00 あの夜、帝国に降った雪
これは、永遠に続く痛みの中から始まった、二人の少女の物語。
奪われた人生と、与えられなかった人生。鏡合わせの二人が織りなす、これは「痛み」をめぐる、終わりのための旅路。
どうか、彼女たちの行く末を見届けてください。
ようこそ、『鎮痛計画』へ。
あの夜、帝国に降った雪は、二つの色を刻んだ。
ある者は言う、魂は氷の中で鍛えられると。
ある者は言う、希望は血の赤に葬られると。
少女は躓きながら走っていた。息は途切れ途切れ、すぐに吹雪にかき消される。
帝国の東北工業区。夜は雪の破片に貫かれ、吹雪のなかには工業廃棄物の鉄錆の匂いが充満している。雪原の縁で炎が吹雪に抗うように揺らめき、光と熱を滲ませていた。
病衣の裾は暗赤色に凍りつき、裸足が雪に沈む。一度、もう一度。青黒く腫れた膝は走るたびに擦れ、肩からずり落ちた毛布が雪の上を引きずられて溝を残し、すぐに新たな雪がそれを埋めていく。
銀灰色の短い髪は雪に濡れて、紙のように白い頬に張り付いていた。瞳は遠くの炎を映し、爆発が光るたびに瞳孔が縮む。痛みが神経を灼き尽くし、寒ささえも感じられない。
痛い。痛い。
ペインキラーの効力が切れた後の世界は、いつもこれほど彼女に気前がいい。風が剥き出しの肌を切り裂き、触覚はすべて針の先に変わる。息をするたび、肺に熱いガラスの破片が流れ込んでくるようだった。あとどれだけ持つのか、自分でもわからなかった。
彼女は鈴を握りしめていた。彫り込まれた月桂樹の花びらの模様には、誰のものかもわからない血がこびりついている。星川鈴奈がくれた最後の贈り物だ。銃声が鳴る前、鈴奈はまだ彼女の好きな歌を口ずさんでいた。機械の駆動音を優しい旋律で覆い隠そうとするように。
雪の下に隠れた木の根に足を取られ、膝が雪にめり込む。赤が雪の上で花開いた。毛布が肩から完全に落ち、最後のぬくもりが月桂の残り香と共に風に混じる。ぼんやりとした記憶が呼び起こされる——庭のそよ風、親友の鼻歌、母の抱擁——そして何もかもが空白に消えた。
立ち上がろうとする。起き上がっては倒れ、倒れてはまた起き上がる。何度も何度も。
炎の向こうで、機械の歩哨の輪郭がくっきりと浮かび上がる。走査ビームの青い光が彼女を狙い、雪煙を貫いて一直線に伸びてきた。一瞬、手術室に戻ったような錯覚に陥る。あのレーザーの十字線も、こんなふうに何の前触れもなく身体の上に落ちてきた。でも今は、あのときのように温かい手で目を覆ってくれる人はいない。
鈴が澄んだ音を立てるより早く、次の爆発がすべてを飲み込んだ。舌の上に血の味が炸裂する。生きていることの代償を、世界は最も乱暴なやり方で思い知らせてくる。
あの夜、優雅も高貴も血に呑まれた。
ある者は言う、あの目覚めに儀式は要らなかったと。
ある者は言う、あの死に見届けは要らなかったと。
工業区の深部、御堂家の秘密研究施設。数時間前。
真鍮のパイプが天井を這い、機械腕がレールの上を滑る。純白の空間の中央に置かれた手術台。無影灯の光が少女の剥き出しの肩に降り注ぎ、電極が深く皮膚の下に突き刺さっている。その横の影のなかで、もう一つの人型が静かに眠っていた。合成皮膚は冷たい光を帯び、赤い液体が体外循環のチューブを流れている。それはまだ目覚めていないが、すでに希望と呪いの両方をその身に負った存在だった。
「プロジェクト・ペインキラー——」
父・雄一の声は喉に詰まったようだった。眼鏡の奥の目には血の網が張り、きちんと仕立てられた礼服も疲れを隠せない。
「これがユニット06……君の成人の贈り物だ。これでやっと、君は……」
言葉の後半は、換気ダクトの唸りにかき消された。震える指が眼鏡を直す仕草が、彼の葛藤を露わにしている。この言葉は娘に伝えるというより、自分自身に言い聞かせるためのものだった。
母が娘の注射の跡が青く残る手の甲に指を滑らせる。彼女のまとう月桂の香りが消毒液の刺激臭と混ざり合う。
「事故の前の年の誕生日、覚えてる?」声は涙で詰まっていた。あの頃、娘はまだ朗らかな子どもだった。それが今は、後遺症に蝕まれた抜け殻のような姿だ。
三年だ。すべての知覚が、ただの痛みになった。
永遠の痛み。
親友の鈴奈が傍らに立っている。彼女の手にはあの銀の鈴があり、そっと歌を口ずさんでいた。
「怖がらなくていいよ、私がいるから」
そう言って少女の肩に手を置き、恐怖を和らげようとする。だがその言葉は薬物による混濁の向こう側で、ひどく遠くに響いた。敏感になりすぎた痛覚神経は、それでも忠実に苦痛を伝え続ける。医官が静脈に針を刺し、常人の数倍の鎮痛剤を注入する。ようやく、彼女は朦朧とした意識のなかから、絞り出すように懇願した。
「行かないで……」
声はあまりにか細く、自分でもよく聞こえなかった。本当に口にできたのかもわからない。
技術員が冷や汗を拭い、耳元に身を寄せて報告する。「御堂様、被験体の数値に多少の変動がありますが……まだ安全閾値の範囲内です。いつでも開始できます」
雄一は頷き、青白い娘の顔に最後の視線を落とした。
「彼女のために、始めてくれ」
リレーが閉じ、電極が甲高い駆動音を発し始める。主制御盤のモニターに長いコードの列が流れる。そのなかを、一瞬だけ赤い文字化けが走り抜けた。スピーカーから漏れた微かな電子音を、誰も気に留めない。
あの夜、血と刃が交錯した。
ある者は言う、少女は地獄を見たと。
ある者は言う、地獄が彼女の目を通して現世を覗いていたと。
少女は再び雪の上で崩れ落ちた。
右脇腹を襲った突然の痙攣に、身体が丸まる。血の混じった唾を吐き出した。この痛みには、覚えがある。
先ほど手術台の上で、機械腕が降りてくるのと同時に、彼女もこんなふうに痙攣した。それを見た母はすぐさま身を屈め、自分の身体で娘を押さえつけた。首から下がった真珠のネックレスが垂れて、ひんやりとした感触が少女の頬に触れた。あの感触が、まだここに残っている。
「深呼吸よ、練習したとおりに——」
記憶のなかで、母の声は電極の駆動音にかき消された。指から滑り落ちた鈴を追いかけ、彼女は必死に手を伸ばす。銀色の光を掴もうと爪を雪に食い込ませ、やがて指の間から血が滲み出た。雪煙のなかで、歩哨機械の金属の外殻が月光を反射しながら、一歩一歩と迫ってくる。
「行かないで……」
風が彼女の呟きを呑み込んだ。意識は朦朧とし、現実と記憶の境もわからない。激痛と寒さが神経のなかで灼熱の渦となり、手術室の血の光と眼の前の雪の光景が交錯する。硝煙、悲鳴、血飛沫……鈴の音がまだ雪の中で谺している。あらゆる映像が、痛みという鎖で数珠繋ぎにされていた。一瞬、このまま眠ってしまいたいと思う。雪のなかで眠って、永遠に眠ってしまいたい。でも今は駄目だ。止まるわけには——
絶対に。
あの夜、時計塔の針は止まった。
血の濃さが最も刻まれた、その瞬間に。
ある者は言う、それは裏切りと腐敗だと。
ある者は言う、それは祈りの結晶だと。
スピーカーから再び電子音が流れ、施設の通路灯が一斉に血の赤へと変わった。
影が寝台の陰から起き上がる。それ——いや、彼女は器具箱の蓋を開け、二丁の拳銃を取り出した。同時に、通風ダクトからは無数の金属の外れ音が響き渡る。施設中の歩哨機械が、一斉に固定ロックを解除し始めたのだ。技術員の懐中時計が床に落ち、割れた文字盤に映るのは、扉を破って侵入してきた殺戮機械だった。
母の手は最期まで、娘の痙攣する腹部から離れなかった。たとえ銃弾が肺を貫き、背中で血の霧が炸裂した後でも。この光景は、これから先、幾度となく少女の悪夢を支配することになる。もしあのとき、自分がもう少し強ければ、母はあの銃弾を避けられただろうか。でも、もしもはどこにもない。
鈴奈は我を忘れてその影に飛びかかった。銃をもぎ取ろうと組み合うなか、弾丸が額を貫く。鈴が手から飛び出し、寝台の下へと転がり込んだ。澄んだ鈴の音は、血と脳漿が湧き出る不気味な音にかき消された。警報が鳴り響くなか、御堂雄一は剣を抜き放つ。次々と迫り来る機械を斬り伏せ、その度に火花が礼服の家紋に燃え移り、炎が紋様を舐め広がっていく。肩で息をしながらも眼光は鋭く、半身を血に染めながら、彼は娘の前に立ちはだかった。
「行け!今すぐ!」
雄叫びと共に、彼は剣の柄で窓ガラスを粉砕した。雪風が怒涛のように室内へと流れ込む。白い渦が少女の身体を包み、彼の最期の命令をも包み込んだ。
影が振り返り、銃声。父は残るすべての力で少女を窓の外へ突き飛ばした。唇が耳元を掠めた時、その吐息は燃えるように熱かった。何か言った気がする。でも彼女には聞こえなかった。
あの夜を境に、帝国に降る雪はいつも血腥かった。
ある者は言う、御堂の令嬢は雪の中で翼を折ったと。
ある者は言う、機械の魂は血の海に産声をあげたと。
痛い。痛い。
少女は雪のなかに跪いていた。鈴の銀の鎖はすでに掌の肉に凍りついている。だがその認識がもたらす感覚も、全身を駆け巡る痛みに比べれば取るに足らないものだった。ついに彼女は支えきれずに前方へ倒れ込む。かすかに動く指先は、頭上で瞬く星の光を掴もうとしていた。ふと、彼女は思い出す。そういえば鈴奈に聞いたことがなかった——あの日、一緒に温室で摘んだ月桂樹の花びら、結局しおりにしてもらえたのだろうか。
遠くの街の灯が一つまた一つと消えていく。まるで彼女一人のための、壮大な幕引きのように。吹雪がふと優しくなり、一片の雪がそっと睫毛の上に落ちた。それは世界のすべてよりも重たかった。
「誕生日おめでとう」
ああ。さっき父が言ったのは、これだったのだろうか。少し笑いたくなったが、唇は凍りつき、顔のどの筋肉もそれに応えてはくれなかった。
その祝福を受け取る者もなく、研究施設の最後の爆風と共に、帝国の絶え間ない歯車の回転のなかへと消えていった。
帝国暦3121年冬。
公式年鑑には、違法実験による事故と記された。
以来、「御堂家の変」の真実は——
永久に歯車と血肉の狭間で、半拍、ずれたままだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。
この作品は、もともと中国語で執筆した長編小説『止痛計畫 / Project Painkiller』の日本語翻訳版です。翻訳にあたっては、できる限り原文の空気感を損なわないよう心がけておりますが、もし不自然な表現や誤訳にお気づきの際は、遠慮なくご指摘いただけますと幸いです。
さて、この物語は全体的にダークで重たい展開が続きますが、そのぶん、ふとした瞬間に差し込む光を大切に書きました。
次回、舞台は「琥珀時光」という不思議なコーヒー店へと移ります。甘い香りと温かな灯りが、あの雪の夜から続く痛みをどう包み込むのか——ぜひ、この先もお付き合いいただければ嬉しいです。
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