17 お誕生日、おめでとう……かもしれない
この日、その後に起こったすべては、亮の予想の遙か外にあった。
亮が口を開こうとした、まさにその瞬間だった。目のまえの光景に、彼はその場に縫いとめられた。呼吸さえ、思わず止めていた。
彼は見た。瑾が、あの、いついかなるときも脆さなど見せたことのない御堂の令嬢が、懷から小さな充填済みの注射器を取り出すのを。彼女は左腕の袖をまくりあげた。青白い肌の下に、淡い青の血管がすけて見える。これが初めてでないことは疑いようもなかった。自分の腕を見ることもなく、彼女は手慣れたしぐさで針を靜脈に刺し、そのまま筒のなかの液をすべて押しこんだ。薬液が注ぎこまれるにつれ、彼女の目の色が苦痛から解放へと移ろう。すべては數秒のうちに起こった。冷や汗が額に滲み、凍てた風のなかで、またたくまに薄い霜となる。
「あ……」
長い吐息が、白く濁って素早く散った。シリンジが指のあいだからすべり落ち、足もとに転がる空の薬瓶と注射針の山へ、またひとつ加わる。ああ、これまで彼女にまつわってきた冷酷非情な強者などという評判が、この無言の一幕をまえにしては、なんと滑稽なことか。若い娘が、こんな自傷行為じみたやり方で、ほんのひとときの安らぎを摑もうとする。その背後には、いったいどれほどの責め苦があるというのか。
「ねえ、あなた。いつからそこにいたの?」
瑾が不意に口を開いた、背を向けたままだ。亮ははっとした——いったいなぜ彼女が自分の存在に気づいたのか。
「人の苦しみを盜み見るのは面白い? それとももっと研究材料が必要なのかしら、星野さん。私のこと、いったい何だと思ってるの」その聲はいくぶん怒りを含んでいて、それでいてどこかぼんやりしていた。薬のせいだろうか。
「いや、違うんです、誤解です」亮は慌てて盆の位置を直しながら、「ちょっとしたものを持ってきまして」
瑾がようやくふり返った。その動きは緩慢だった。筋肉を一寸動かすのにも、勇氣を振り絞らねばならないかのように。けれど亮が手にする盆を見とめた、その瞬間、彼女のすべての防壁が凍りついた。
あの珈琲。
あの銀河。
「御堂さん。今日という日が、あなたにとってどんな意味を持つのか、ぼくには計りかねますが——」
「もうよして! あなたに何がわかるっていうの!」
「お誕生日、おめでとう……かもしれない?」
瑾は勢いよく立ち上がり、よろめいて、危うくバランスを崩しかけた。その目が珈琲から亮の顔へ、幾度も泳ぐ。粉砂糖とココアとシナモンで描かれた銀河が、あの天の川が、彼女の瞳のなかで揺れていた。いつもは無表情に凪いでいたその顔に、隠しきれない感情の波が、これほどまでにありありと浮かんだのは初めてだった。彼女は何か言おうとし、その由縁を問い質そうとし、無禮だと叱りつけようとした。だが、聲はひとかけらも出なかった。
「だれが……」やっとのことで絞りだした聲は、うわずり震えていて、「……こんなことを……していいと言ったの」
彼女は拳を握りしめた。爪が肉に深く食いこむ。なじみ深い痛みで、胸のうちから溢れ出そうとする衝動に抗おうと、全身の力を振り絞っているのだ。強く嚙みしめた唇は、もとより血の氣の薄いそれが、とうとう最後の色を失い、口中には血の味が滲んだ。いまこの瞬間に屬する、おなじみの味が、辛うじて僅かな理性を繫ぎとめる。
「あなたは……どうして」聲がさらに小さくなる。「知れるはずがないのに……」
瑾は一步、前に踏みだした。いつ劍を拔いてもおかしくない、そんな足つきだった。
「いくつかの古い話をつなぎあわせただけです。『Stella Noctis』、それから五六年前の琥珀時光」亮は靜かに盆を、彼女の目のまえのまだらな石板のうえに置き、それから數步さがって、十分な距離を取った。「あなたがあの常連さんでしたね」
彼はそれ以上を説かなかった。彼女ならわかるはずだった。いまは沈默だけが、どんな言葉よりも重みを帶びる。
瑾は答えない。ただその珈琲と對峙している、引き裂かれた自分の人生すべてと對峙している。時が刻一刻と過ぎていくなか、廃教会の屋根には風の音だけが吹き荒れた。そして彼女の自制心は、あまりにもなつかしい甘やかな氣配のまえに、いまだかつてない速さで瓦解していく。
このまま夜明けまで默り通すか、それとも次の瞬間には劍を拔くか。亮がそう覺悟した、まさにそのときだった。雫がひとつ、うつむいた彼女の頰をするりと傳い落ちた。たった一滴の、透きとおった雫。彼女の制御をすっかり離れ、あらゆる虛飾をものともせず、青白い頰を傳い、粉砂糖で描かれた銀河の、その中心へと落ちていった。さざ波がひろがり、星の川が搖らめく。
負けたのだ。過去との長い葛藤に、彼女は完膚なきまでに負けた。
けれど聲をあげて泣きはしなかった。ただ手で顔を覆い、すべての聲を呑みこんで、からだのなかで引き裂かせている。亮はどうすればいいのかわからず、手を伸ばしかけて、また引っこめた。
長い、長い刻ののち、瑾の震えはようやくゆっくりと靜まっていった。彼女は手を放すと、亂暴に手の甲でぬぐった。息を深く吸いこんでから、どうにか取りつくろった聲を出す。それでも、赤く染まった目が、その強がりをひどく哀れに見せていた。
「せっかくのご厚意を、裏切らねばならないようです、星野さん」
「無に」というその言葉には、別の意味がこめられているらしかった。差しだされた珈琲を受け取りながら、その手はまだかすかに震えていて、心の奧が靜まってはいないのだと知れた。
「と、おっしゃいますと」
「私は……味が、わからないんです」
瑾は目を閉じ、ゆっくりとカップを口もとへ運んだ。月桂とキャラメルがおり混ざった珈琲の香りが鼻腔に滿ちる。それがかつてのように、心をおどらせることはない。歪んだ知覺のなかで、その匂いはいつも痛みへと變わり、神經を傳ってせり上がってくる。
「この珈琲の香りをかぐと、とても痛みます。そして、飮んでみると」
そっと一口含んだ。表情がぐにゃりと歪み、それもすぐにもとに戾る。舌をすべり落ちる液体、その極まった甘さも、濃い苦さも、彼女の大腦皮質ではみな同じ燒けつくようなものへと姿を變えてしまう。
「……もっとです。私が感じとれるのは、ただ味わいの違う『苦痛』だけ。甘さは、ぬるい痛み。苦さは、鋭い痛み。私の世界では、それはたいして變わりません」
「御堂さん、それは……いったい、なぜ、どうして」
亮は計りかねていた。言葉を選んでいるのか、それとも何を語り、何を永遠に葬るべきか、見極めようとしているのか。
「でも、あたったわね。さすがはあなた」
「私はあの窓際の隅が好きだった。あまくて、くどいばかりの珈琲とお菓子が好きだったの。ずっと昔の話よ……まだキャラメルの甘さや、シナモンの香り、エスプレッソのあの悩ましい苦さを感じられたころ。まだ雪を待ちわびることを覺えていて、痛みに殺されきっていなかった、小さな女の子だったころのね。あの頃は信じてた。世界中が、この珈琲みたいに、ずっとあたたかくて、甘いんだろうって」
そう語るあいだ、彼女の琥珀の瞳は、かつてないほどに無防備なまま、まっすぐ亮を見つめていた。そのなかに、あまり多くの悲しみはない。ただ、すべてを燃やし盡くしたあとの虛ろだけが映っている。
亮の胸のうちがずしりと沈んだ。はじまりは當てられた。だがこれほど殘酷なかたちで答えが差しだされるとは、思いもしなかった。彼がよみがえらせようとしたぬくもりは、彼女にとっては、もはや別のかたちをした責め苦にすぎなかったのだ。
「すみません、ぼくはただ……」
「ただの好奇心ね」瑾はまた彼を遮った。「私に、あの子に、私たちの繋がりに、興味があるのね。それは仕方ないわ。これでいくつか答えが手に入ったでしょう?」
「亡き父は……たしかに私を雛形とした機械を創ったの。『プロジェクト・ペインキラー』のユニット06。あなたが『御堂琪』と呼んでいる、あれよ」瑾はゆっくりと首を振った。それから、つじつまの合わぬことを言った。
「私たちは……かつて、同じ夢を見ていた。私が目覺めるまでは。けれど、私が目覺めた後も……夢だけは、まだ外を彷徨っている。」
瑾はそれ以上を掘りさげなかった。ただ事實を述べているだけだった。亮の行きすぎた好奇心をひとまず宥めながらも、十分すぎるほどの謎を留保する、ただの事實。ひとりは醒めた人、もうひとつは今もなお續く夢。片や殘酷な現實、片や美しい虛ろ。彼女の言葉に、亮は思わず目を見張った。
「それに觸れてはだめよ、星野さん。呑みこまれてしまうから」
聲を潛めて、自分に言い聞かせるように呟き、それから彼女は、その苦しみだけが殘った珈琲を、ぐっと飮みほした。苦さも、甘さも、燒けるような熱さも、ありつたけの痛みをあのひと雫の淚とともに、その身のうちへと呑みこんだ。
亮はそのなかに悲劇を聞きとっていた。彼の目からすれば、この抑えがたいほどの胸の內の吐露は、彼女にとってすでに限界だった。問い詰めることはしない。少なくともとうとう彼女はその名前を口にし、みずから彼女たちのあいだの聯絡をはっきりと認めたのだ。いま目のまえにいるこの一個の生きた人間に、これ以上食いこんでゆくことは、もはや科學とは呼べない。ただ殘酷な冒瀆だけがそこに殘される。
瑾は立ちあがった。風が外套の裾をはためかせ、彼女はまたたくまに、あの「無歯輪者」の鋭い剣へと戾っていく。
「それでも、ありがとう。この、もう二度と味わうことのできない魔法を、私のためにもう一度つくってくれて、星野さん」
通路の入口へ差しかかったところで、彼女は立ち止まった。
「でも、どうかもう二度と、こんなことはなさらないで。私の世界に、星はもういらないから」
「御堂さん、待ってください。もし誰かと話したいなら、それとも何か必要なことがあるなら、私はここにいます。本當に」
「あなたが私のためにしてくれたことは、もうそれだけで、とても贅沢なことだったの」
亮は呆然とその場に立ち盡くした。闇の奧へ消えていく彼女の背を見送りながら。
あの銀河のさなかに落ちたひと滴の淚。彼がこの夜ただひとつ摑んだ、あの魂のほんとうの溫度の證だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の台湾出身、雨時です。
「Stella Noctis」それは「夜の星」を意味する、一杯の珈琲です。今回の章では、珈琲がただの嗜好品ではなく、記憶そのものとしてふたりのあいだに立ち現れる瞬間を、翻訳者としてとても大切に譯しました。
味覺を失った少女が、甘さも苦さもすべて「痛み」としてしか感じられない。それでも一杯の珈琲が、彼女のなかに封じこめていた涙を解き放つ。その矛盾こそが、彼女の「生きている」という證なのかもしれません。
ほんのひととき垣間見えた、彼女の素顔とその震えが、これからの物語のなかで、どのように響いていくのか。引きつづき見守っていただければ幸いです。
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次章でまたお會いできますように。




