えた。



 俯いて経路を書き込んでいた彼女は、ふと背後に異変を感じた。


 反射的に横へ跳んだ。手はすでに靴筒のなかの短剣にかかっている。だが襲撃者は彼女の動きを熟知していた。いきなり外套の裾を引かれたと思うと、絶妙な力加減で体勢を崩される。枯れた草地の上を、二度、容赦なく転がった。


 すぐに起き上がり、身構え、振り返る。だが短剣を構えるより早く、手首はやすやすと押さえ込まれてしまった。顔を上げられなかった。聞き覚えのある声が、気怠さのなかにわずかな咎めを含ませて降ってきたからだ。


 「相変わらず反応が鈍いわね、琪ちゃん」


 その声が消えぬうちに、旅のあらゆる苦さと屈託がありったけ胸に込み上げてきた。奇襲の驚きもそのままに、琪は短剣を握りしめたが、力を込めた途端に取り落としてしまう。ただ土を見つめていた。自分と瓜二つの灰青色の瞳に視線を合わせたくなかった。ひとたび目を合わせれば、涙はもう止められない。


 「鈴……姉さん?」


 すらりと高い位置で束ねられた濃灰色の長い髪、左耳にはいくつもの銀環が連なり、陽に煌めいている。鈴は彼女の前に立ち、腕を組んで、ややくたびれた様子の琪をじろじろと見下ろした。


 「ふん、上出来じゃない。まだ私だってわかるんだ」


 口ではそう言いながらも、手つきは馴染んだもので、崩れた頭巾を直し、肩の埃をはたいてくれる。


 「任務に失敗し、無断で離脱したわね。いったいどこをほっつき歩いてたの。通信回線からは完全にロスト、生体信号も、途絶えるまえに一度は危険域まで落ちたのよ。私は川沿いを何週間も捜索して、どれだけ——」


 あまりに心配を滲ませすぎたと気づいたのか、彼女は小さく咳払いをした。感情を引っ込め、またあの傲然とした気怠さを装う。「ちゃんとした説明をしてもらうわよ」


 「どうして、私が都へ戻るってわかったの」琪は背嚢を背負い直し、屈んで靴紐を結ぶ。「私を捕まえに来たの……?」


 「それ以外に何があるの」鈴はあからさまに呆れてみせた。「『聖殿』の中核指令に違反したんだから、最高度の反逆行為よ」


 それから鈴は、遠くの霧に煙る市街地のほうを指さして言った。「わかってるのよ、あんたって子は、そのおめでたい頭のなかに要らぬ純真と執着ばかり抱えてるんだから。任務をしくじり、連絡も絶った。その行き先なんて、あんたが勝手にそう思い込んでただけの安らぎの場所以外に、どこがあるっていうの。だから私はさっさと首都圏近くで待ち伏せてたのよ。そうだ琪、あんたの身体ね、いったい誰が直したの。あれだけの重傷なら、自然にそこまで修復できるはずがないけど」


 鈴は次々に疑問を投げかけながら、琪の体調を探るように、その全身へと目を走らせた。


 「それは……」琪は一瞬、言葉に詰まった。池田博士の存在をどう説明すればいいのかわからなかった。あの善良な老いたるひとを。ましてや、このところの自分の見聞や懊悩を、この目のまえの、指令だけを信じて生きる姉に、どう打ち明ければいいのか。


 「まあいいわ、その話はあと」鈴は手を振って、これ以上詮索するのをやめた。「今すぐあたしと一緒に帰るのよ、琪ちゃん。あんたが今回しでかした厄介ごとは、あんたが思うよりずっと大きい。人間側はもちろん、私たち内部ですらすでにあんたの強制回収指令が出てるんだから。このままひとりで彷徨い歩くのは、本当に危ないのよ」



 「姉さん……心配かけてごめんなさい。でも、でも……」琪はうつむき、口のなかでごにょごにょと言った。「私……私、もう一度どうしても琥珀時光に行きたいの」


 「はあ? いま交渉の余地があると思ってるわけ?」鈴はたちまち眉をひそめた。「ちょっとは自分の状況を考えなさいよ。やっと見つけたと思ったら、よりにもよって火のなかに飛び込もうってわけ? あの場所のせいで、あの人間のせいで、あんたはこんな目に遭ったんじゃないの」


 「それは……わかってる」琪の声はさらに小さくなる。「でも……」


 「でも、じゃない」鈴の語気が、本当に厳しいものに変わった。「代わりにもう行ってきた、あんたが川に落ちた次の日にね。あの店はもうほとんど何も残っちゃいなかった。私、会ったわよ、例の星野亮とかいう珈琲屋にもね。警告しといた。あんたにも、私たちの関係することすべてにも、近づくなって。彼は賢そうな男だったから、どういう選択をすべきかわかってるでしょう。それにね、彼はただの普通の人間なのよ。あんたがいつまでも付きまとえば、あの男に殺しの災難が及ぶだけ。それが何か別の結果を生むと思うの? それがあんたの望んだことなの?」


 「亮に会ったの? 亮は無事だった?」琪はすがりつくように鈴の腕を掴んで、矢継ぎ早に訊ねた。


 焦りと心配と懇願がありありと浮かんだその瞳を見つめて、鈴は諦めたようにため息をつく。声がいくぶん和らいだ。


 「少なくともあの日は、五体満足だったわよ。でもね、琪ちゃん、あたしたちには時間がない。あんたの通信はなぜか遮断されてるけど、私のほうのデータストリームはまだネットワークのなかにある。じきに私があんたを見つけたことがバレる。それまでには必ず戻らなきゃ。『聖殿』がこれ以上関与するまえにね。いい、琪ちゃん。あんたが自分から過ちを認めるなら、私はできるかぎりあんたを守る。もうこれ以上、あんたを失いたくないの」


 「お願い……姉さん」琪は手を離さない。あまりに澄んだ、とても断ることなどできないとわかる眼差しで、頑なに鈴を見つめている。


 長く見つめ合ううちに、鈴の胸の裡に力無さが込み上げてきた。彼女は半ば苛立たしげに口を歪め、それから、わざとらしく背中を向ける。怒りと愛情の入り混じったこの表情を、見られたくなかった。この馬鹿な妹は、ただ、短くて儚い自分の夢に、きちんと幕を引こうとしているだけだ。徹底的に諦めさせることこそが、なによりの守りになるのかもしれない。


 「わかった」彼女は奥歯のあいだからその一言を押し出した。「そこまで思い知らなきゃ気が済まないってなら、つきあってあげる。ここまでよ。それが済んだら、余計な口はきかず、すぐに私と戻るんだ」


 琪はなにも言わず、ただ黙ってうなずいた。鈴の言葉がいくらきつくとも、それはただ自分を傷つけまいとしているだけだと、彼女はちゃんと知っていた。ずっとそうだった。


 彼女は地に落とした短剣を拾い、ふたたび靴筒へと差し込むと、鈴の歩みに付き従った。姉妹ふたり、前後になり、やがて麓にぽつぽつと灯り瞬きはじめた帝都の旧市街へと歩みを進めていく。



 街並みは鈴の語っていた以上に荒れ果てていた。衝突は一度ならずここを訪れたらしい。琪の記憶のなかではいつだって珈琲の香りと紙の匂いが漂っていた街路は、今や見る影もない。亮はいない。誰ひとりいない。ここには生きているものの気配がなかった。


 「昔はここ——」そのぬくもりを言い表す言葉を探したが、見つからなかった。彼女は店先に立ったまま、つま先を敷居のまえにとどめている。


 鈴が背中をそっと押して、彼女はようやく足を踏み入れた。コーヒー豆とガラス片と埃が、地面を覆っている。あのなじみ深いあたたかな匂いはなく、ただ鼻を刺す焦げ臭さだけが漂っていた。彼女は埃の積もった床に、力なく座り込んだ。


 手の届くところに陶器の欠片があった。金彩の模様が残っている。彼女はそれを指に摘まみあげ、長いこと見つめていた。覚えている。亮がこれで、自分のためにホットミルクを淹れてくれた。乳そのものにいちばん自然な甘さがあるのだと、彼は言った。それならブラックコーヒーの苦さも中和できるからと。彼女はそのミルクの温度をまだ覚えていた。カップはとても薄く、手のひらのなかですぐにぬるくなった。あの日は陽射しがよくて、光の柱のなかを埃が舞っていた。彼の横顔はひどく真剣だった。彼女はぼんやりと、この映像がおのずと薄れていくのを待った。


 「だから言ったでしょ、戻るべきじゃないって」


 鈴は壁にもたれて、ポケットに両手を突っ込んだまま、神経質にあたりを見回している。自分が以前、星野亮を探しに来たときよりも、ここはなお荒廃が進んでいるようだった。


 「ここもう、あんたが未練を持つようなものなんて何も残ってない。人間の世界はこれが常で、脆くて、ひとたまりもない。戦争は美しいものを平気で壊す。だからこそ私たちは——」


 「姉さん、知ってる?」琪は振り返らなかった。手のひらに欠片を乗せ、それをぎゅっと握りしめ、唇を噛む。「ここはね。ここは私が初めて、自分が『生きている』って感じた場所なの」


 鈴はもう、なにも言わなかった。



 「あの人と出会うまでは、ずっと誰かを演じてた。旅人、学生、召使い。任務の指令が必要とする役なら、なんでも。口にするひと言ひと言、表情ひとつ、まばたきのひとつまで、あらかじめ計算しなきゃならなかった。計算しないと間違えるから。でも、ここではね」彼女は胸元の琥珀のペンダントをそっと撫でた。「初めて……自分のために何かしたいって思えた。任務のためじゃなく、指令のためじゃなく、何か大きな『理想』のためでもなく。ただ、私自身のため」


 「嘘」は世界を騙すための道具ではなく、世界から束の間の呼吸を許された小さな箱だったのだと、彼女は今さらのように悟った。


 「あの人は私の世界にいるべき人じゃなかった。でも私は、彼の淹れてくれる珈琲が飲みたかった。彼の真剣な様子を眺めていたかった。私のわからない科学の話を、彼がするのを聞いていたかった。彼は私の絵をとても真剣に見てくれて、褒めてくれて。私のつくりあげた嘘の話も、じっと私の目を覗き込んで聞いていながら、決して暴かなかった。彼は私のために何杯も何杯も違う味の珈琲を淹れてくれて、暮らしのなかの小さな素敵なことを教えてくれた。そのひとつひとつがあまりに本当で、本当すぎて、自分が何者なのか忘れそうになるくらいだった」


 なぜ細部のひとつひとつをこんなにもはっきりと覚えているのか、自分でもわからなかった。もしかすると、いつか人のように育ち、すれ違い、老いることができるのだと、心のどこかで想像していたからなのかもしれない。その痛みはもはや、これまでのどんな指令よりも確かなものになっていた。


 「自分が一体何なのか、前よりももっと考えるようになった。ただ砂糖を入れた珈琲に、どうして嬉しくなるんだろう。彼の後ろ姿を、どうして絵に残してずっと取っておきたいと思うんだろう。ずっと、私はもっと大きな理想のためにあるんだって信じてた。でも今やっとわかった。私が本当に欲しかったものは、たぶん、ただ彼のように、自分の居場所を持って、静かに自分の好きなことをすることだったんだ」


 口に出してみると思った以上に辛くて、彼女はようやく体を起こして立ち上がった。振り返ったその顔は旅の埃にまみれ、すでに二すじの濡れた跡がついている。彼女は必死に堪えて、声を立てまいとした。


 「おばかさんね」


 鈴は二歩、歩み寄ると、彼女を抱き寄せた。


 「目を覚ましなさいよ、琪ちゃん。あなたがこの場所で感じたものは、やっぱり嘘と偽りで手に入れた束の間の温もりでしかなかった。それはあなたのせいじゃない。でもそれが事実でしょ、違う?」


 彼女の言うとおりだ。何もかもが嘘だった。出会ったその瞬間から、自分の素性についてただの一度だって彼に本当のことを言えた試しはない。彼女がこよなく大切にしたあの唯一無二の日々は、周到に仕組まれた偽りの副産物に過ぎなかった。


 「あの日、お別れがあんまり急だったから。私はただ……」琪の声がぼやけて聞き取れなくなった。「……うん。ただちゃんと謝りたかったの。姉さんの言うとおりだね。私は最初からあの人を騙してた。嘘の身分で、たくさんのあったかい時間を彼から奪ってしまった……」


 「いっそ考えたこともあった……もし何もかもやり直せるのなら、『本当の』自分としてここに戻ってきて、彼に訊ねられたらって……」


 「あの人が、御堂琪って名乗る、機械を相手にしてくれるかどうかって……」


 「おまえねえ」鈴は琪の後ろ頭を軽く叩き、より強く抱きしめた。「ほんと、何を考えてるんだか」


 言い返さずに、ただ姉の胸に顔を埋めた。世界がようやく静かになる。



 街角の影から、何かが飛来した。


 「危ない!」


 鈴はほとんど同時に琪を半壊の壁のかげに突き飛ばした。事態を呑み込めないまま、琪は半分ほどしか残っていない石煉瓦の陰に押さえつけられる。消音器を装着した徹甲矢が、彼女の頬すれすれを通り過ぎ、深々と地面に突き立った。矢羽根がしばらく震えている。帝国軍の制式兵器ではありえない。


 次の瞬間、廃墟のあちこちから、仮面をつけた人影が湧き出た。十や二十ではない。装備は整然としており、クロスボウや空気銃、近接武器を手にしている。音もなく素早く展開し、姉妹を四方から包囲した。


 「ユニット05にユニット06か。噂には聞いていたよ」包囲網のなかから一際背の高い人影が歩み出る。「今日はどこへも行かせない」


 「『無歯輪者』連中ね」鈴は声を潜め、琪を自分の背後に庇いながら、銃のホルスターを握らせた。「やっぱり伏兵がいたか」


 敵は猶予を与えなかった。衝突は一瞬のうちに炸裂し、無数の矢と金属弾が雨のように降り注ぐ。鈴は背から二振りの長剣を抜き放ち、飛来する矢の幾本かを正確に叩き落とした。


 「無歯輪者」の戦い方は帝国正規軍とはまるで違っていた。密集陣形こそとらないが、獣じみた直感と死を恐れぬ狂気を持っている。彼らはこの地形を熟知し、廃墟のあいだを自在に潜り抜けて位置を変え、四方から攻撃を仕掛けてくる。ふたりともすぐに悟った。この包囲の狙いは殺害ではないのだと。


 「琪ちゃん、ぼんやりするな!」


 鈴の怒鳴り声で我に返る。琪もまた素早く動いた。一斉射撃を避けつつホルスターから拳銃を引き抜き、瓦礫に身を隠しながら、もっとも脅威となるいくつかの射撃点へ反撃を加える。彼女の弾丸はすべて相手の遮蔽物の角や縁を狙った。火花と破片が飛び散り、彼らは頭を引っ込めざるをえない。だが人体を狙った弾丸は一発もなかった。


 鈴は群れのなかを縦横に駆け、長剣を振るうごとに悲鳴があがる。琪は絶えず移動しながら鈴の側面の脅威を抑えこみ、包囲の弱点を突こうと試みる。彼女の銃口は決して急所を狙わない。容赦される相手でないとわかっていても。肩を撃ち、太腿を撃ち、腕を撃った。それで彼らは戦闘力を失うが、致命傷にはならない。



 姉妹は、片や攻め、片や守り、息の合った連携で、何十人もの包囲を相手に互角に渡り合った。


 だが、いかんせん「無歯輪者」の数が多すぎた。彼らは波のようにひっきりなしに押し寄せ、その人数で体力と弾薬を削り取ろうとする。いつのまにか琪の弾倉はほとんど空になり、鈴の身体にも大小の傷が増えていく。敵は容赦なく鈴の足を止めようとし、ふたりを分断しようと試みていた。


 混戦のなか、包囲網はじりじりと縮まっていく。ひとりの「無歯輪者」が側面に回りこみ、蒸気噴射銃を鈴の背中に向けた。灼熱の蒸気がすでに銃口で渦を巻いている。


 琪が銃を向ける。頭を打ち抜くのは容易い。しかし手が止まった。相手は仮面をつけてはいるが、体つきはさほど大きくない。痩せてさえいる。脳裡をよぎっていったのは、検問所の眼光鋭い老兵、廃教会で子守唄を歌っていた母親、木炭で笑い顔を描いた小さな女の子。彼らも人間だ。いま姉を傷つけようとしているこの相手も、みな同じ、自分たちだけの物語を背負った人間なのだ。


 まただ。また人を傷つけることを強いられる。


 本来「聖殿」の指令とは無関係の「罪なき命」を奪うことへの拒否感が、コアの深奥から湧き上がり、指先をこわばらせた。


 彼女は結局、相手の武器めがけて撃った。心のどこかでずっと人の善意に焦がれながら、生死の瀬戸際でためらったこの一発こそが、すべての運命を分けた。


 蒸気銃は手から弾かれ、灼熱の蒸気は誰もいない空へ向けて吹き上がった。首領格の大男の奇妙な口笛が鳴り響く。直後、天から何枚もの高張力合金繊維の網が降ってきた。網に組み込まれた「奪心」電磁パルス発信装置が、空気に触れた瞬間に起動し、耳障りな放電音を立てる。


 鈴は正面の敵を打ち倒した直後、体勢が整わなかった。この死角からの奇襲を完全にかわすことはどうしてもできない。彼女は最後の力で、琪を包囲のわずかな隙間へ向けて突き飛ばした。


 目映い閃光がすべてを呑み込んだ。爆風で吹き飛ばされ、一〇メートルあまりも先の路上へ叩きつけられる。電磁網が頭から降りかかり、鈴は刃を振るって断ち切ろうとしたが、強力な電磁パルスが全身を貫き、彼女の四肢を激しく痙攣させ、動きを奪った。そのまま後ろへ強く引き倒され、地面へ打ち据えられる。さらに多くの無歯輪者がいっせいに群がり、特殊な電磁枷で彼女の関節を固めていく。暗がりへと引きずり込まれながら、身動きの完全に封じられたその瞬間、彼女は辛うじて首をめぐらせ、琪のいるほうへ眼差しを向けた。そこに怒りはない。責めもない。ただ一瞬の戸惑いが浮かび、そしてその戸惑いは、すぐに諦観へと変わる。


 そうだ、それでこそ、琪ちゃん。



 駆け寄ろうとした琪の、踏み出した足首に、小型の「奪心」パルス発信器を仕込んだ矢が突き刺さった。電気が神経を駈け上がり、身体が硬直する。前のめりに倒れた。懸命に手足を動かそうとするが、四肢はまったく言うことを聞かない。頭は空白、目のまえはぼやけて何も見分けられない。鈴がずるずると路地の奥へ引き摺られていく。歯車を象った仮面の者たちが、横目で自分を一瞥し、だが追撃の意思はない。叫ぼうとしても、声はか細く漏れるばかりだった。


 彼らは最初から、鈴だけを狙っていたのだ。


 骨の髄まで冷えきった冬の雨がしだいに本降りとなり、彼女の上に打ちつけて、泥水のなかへと浸してしまう。もはや頬を伝うのが雨か涙か汗か、区別もつかなくなった。


 どれほどそうしていただろう。ようやくわずかに感覚が戻ってきた。彼女は這うようにして庇の下へ移り、壁に背を凭せかけてずるずると崩れる。息がうまくできない。彼女は唇を強く噛みしめた。顔じゅうの涙が泥と混ざって流れ落ちるのを、必死で拒みながら。もう泣きたくなかった。それでも、泣いてしまった。


 旅のあいだじゅう溜め込んだ疲労と迷いと恐怖、亮の行方知れず、琥珀時光の瓦礫、自身の正体という解けぬ謎と絶望、そして今この瞬間、身の程知らずの一途さのせいで唯一の肉親を窮地に陥れてしまったこと。堰を切ったように泣き始めた。


 泣き声はなんどもくり返し、やがて小さなすすり泣きだけが残った。


 泣き声は消えた。



 夜も更けて風が吹きつのるなか、天はやはり冷たかった。琪は両手を叱られた子供のように袖のなかへ引っ込めて、琥珀時光のほうだけはもう見られなかった。すべてが終わった、自分も終わった。それだけを思った。


 「いっそここで……」


 いっそここで死んでしまえれば、もうどんな指令にも責任を負わずに済む。けれど生憎と「鼓動」はまだあって、それは痛むし、彼女はまだ覚えている。姉の最後の振り返りも、亮の背中も。


 この世に灯る一灯の、燃えさしは何の答えも照らしはしない。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


旅の果てに琪が辿り着いたのは、かろうじて残った廃墟と、姉との束の間の再会、そしてまたも訪れた喪失でした。


次回、物語は大きな転換点を迎えます。「無歯輪者」の拠点に囚われた鈴の運命、そしてこの章では交わらなかった亮と瑾の姿も、いよいよ舞台の前面へと戻ってまいります。


ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻訳の大きな励みになります。日本語として不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。


次章でまたお会いできますように。


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