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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第一幕 キャラメルマキアート / Caramel Macchiato
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01 琥珀時光カフェ

戦火はまだ遠く、けれど確かにそこにある。

霧の立ちこめる帝都の片隅で、今日も琥珀色の灯がともる。

コーヒーの香りと、蓄音機の古い歌劇。それがこの物語の、つかのまの平穏。


これは、機械仕掛けの世界で「痛み」を抱えて生きる者たちの物語。

ここから始まる小さな出会いが、やがてすべてを変えていく。


どうぞ一杯のコーヒーを片手に、ゆっくりとお付き合いください。

 「Day 67、Kの日誌。

 再びユニット01とユニット02に遭遇。その眼差しは人間に酷似しているが、私を欺くには至らない。だが、このすべてを阻むために、私に何ができるというのか。毎日同じ問いを繰り返している。

 備考:血と灰燼──血と灰燼——覚えている。奴らがくれた、新年の贈り物だ。」



 あの夜の吹雪は、まだ止んではいなかった。


 帝国暦3123年深秋、首都圏の境界は依然として金属臭を帯びた薄霧に覆われている。廃油、燃料、工業蒸気が混ざり合い、戦乱の影が落ちるこの土地の上空に纏わりついていた。


 機械式時計塔の歯車が時折かすかな軋みを立て、蒸気管の風切り音が軒の隙間を抜ける。光が時折ステンドグラスを抜け、カウンターの上に蔦の葉模様や歯車の紋様を映し出した。それが帝国の古典的な夢の残滓、それとも科学の冷たさそのものなのかは、この街の気質そのもののように判然としない。


 戦火は遠い北東から燃え広がっていた。前線がここまで直接迫ってはいないとはいえ、ニュースで頻繁に報じられる地名は、すでに街角の隅々に緊迫した空気を満たしていた。真鍮の街灯は霧のなかで点滅し、巡回兵の革靴が幾度も水たまりを踏み砕く。路上の蒸気馬車はかつてよりまばらで、代わりに昼夜を問わず物資を運ぶ気送管の唸りが響いていた。水平線の果てからは断続的に砲声が聞こえ、人々に機械反乱の脅威を思い知らせる。ご近所からは途切れ途切れの噂話が漏れ聞こえ、それは誰それがまた引っ越すとか、誰それに不運が起きたとかいった類の話で、道行く人々もこぞって生気のない足取りで、不安に引きずられるように歩いている。



 琥珀時光(アンバータイム)カフェは、この灰色の曖昧さのなかにひっそりと身を潜め、頑なに暖かな灯りを放ちつづけていた。木造三階建ての古い建物で、一階が店舗、二階以上は「旅舎」と書かれた真鍮の灯板が掛かっている。建物のふたつの部分は巧みに分けられながら、同じ静けさを共有していた。カフェのオーク扉は街角に半開き、宿へと続く鋳鉄の螺旋階段は建物の側面にある目立たない路地に隠され、片眼鏡をかけた年老いた婦人が管理している。


 扉を押し開ければ、濃厚なコーヒーとクリーム、そして紙の匂いが鼻をつく。その香りは外の戦争を一瞬忘れさせる。店内の彫刻を施した木の卓や椅子は油で磨かれてつやつやと輝き、真鍮製の巨大なコーヒーマシンは細かな蒸気を吐いている。ステンドグラスの模様は、半分は帝国伝統の月桂樹と菖蒲、もう半分は歯車とピストンで、二つの要素が陽光の下で絡み合っていた。


 歯車飾りのついた真鍮管のラジオが隅に設置され、帝国の公式発表を伝えている。それが反対側の蓄音機から流れるオペラの旋律と絡み合い、互いに打ち消し合う。ラジオが突然ざあざあと雑音を立てるたび、誰もが動きを止め、息を殺し、正常に戻るのを待つのだ。カウンター横のガラスケースにはキャラメルナッツビスケット、シナモンロール、アーモンドクッキーが整然と並べられている。これらは近所の百年つづくパン屋が毎朝届けてくれるもので、素朴な甘さを漂わせていた。メニューボードには常に空白が残され、そこには毎日チョークで様々なコーヒーや茶の名が書き込まれた。夜の時間帯だけは、数種の果実酒や花のリキュールも供される。


 店のすべてが、戦乱のなかの貴重な慰めだった。


 琥珀時光には十年以上の歴史があり、帝都の辺境地区ではちょっとした名の知れた老舗だった。元店主は老人で、星野(ほしの)(リョウ)の指導教官の旧友でもある。半年前、店主が病気療養のため街を離れることになり、この店を亮に託した。もともと何人かいた店員も、戦争の逼迫とともに続々と安全な内城へ移り住み、最後に残った若い女性の店員は、去り際に涙で顔をくしゃくしゃにしながら泣いた。亮は気まずそうに彼女の肩を軽く叩くのがやっとで、慰めの言葉ひとつも出てこなかった。


 いまでは、この広い店内にいるのは、ほとんどの時間、亮だけだった。


 戦乱が旅人の足を鈍らせ、住人も反乱軍の脅威で不要不急の外出を控えるようになり、喫茶店の商いは当然ながら冷え切っていた。亮はよく、たったひとりでカウンターの奥に立ち、毎週届くコーヒー豆の袋が倉庫で客よりも高く積まれていくのを、ただ眺めているだけだった。いっそ店を閉めようかと思ったことも一度や二度ではない。だが、こうして平穏な日常がまだここにあるという、その儚い幻想を手放すこともできなかった。


 かつての賑わいは、古い帳簿の記録のなかにだけ残っている。たとえば五六年前、ある常連客が残した独自のレシピ。リストレットを二杯分、指一本分の高さまで月桂樹の花を浸したキャラメルシロップ、ミルクは入れない。粉糖、ココア、シナモンを配合したパウダーを、カップの表面に横たわる銀河のように降り注ぐ。備考には「夜の星(ステラ・ノクティス)/Stella Noctis ──常連の一番人気、『夜を飲み干し、星を唇に残す』魔法」とある。



 星野(ほしの)(リョウ)、22歳。帝国科学院(ていこくかがくいん)の若き大学院生で、機械行動予測及び抑制を専攻していた。もっとも、彼自身、そのアルゴリズムが本当に悲劇を防げるのかどうかは疑わしかった。


 十数年前、彼の人生は暴走した機械によって鋭く切り開かれた。その日、姉の腕が家庭用ロボットによって引き裂かれ、血飛沫が暖炉を赤く染めた。あの叫び声を、亮はいまだに完全には忘れられない。以来、姉の治療のために両親は長年家を空けがちになり、亮はひとり広い家で幼年時代を過ごすうち、実体のあるロボットに対する本能的な忌避感を抱くようになった。


 彼が琥珀時光を引き継いだのは、義理人情に応えるためでもあったが、むしろこのひっそりとした店が思索に向いているからだ。彼はいつもこの店の静けさを借りて、様々な複雑な波形や同期アルゴリズムを考えていた。コーヒーの抽出についても、彼は店主の古いノートからその科学を学び始めた。圧力、挽き目の粒度、温度、時間──あらゆる変数を彼はペン先の記号に置き換えた。彼は混沌を手懐けるこの工程が楽しくてならず、時には本業の実験よりも夢中になるほどだった。少なくとも結果はすぐ見える。コーヒーは素直で、あの機械たちのように、いきなり暴れたりはしない。人々のように、振り回したりもしない。


 彼は控えめな性格で、賢い一方、よく「自分はただの理論家で、現実はたいして変えられない」と自嘲する癖があった。特に戦況報告の死傷者数に目をやるたび、そう思う。ただ、真鍮のカウンターの奥に立つときだけ、彼は一時的に幼い頃の傷を忘れ、すべてを秩序立てて制御できると信じられた。


 亮はカウンターを回って菓子の在庫を確認するついでに、蓄音機のボリュームをひとつ上げる。昔の店主は、オペラの旋律が客の滞在を少し長くすると言っていたが、亮はむしろこの音楽が自分の鼓動を落ち着かせてくれるのだと感じていた。この世界は、いつもと同じように回っている。



 その朝も、店内は静かだった。亮はシンプルな麻のシャツを着て、袖を捲り上げていた。手首には機械で火傷した跡がある。細縁の眼鏡が眠気の大半を隠し、彼を実験机からカウンターに移ってきたばかりの学生のように見せていた。身体からは、かすかにインクの匂いがする。


 片手にフランネルクロスを持ってエスプレッソマシンの圧力計を拭きながら、指は習慣的に抽出に最適な圧力の目盛りを確認していた。彫刻を施したバルブから蒸気が漏れると、反射的に身をかわす。開眼してから、カップの縁を軽く弾いてクレマの厚みを確認する。これらの動作はすでに彼の身体の一部だった。もしかすると彼は、このカウンターの中のあらゆる変数を正確に制御することさえできれば、自分の不規則な人生をも、少しのあいだだけ掌握できると本気で信じていたのかもしれない。


 せわしない客にコーヒーを淹れ、運んでいくとき、指先は無意識のうちに銅の取っ手の歯車飾りを避ける。この癖を自分では気づいていないが、毎回そうだった。


 そのとき、ふと顔を上げると、ステンドグラスが投げかける光が窓際の席をよぎり、ひとりの少女のスケッチブックの上で、歯車の形をした光の斑が一瞬だけ瞬いた。彼女は静かにそこに座っていて、この世の喧騒がまるで彼女だけには届かないかのようだった。


 銀灰色の髪が淡く輝き、目は珍しい灰青色で、磨き上げた極地の氷晶のような輝きを放っている。人目を惹かずにはおかない輝きであり、また掴みどころのない澄ましも湛えていた。彼女の佇まいは、どこかこの場にそぐわないものがあった。あまりに静かすぎるのか、あまりに集中しているのか、どちらでもなく、ただ「ここではないどこか」に属しているようだった。彼女はうつむいて作画に没頭しており、紙の上には細やかな線が描かれている。新聞売りの少年が風に裾をはためかせる様子、野良猫が互いに舐め合って毛を逆立てる仕草、どの細部も精緻で、まるで現物がそこにあるかのようだった。


 亮はしばらく見とれ、ひとりの客の咳払いに現実に引き戻された。危うくコーヒーを零すところだった。



 「()。光を通す玉、という意味の字です」


 二日前、彼女はそう名乗った。その日彼女は異国風の旅装束をまとい、スカートの裾には霧のしずくがつき、黒いブーツには水滴が集まり、指先にはかすかに鉛筆の粉が残っていた。彼女は窓際のこの席に無言の執着を持っているようで、来るたびに必ず同じ席に座った。


 御堂(みどう)()。隣国の、海沿いの名もない小さな町から来たという。大学に入る前のギャップイヤーを利用して各地を旅しているのだと。亮は彼女の話をそのまま信じていいものか迷った。今のご時世に、旅行だなんて誰がするのか。だが彼女のことなら、何も不思議はないようにも思えた。


 「琪さん、今日は何を?」


 近頃あまり客に話しかけることはなかったが、彼女にはどこかもっと知りたいと思わせる引力があった。彼は世間話が得意ではない。これは彼が絞り出せる数少ないきっかけだった。声をかけられて顔を上げた琪は、灰青色の瞳をまっすぐに合わせ、いたずらっぽい微笑みを浮かべた。


 「当ててみて?」


 彼女の返事はいつもこんな調子で、ちょっとした謎かけのようだった。亮がどう答えていいかわからないでいると、彼女は代わりにスケッチブックを閉じてカウンターへ歩いてくる。独特の香りがふわりと漂い、それまでの簡素なコーヒーの苦みをかきまぜた。清冷な月桂樹と微かな果実の香り。冷たくもあり、暖かくもあった。あとで彼は、その果実が星砂の実(スターダストベリー)と呼ばれるものだと知った。


 「もちろん、あなた。真面目に仕事する珈琲師ほど、絵になる題材はないでしょ」


 彼女は真鍮のカウンターを指でとんとんと叩き、首をかしげて眺めなおす。「見て、戸棚のガラスの反射で、自分も描いちゃった」


 亮は仕方なさそうに笑い、カップを置いた。観察されるのも、絵に描かれるのも好きではなかった。けれど彼女を前にすると、その抵抗感は不思議と薄れた。彼は反論めいた口調で返した。


 「せめて描く前に、モデルの許可を取るべきでは」


 口ではわざとそんな軽口を叩きながらも、視線はやはり抗いがたく彼女のあまりに澄んだ瞳に一瞬長く留まった。スケッチブックへの興味より、ほんの少しだけ深く。


 「芸術っていうのは盗まれたインスピレーションの産物だから、前もって教えるわけにいかないんだよね」


 笑いながら席に戻った琪は、コーヒーを一口含むと途端に眉をしかめた。大仰とも言える仕草が、どこか可愛らしい。


 「マスター、これ苦すぎ!まるで薬みたい──ううん、薬より苦いよ。もうちょっと甘くしてもらえない?ええとね……エスプレッソを二杯分、月桂樹のキャラメルシロップに、粉糖とココアとシナモンを混ぜたのを、星を散らすみたいにかけて」



 何の気なしに口にした配合に、亮はしばし呆然とした。まるで常連客のような口ぶりだった。彼は店主のノートをしまってある引き出しに目をやった。下唇を噛み、しばらくためらいつつも、探りを入れる衝動をぐっと抑え、すぐに店員らしい丁寧な笑顔に切り替えた。


 「琪さん、以前ここに……?その組み合わせは、そう簡単に出てくるものじゃないと思うんですが」


 声の調子が一段落ちたのに、彼女は睫毛を素早く数回またたかせた。一瞬の戸惑いが浮かんだものの、すぐに消える。彼女は笑って軽く手を振った。


 「いやいや、適当に言っただけ。どっかの街の、どっかの店で似たようなのを飲んだ気がして。美味しかったから覚えてたの」


 軽い口調だが、視線は窓の外へと逃げていた。どうやら自分でも、なぜそんな言葉がこぼれたのかわからないらしい。亮はそれ以上追及しなかった。いまの脆い均衡がくずれてしまうのを怖れたのだ。彼自身、生活のなかでなにかが制御不能になることにはとっくにうんざりしていた。彼は心のうちで偶然だと思うことにし、この奇妙な配合を記憶に刻みつつ、大人しくカウンターへ戻った。いつもより動作はゆっくりと。


 真鍮のエスプレッソマシンがしゅうしゅうと音を立て、深い琥珀色の液が予熱した白磁のカップに滴り落ちる。クレマはたっぷりと豊かだ。彼はカップを軽く揺らし、温めたキャラメルシロップをエスプレッソのベースに溶かしこみ、模様を描く。それから細かな篩で、合わせておいた粉糖、ココア、シナモンをそっとふりかけた。ノートにあった図柄を記憶でなぞりながら、一面に細かな星々を描く。甘い芳香が空気に満ち、宮廷菓子のような贅沢な甘さと、エスプレッソのほろ苦い焙煎香が絡みあい、店内のどの定番メニューよりも、それは深く複雑な香りだった。


 新しく淹れたコーヒーをそっと彼女の前に置き、ついでにガラスケースから一番大きなキャラメルナッツビスケットを取り出して皿に添えた。


 「さっきの『薬』のお詫び、ということで」


 ビスケットの表面にも粉砂糖がたっぷりかかっていて、灯りの下できらきら光っている。彼女はカップのなかの星を見つめ、それから彼にウインクした。いたずらっぽい笑みがまた唇にのぼる。ただ今度は、そこにほんの少しだけ、別のなにかが混ざっているようだった。


 それが何なのか、亮にはわからなかった。

 ただその一瞬、彼女は誰よりもこの場所に馴染んでいる——そう、感じたのだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


この作品は、もともと中国語で執筆した長編小説『止痛計畫 / Project Painkiller』の日本語翻訳版です。翻訳にあたっては、できる限り原文の空気感を損なわないよう心がけておりますが、もし不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、遠慮なくご指摘いただけますと幸いです。


さて、この物語は全体的にダークで重たい展開が続きますが、そのぶん、ふとした瞬間に差し込む光を大切に書きました。


ブックマークや評価をいただけますと、翻訳の大きな励みになります。どうぞよろしくお願いいたします。


次回──


「ここの光は、とても優しい」


彼女はそう言って、スケッチブックの隅に小さく書き残した。

その横顔が、いつもより少しだけ、寂しそうに見えたのは、なぜだろう。


戦火の影が迫るなか、カフェに通い続ける少女の素性とは。

そして、古い帳簿に残された「夜の星」の記憶──。


次回、第2話「ここの光は、とても優しい」。

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