15 わたしはただの影
これは、わたしじゃない。でも、いつかのどこかで、たしかにわたしだった気がする。
琪はまた「夢」から醒めた。世界が少しずつ現實へ引き戻されていく。貨車が揺れ、汽笛が長く尾を引く。彼女はまばたきをした。眦に、涙が溜まっていた。
醒めたのがほんとうに自分なのかも、よくわからない。夢はこれほどまでに現実なのに、現実の自分のほうが、よほど幽霊じみている。意識を持ってからのこの二年、これほどめちゃくちゃな記憶から抜け出して醒めることを、もう幾度くり返したかわからなかった。いまもなお、どの感覚が自分に屬さないものか、何がなお増えつづけて自分自身の現実となっているのか、彼女にはまだ素早く見分けられそうになかった。
海螺灣を発って、二十五日めである。
冬の底冷えが地面を這う。琪は寢返りをうち、懷の帆布の鞄をいっそう強く抱えこんで、貨車の隅の、いちばん暗いところへ身を寄せた。まわりにはぽつぽつと人がいて、たいていは古びた布団や段ボールのあいだにうずくまり、おたがいに視線だけで境界を分けあっていた。
人道支援の疎開用に臨時で仕立てられたこの列車は、もう幾日も線路のうえを走りつづけている。多くの人が乘りこみ、また降りていった。透明な存在でいることに琪は、やり過ごされるままにし、ときどき差しだされる乾パンも斷らなかった。逆光のなかで目を閉じて窓外の風の音を聴き、まわりの人たちが何度もくり返す物語を心のうちに書きとめては、またうすれさせていく。
この日は、人が特別に多かった。ふと目をやると、すぐそばで子どもがじっとこちらを見つめている。わけもなく歯を見せて笑った。顏は泥だらけだ。
「お姉ちゃん」男の子がそっと言った。「怖い夢でも見たの? さっき……泣いてたよ」
琪は何も返さず、ただうなずいて、額を膝にあてがった。夢の餘熱がまだ感覚系に澱んでいて、大方が大きく斷ち切られた斷片で、時間はとてもゆっくりと流れる。
かつて彼女はいつも逃げつづけてきた。こんなものはシステムの故障か、理由もなく湧きあがるノイズにすぎない、と。だが、海螺灣で池田博士から「御堂瑾」という存在を知らされてからは、すべてが変わりはしなかったか。不安と自己卑下のはざまで、これらの断片がべつの誰かの人生に屬していることは、もう確信にちかい。本物の人間の、生きていた、たったひとりの少女の人生だ。
じゃあ、わたしは、何なの。
瑾の記憶から醒めるたび、自分の存在がまた一枚剝がれていくのを感じる。
彼女は、瑾が幼いころから一緒に育った親友を知っている。その笑い聲が御堂家の長い廊下にどう響くか、ガラス張りの花房の晝の光がどのようにスカートの裾へと忍びこむかもわかる。ふたりでこっそり木苺を摘んで、果汁が指のあいだを滴り、甘ずっぱい味に砂埃がまじったあのいたずらも、夢のなかでたしかに經驗した。
彼女は、瑾の父を覺えている。いつも眉根を寄せている、あの當主だ。夜、書斎の灯がもっとも明るい刻にかぎれば、偉そうに世界を変えるうねりを指図しているくせに、來客がいなくなると窓のカーテンを引き、こっそり蓄音機のスイッチを入れて、調子っぱずれに鼻唄まじりで歌う。たまに妻に見つかって、ほんの一瞬だけ笑ってごまかし、また埃っぽい書類の山に閉じこもるのだ。
彼女は、瑾の母を見てきた。風に揺れない湖面の月の光のように、やさしいひとだった。あの凜とした月桂の香りは、このひとさえいれば、どんな苛立ちも驚きも、呼吸とともに靜まっていくようだった。いつでもピアノの音が途切れたあいまに、少し甘すぎる苺のクリームケーキを運んできて、何も言わずに瑾の汗を拭い、慈しむように撫でて、焦りを解かしてくれた。
彼女は、瑾の叔父を知っている。いつも強張った顔で、笑みひとつ見せなかった。手を取って劍の握りかたを教えてくれた。柄は冷たく、その手はざらざらしていた。なのに、あたたかかった。
こうした記憶は、なまなましければなまなましいほど、琪を刺した。それは彼女が一度も持ったことのない、永遠に持てはしない人生だった。家族の眼差しがあり、親友と笑いあい、たしかに自分のものと言える根っこがあり、誰かに待たれている未來があった。
列車の速度がしだいに落ち、やがて耳障りな急停車で大きく搖れた。慣性でうつらうつらしていた人びとが倒れあう。
「著いたのか」誰かが寢ぼけた聲で言った。
「ちがう、線路が切れてる」
車両の扉が外からこじ開けられ、帝國軍の制服を著た兵士が何人か、小銃の臺尻でいらだたしげに壁を叩く。「線路は切れてる。あとは自分でなんとかしろ!」
そう言うなり彼らは立ち去り、扉を開け放したままにした。冷たい風が吹きこみ、家族の名を小さく呼ぶ聲、荷物を抱きしめる音があがる。大人たちは行李で其の場しのぎの壁をつくり、子どもや老人を中のほうに庇った。琪はやはり身を縮めて、そのすべてを餘光で見つめているだけだった。
否応なく外へ降ろされて、みな呆然と目のまえの荒野と向きあう。車兩のなかでは誰もが動きを遲くし、足の不自由な者もいれば、薄著のままの者もいる。琪が最後に降りて、兩足が地面につくかつかぬうちに、ふくらはぎが震え、凍てた泥の冷たさがブーツのなかまで沁みこんだ。
列車の前方、內陸へ續く鐵軌は途中から斷たれ、修復の見こみはまったくない。ここに釘づけにされたのだ。ただ幸いだったのは、すぐ近くに廢れた小學校の校舍があり、どうにかこの數十人の集団を收容できそうなことだった。短い話しあいののち、ひとまずそこを當てにしようと決まった。
みな教室のまん中に即席の焚き火をおこし、濡れた服を頭上にぶら下げていく。足もとで湯氣が立ちのぼる。誰もが口をききたがらず、咳こむ音と短い會話だけ。それでも自然と、三三五五の圈ができあがり、男と女、老人と子どもがそれぞれ集まった。とはいえ、その境界はあいまいだった。こんなところまで逃げてきた者たちはよく知っている。いまはもう嚴密に「こちら側」と「あちら側」を分けるものなどない、ただ「生きている者」と「死んだ者」があるだけだった。
琪は誰のところへも寄らず、かといって拒まれもしなかった。大きな鞄を提げた女が近くに座り、小さな包みを差しだす。「顏色があまり良くないわ。少し食べて」
ありがとうございます、と琪は小さく言った。
輪になって座ると、人びとはぽつりぽつりと四方山話をはじめた。遠くのことを語る者もいる。いくつもの町が略奪されるのをくぐり拔け、がらくたを拾いながらここまで流浪してきたと。肉親や故郷のことを語る者は、逃げ遅れた兩親のことを話した。琪はだまってそれを聞き、ビスケットの欠片を爪でつまみながら、口をはさまずにいた。順に回される古いアルミのカップには薄いお茶が注がれ、ほとんど味もなかった。
夜になると、焚き火は半ばまで落ち、殘った者がより小さく輪をつくった。
教室の壁に殘されたぼろぼろの地図が、誰かの手で掃除され、山や河の名殘りがおぼろげに浮かびあがっていた。若い夫婦が、乾いて固まった古いチョークの箱を見つけ、雪で溶いて、色とりどりの繪の具のように仕立てる。
「あたしは帝國の南から來たの。どこまでも田んぼが續くところよ」若い妻がうす綠色のチョークで地図の片隅を塗りながら、靜かに言った。
「おれは北東の工業區だ」片腕をなくしたひとり旅の男がそれに續いて、利き手でない左手に灰色のチョークを握り、煙を吐く工場をいくつも描いた。「あのあたりはいつも空気が惡くてな。夜になると工場の燈りが星より明るかった。あのころはみんな、あれが文明の燈りだと信じてたんだ」
「ここ!おばあちゃんの家がある山!」子どもたちが列をつくり、代わる代わる地図のうえに赤い點を打っていく。
「描けば、忘れずにすむでしょ」はにかみ屋の青年が言って、青い線でくねる河をていねいに引いた。多くの人が地図に寄ってきて、自分の故郷にまつわる、あたたかだったり、ほろ苦かったりする物語を語りながら、思ひ思ひのしるしを書きこんだ。
「あんたはどうなんだい」背の高い男がふり向いて、ずっと隅でだまっている琪を見た。「あんたの故郷は、どこだい」
みんなの視線が、いっせいに琪へと集まった。
彼女の目が、しだいに色とりどりに變わっていく地図のうえをすべる。とまどいがあった。腦裡にいくつもの地名がよぎる。帝都、雪原、砂漠……どれも任務で足を踏み入れた場所だ。けれどそのどこも、家だと言えるところではなかった。彼女にとってそんなものはただの座標でしかない。任務の終點。そこを離れてしまえば、もう何ひとつ殘らない。
「わたしは……」琪は力なく首をふった。視線は誰の顔にも落とさない。「わたし、家がありません」
教室に、しばしの靜けさが下りた。
「いいんだよ、そんなことは」まっさきに動いたのは中年の婦人だった。彼女は琪の傍らに歩み寄り、そっとその肩を抱く。「大事なのは、生きているってことさ。生きてさえいれば、次の家はきっと見つかるから」
婦人はチョークを琪の手に握らせた。「ほら、この地図にはまだまだ白いところがある。あんたもどこか、好きなところに自分の家を描いてみな」
チョークを握った琪が顔をあげると、あたたかいまなざしと、うながすような視線がいくつも向けられている。彼女は斷るのが下手だったから、黑板のまえまで步み寄り、ほんの少し迷ってから、古びた珈琲店。入り口には油布の覆いがかかりを細い線で描いた。半ぶんだけ開いた窗に銅の呼び鈴が下がっていて、その屋根には現實からそっとはみ出した星空がかかっている。彼女が描いたのは琥珀時光だった。つかのまのぬくもりと、かりそめの帰属感をくれた、あの場所。
「上手だねえ」みんながほめ、ある者はただだまって見ていた。そこがどこなのか、たずねる者はいなかった。
そう、まるでお伽噺に出てくる場所みたい。琪はかすかに笑った。うつむいてチョークを返そうとしたけれど、子どもたちがもうその珈琲店をとり圍み、われさきに自分たちも描いてほしいとねだった。
「お姉ちゃんはお店のなかだよ。みんなにコーヒーいれてあげてるの!」
子どもたちがふざけて囃し立て、あたりはちょっとしたお祭り騒ぎになった。琪は生まれてはじめて、自分をカウンターの內側に描いた。エプロンはまだきちんと結べておらず、なんだか自信なさげな笑顔だった。。
描きあげてから長いことぼんやりと立ちつくし、チョークが指のあいだでやけに重くなる。焚き火のかげで、その兩手がかすかに震えていることに、誰も氣づかなかった。
夜半をすぎて、みなが寢靜まった。寢言が夜風にまざる。すこしでもまどろもうとした琪だったが、瑾の記憶からは逃れられなかった。こんどは十のころの瑾が、母と中庭で月桂の花を摘んでいる。ふたりで花びらを一枚ずつ布のうえに広げて乾かし、香り袋をつくるのだ。「自分」は上機嫌で、花びらをぱっと撒きちらし、その花吹雪が互いの髮や襟に降りかかる。
ちがう。あれは瑾だ。ここにいる「わたし」は、たぶんただの影にすぎない。
夢のなかの「自分」は、あるときは誇り高く、またあるときは意地っ張りだった。瑾に注がれる家族の愛は、あたたかくもあり、ときに嚴格だった。燈りが幾つも點る長い夜は、食べきれないほどのお菓子と、いつまで經っても終わらないピアノの練習曲がいつもあった。やがてそうしたあたたかな場面も少しずつ冷えて翳り、視點がふと切り替わるころには、瑾はもう寢つけぬ夜を過ごす少女に變わっている。その瞳をとおして、琪は見たことがある。夜ふけに居間でひとり淚をこぼす母の姿。廊下の奧に消えていく足音。書齋で聲をひそめ、自分は無力だとつぶやく父の、痩せたうしろ影。それから瑾が暗がりのなかで、いつまでも消えない痛みに耐えながら、ひと晩じゅうの痙攣を枕の下に隱しとおす姿も。
琪はもがいて夢から醒めた。全身がこわばり、淚がうなじを傳って襟もとまで流れていた。もう眠れない。
彼女はその靜けさのなかで素描帳を開き、まわりの寢顔をひとりずつ寫しとめた。小さな女の子が汚れた縫いぐるみを抱いて笑みながら眠っている。年老いた夫婦が丸まってよりそっている。流浪のあいだに名前を八度も變えたという、あの男が、夕暮れにしゃがれ聲で歌っていた故郷の唄の續きを、寢ているいまも指でギターを彈くまねをしている。その日かぎりの旅の連れたち、彼らが生きていた證明を殘してやりたかったのだ。
夜が明けるまえに、彼女はそうして描いた頁を一枚ずつ切り離し、そっと一人ひとりの傍らに置いた。それをすませると自分の隅へ戾り、素早く荷をととのえる。もう長居はできない、北へ進まなければ。
雪と土の乾いた道にひとり立った琪は、ふり返った。あれほど多くの故郷が描かれた校舍は、もう黑板も壁も廢墟などではなかった。
琪の視線は、はてしない北へと向けられる。彼女は心のうちで、もういちど自分だけの行き先を確かめた。亮。もしあの人が無事でいたら、あたしはそれを口にできるだろうか。もともと彼女が思っていた「すべての眞實」はもっと單純だった。自分は人間ではない。作りものの、殺人機械だ。彼の目をまっすぐに見てすべてを打ち明け、それから彼の審判を待つ。嫌惡でも、恐怖でも、憎しみでも、すべてを受けいれる覺悟はあった。
けれどここまで來て、彼女はますます躊躇うようになった。自分が本當に求めているのは斷罪なのか、赦しなのか、あるいはただ存在の證明にすぎないのか。どうやって亮に説明すればいいのだろう。自分はおそらく、ただの死んだ少女の影でしかない。少しずつ何かに上書きされていく感覚を、どう言葉にすればいいのか。
これまではただ、自分が人間でないことだけを深く自覺していた。なのにいまは、ほんとうに自分は存在さえしているのか、それすら疑わしい。
それでも、自分の聲で告げようと彼女は心に決めた。亮に。夢と現實が交わる、あのすべての「家」に向けて、自分の切なる望みを打ち明けるのだ。
お願い。一緒に、答えを探してほしい。
もし、まだ機會があるなら。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。
本章では、琪が自身の記憶と向きあい、そして北へ向かう旅の途上で出會った、ささやかな「家族」とのひとときを描きました。彼女がスケッチブックに遺したものは、生きている證明であると同時に、彼女自身がようやく見つけはじめた「自分」の斷片でもあったように思います。
戰火のなかで交わされるわずかな善意が、これからの彼女をどう支えていくのか、引き續き見守っていただければ幸いです。
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