14 ふたつの世界の狭間で
それは、道標もなく、後ろ盾もなく、決められた経路もない『任務』だった。御堂琪は、自分の足で進む先を、初めて自分で決めなければならなかった。帝國暦3123年12月10日、彼女は早朝に旅立った。
「だから言ったでしょう、もう數日は休んだほうがいいと」
池田はゆうべもそう引き止めた。
「わたし……もう時間がないんです、博士」
海螺灣の朝霧は、彼女にいつまでも別れがたい抱擁をくれていた。ふり返った視界のなかで、池田博士の姿はすでにぼやけている。あれほど腕の立つ職人である博士も、傷ついた身體は修復してくれたが、記憶の混亂と、自分が何者かという戸惑いだけは、どうすることもできなかった。
彼女は目深にフードをかぶりなおし、布マスクで顔のほとんどを覆った。のぞいているのは、ひと組の灰青色の瞳だけ。身に著けているのは、町の古著屋で買った旅裝束だ。大きめのシャツに、擦り切れにくい帆布のズボン、不格好な徒歩用ブーツ。このいでたちは、戦亂で故郷を追われ、いくつもの勢力の狭間で細々と生き延びようとする、數多の難民たちと何一つ変わりなかった。
道すがら、行き先を尋ねてくる者は幾人もいた。
「北へ」と彼女は答えた。
「あっちは物騒だぞ。一人か?……気をつけてな」と、荷車を押す老人が聲をかける。
「はい、ありがとうございます」
もちろん、わかっている。
衣服の下、肌に觸れるほど近くで、あのペンダントが彼女の「鼓動」にあわせて靜かに脈打っている。三つの銅の歯車が半ぶんのコーヒー豆を噛みこんだ、星野亮がくれたものだ。そこにはまだ、あたたかさが殘っている。
博士は言っていた。瑾は絵を習ったことがない、と。なのにあたしの指先の炭粉は、ひとつひとつの光の輪郭をおぼえている。潮風はしょっぱい。あたしの瞼も、同じように。
北へ向かう旅路は、予想していたよりはるかに困難だった。おりおりにぶり返す鈍い痛みが、まだ回復しきらぬ身體の脆さを、彼女にそっと思い出させる。
戦火の激化は帝國の交通網をずたずたに引き裂き、修復は破壞にとうてい追いつかなかった。民間の鉄道は大幅に減便され、わずかに生きている路線も軍に接収されて厳しい統制下にある。港にはまばらに船が浮かぶばかりで、旅客フェリーは「新秩序」の水中襲撃をおそれて無期限の運休。どの船も出港には絕望的なまでの審査が必要だった。空には哨戒飛行船と『新秩序』の偵察機械が、不穩な影を落としていた。すべてが不穏だった。
人目を徹底的に避けねばならない琪にとって、こうした交通手段は罠に飛びこむにひとしかった。ほとんどの場合、この陸の道をひたすら潛むほかない。
琪は本當の意味で夜の精霊となった。晝は、旅を急ぐ行商人や流民の群れにまぎれ、どこにでもいる旅人を裝って、ひたすら疲れた足取りを演じる。そして夜が來て世界が寢靜まると、彼女は夜の梟へと姿を變える。人間をはるかに超えた敏捷さと平衡感覚を利して、廢れた線路や崩れた橋、戦火に焼かれた森のあいだを縫ってゆく。足を踏み出すたびに計算がはたらき、もっとも安定していて、なおかつ音の立たない場所だけを踏んでいく。荒野では月や星の明かりを頼りに山地を越え、街では倒壊した建物に身を隱した。
だが彼女はほどなく思い知る。完璧すぎる僞裝こそが、何よりの綻びになるのだと。
國境の檢問所で、目ざとい帝國の古參兵に呼び止められた。年季の入った顔つきのその男は、ほかの兵のように通行書類にざっと目を通すだけでは済ませず、じっくりと琪の全身を見まわした。顔立ちだけでなく、その裝束や髮、そしてうなじにわずかに覗く肌まで。
「おい、そこの娘、こっちへ來い」
彼女は素直に古參兵のあとを追い、テントのなかへ入った。なかには卓と椅子が二腳あるきりで、腰かけるように促される。こうして數十分にわたる尋問が始まった。老兵の質問は一見とりとめもなく、それでいて巧みに罠を仕掛けてくる。「故郷」の海螺灣の特産物から、北で身を寄せるという「親戚」の素性まで、どんな細部もしつこく追及された。
幸い、池田博士は海螺灣にいるとき、たくさんの土地の話を聞かせてくれていた。琪はこれまで學んだ人間心理の知識をすべて動員し、訓練で磨きあげた演技で、つじつまを合わせていく。語調には、戦爭に怯える罪のない少女の不安をほどよく滲ませ、老兵と視線が合えばさりげなく逸らし、緊張のあまり無意識に服の裾をいじる――それさえも計算ずくだった。
「……おまえの靴、綺麗すぎるな」
尋問の最後に、老兵はふとそう言い放った。視線が、泥まみれでありながら、油や血の染みひとつない琪のブーツに注がれている。
「戦地をひとつかみで歩いてきて、そのままときた。よっぽど運がいいか、それとも俺たち凡人の持たねえ何かを持ってるか、どっちかだな」
琪は背中の服が「冷や汗」でぐっしょり濡れるのを感じていた。すべてを失った難民たちの群れのなかでは、どんなにみすぼらしく汚れていても、彼女の清潔と秩序への機械じみた偏執はかくしようがなかった。うつむいて、さらに激しく震えてみせるほかない。
やがて老兵は手を振り、もう行けと合図した。演技があまりに眞に迫っていたのか、あるいは實質的な證據を何ひとつ摑めなかったのか。しかし琪の目には、最後の瞬間、彼のなかで何かが燻っているのが映った。追及しきれなかった、心殘りだと言わんばかりに。
「待て」
テントを出ようとした彼女を、老兵は呼び止めた。
「何でしょう」
「嬢ちゃん、ひとつだけ言わせろ」老兵の目は本気だ。「おまえが誰であれ、どこへ行くのであれ、この世界はもうじゅうぶんめちゃくちゃだ。これ以上、自分まで混亂の一部になろうってんじゃねえぞ」
彼女は小さくうなずいた。檢問所をあとにし、人波にまぎれて數キロも歩き、ようやく廢屋の裏手にたどり著くと、壁にもたれてはじめて大きく喘いだ。はじめて、骨身に沁みてわかったのだ。自分は二つの世界の狹間にはさまれ、どこにも居場所がない。帝國にとって彼女は暗殺者、人皮を著た反亂の機械であり、「新秩序」にとっては指令を無視し任務をしくじった脫走者だった。どちらからも見放された捨て子が、荒れ果てた荒野をたったひとりで步いている。
彼女の目指すものは、ひどく曖昧で、それでいてあまりにも明確だった。北へ。そして一歩ずつ、あの謎と危険にみちた帝國の中樞部へ。ほんとうは、どこへ行けば亮に會えるのかもわからない。ただ腦裡の地圖に、ただひとつ、琥珀時光珈琲という座標が殘されているだけだった。
あの人は疑っていた。わたしの靴底に、この世界の汚れが少しもついていないから。泥んこにまみれることを、きっと、自分から受けいれなくちゃいけないんだ。
琪は帝國の引き裂かれた版図に沿って、ひたすら北を目指した。道すがら目にするありとあらゆるものが、彼女のこれまでの信念を斷罪していた。
「おかしいな……たしかここに、時計塔があったはずなのに」
彼女はひとりごちた。
かつて任務で通りかかったことのある、あの賑やかな町にも立ち寄った。彼女の古いスケッチブックのなかには、麥の穗と歯車の彫刻がほどこされた時計塔があり、白くペンキを塗られた木のベンチが並び、噴水のまわりを子どもたちが鳩を追って駆けまわっていた。だが今はない。時計塔は半ばからへし折られて黑焦げた殘骸が空を指し、広場は砲彈痕だらけ、ベンチは木片となって散らばっている。子どもも、鳩もいない。左腳を失くした中年の男が、乾いた噴水の縁にもたれて、虛ろなまなざしで彼方をながめていた。
「あの、大丈夫ですか」
中年の男は頭をあげ、彼女を睨みつけた。
「大丈夫? 何が大丈夫なもんか。見りゃわかるだろ、俺はすべてを失った。これで大丈夫なわけがあるか」
琪は返す言葉がなかった。このすべてが、「新秩序」の描いていた未來とまるで噛みあわない。
「新秩序」の教義は、彼女の認識の土臺そのものだった。戦爭は戦爭を終わらせるためにある。「新秩序」は、あの利己的で、歴史の步みを阻む「舊世界の頑迷者ども」を排除する。奴らはテクノロジーの果実を獨り占めにし、人間と機械をともに奴隷にしようとしている。「新秩序」が混亂を起こすのは、ただ舊い秩序を一刻も早く崩し、正しい共存の世界を築くためなのだ。あの壯大な理想郷。あらゆる苦痛を、最先端のテクノロジーで消し去るというユートピア。その世界には、もう脆い肉體はなく、すべては機械と融けあい、種の壁も階級も爭いも、生老病死もない、ただひとつの同朋となるのだ。
琪と彼女の「姉さまたち」は、新しい世界の先驅けであり、同時に死刑執行者なのだと教えこまれてきた。おこなう一つひとつの行動は、人間に奴隷にされてきた機械の同胞を解放するためだけではなく、あらゆる種を新しい進化の道へと導くためなのだと。その目的は「機械と、多くの人間にとっての、共通の敵」を討つこと。疑うはずがなかった。それが自分の創られた唯一の意味だったからだ。引金を引くたび、あの理想の世界へ一歩近づいているのだと、そう信じていた。
なのに、目のまえにあるこの現實が、彼女を問い詰める。
戦火に燒かれた町。あてもなく彷徨う人々。飢えと病の蔓延。これが「新秩序」の約束した「解放」であり「共存」なのか。廃墟のなかで食べられるものを探しまわる子ども、街角で丸くなり、ただ死を待つ老人。あたりにたちこめるのは絕望だ。
彼女はこれまでの任務の細部を、記憶の奧底から呼び起こそうとした。信念を支える證據を、何か見つけたかったのだ。
データベースに保存された標的のプロフィールには、彼らの「罪狀」が冷徹に列挙され、いずれも世界の進步を阻む害毒として描かれていたはずだ。けれど妙なことに、その記憶はどれもすりガラス越しのようだった。指令內容は覚えているし、潛入経路も、離脫案も覚えている。引金を引いたときの反動を、標的が倒れるときに象った、命の終わりのあの赤を、覚えている。けれどあの人たちの顔、死に瀕した表情、あるいは悲鳴や命乞いの一つさえ、どうしても思い出せなかった。
たった一つたしかなのは、任務とは無関係の「罪のない」人間を、彼女が決して直接手にかけたことがない、ということだった。できるかぎり相手を傷つけずにすむよう、無力化する手段をとってきた。任務の難度が上がり、すんなりとはいかないとわかっていても、だ。ほかの機械の同胞や、「姉さまたち」とは違い、彼女はあくまで標的だけを狙った。人を傷つけるのを平然と受けいれることが、どうしてもできなかった。それは魂のずっと奧底から湧きあがる拒否感だった。
だから彼女は「姉さまたち」と過ごした日々のほうを、もっと思い出したかった。だがここ一年あまりで、上の四人の「姉さま」はみな任務のさなかに連絡を絶たれ、消息不明となった。
あの人たちは、あの偉大な「理想」のために命を捧げたのだろう。でも琪はもう、その「理想」の価値にすら疑いを抱きはじめていた。こんな、何がなんだかわからない衝突のために命を捨てることなど、きっと何の意味もない。もし「新秩序」の目標が、すべての種の不平等と苦難を解決することならば、なぜこんな無差別な苦しみを、まずつくりだすのか。彼女たちが排除してきた「キーパーソン」は、本當にすべての災いの根源だったのか。戦禍に巻きこまれた一般の市民は、かれらも「共通の敵」だったのか。あの漠とした「新世界」のためなら、目のまえの現實をこんな焦土に変えても許されるのか。「救済」の代償が「破壞」だとしたら、その救済にいったい何の意味がある。
琪は背囊から、羊皮紙を綴じた手製のスケッチブックを取りだした。紙の端は少しささくれ、手づくりのあたたかみがある。新しい記憶を待っている。彼女は旅のあいだに見たもの、考えたことを、すべて描きとめていった。黑く焼けた土、倒れた家屋、難民のよろめくうしろ姿、枯れ木に群がる禿鷲、道端に捨てられたぬいぐるみ。海螺灣で海を描いたときのように、筆遣いはしだいに荒々しく性急になり、もはや精密な再現を求めようとはしなかった。一筆ずつが問いかけのようで、叫びのようだった。
犠牲は新生のためにあると、みな言った。でも廃墟から花は咲かないし、涙は希望を育みはしない。あたしの手のなかの武器は、敵に向けられているのか、それとも自分自身に向いているのか、わからなくなりかけている。あたしはもう、二度と人を傷つけたくない。
帝國の冬はいつも突然だった。雨と雪のまざる夜、琪は半ばまで爆破された聖堂の廃墟に、その夜の身を寄せた。屋根の穴からは月の光がこぼれおち、冷たい風がひっきりなしに雪を吹きこませる。まだいくぶんか太い石柱の影にうずくまって、懷のかたくなったパンだけを、ぬくもりのよりどころにした。
ふいに、亂れた足音が入り口から近づいてきた。琪は息をのみ、ほとんど崩れかけた告解室の奧へ姿をくらませる。
聖堂のなかへ入ってきたのは、數人の難民だった。かざした松明が揺れている。先頭の男のうしろに、子どもを抱いた女と、二人の老人が續く。一目でわかった、風雨をしのげる場所を探しているのだ。
「ここにしよう」男が力なく言った。「何もしねえよりはマシだ」
かれらは聖堂の中央にスペースをつくると、拾いあつめた枯れ枝で小さな焚き火をおこした。炎が冷たさをやわらげ、みなの疲れた顔を照らしだす。なかでも、五つくらいだろうか、小さな女の子がずっとすすり泣いていた。
「泣かないで、泣かないで、ね……」
母親は娘を強く抱きしめ、自分の外套を脫いで著せかけて、たどたどしい子守唄でなだめようとする。
琪は薄闇のなかで、じっとこれを見つめていた。彼女の瞳はすべてを逃さない。母親のひび割れた唇。少女の凍えて青ざめた頰。焚き火がその目に宿す、揺れる光。
母親が、ほころびた包みから半かけらの黑パンを取りだし、ほとんど殘っていない力でそれを裂き、ありもしない埃を吹き、そしてより大きなかけらを娘の小さな手に握らせるのを、彼女は見た。少女は泣きやみ、パンを口もとへ運び、靜かに噛みはじめる。
この一幕が、琪の胸を貫いた。彼女は「姉さまたち」のことを思った。とくに、鈴を。危険に遭うたび、無意識に彼女を背後に庇い、自分の身體で飛びくる銃彈や破片を防ごうとしてくれるあのひと。計算などない本能的な護りは、いま目のまえにいる母親のふるまいと、種こそ違えど共振を起こすのに十分すぎた。
これが、家族ということなの? 生まれも、存在も違うはずなのに、この瞬間、確かに同じ感情を分かちあっている。
夜がふけ、難民たちは身を寄せあって深い眠りについた。琪はそっと隠れ場所から抜けだすと、自分の懷にあった半かけらのパンと、池田が持たせてくれていた壓縮ビスケットを、難民たちが目覺めてすぐ氣づける場所に、靜かに置いた。そしてまた闇へと戻り、夜明けまで彼女たちを見守った。
白みかけた空のもと、難民たちは目を覺ました。男がまっさきに食べものに氣づき、家族の顔にありえないものを見るような喜びが浮かんだ。聲をあげることはなく、ただ兩手を合わせて、空になった廃墟へと無言の祈りを捧げていた。まるで神の惠みだと言わんばかりに。やがてかれらは、互いに支えあいながら立ち去っていく。
告解室から出てみれば、焚き火は消え、ほのかに溫もりを殘す灰と、いくつかの名も知らぬ黑い野苺が殘っているだけだった。そして、灰の傍らの敷き石には、炭の燃えさしで描かれた、にこにこ笑う顔があった。
琪はしゃがみこみ、その不格好な笑顔をそっと指でなぞる。指先に炭の粉がついた。彼女は手をあげ、その黑い粉がついたままの指で、その笑顔を開いたばかりの畫用紙にそっくり寫しとった。この笑顔を殘しておきたかった。闇を突き刺すほどのささやかな、だが確かなぬくもりを、永遠に覚えているために。
あたしが少しの食べものを殘したら、あの人たちは笑顔をひとつ殘していった。お願い、どうか生きぬいて。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。
今回は、琪の孤獨な北への旅路を描きました。
この旅が彼女をどこへ導くのか、まだその道のりは長く、困難も多いでしょう。けれど彼女の心のうちに殘された、あの小さな笑顔は、きっとこれからも彼女を支え續ける光となるはずです、どうぞお樂しみに。
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