16 風もまた痛みを刻む
思い返せば、これもまた一種の賭けだった。ある一日と、一杯の珈琲だけを賭け金にした、そんな賭けだ。亮がその考えを確信したのは、アルコールランプに火を灯した、まさにその瞬間だった。
乾いた月桂の枝をシロップに落とす。皿の底を舐める青い炎が、ほのかに清冷とした苦みを含んだ香りをゆっくりと解き放ち、共用厨房のなかへ広げていく。亮はただひたすら、鍋のなかで煮詰まるシロップの色の移ろいを見つめ、秒を刻んだ。淡い金の泡がくるくると踊り、やがて深い琥珀色へと変わる。焦げた甘みが、いままさに甘い香りを凌ごうとする瀬戸際で、彼はきっぱりと火から下ろした。
あと一瞬早ければ、味わいは浅薄に終わる。あと一秒遅ければ、苦みはもう取り返せない。
「ここにも、やっとまともな珈琲の匂いができたわね」
ふり返ると、渡鴉が戸口にもたれて立っていた。口もとに、まだ火のついていない巻き煙草を銜えている。亮は手を動かしつづけた。
「あとで一杯どう。数分もあれば淹れられる」
「遠慮しとくわ、星野。通りかかっただけよ」渡鴉は首を振り、煙草をポケットに戻した。「なにか特別なおまじないを仕込んでるんだって。あの娘のためでしょ」
「ああ」
「あまり期待しすぎるなっていうのは、こっちの話だけどね。でもまあ、試してみて損はない。あんたのその一杯で、少しは息をつけるかもしれないし」そう言うと、彼女は亮の肩をぽんと叩いた。
たとえ古びた聖堂の地下、コンクリートと蒸気管と、永遠に変わらぬ人工の灯で築かれたこの迷宮にいようとも、地上にはもう一つの世界があることを、亮は折に触れて思い出していた。ここでは時間はとっくにものさしとしての意味を失い、昼と夜の境はぼやけ、代わりに体のなかでめちゃくちゃになった体内時計が、疲れだけを吐き出してくる。
今日は帝国暦3123年12月12日、亮がずっと忘れずにいた日だ。
その日、彼は後方支援の部署を訪ねた。補給将校は相変わらずのしかめ面だったが、意外にも話が通りやすい。なにしろ亮はここ数週間、技術面で少なからぬ貢献をしてきたし、組織の上層部、ことにあの御堂の令嬢が目をかけている。亮は申請リストを差し出した。
「南方植民地の深煎り豆、精製前の蔗糖、限定産地のシナモンスティック、純ココアパウダー、それから乾燥月桂……学者先生、あんた、戦時中にお茶会でも開くおつもりか。これはご冗談でしょうね」補給将校がすかさず突っ込む。
「誕生日を迎えるかもしれない友人に、ちょっとした驚きをと思いまして」亮は気まずそうに手を揉み、なんだか心許なげに笑った。「あるいは『招魂の儀』、ですかね」
「降霊? 物識りのあんたが、基地でそんなオカルトまがいの真似を」
「いや、そうじゃなくて。ただ……ご安心を。珈琲一杯です。大した話じゃありません」
将校は胡乱げに亮を見比べ、そのいかにも本の虫らしい顔を眺めてから、ついに肩をすくめた。彼にしてみれば馬鹿げているとしか思えないこの申請に、許可を出すことにしたのだ。
「わかったわかった。くれぐれも、呼んではならないものまで呼び出すなよ。それと、厨房は燃やすなよ」
ここへ来てもう一月あまり、彼と御堂瑾とのあいだには妙な折り合いができていた。
最初のころのような当たりの強い詮索は、もうやめている。彼女と琪の秘密を無遠慮に問いただすような真似もしなくなった。だがそれは、答えを追い求めることを諦めたわけではない。言葉の応酬が、学者としての観察という本能へと姿を変えただけだ。日々のなかで亮は、瑾の仕種や目線に気を配り、その小さな癖を見つめ、彼女の魂を包んでいるものをどうにか解読しようとしていた。
「また私を研究していますね、星野さん」 あるとき、瑾にばったり見つかって、亮は飛び上がらんばかりに驚いた。
「あ、いや、すみません」まさかそこまで視線が露骨だったとは思いもよらず、彼は慌てて目を逸らし、ひどく決まりが悪かった。
「あなたは、ここで私を怖がらない、たった一人の人ね」瑾はそう言うと、珍しく二三言つけ加えた。
彼の心のなかで、琪と瑾への名状しがたい想いは、もうずっと根を張っている。そしてこの瑾という存在じたいが、矛盾の集合体なのだということも、嫌というほど思い知らされていた。
彼女は公式の記録では、すでに命を落としたはずの罹災者でありながら、いまは「無歯輪者」の剣として、そして最も気前のよい支援者として、帝国の影に身を潜めている。かつての名門の出でありながら、舌が擦り切れるほど粗末な糧食にも、まるで不平を言わない。根治し得ぬ痛みに蝕まれ、医療記録にはあとを絶たぬ鎮痛薬の消費が書き付けられているのに、彼女が人に見せる姿はいつだって、背筋を伸ばし、少しも揺るがない。焼きを入れすぎた剣が、折れることはあっても、曲がることを拒むかのように。
彼女は機械を憎むはずだった。それがこの組織のほとんどすべての者と同じ在り方であり、なのに彼は、彼女がその異端の研究、悪魔と共感するにも等しいと陰口を叩かれる研究に、辛抱強さを見せ、支援さえ惜しまないことを知っていた。
瑾がその研究に寄せる関心は、科学への敬意からなのか、それとも真実への渇望からなのか、あるいは。
分厚い壁だった。善意も、探りも、最後にはそっと消え去って、ほんの少しも音を返さぬまま。
このまま引き延ばすわけにはいかない、と亮には予感があった。受け身で待ちつづけても、最悪の結末が、自分の目の届かぬ場所でひっそりと生まれおちるだけだ。
なにか、きっかけを作り出さねば。
決断は、ほとんど記憶のなかで醸されたものだった。彼ははっきりと覚えている。琥珀時光で過ごした、あの遠い日々。琪は、十二月十二日までに雪が見たいと話していた。秋の葉を窓越しに眺めながら、その語調はどこまでも子供っぽく真剣で、「はじめて世界を見た日だから、お祝いしてもいいですよね」と言った。
なにげなく聞こえたそのひとことが、当時の亮にはそれ以上深まることはなかった。御堂家の過去を調べあげるまで、「御堂家の変」がまさに二年前のこの日の未明に起きていたことを知らなかったのだ。いま振り返れば、あのひと言に詰まっていた情報は、ずっとずっと重かった。
もう一つ、昔の話がある。琥珀時光の古い帳簿のなかに、五六年前、ある常連客が遺していった特製レシピがあった。ほかの走り書きと違ってやけに手が込んでいて、わがままだと言ってもよかった。書き写したレシピの脇には「Stella Noctis」という名が添えられ、それはとても大衆向けに作られた商業的な調合には思えず、むしろ余情のこもった独自の記憶であるらしかった。亮はそれを長く、ただ古い時代のあたたかな挿話として見てきた。あの日、琪に出会うまでは。自らを海沿いの小さな町から来た旅人と名乗り、戦火をくぐる絵描きであり、「新秩序」の反乱機械の一員でもある彼女が、この特製珈琲の核心を、何気なく口にするまでは。
ほんとうの偶然が、そうそうあるはずもない。科学に携わる者ならなおさらだ。顔立ちの似通った二人の存在。一人は「琪」と名乗り、何年も埃をかぶっていた珈琲の調合法を語る。一人は「瑾」と名乗る、いま彼の目のまえにいる「無歯輪者」の一員。謎が、いくつも層をなしている。
隠されたつながりが、とうにここまで引っ張られてきている。
散々考えた末、彼はその賭けに出ることにした。この一投で、これまで苦労して築いてきたか細い関係が打ち砕かれるかもしれない。だが、やらずにいれば何も確かめられない。それに彼は、あの堅く閉ざされた心の扉をどうにかしてこじ開け、何かしらの転機を掴み取りたいと、そう願っていた。
夕刻、亮は久しぶりに基地の共用厨房へ足を踏み入れた。
すべてはどこまでも実用一辺倒だった。だが「無歯輪者」の拠点に着いた翌日から、彼は気にかけていたのだ。ここには思いがけず、真新しい蒸気式のエスプレッソマシンが一台据えられていた。細かな彫刻が施され、圧力計の針は静かにゼロを指している。その横には、これまた一揃いのサイフォンとグラインダー、さまざまなガラス器具。まるで店の包装箱から出したばかりのように、塵ひとつなく、ただ一度も使われず静かにそこへ飾られている。
亮は冷えた筐体にそっと手を当てた。瑾でなければ、誰がこの乱世の地下壕に、こうも周囲から浮いた、しかしいつくしみ深い過去のぬくもりを湛えた品々を持ち込むだろう。
この祭壇を築いた者と、その祭壇が弔う者は、どうやら同じひとのようだ。
彼は思い出す。琥珀時光で琪に振る舞ったときは、店にあった出来合いのキャラメルシロップを使った。その甘さはあどけなく率直で、まさに琪という「ひと」が持つ無垢な明るさそのものだった。そしていま彼が煮ているシロップは、もう少しだけ慎ましく、炎のなかでその背に隠した物語をゆっくりと滲ませていく。
クランクを回すと、豆がグラインダーのなかで噛み合う。粉をていねいにハンドルに詰め、均し、力を込めて押し固め、ロックをかけてから、抽出レバーを引き下ろす。そこから先は圧力計だけを見つめた。針が抽出圧を知らせたその刹那、時間が彼の掌のなかで引き延ばされていく。レシピの指示通り、抽出時間は正確に十五秒。これこそリストレットの極み。もっとも凝縮された甘美だけを得るために、後半の、雑味を招くすべてを切り捨てる。深い琥珀色のクレマがフィルターから滴り、ぽたりぽたりとカップを満たしてゆく。
亮は、フィンガージョイントほどの幅まで月桂のシロップを底に注ぎ、その上から熱く滾るダブルエスプレッソを一気に落とした。ふたつが溶けあい、カップの内側に年輪じみた跡を残す。そして最後の、なにより肝心な一手。小さな金属のキャニスターを開ける。なかには三対一対一で調合された微粉。砂糖菓子の甘さ、ココアの芳醇、シナモンの辛み。型抜きした硬紙のステンシルをそっとクレマの上にかざし、この三種の味わいを秘めた星屑をふわりと落とす。粉の一粒一粒が集い、やがてカップの面を横断する、一本の天の川がたち現れた。
これはもう、かつて琪にふるまったあの童心の「星」ではない。あれは出会ったばかりの探りと好奇心の味だった。今度の一杯こそ、「Stella Noctis」のほんとうの誕生だった。惜しみなく、ほとんど贅沢に注ぎ込まれた甘さ。どこまでも混じりけなく純粋で、一片の誇りも押し殺したりはしない。この小さな器に、彼は自分自身の理解と、共感と、祈りのすべてを傾けた。
亮は厨房の古いオーブンで、キャラメルナッツクッキーも焼いた。店が暇だったころ、近所の菓子パン屋に足を運び、なんとなく手ほどきを受けたことがある。まだとても馴れたとはいえない。最初の一枚は焦がしてしまい、仕方なくもう一度。次は少しはましになったが、火加減はやはり完璧とはいかず、端のほうは心なし黒ずんでいる。それでも、ナッツとバターの焼ける匂いは、この世のどんなあたたかな記憶をも呼び醒ましそうだった。
あらゆる思いを凝縮したこの『誕生日の贈り物』を盆にのせ。
支度は整った。瑾をさがしに行く時だ。
部屋の扉を叩くには及ばない。無駄だ。あそこはいつだって固く鍵がかかっている。
瑾はときどき、ひとりで、基地の真上にある廃教会の屋根で長く過ごすことがあると、渡鴉が話していた。このあたりでいちばん高い場所で、空を眺められるほとんど唯一の場所でもあった。空を渇望しながら、地の底に身を潜めねばならぬ魂は、こんな風に束の間の自由な空気を吸える出口を、本能的にさがすものなのだろう。たとえ頭上に広がるのが、重く垂れこめた鉛色の空に過ぎなくとも。
「なぜ、その話を」亮はあのとき尋ねた。
「だって、あんたは本気で彼女を気にかけてるって顔をしてたからね」渡鴉はその日、珍しく率直だった。「あの娘には、気にかけてくれる誰かが必要なんだよ。たとえ自分では絶対認めないとしても、ね。ああ、でも私が教えたって、あいつには言うんじゃないよ」
「何があったんです」
「またかよ。だから、俺たちの誰にも全貌はわかんねえんだっての」
屋上へ通じる道は、オルガンの裏手にある点検通路の奥に隠れている。盆をかかえて螺旋階段を昇るほどに、風の音がくっきりと耳に届きはじめた。細かい雪の結晶が石壁の隙間から吹きこんできて、服をばたばたと打つ。
木戸を押し開くと、ひんやりとした大気が頬を打ち、濁った思考がはっと冴えた。教会の屋上には瓦礫が散らばり、支柱が入り乱れてそびえている。折れ曲がった鉄筋に風鈴が吊るされていて、風が渡るたび、かしゃかしゃと澄んだ音を立てる。目を凝らせば、その風鈴は大小さまざまな空の薬瓶を、細い銀線で数珠つなぎにしたものだった。
それらは風の形を留め、そしてまた、痛みの痕を留めている。
瑾はやはりそこにいた。梁のなかで最も高いところに腰掛け、両脚を宙に投げだし、星々と十字架に背を向けて、はるか灰色にくすむ地平を見つめている。銀灰の髪は凍てた風に乱れ、その背はひどく細かった。
彼女は身を切る寒さをまるで感じていない。骨髓まで沁みた痛みだけが、どんな物理的な温度よりも苛烈な感覚として、彼女のなかにあった。
亮は風のなかに立ち、その「Stella Noctis」を、ただじっと胸に抱えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の台湾出身、雨時です。
完璧に抽出されたエスプレッソと、少しだけ焦げたクッキー。そんなちぐはぐな組み合わせが、これからどんな風景を生むのか。次章もまた、どうぞ見守っていただければ幸いです。
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