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鎮痛計画 / プロジェクト・ペインキラー  作者: 雨時
第三幕 ゲイシャ / Geisha
13/27

12 油絵の下の色

 御堂琪は暗闇のなかを落ちつづけていた。


 きた。今度の「夢」は、あまりにも見おぼえがある。つぎに何が映るかも、わかりきっている。


 黒い蒸氣自動車の後部座席。窓の外では翡翠色の山道が音もなく退いてゆく。クラシック音楽の合奏練習を終えたばかりの「彼女」は、退屈しのぎに詩集をめくっている。ページのあいだには乾いた月桂の花のしおり。窓ガラスの映りこみのなかで、濃紺色の制服に身を包んだ「自分」と目があった。琥珀の瞳。リボンタイが少し曲がっている。この細部には、今回初めて気がついた。「夢」がくりかえされるたび、新たな斷片が補われているらしい。運轉手は落ちついた手つきでハンドルを握り、何もかもがいつもどおりだった。


 「お嬢さま、本日の演奏、とてもお見事でした」前席の護衛が振りむいてほめる。


 「ありがとう。でも中盤のあの経過部(ブリッジ)、まだなめらかじゃなかったわ。もっとうまくできたはずなのに」夢のなかの「自分」は微笑みながら返す。


 「お嬢さまはご自分にきびしすぎますよ」


 轉換點はあの急カーブの先だと、琪は予感している。この會話ももうすぐ永遠に斷ちきられるのだと。


 はたして、鈍い破裂音が空氣を引き裂き、つづいてさらに激しい衝擊が襲った。何かにつかまるひまもなく、詩集がはためき、安全ベルトが胸骨に食いこみ、呼吸が壓潰される。すべての空氣が一瞬で拔き去られ、喉には爆煙のあとの噎せが殘った。立てつづけの衝突で窓ガラスが粉々に散り、車は横轉し、視界のなかで天地が入れ替わる。頭が何かにぶつかった。


 「お嬢さまをお守り――」護衛の叫びは、つぎの一擊であっけなく途切れた。


 萬物が靜まりかえり、ゆがんだ車體のきしみと、したたり落ちる液體の音だけが殘る。座席ごと逆さまになった身体。血でぼやけた視界のまま、なんとか視線を動かすと、割れたフロントガラスの向こうにぼんやりと人影が揺れていた。黑い影が近づき、強力なライトが顔に照射される。まぶしさに目も開けられない。相手の目に浮かんだ一瞬のおどろきが、失望と冷淡さへと變わるのを、彼女は讀みとった。かれらは自分の生死など氣にかけてはいない。


 つづいてさらなる爆裂がすぐそばで起こり、熱波が押し寄せる。激痛のなかで意識がうすれていく。「夢」のおわり、舞い散る灰燼と血に染まった詩のページが視界から遠ざかり、梢のむこうに月のひとかけらが沈んでいった。


 痛い。痛い……



 帝國暦3123年晩秋、海螺灣の潮騷が、御堂琪をふかい闇から徐々に押しあげていった。


 まず聞こえたのは、波が岩にぶつかるリズムだった。その音は夢のなかの衝突現場とはまるで結びつかない。つぎに回復したのは嗅覺だった。潮の香りと生ぐさい磯のにおいが部屋のなかに滿ち、ほのかな植物の芳香も混じっている。意識が痺れの底からゆっくり浮上してくる。焦れったいほど、まだ目が覺めきらない。ありったけの力をふりしぼって、ようやくまぶたを薄く開けた。


 身体を動かそうとしたが、どうしてもいうことをきかない。金屬製の寢臺のうえに橫たわり、人造皮膚はあちこち切りひらかれ、剝きだしになった接續口にはケーブルが絡みついている。まわりにはダイヤルと真空管のずらりと竝ぶ計器がならび、その畫面にはデータが明滅していた。微弱な電流が皮膚の下を這いまわる、くすぐったいような感覚もある。手のひら、左肩、腹部の、抑えがたい痛みだけが、これまでに負った重傷をまざまざと思いださせる。だが、この痛みこそ、まだ消えていないという、たしかなしるしだった。


 「……ゴホッ、ゴホッ」



 「やっと光に反應したわね」知らない女性の聲が近づいてくる。「わたしの聲、聞こえてる?」


 琪はとっさに全身を強張らせた。防禦の姿勢すらとれないくせに、彼女の灰青色の瞳はありったけの警戒心でみたされている。聲のしたほうへゆっくり首をまわすと、白衣をまとった女がひとり立っていた。短く切りそろえた髪、目尻には深い皺が刻まれ、眼鏡の奧には怜悧な光が宿っている。手にはファイルをかかえ、その表情はおだやかで、機械を前にした人間がありがちな身構えとはまるで無縁だった。


 「落ちついて。また自分の身体を壞しちゃだめよ」女は寢臺のそばまで步み寄り、琪のモニターデータをたしかめる。「池田博士と呼んでちょうだい――ようこそ、海螺灣へ」


 起きあがろうとした琪は、全身を貫く痛みに息を呑み、あきらめざるをえなかった。


 「海螺灣? わたし……どうしてここに?」ようやく聲を絞りだす。あらゆる傷口から痛みが押し寄せ、もうすこしでまた意識を手ばなすところだった。


 「わたしはここの機械技師なの。どこから來た機械であろうと、修理が必要なら、だれでもわたしの患者よ」池田はことさら


 「どこから來ようと」のあとにまを置いた。「あなたは怪我をしていた。ずいぶん長く眠っていたのよ。このまま目を覺まさないかと思った。でもいまは安全だからね」


 ここが半地下の圓い部屋で、壁じゅうに機械の設計圖が貼られているのに、琪はあらためて氣がついた。



 「コーヒー、飲めるかしら?」


 池田が差しだしたのは、ぶあついフォームミルクを浮かべたカップだった。表面には粗鹽がふりかけられ、潮の香りがかすかにただよっている。


 琪のなかで、何かがふいに蘇った。琥珀時光、暗殺任務、罠、怪物を見るような亮の怯えた目……彼女自身に屬する最後の記憶は、銃彈が腹部を貫いたときの鋭い痛みと、冷たく濁ったルナ河の水が喉へなだれこむ感覚、そして遠ざかる亮の叫び聲、歪んでいく群衆の顏だった。


 「ち、ちがうんです……誤解しないでください、わたしはお客さまなんかじゃ――」うつむいたまま、こぼれ落ちた銀色の髪が表情をすっかり隱している。「わ、わたし……こんなに良くしてもらえるような者じゃ……。どうか、出て行かせてください」


 「いまのそのようすで、どこまで步けるっていうの?」


 「それは……」


 「しっ、自分を責めるのは後にして。まずはこれを見てほしいの」


 池田は振りむきざま、ファイルのあいだから古い新聞を取りだした。受けとってみれば、日づけは二年前近く。第一面を飾っているのは盛大な葬儀の記事で、そこにはこう、大きく報じられていた。《研究施設の事故 御堂財閥當主夫妻ならびに令嬢が逝去 葬儀は本日擧行 御堂悠也氏が喪主》 中央には三葉の遺影が竝んでいた。やさしげな中年の夫婦、そしてひとりの少女。


 「これ――」琪の身体が硬直した。


 自分と瓜二つの、しかし瞳だけは琥珀の色をした少女。どこか翳りのある微笑みを浮かべている。記事の下段には葬儀のようすを捉えた小さな寫眞もあり、喪服に身を包んだ男が悲痛な面もちで立ちつくしている。御堂雄一の弟、悠也がこの葬儀をとりしきったのだ。


 「こ、これ……どうして、どうしてこの子はわたしと……?」指の腹でそっと寫眞の少女の頬をなぞる。相手の肌のぬくもりや、髮にただよう月桂の花の淡い匂いさえ、感じられるような氣がした。


 「その子は瑾」池田博士は、琪の表情の變化をじっと観察しつづけている。「この名前に、何か覺えはある? ここでは本當のことを話していいのよ。もちろん、そうしてくれるとわたしは嬉しいけどね」


 ケーブルだらけの腕にそっと手を置く池田のぬくもりに、琪はなぜだか、撫でさすられるような錯覺をおぼえた。


 「わ、わたしは……知りません……」どうにかそれだけを絞りだしたが、聲は尻すぼみだった。


 「わたしの名前は御堂琪……『新秩序』のつくったものです……わたしと、姉さまたちは……」


 それは琪にとって、ただひとつの、ゆるぎないアイデンティティだった。けれどいま、手にした新聞が、その認識をこれ以上なく激しく搖さぶっている。



 この、本當の物語とは似ても似つかぬ「アイデンティティ」は、彼女がこれまで刷りこまれてきた「事實」と寸分たがわず合致する。自分はゼロから生みだされた機械生命體であり、「新秩序」によって創造され、「新秩序」のために存在している、彼女はそう信じて疑わなかった。


 明確な記憶を有したその瞬間から、琪のまわりにはいつもさまざまな機械存在があふれていた。さまざまな型の歩哨機械、機械獵犬、それらは忠實かつ精確で、戰場における切れ味そのものだった。やがて、しだいに「人」の姿をしたものたちも增えていった。二本足で立ち上がり、淺い、あるいは濃い金屬の外殼をまとった同朋たち。かれらは獨立した意志をもち、なかには任務をともにし、人間の世界について觀察や戸惑いを分かちあった者もいる。それとはべつに、ただ核となる指令に從屬し、死人のように服從しつづけるだけの道具たちもいた。


 彼女のよく知る世界とは、反亂勢力「新秩序」と舊勢力との戰爭であり、終わることのない消耗だった。その姿こそ多樣であれ、「新秩序」の構成員たちには共通の行動指針がある。戰亂と絶望をまきちらし、「より大きな、あの目標」を實現すること。「新秩序」の中核指令は、彼女が一度も足を踏みいれたことのない「聖殿」から發せられる。そこには絕對の知能をもつ人工頭腦が鎮座し、その意志は神託のごとくすべての機械の行動を律しているのだという。じっさいには別の噂もあった。作戰のほんとうの立案者は、やはり人間のなかの野心家であり、權力と欲望に魂を賣りわたした、狂氣の創造主たちなのだと。


 その廣大な機械の軍團のなかで、琪は知っていた。人間とそっくり同じ姿とふるまいをもつ人型機械は、自分をふくめて六體だけだ。彼女の起動シリアル番號は「ユニット06」、最後に「誕生」した妹分だから、いつしかほかの五體を「姉さま」と呼ぶようになっていた。みな同じ祕密基地で訓練を受けた。戰鬪術、潛入、僞裝、そして、どうすればより完璧に「人間」を演じきれるかを。


 あの訓練は、彼女たちをより精巧な殺戮兵器に仕立てあげるためのものだった。淚は敵を惑わす武器であり、笑顔は獵物を眠らせるための毒だと、幾度も叩きこまれた。任務に失敗したときの代償も、骨の髓まで刻みこまれている。「靜默室(せいもくしつ)」で感覚を剝ぎとられ、どこまでも續く虚無だけが殘るのだ、いつでも取りあげられる特權。武器であると同時に、それは弱點でもあった。


 そしてその日々の鍛錬のなかで、彼女たちはたしかに互いのよりどころだった。金屬とプログラムで組みあげられた世界で、ただひとつのぬくもり。


 ずっと、そう信じてきた。


 琪は、そのふれあいの瞬間に、まぎれもなく感じていたのだ。寄る邊と、感情の萌芽を。それは基礎プログラムを超えたところにある、何かだった。彼女と同じ灰青色の瞳をもつ「姉さまたち」は、彼女が知るただひとつの「家族」だった。


 ただ、琪もまたうすうす氣づいていた。自分はどうやら六人の「姉妹」のなかでも、ことさら特別な存在らしい。「いちばん可愛くて、いちばん人間に近い妹だ」と、みなが口をそろえる身体けではない。訓練の內容が、他の姉たちよりずっと多くの、變わったものが混じっていた。必須の射擊や格鬪のほかに、彼女にだけは美術や文學、言語、感情表現の模倣までもが組みこまれていた。單純な殺戮というより、むしろこの亂世を生きぬかせようとする、そんな意志さえ感じられた。


 ずっと彼女は目をそらしつづけてきた。自分や姉たちの來し方を、深く考えようとはしなかった。あの奇妙な「夢」がいつも影のようにつきまとい、苦しめてきたにもかかわらず。任務のなかで彼女の手は不可避に血に染まった。けれど、少なくともあのころは、それが自分自身のすべてだったのだ――もしもあの混亂した夢が、彼女の知らないもうひとりの「自分」を、あれほど必死に組み立てようとさえしなければ。


 しばらく、琪はただ古新聞を握りしめ、ひとことも發せなかった。



 「()、か……(キン)、と、ほんの少ししか違わない名前……」


 ひとりごちた池田博士のまなざしは、新聞のなかの少女と、目のまえの琪とを、くりかえし行き來している。懊悩を、彼女は見拔いていた。


 「何を思いついたにせよ、それがあなたの眞實のすべてとはかぎらない」そう言って、琪の手からそっと新聞を抜きとり、かわりに例の鹽入りコーヒーをもう一度差しだす。「『眞實』が何かといえば、わたしだってあなたより多くを知っているわけじゃないし、あなたと同じくらい知りたいと思っている。でもいまは、治療に專念すべきよ。この話はまた、あとにしましょう」


 「まずは何か口にして、ねえ」


 カップを受けとろうとしたものの、指先はまだぎこちなかった。すると池田は何も言わず、そっとカップを琪の口もとへ近づけてくれる。ひとくち含んだとたん、きめ細かなフォームミルクのやわらかさと、鹽の粒のざらつきが舌尖でほぐれた。潮風の鹽っ氣とコーヒーの苦みと香ばしさが混ざりあう。それはひどく見知らぬ味なのに、ありえないほど確かな手ごたえをともなっていた。亮のコーヒーを思いだす。あれがカラメルとシナモンのあたたかさなら、こちらは磯を洗う波のようだ。生きものの原初の力を宿している。


 「記憶ってね、油繪の具を幾重にも塗りかさねたようなものなの。人間ですらそうなんだから、あなたたちのはなおさらでしょう」琪がコーヒーをすすっているあいだ、池田は螺旋階段を上がり、一階の鹽でくもった窓をおしあけた。潮の香りがどっと流れこむ。「いちばん上の顏料をそぎ落としたら、その下からはまるでちがう下地が現れるかもしれない」


 その科白が含んだものに、琪は氣づいた。


 「今日はとくに滿ち潮が早いの。海を見てみない?」まだ頭を抱えて苦しむ琪を見て、池田は話題を變えた。


 海の記憶? たしかに「故鄕」は「海邊の小さな町」と設定されていた。けれど一度もその目で見たことはないし、五感で觸れたこともなかった。



 ほんの十數步。池田がつきっきりで支えてくれても、そこまでに半時間近くを要した。窓邊にたどりついたときにはもう兩脚が動かなくなり、その場に崩れ落ちた。


 「さあ、頑張ったごほうびよ」池田はしゃがみこみ、彼女を助け起こした。


 その果てしないひろがりをはじめて目のあたりにした琪の胸の奧で、ふしぎな悸動が跳ねた。痛みさえ、ひととき忘れさせるような。


 「これが……海?」思わず聲がもれる。窓枠にもたれて、潮風をむさぼるように吸いこんだ。


 海の色は一様ではなかった。朝は薄靄をまとった靑鼠、晝はまばゆい寶石の靑、夕暮れはいつしか流れるような蜜柑色に染まる。波の響きもまた千變萬化だ。あるときはやさしいささやきで砂濱を撫で、またあるときは低く唸りをあげて岩礁を打つ。潮風には鹽と魚と水生植物の氣配、どこか遠くから漂ってくる花の香りさえまじっていた。


 なにか、氣をそらすものが必要だった。池田博士に紙とペンを借りて、深く息を吸うと、琪は海を描きはじめた。


 「無理しないで。その手でペンを握れるの?」


 「うん、やってみたいんです」


 「いいわ。あせらず、ゆっくりね」


 砕ける波、水面をかすめる海鳥、見えそうで見えない島影の輪郭、波にゆらめく漁船、それらをひとつずつ畫用紙に落としていく。さらさらと炭筆を走らせながら、彼女は水面のきらめきを捕まえようとし、風のかたちを描きとめようとし、海の息づかいをそのまま畫のなかに溶けこませようとした。彼女がずっと、僞りのなかで語りつづけ、けれど今日までほんとうには見たことのなかった、その海を。


 池田博士はときおり、うしろに立って靜かにそれを見つめていた。手を出すことはせず、彼女が一枚を描きあげた合間に、海藻茶(かいそうちゃ)やコーヒーを差しだし、海についての蘊蓄や、海螺灣の住人たちの些細な噂話を語ってくれる。まとまりのない、けれどたしかな暮らしの斷片が、琪に不思議な安堵をもたらした。己の出自への迷いや過去の血腥さが消えたわけではない。しかしこの靜けさは、彼女が治療に身を委ね、傷を癒やすには十分だった。


 池田博士と助手たちの懸命な努力のかいもあり、琪の身体機能は大部分が回復した。ただ、その過程は誰もが想像していたよりはるかに過酷だった、毎日がまさに地獄だったのだ。折れた骨格はより頑丈な合金に取り替えられ、斷たれた神經線維もていねいに編みなおされた。いちばん外側の人造皮膚こそまだ修理の途中だが、ゆっくりと自己修復を續けている。池田博士は琪の身体構造を知り拔いているようで、ひとつひとつの手當てが、まるで設計圖をそのままなぞっているかのようだった。



 「海ってね」ある日、池田博士は波を見つめながら言った。「すべてを孕み、すべてを薄めることができる。けっして斷罪なんかしない、ただ受けいれるだけ」


 琪はペンをおいて、窓の外を仰いだ。落日が海をやわらかな薔薇色に染めぬいていく。かなたの燈臺に、かすかな燈がともった。


 「博士」彼女はそっとたずねた。「機械にも、夢を見るってこと……信じますか」


 「もちろん。いま、わたしの目のまえにひとり、立っているじゃない? しかも寢言つき――」池田は笑みを浮かべて振りむき、琪の首もとのペンダントに視線を落とした。「いつも夢のなかで『リョウ』って呼んでいるわ、その人の名前かしら」


 その名を聞いたとたん、知らず知らずペンダントを握っていた。ひやりとした金屬の下に、亮の手のぬくもりがまだ宿っているかのように感じられた。


 思いは琥珀時光へと流れていく。《海邊の小さな町から來た旅人》を装ったあの日々、コーヒーの香りにみちた場所、彼女が本物だと実感できた、數少ない時間、ほんものだと感じられた數少ない時間。だが、いま腦裡にまず浮かぶのは、店が襲われたときや、オペラハウスのバルコニーで亮が浮かべた、あの怯えと苦しみに滿ちた目だった。身体は修復されても、感情に刻まれたひび割れは、そのまま疼きつづけている。


 それにしても――あの、あたたかい笑顔と無條件の信頼をくれた、あのバリスタは、いまどうしているのだろう? 自分の起こした騒動が、彼をずっと危険にさらしているかもしれない。海螺灣で目覺めてからというもの、腦裡でいつも指令や訓誡を垂れ流していた通信回路は、ふっつりと沈默している。亮を見つけださなければ。彼が無事だと自分の目で確かめる。それから、すべての「眞實」を知ったうえで、それでももう一度、自分のためにコーヒーを淹れてくれるかどうかを。



 「だいじな人……ううん、友だちです」


 「友だち? なかなかおもしろそうな話じゃない」


 「でも、いまはもうわかりません」琪は聲をひそめた。「わたしが何者かを、知られてしまったから」


 「たぶん怖がられてしまう。それでも……どうしても自分で確かめたいことがあるんです」


 ふいに池田博士が口もとをほころばせ、その目にはなぜか安堵にも似た色が浮かんだ。


 「あなたを河畔で助けるすこし前、ある人から傳言があったの。河のようすに注意するようにって。最初はなんのことかさっぱりだったけど、あなたを見つけたとき、ああ、これだったのかと思ったわ」


 「失敗した任務のせいで怪我をしたのだと、あなたは言う。でもあの人は、あなたがそんなふうに困った狀況になるのを、かなり前からよほどよく知っていたみたいね。むしろそれが狙いだったとさえいえる。彼はあなたをよく知っているみたいだった」


 そう言いながら、池田は戸棚のそばへ步み寄り、防水の皮製の包みをとりだした。ひもを解くと、なかからは拳銃や彈藥、ナイフ、金貨、僞造の身分證明書、そして一枚の南行きの船券が出てきた。


 「ただ、矛盾しているのだけれどね。あなたを面倒みてやってくれ、『もし生きていたらの話だけどね』なのだそうだ。できるようになったなら、この戰亂の大陸を離れて、ずっと南へ、海の向こうを見てくるといい」


 「それ……一體どなたなんですか」琪の聲は切迫していた。これがなにかの鍵だと、はっきり感じた。


 「古い知りあいよ。訊きたいことはわかるけど――事實、わたしにも全貌は見えていない。ただ……」と、池田は窓の外のひろい海を指さした。そこかしこに漁火がちらついている。「彼の言うとおりにすすめはしない。あなたが選ぶ番よ。ここを離れる? それとも――」


 「もう逃げたくないんです」琪は首を振った。


 「本當にいいの?」池田が問いかける。「北へ向かえば、もっと多くの危険と苦しみが待っているかもしれない」


 「でも、もっと多くの答にも、きっと會えるはずです」



 數日後の早朝、琪は池田博士に深々と一禮した。身のまわりのわずかな荷を背負い、帝國の奧地へと向かう北への旅路につく。


 あの古い新聞も持ち步いた。寫眞のなかの琥珀の瞳には、あかるい光が點じられている。石段を一段ずつくだりながら、潮風と鹽味のコーヒーのこの「海邊の小さな町」をあとにする。ほんのひととき、ただの善意を注いでくれたこの老いた恩人との別れに、彼女はまぶたの緣が熱くなるのを感じた。


 「どうお禮を申しあげたらいいのか……」


 「わたしは自分のすべきことをしたまでよ。ほんとうに素晴らしいのは、あなた自身が起こした奇蹟だわ」池田は答えた。「しっかり生きて、あなたの答を見つけるの」


 「そのときは、傷跡じゃなくて、もっとたくさんの繪を持って歸ってきてくれると嬉しいわ」


 「必ず」琪は約束した。「それから……コーヒーをありがとうございました」


 池田はほほえんだ。「次に戾ってきたら、淹れかたを教えてあげるわね」



  「やれやれ……おまえさんも滿更、人の情を解さないわけでもないらしい。やりかたは、いつまでたっても歪んでいるけれどね」


 遠ざかる琪のうしろ姿を見つめながら、池田博士は細いパイプをくわえ、扉にもたれてつぶやいた。


 「今回はあたしの獨斷で、本當の『自由』をあの子にくれてやったんだ。これいじょう、思いどおりに操ることはできやしないよ。これからはもう、彼女自身の選擇にしか關わらないことなんだ」


 やがて石畳の曲がり角ぎりぎりまで來たとき、琪はふいに立ちどまり、くるりと振りむいた。朝陽がちょうど彼女の銀鼠の髮先にふりかかり、光の粒がきらきらと瞬いている。


 「博士!」潮風をへだてて聲がとどく。「博士は、瑾のことをご存じなんですよね?」


 彼女はしばらく迷ってから、さらに言葉を繼いだ。


 「その……瑾も、繪を描くのが好きなんでしょうか」


 池田は長いこと、ただ海を見つめていた。やがて、聞こえるか聞こえないかの聲で、ぽつりと言った。



 「あの子はね……わたしの知るかぎり、繪を習ったことはなかったよ」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の臺灣出身の雨時です。


海螺灣の小さな診療所で、琪はようやく目を覺まします。池田博士の手當てにより少しずつ回復していく彼女でしたが、そこで見せられた一枚の古い新聞が、彼女の「自分」という存在を根底から搖るがします。自分と瓜二つの少女、御堂瑾。そして「新秩序」の一員として刷りこまれてきた記憶の數々。夢のなかで觸れる、自分ではない誰かの痛みとぬくもり。それらは一體、何を意味しているのでしょうか。


傷つき、なおもがきながら、琪はそれでも北へ向かう決意を固めます。自分の手で「答」を見つけるために。そして彼女を待ち受けるのは、戦亂の爪痕がいまだ生々しい帝國への道。


次回、ひとり旅立った琪が目にする戰火の爪痕、そして彼女がその胸のうちで問い續ける「私は一體、何者なのか」。どうぞお樂しみに。


ブックマークや評価、ご感想などいただけますと、翻譯の大きな勵みになります。日本語として不自然な表現や誤譯にお氣づきの際は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。引き續きよろしくお願いいたします。


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