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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第三幕 ゲイシャ / Geisha
14/27

13 潮騒と玻璃の心臓

 海螺湾では、湿った朝の始まりは決まって、窓硝子に結んだ水滴がぽたりぽたりと落ちることからだった。空が白むことからではない。


 池田千鶴博士は早起きを習慣としていた。診療所の上の窓を押し開き、吹きこむ潮風にまかせながら、じっと潮騒に耳を澄ませる。ここは帝国の古い権力の中枢からはるかに遠く、情報も警報も遅く、機械たちもすっかり型遅れだ。それでもこの季節になると、沿海の小さな町の岸辺には、戦火の不穏なこだまがかすかに打ち寄せてくる。


 彼女はここに隠れ住んで八年になる。診療所は岩肌に半分埋もれたような造りで、一見すればただの目立たぬ機械修理工場にすぎない。そんな場所が、一流の生体機械バイオニックの専門家の隠れ家だと知る者は、ごく限られていた。


 彼女の一日は決まっている。早朝、潮の引いた渚を散策し、波にさらわれた貝殻や機械の部品を拾い集める。それらは町の古びた機器を修理するのに使ったり、細工をほどこして子どもたちに配ったりした。午後は診療所で漁師たちを迎え、義肢や埋め込み装置の修理を請け負い、時おり怪我をしたロボットさえ訪ねてくる。夜ともなれば、作業机に向かい、黄ばんだ研究ノートの頁をめくるか、あるいは日記に過ぎ去りし日々への省察を綴るのだった。


 それがつい先ごろ、また一体、傷だらけの「患者」が転がりこんだ。


 ルナ河の河口で引き揚げられたその身体を目にした瞬間、ちらりと覗いた銀鼠の髪だけで、長く封印してきた名前と、あどけなさの残る面影が、歳月を一息に飛び越えて脳裡に浮かんだ。池田は確信した。これはただごとではない、絶対に間違いない、と。



 「嵌合體(キマイラ)


 最初の記憶は、はるか遠くまで遡る。どんな悲劇が起こるよりもずっと前、池田が御堂家に籍を置いた数十年のあいだに知り得た、あの企畫の祕匿名。神話の原義が示すとおり、それは存在の混淆であり、正体不明のまま、自然と人造のあいだに残された最後の縫い目を繕おうとする、過剰な望みだった。あの頃わたしたちはまだ若く、技術への熱狂的な信仰を瞳に宿していた。


 「いったい、だれがあなたを創ったのかしら」


 池田博士はそっと、鍵のかかった最下段の引き出しを引き、黒いハードカバーの研究記録簿をどっさりと取りだした。表紙には煙草の匂いと潮の塩が染みこみ、どの頁にもおびただしい手書きの文字が並んでいる。彼女がかつて自ら記した、五体の実験試作機が生まれ、封印されるまでの日誌だ。


 御堂家は、最終的な人格の完全なデジタル化移植と、人間と寸分違わぬ人工知能体の創出を目指し、莫大な資金を投じて国内外から野心に燃える人材を招集した。


 初期の試作機は主に人型機械のテストベッドや、人工人格のアルゴリズム開発の担い手として使われた。「彼女たち」はプログラムによって異なる初期性格を割り振られ、活発で人懐っこい者もいれば、物静かで内向的な者もいた。いずれも周囲への尽きせぬ好奇心を示し、その学習と模倣の能力は驚嘆に値した。


 計畫が五體目の試作機にまで漕ぎ著けたとき、彼らはついに人格デジタル移植の實驗段階へと足を踏み入れた、実際の志願者から抽出した本物の意識断片を、生体機械(バイオニック)の器のなかへ初めてアップロードした。それと時を同じくして、倫理委員会の衝突は日増しに激しさを増し、議論はぎりぎりの瞬間まで紛糾しつづけた。


 ユニット05の試驗では、予期せぬ自己破壞衝動が現れた。彼女の意識構造は不安定で、感情の起伏が激しく、やがては近づく者すべてに拒絶と攻撃を向けるようになった。仲間が池田を止めなければ、彼女は無我夢中で全電源を切断しに走っていたかもしれない。そのとき生まれて初めて、池田は自らの職業の倫理的な底を見つめた。


 わたしたちは新世界の両親なのか、それとも、ただ神を僭称する創造主にすぎないのか。


 そうして彼女は、同じ疑念を抱く同僚たちとともに、辞表を叩きつけて去った。御堂家には報告書を一通遺した。その結びにはこう書いた。


 「技術は未熟であり、人間の意識の断片が即座に注入されたとしても、魂は依然として完全には宿らない。ましてや完全な人格転写の残忍さは推して知るべし。彼女たちが歌い、絵を描き、涙を流すのを目の当たりにしても、それでも『人間』へは届かなかった。このまま進めば、予見し得ぬ亀裂がやがて訪れる。本来人間のものではない奇跡は、いずれ本物の痛みで贖うことになる」


 これを機にプロジェクトは「中止」され、池田は故郷へ戻った。その後のいきさつには、一切関わっていない。當時の海螺湾は今よりずっと寂れていて、舟大工の老人たちと、暮れなずむ潮騒だけがあった。博士はすべてを診療所の外に閉ざし、北の嵐にはほとんど関知しなくなった。


 海螺湾、沿海の小さな町、永夜の潮騒。この「故郷」の設定を、彼女はかつて、最初期のプロトタイプの初期コードに書きこんでいた。その基本的なプログラムが流用されるうちに、一体、また一体と、試作機たちの認識の底には、この町が留まりつづけたのだ。



 彼女が御堂家を去った年、御堂瑾は十二歳だった。


 池田はこの令嬢と幾度も言葉を交わし、半ば我が子を見守るようにその成長を見つめてきた。瑾は早熟な子供で、機械に対して生まれながらの好奇心を持っていた。よく実験室のあちこちを覗いて回り、どんな部品にも興味津々といった様子だった。池田は覚えている。瑾がいちばん好きだった質問は、「この機械って、気持ちがあるの?」だった。


 池田はときおり瑾と簡単な実験をし、小型機械の組み立てかたを教えた。瑾はのみこみが早かったが、興味はすぐにつぎの新しいものへと移った。瑾の父は娘に多くを求め、十二歳にして既に大學レベルの理數系科目を學ばせていた。実際、彼女にはその才があった。母のほうは娘の人文的教養に心を砕き、屋敷からは溌溂としたピアノの調べが絶えたことがなかった。


 池田はしばしば思ったものだ。もし瑾がこのような家系に生まれなかったなら、あるいは彼女は才能あふれる技師か、優れたピアニストになっていたのではないか。宿命の糸に足をとられ、いつか否応なしに一族の内外の権力闘争の渦中へ引きずりこまれたりせずにすんだかもしれない、と。



 二年前の冬、凶報はあまりにも突然だった。


 池田博士は忘れない。あの日、海螺湾には珍しく雪がちらつき、岸辺近くの海面には薄氷さえ浮かんでいた。新聞売りの少年が町じゅうを駆けまわり、帝国から届いた号外を声をかぎりに叫んでいた。一カ月前に勃発した「御堂家の変」が、葬儀が営まれるまで世間に伏せられていたのだと。


 当主夫妻と一人娘が、不慮の死。


 池田博士は震える手で新聞を読んだ。一面の遺影にはぬくもりがなく、そこにはすっかり少女の面影を濃くした瑾と、あの実直で穏やかだった中年夫婦が並んでいた。当局は事故の詳細について一切を口にせず、ただ「原子炉が暴走した」とだけ報じ、それ以上の説明はなかった。


 池田は幾晩も眠れず、繰り返し考えた。もしあのとき、自分が去らなかったら。もし自分がまだ残っていたなら、この悲劇を止められたのだろうか。しかし、技術的特異点シンギュラリティを追い求める御堂家にあっては、危険な技術の探求が誰かが去ったくらいで立ち止まることなどありえないのも、思い知らされていた。ただ胸の内で、この一家三人の冥福を祈ることしかできない。とりわけ瑾には、安らかな眠りを、と。



 世界はなおも進みつづける。歳月のあいだ、彼女は飼い主を亡くした犬猫を引きとり、古参兵の義肢を新調し、往診台帳に新たな名を書きくわえながら、永遠に、何かを待っていた。やがてあの「患者」が目のまえに現れた。破れた人工皮膚の下では、金属片と人工血液が混ざりあい、銀鼠の髪は砂ぼこりにまみれ、頸には今にもちぎれそうなペンダントがかかっていた。


 御堂家の誰かが「キマイラ」を再稼働させたとしても、池田にとって意外ではなかった。ただ疑問は、なぜ瑾の姿が複製されたのか、何らかの、あるいは完全な人格のデジタル移植が行われたのか、これらすべてが御堂家の変より前か後かということだった。灼けるような假説が、腦裡をとめどなくよぎっていく。だが、いずれにせよ、何より先に彼女の回復を助けなければならなかった。


 そうして現実に目を戻せば、御堂琪というこの「患者」の目覚めは、ますます深い謎を運んできた。


 ほとんど不眠不休の修復作業が一週間あまり続き、ようやく彼女は意識を取り戻し、あの灰青色の瞳にありったけの警戒心をたたえて、こちらを値踏みするまでになった。琪は御堂瑾の存在については最初から何ひとつ知らず、その戸惑いはあまりに純粋で、池田には彼女が嘘をついているとは思えなかった。


 琪は己を「新秩序」の創り出したものと信じ、五人の「姉さまたち」に従ってきたと語る。その陳述を耳にしながら、池田博士は奇妙な既視感と違和感とを同時に味わっていた。


 その後の回復期、池田は実験を見まもるように寝食を忘れて琪を観察し、些細な動作や表情さえも克明に日誌へと書きつけた。琪は、池田がこれまで手がけてきた「キマイラ」のどの試作機よりも、かつてないほど人間に近かった。どの面から見ても、ほとんど完璧な紛い物といっていい。


 琪の「性格」は、記憶のなかの御堂瑾と似ているところも多かったが、相違のほうが勝っていた。琪はより明るく、より柔らかで、極めて繊細な感情表現を持ちながら、その實、絶えず自己否定の瀬戸際に立っている。なによりも際立っていたのは、痛みへの恐怖だった。


 これは瑾がかつて決して見せなかった脆さだ。池田がかすかに覚えているのは、瑾が落馬して骨を折ったときでさえ、ひと言も洩らさず、むしろ母親をなだめて「大丈夫だ」と言ったことだった。対して琪は、メスを入れるたびに必死に震えをこらえ、激痛のあまり涙をこぼした。最初、池田は彼女の知覚系統が損傷し、痛覚が制御不能に陥っているのかと疑った。だが総合的な検査がすぐにその推測を覆した。


 「痛いのは、そんなに怖いの」


 砕けた左肩の関節を修復しているとき、池田は思わず手をゆるめて尋ねた。琪はまるで見すかされたかのように、痛みをこらえながら渋々と曖昧にうなずき、意識をもったときからずっとそうなのだ、理由はわからないけれど、懸命に克服しようとしてきたのだと話した。


 痛み。


 その單純な概念が、池田博士の裡に、かつての御堂雄一と悠也、その兄弟のあいだで長年續いた確執を呼びさまさせた。


 雄一は強く主張した。人間と寸分違わぬ存在を究極の到達点とするならば、「キマイラ」の成果物にはあらゆる感覚を完全に等しく付与すべきであり、それには痛覚も含まれる、と。「苦痛は何にも勝る生涯の師、共感と思いやりの根源なのだ」と。対する弟の悠也は、もっと過激だった。ある種の「新たな種」を創造するにあたり、一切の非効率な感覚と感情は抑圧し、完全に取りのぞくべきだ。ことによると痛覚など、それはただ原初の肉の弱さの痕跡であり、進化の枷でしかないと言い放った。


 のちの開発は雄一の主張に沿って進められ、どうやらその設計思想は、今なお忠実に、目のまえのこの琪に受け継がれている。琪は毎回の修復手術で限界まで耐えぬき、誰もいない深夜に声をひそめて咽び泣く。あくまで冷徹な観察者であろうと自分に言い聞かせながらも、池田は結局、科学者の中立を自ら崩した。心を鬼にできず、そっと宥め、いつしか、かつて瑾に注いだ優しさを、無意識に琪へと投影しているのだった。



 池田の看護のもとで琪の身体は次第に回復していったが、その心が負った傷は、それよりもずっと深いようだった。


 少しでも体力が戻ると、真っ先に畫材を借りて、窓外の潮騒に向かって寫生するのが彼女の習慣になった。池田には見分けがついた、あの絵のなかには思索の惑いがあり、言葉を喪った渇望がある。それは決して機械がする表現ではなく、ましてかつての瑾が描くようなものでもなかった。


 「私はいったい、何者なの」


 あるとき偶然、池田は彼女が一枚の絵の隅に、その問いを幾百回も書きこんでいるのを見つけた。かすかな後悔の念が湧きあがる。或者いは、最初からあんなふうに瑾の存在を突きつけるべきではなかったのかもしれない。けれど幸い、自分は最後まで琪に「キマイラ」の情報だけは一切、明かさずにいた。


 或いは、琪はただの琪なのだろう。


 しかし、この『自己』の漂流が、また新たな傷口を生んだ。池田は気づいている。琪が必死に隱そうとして、なお溢れだす無力感。彼女がこれまで拠りどころにしてきた自己認識は、あまりにも早く崩れ去ろうとしている。池田もまた、自分が知るのはこの一件の決して全貌ではないと痛感し、いつか最もふさわしい主体がすべてを解き明かす日の來ることに、望みを託すほかなかった。


 霞むような海螺湾の濕った朝霧のなかをゆく琪を見送りながら、ふと池田は思った。ただ見送るだけで、もう充分に、八年前に自分が置き去りにしてきたものよりもずっと、責任ある行いなのだ。この子が誰であれ、どこから來たのであれ、彼女には自分の真実の世界を選びとる権利がある。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


今回は、海螺湾に隱棲する池田千鶴博士の視點から、「プロジェクト・ペインキラー」の、より深い過去が明かされました。かつて御堂家が追い求めた狂妄の夢、そして池田博士がその現場で見つめた、五體の試作機たちの短い生と、倫理の限界。


また今回は、まだ痛みを知らなかった頃の、幼い瑾の姿も少しだけ描かれました。


次回、いよいよ修理を終えた琪が、自分の「答」を探すため、ひとり戦火の帝國へと旅立ちます。新たな章の始まりを、どうぞお樂しみに。


ブックマークや評價、ご感想などいただけますと、翻譯の大きな勵みになります。日本語として不自然な表現や誤譯にお氣づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。引き續きよろしくお願いいたします。


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