20 幕が開く前に
あの日、ふたりとも相手に奇妙な既視感を抱いていた。
囚室の壁は、粗い打ち放しコンクリートのままだった。どこか遠くの配管から、単調な水音が絶えず響いている。。
ここへ連行される途中、階段を五度下りた。おそらく「無歯輪者」拠点の最深部なのだろう。鈴は食事の回数で時間の経過を測ろうとしたが、その基本的な目安さえ意図的に狂わされていた。十数時間も誰も来ない日があり、逆に一時間のうちに三度も四度も異なる足音が戸口に立ち止まる夜もあった。
鈴は手枷で鉄枠に吊り上げられ、両腕を頭上に固定されたまま、つま先がかろうじて地面に触れていた。高い位置のポニーテールは崩れ、長い暗灰色の髪が汗と凝血で固まって頬に貼りついている。左耳の銀の耳飾りはいつの間にか消え失せ、耳朶に血の孔だけが残っていた。
特殊な電磁枷は一定間隔で短いパルスを放つ。深刻な損傷を与えるには至らないが、神経系を軽い混乱状態に保つには十分だった。彼女が休息し、枷を振りほどく力を蓄えるのを阻み、かといって完全に意識を奪うこともない。巧妙な設計だと鈴は思った。
鈴にはその意図が痛いほどよくわかっていた。
憎しみには捌け口が必要であり、鈴はいまこの場でもっとも好都合な標的だった。
この階層に詰める「無歯輪者」の者たちは、彼女に一片の容赦もなかった。ここ数日、看守や尋問の名目で誰かが必ず近づいてくる。情報を求める者はいない。彼らが欲しているのは八つ当たりだけだった。ある者は扉のまえに立ちつくし、目に憎悪を滾らせてただ凝視する。ある者は唾を吐きかけ、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせる。またある者は電撃棒を手に彼女の痙攣を眺めながら、病的な哄笑を漏らした。彼らは戦場で家族を失った話を何度も何度も聞かせる。床に食べ物を落とし、つま先で踏みにじり、蹴転がして彼女のまえに置いた。
「機械の売女め。てめえら上等な品は痛みまで本物みてえに真似るんだろ。一声、啼いてみせろよ」痩せた男が電撃棒を鈴の眼前で揺らしながら言う。「てめえら化物のせいで俺の家は焼け、妻も子供も殺された。今度はてめえが苦しみを味わう番だ」
鈴は決して応じなかった。そんなとき、彼女はいつも意識を遠くへ切り離し、まだ色褪せぬ記憶の断片に意識を集中させる。たとえば琪が描いた絵を嬉しそうに見せてくれたときの顔、姉妹で任務の合間に眺めた夕暮れの空、眠るまえに琪が決まって尋ねてきた、人間の世界についての幼い質問の数々。
けれど、そうした記憶も現実を完全に遮ることはできなかった。電流が流れれば身体は抗えず震え、拳が打ち込まれれば口元から何かが滴る。悪意に満ちた言葉が幾度も繰り返されるうち、自分はやはり人の皮を被った怪物にすぎないのかと、不意に思うこともあった。
四日目か、五日目か。もう判然としなかった。その日、山羊髭を蓄えた中年の男が、酒に酔ってよろめきながら鋼のナイフを手に鈴のまえに立った。
「いいか、俺の息子はまだ八歳だった」男は彼女のまえにしゃがみ込み、刃先をそっと頬に当てた。「てめえらの同類が学校を吹き飛ばし、あの子は三日三晩瓦礫の下に埋まってた……」
刃先が人工皮膚を裂く。
「ここか? それともここか? 教えろ、どこを抉ればてめえがいちばん『辛い』?」
鈴は目を閉じた。さらに深い痛みを待った。
「そこまでにしなさい」
冷たい女の声が戸口から響いた。聞き覚えのある声だった。
「御堂様?」山羊髭の男は慌てて立ち上がり、ナイフを背に隠した。「まさかお目通しとは……この機械は好きに扱って構わないと伺っておりましたが」
御堂。その姓に鈴が反応するよりも早く、彼女は現れた。照明に半身を晒したその髪、その貌。瞳の色がまるで違い、傲然とした佇まいがなければ、一瞬息を呑んでいただろう。琪がそこに立っている、と。
「適度に、と言ったはずよ」手をひらりと振り、入口の守衛に下がるよう命じる。「もう下がって」
男たちは素早く顔を見合わせた。逆らえる者はいない。彼らが退出すると、鉄扉がゆっくりと閉ざされ、蛍光灯の唸りだけが室内に残った。
初めての、二人きりの時間だった。
瑾は鈴のまえで歩を止めた。あと一歩の距離だ。視線が絡み合う。そのとき、互いが抱いた感覚を、どちらも名指すことができなかった。鈴は瑾のなかに琪の面影を見た。瑾は理由のわからない既視感に襲われていた。ずっと昔からこの相手を知っているような、まったく予期していなかった感覚。瑾の眼差しが一瞬揺らぎ、すぐに平静に戻った。
「ユニット05。それとも、鈴と呼ばれるほうが慣れているかしら」瑾はゆっくりと鈴の周囲を歩き、その姿を観察した。「私は御堂瑾」
鈴はすぐには答えなかった。顔にかかる前髪を振り払うように顔を上げる。この姉妹機たちは誰もが多かれ少なかれ、琪が何か決定的に違う存在であることに気づいていた。末の妹こそ全機体のなかで最も特別な存在だという囁きは、「新秩序」の内部でも常にささやかれてきた。噂では、彼女は人間の雛形から直接造られた「鏡像」であり、唯一完全な姓名を持つ個体だと言われていた。鈴はずっと、それは誇張された話にすぎないと思っていた。彼女の「聖殿」における特別な位置づけを示すためのものだと。だが、いま目のまえの女を見て、すべての辻褄が合った。
「なるほど」鈴は苦笑した。「あんたとあの子……よく似てる。道理でね。彼女は『新秩序』が創ったわけじゃなかったのね」
「彼女だけじゃない。厳密に言えば、あなたたち六人はみな御堂家の失われた財産だ。ユニット01から04は、もう私が片づけた」瑾は視線を落とした。「あなたと私のあいだにも、かつて何か縁があったのかもしれない。でも、今となっては知る必要もないことね」
「それで? 私を生かして、いったい何を知りたいの」姉たちの最期を聞かされた鈴の目に、殺意が宿る。「『新秩序』のこと? それとも妹のこと? なるほど、そういう尋問ごっこがお好きなようね。この鎖で私の口を抉じ開けられると思ってるの」
「落ち着いて」
挑発を意に介さず、瑾は人差し指をそっと自分の唇に当てた。
「あんたたちの『新秩序』にも、この馬鹿げた戦争にも興味はない。この世界がどれほど混乱しようと、私にはまるで関係のないことだもの」
「ただ少し、話をしに来たの。あんたの妹、御堂琪のことをね」
たったひとことの確認が、世界のすべてを変えてしまうとは、亮は思ってもみなかった。
「『痛み』でしょ、星野さん。ねえ」
瑾がその言葉を口にした瞬間、亮は妙な安堵感に襲われた。ずっと背負い続けてきた重荷から、ようやく解放されたかのようだった。彼は長いこと呆けたあと、はっと身を翻し、瑾の落ち着いた顔を見つめて肯いた。
「ええ。痛みです。もっと正確に言うなら、痛みからの逃避機構。刺激が臨界値を超えたとき、底層のシステムが一時的に制御を放棄し、より原初的な生存本能に委ねる。それがあなたの言う『崩壊』の正体だ」
「あなたも、とっくに気づいていたんですね」亮は付け加えた。
「ある程度はね」瑾は作業台に歩み寄り、コアモジュールの一つを手に取って弄んだ。
「ならなぜ私に」
「あなただけだからよ。彼女たちを守るために躊躇える可能性があるのは」瑾は亮の言葉を遮った。「彼女たちを『人』として研究できるのも、あなただけ」
「この現象が偶然でも、私の主観でもないと確かめたかったの。科学的方法で検証できる事実だと」
亮はどきりとした。
「この発見は、あなたにとって何を意味するんですか」
「何を意味するか」瑾は繰り返し、コアを静かに元の場所へ戻した。「私たちはみな知覚そのものに敗北した。そして父は、私が思うよりずっと甘かった。機械に人間の知覚を与えれば完璧な存在を創れると思い込んでいた。知覚そのものが弱点だとは、気づきもしなかったのね」
亮が反論しようとするまえに、瑾は不意に話を変えた。
「星野さん、運命を信じますか」
「それは……私は選択を信じます」亮は慎重に答える。
「ではもし、あなたが選択を迫られたら。一方に自分の原則が、もう一方に自分の感情がある。どうしますか」
亮はしばらく沈黙した。「両立させる方法を探すと思います」
「両立が不可能だったら」
「それでも、自分がその結果を引き受けられるほうを選びます」
「わかりました」
「御堂さん」亮はいつのまにか彼女をそう呼んでいた。こんなにも立て続けに投げかけられた問いに、まだ戸惑いが消えない。「この発見は、どうか慎重に扱ってください。もう少し時間をもらえれば、これを人間と機械が共存していくための、きっかけにできるかもしれない。少なくとも、どうか忘れないでください。彼女たちもあなたや私と同じように、痛みを怖がっているんです」
ひとりの学徒としての、精一杯の懇願だった。
彼の研究は、最初から最後まで、より効率的な破壊の道具をつくるためのものではなかった。彼が探してきたのは、対話であり、理解であり、種の壁を越えて異なる知性が共存するための橋なのだ。
瑾は微かに首を振った。「今の私は、痛みなど怖くはないの。ただ……少し疲れただけ」
彼女はそう言い残し、実験室をあとにした。
亮はひとり、自分の発見と不安に苛まれながら、その場に立ち尽くした。
それからの数日、亮は拠点内の人員の出入りが急に慌ただしくなったことに気づいた。見知らぬ顔が現れては消え、馴染みの顔も去っていく。武器庫の出庫記録には、大量の装備が持ち出された形跡がある。通信回線には暗号化された符丁と座標が飛び交うが、彼にはその意味を解読できなかった。
瑾はもう彼に結論を急かすことはしなかった。亮は分析を続けながら、けれど集中力が日増しに散っていくのを感じていた。
彼は「崩壊」の発生条件をさらに詳細に分類し、より多くの変数を組み込んだ。それらの知見はすべて、もっとも厳密で慎重な学術用語で文書化した。しかし、その詳細な技術資料はいつまでも提出されなかった。言い訳はいくらでもあった。データがまだ不十分だ、モデルはもっと改善できる、倫理的リスクの評価が終わっていない。けれど本当はわかっていた。自分が怖がっているだけだと。
昨晩も、深夜になって拠点の奥から奇妙な叫び声が聞こえた。すぐに消えたが、亮は様子を見に行こうとした。階段の手前で守衛に遮られる。
「下では特別な尋問が行われています。許可なしには通せません」
特別な尋問。亮は空気のなかに、何かが決定的に変わりつつある予兆を感じていた。
その日の夕刻、瑾がふたたび実験室の戸口に現れた。亮は一目見たとき、彼女だとわからなかった。
もはやそこには、戦闘服に身を包み銀灰の髪を無造作に束ねたいつもの彼女はいなかった。代わりに、殆ど黒一色の長い礼装を纏い、高い位置で帯を締め、幾重にもプリーツを落とした姿があった。クラシカルで荘重なシルエットの裾は、墨を流したように床まで届いている。
化粧もしている。ごく薄いのに、ひととなりを変えるには十分だった。琥珀の瞳を最大限に引き立てる陰影、ほんのりと暗い紅を差した唇。髪は丁寧に結い上げられ、露わになった首筋がいっそう白い。かつて一族の宴席で最も美しく灯っていた、あのあかりを思い出させた。
彼女は本来の自分を取り戻したように見えた。御堂家の令嬢、まことの貴族の淑女。この正装は夜会への招待のためではない、葬儀のためのものだ。それが誰のためのものかは、わからなかった。
「御堂さん、その格好は……」亮は思わず立ち上がった。
「大事な人に会いに行くんです。私にとって特別な場所で」
彼女は鞄から一冊の革表紙の日記帳と、クリップで留めた分厚い書類の束を取り出し、亮の机に置いた。「星野さん、これまでありがとう。あなたの研究からは多くを学びました。けれど私たちの協力関係は、今日で終わりです」
「どういうことですか」
「文字どおりです。これからの研究に、私は関わりません」彼女はすぐには答えなかった。「これは私の個人的な記録と、まだ整理の途中だった資料です。もしあなたに『プロジェクト・ペインキラー』の真相への関心がまだあるなら、何かを見つけられるかもしれません」
「そんな、まるでお別れみたいな言い方ですね」亮がノートに手を伸ばすと、瑾は不意にその手を掴んだ。
「それから」瑾の声がこれまでよりもずっと柔らかくなる。「これから何が起ころうとも、ここを離れないで。生き延びてください」
瑾は亮の手を離し、数歩さがり、裾を持ち上げて深く膝を折った。
「御堂さん、いったい何をするつもりなんです。何か困ったことがあるなら、力になれるかもしれません」
「ずっと終わらせられずにいたことを、終わらせに行くだけです」彼女はそう言い残し、戸口へ向かった。「ありがとう、星野さん。この残酷な世界にも、まだ美しい可能性を信じようとする人がいるのだと、あなたが教えてくれた」
「待って」
亮は異変を察し、戸口に駆け寄ったが反応はわずかに遅れた。外から施錠されている。小さな覗き窓も黒い覆いで塞がれていた。扉の向こうで錠が次々に落ちる鈍い音がいくつも響いた。彼は力まかせに戸を叩いたが、廊下には自分の谺だけが返ってくる。
亮は力なく扉に凭れた。背中に冷や汗が滲む。実験室の照明が間引かれ、通信端末が「信号途絶」と表示されている。彼は完全に閉じ込められた。
琪が、危ない。
このノートに何が記されているか、今夜彼女が何をしようとしているか、亮にはもう大方の察しがついていた。
彼は机に戻り、日記の表紙を開いた。見返しに手紙が挟まれている。封蝋には御堂家の家紋が捺されていた。亮は心を落ち着かせ、封を切った。
便箋は上質の羊皮紙で、ほのかに月桂の香りが染みついている。濃紺のインクの筆跡は、やはり優雅だった。
星野さん
いまこの文面に目を通していらっしゃるなら、すべてはもう止められないところまできています。今宵のあと、どうなるのかは自分でもわかりません。でもこれが、私たちの最後のやりとりになるはずです。
私は最初から、目的をもってあなたに近づきました。初めて会ったときから、あなたが純粋なひとだとわかっていました。科学が世界を良くできると本気で信じているひとだと。私自身は憎しみに駆られた復讐者にすぎません。あなたの善良さと才能を利用し、自分の目的のために使ったこと、本当に申し訳なく思っています。
ただ、あなたと過ごしたこの時間のなかで、私はもう一つの可能性も見ていました。憎しみも戦争もなく、人間と人工生命が共存できる世界。それはあなたの世界であり、私には永遠に届かない世界です。
打ち明けなければならない秘密があります。深夜、私はよく実験室の外の廊下に立ち、扉の隙間から洩れる燈りを眺めていました。進捗を見張っているのだと自分に言い聞かせていましたが、ほんとうはただ、その光に近づきたかっただけです。あなたが口にした数々の問い、機械と人間、意識と魂についてのあの対話に、私も本気で応じたかった。自分の考えを伝え、議論し、もしかすると一緒に答えを探したかった。それでもできなかった。はじめてしまえば、自分の選んだ道が揺らいでしまうとわかっていたから。
どうかこれまでの私の冷たさを赦してください。この世界であなたが見せるその執着は、私のような憎しみに壊された者には、怖くて触れられないものでした。あなたの研究は私の剣よりもずっと大きな希望をもって、誰も望まなかったこの混乱を終わらせてくれるはずです。
この先に綴られているのは、私という人間のすべての物語です。綺麗なものではないし、同情に値するものでもありません。ただ一つの標本として読んでくれれば十分です。重たい記録です。あなたの心をあまり煩わせませんように。せめてこの選択を知ってほしい。理解されたいと願うのではありません。ただ、ここからどこか、より良い未来へ通じる道を見つけてもらえればと思います。
ユニット06、あなたの知る彼女は、やはり特別でした。私は彼女を憎むべきでした。事実、憎んでいました。でも彼女を見るとき、自分とあまりに同じ貌を見つめるとき、彼女をただの敵とはみなせませんでした。彼女は父の夢であり、御堂家の悪夢でした。彼女は、私にとってはまやかしの鎮痛剤であり、最も深い苦痛の源でもある。私が向き合わねばならない鏡、それでも手放せない欠片。この矛盾はきっと、生涯私を苛むのでしょう。
あなたが私を止めようとするであろうことも知っています。でも、どうか止めないで。誰かの負った負債は、負った当人が清算すべきものだ。
最後にもうひとつ。あなたの理論はとても面白い。違うどこかの優しい世界では、機械はほんとうに愛を覚え、人間はそれを受け容れられたのかもしれない。あいにくこの世界は優しくない。そして私もまた、優しい人間ではなかったのです。
どうかお元気で。
御堂瑾
追伸、自動解錠は明朝五時に設定してあります。それまでこの時間を、あなた自身とこの日記のために使ってください。お疲れさま。
亮は手紙を読み終えると、指先で強く便箋を握りしめ、危うくその場に崩れ落ちそうになった。机にすがりつき、世界がぐるぐると回るのを感じる。
その夜、すべては静かに崩れはじめていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。
本章では、囚われの鈴の前に現れた瑾、そして亮との別れの場面が描かれました。
「自分はただの復讐者にすぎない」と語りながらも、その言葉の裏には、そんな自分を赦せずにいる苦しみが滲んでいます。
一方で、亮が確かめた「痛みからの逃避機構」という発見。それは機械が限りなく人に近づいた証でもあり、同時に誰かの手に渡れば最大の弱点にもなりうる諸刃の剣です。彼はそれを「共存への橋」に変えられるのか。そして瑾は、その橋を渡ることを自ら拒んだのか。
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次章でまたお会いできますように。




