11 海辺の小さな町から
「Day 472、Kの日誌。
廃墟にて『プロジェクト・ペインキラー』の旧檔案を発見。
父の筆跡には『魂の境界』とあった。文字は震え、あのときの私の身体もそうだった。
備考:父もまた、機械の魂を疑ったのだろうか。いや、私は揺らぐわけにはいかない。」
帝国暦3123年、晩秋。河畔。
ルナ河はけっして凍らない。月の女神がここで沐浴し、塩と涙を水に溶かした。それゆえ川底まで見通せる清らかさを、どんな寒さも、真冬の猛吹雪さえも奪えずにきたのだという。ルナ河は帝国の高く聳える歯車の城壁を縫い、配管の影をくぐり、隣国の街を経て、やがて南西で海へと開ける。
それはあまりにロマンチックに過ぎる話だった。いま、鉄錆と潮の匂いが混じった水が、琪の傷口へ容赦なく流れこんでいる。冷たさと痛みのあいだで、彼女は息もできず、身動きもとれず、ただ暗い水に引きずりこまれていくばかりだった。
一筋の銀光が混沌を貫いた。
まただ。まばゆい光の奥には、自分のものではない記憶があった。
手には指ぬき革手袋の締めつけが伝わる。細長いなにかが掌におしあてられ、付け根にずしりと重い金属が食いこむ。この感触には覚えがない。ちがう、ちがう、これは私じゃない。琪は幻覚を振りほどこうとしたが、すぐさま深みへと引きもどされた。
「もう少し重心を前に。前足の裏で踏ん張れ」
背後から男の声がした。語調はおさえているのに、そこにはぬぐいきれない上流階級の気位と、隠しきれないやさしさが滲んでいた。聞き覚えがある気がした。覚えているはずがないのに。
よく磨かれた革のブーツが彼女の踝をかるく小突き、強張った姿勢を正させる。半歩あとへさがると、靴底が蝋引きのオーク材の床でわずかに粘った。これは私の足じゃない、私の身体じゃない。琪は川底でそう考えていた。だが記憶の侵蝕から逃れるすべはない。
手首を返し、突きを放つ。刺剣が空気を裂き、自分の呼吸音を耳にした。その穂先がふいに弾かれ、火花が睫毛すれすれをかすめる。思わず目を見開いた、その一瞬の怯えは本物だった。
あたりには月桂の花の香りと一流品の革の手入れ油が混ざり、かすかな果実の甘みさえ漂っている。視線をおとすと、自分は鹿皮で剣身に滴る淡紅色をくりかえし拭っていて、目をやれば、いましがた綺麗に貫かれた血橙が床に転がっている。果汁が木目に滲みていた。視界のすみで、左手の小指に巻かれた包帯から暗赤色がにじんでいるのも見えた。
記憶が跳んだ。昨日、いや、この夢のなかでの昨日、組打ちの稽古でぼんやりしていた彼女は、背後に立つこの「おじさま」と呼ばれる男に、戒めの剣で指を切られたのだった。刃の冷たい感触とそれに続く鈍痛が、いま、この「夢」のなかでさえ痛いほど生々しい。
「どうして、こんなことを覚えているの」
琪の問いは河の水に砕かれ、泡の連なりへと変わる。
夢はさらに開いていく。「彼女」が逆手に刺剣を突きこんだのは、稽古相手の機械人形の光センサーだった。刀身が歯車のあいだに食いこみ、ぎりぎりと音をたてる。機械は悲鳴をあげない。ただ全身から作動油を噴きだしはじめ、それがまるで涙のように見えた。
「ねえ、痛いの?」
少女は好奇心を隠さずにたずねる。
「おじさまが言ってた。あなたたちみたいな造り物には、感覚なんてないんだって」
自分は剣など習ったことがない。こんな科白を口にしたこともない。それなのに、この夢の細部はなぜ一から十まで体温をまとっているのか。琪は川底で身体をまるめ、見知らぬ記憶の奔流にあらがおうとした。頭が破裂しそうだった。なぜ私なのか、なぜよりによっていまなのか。映像はかぎりなく突き刺さる。
道場の壁にかかった大きな鏡が目に入った。映っているのは十三か十四か、銀鼠の短い髪の少女である。長い剣の刃が、澄んだ琥珀の瞳を映している。この目は自分のものじゃない。琪は知っていた。「虹彩」は氷の結晶の灰青であって、こんなあたたかな琥珀のはずがないのだ。
「集中しろ」
いまにも砕けそうな夢のふちで、鏡のなかの自分が左腕を背にまわし、剣先をかるく沈め、膝を折る。つぎの瞬間、その刺剣が向きを変え、鏡面を突き破り、疾風の叫びとともにこちらの眉間へ迫った。本能的に剣をあげて受けとめた、そのとき。
がつん、という音が響いた。
手首をへし折られる幻の痛みのなかで、琪の後頭部が川底の岩に激しくぶつかる。現実の痛みがついに夢を引き裂き、血まみれの両手が罪悪感とともに彼女を呑みこんだ。もがきたい、叫びたい、けれど身体は言うことをきかず、ただ水が咳きこむ勢いで喉と鼻へなだれこむ。
頭のなかの混沌がひいては返し、世界がかすんでいく。
痛い。痛い。
数週間後、ルナ河の下流域。河口近く。
上流から運ばれてきた街の汚濁と戦火の硝煙が、ここで海とまじりあう。濁った波が干潟の泥を叩き、あたりには腐敗臭がたちこめていた。
新聞賣りの少年が通りを叫んでいる。《タイムズ》はあの帝国科学院の晩餐会襲撃事件をいまだに追っていたし、御堂財閥の新総裁が二年前に就任して戦費や復興支援に巨額を投じるとともに国民へ結束を呼びかけた話も、紙面を賑わせていた。少年の声はとうに嗄れている。気に留める者は少なかった。
空にはときおり蒸氣飛行船が影を落とし、遠くの造船所からは槌音と鴎の鳴き声がまざって届く。新聞賣りの呼び声もしだいに遠ざかり、あとには潮風の湿った匂いだけが殘った。
「海螺湾」。帝国の南を外れた隣国に抱かれたこの小さな町は、ある者には世界の涯てであり、またべつの者には始まりの地だった。帝国の華やかさも、戦の煙もここにはない。少なくとも、表面は。
「おい、あれ、網に引っかかってるぞ。なんだありゃ。またかよ」
淺黒い肌の漁師が、いまいましげに網を手繰っている。このごろは漁のたびにろくなことがなかった。川からはがらくたばかり流れてくる。機械の殘骸、捨てられた裝置、運が悪けりゃ戦爭の犠牲者までが、前線からこの隣国の端っこまで押しながされてくる。吐き捨てるように罵り、もういちど網を引いた。
「待てよ」
連れの若い漁師のほうが、目ざとく網に絡んだ銀色の髪を見つけた。
「あれ、人みたいだぞ。女の子だ。血も出てる」
網のなかに死體を拾うのはこれが初めてではなかった。だが今回はどこか様子がおかしい。捨てられた精巧な人形のように、濡れた衣服はからだに張りつき、裾のあいだから水草が覗いている。首もとの齒車のペンダントには血糊がこびりつき、いくつもの傷口からは赤い液と金屬片がとめどなく滲み、にごった水のなかを漂っていた。若い漁師はその血の気のない顏をじっと見つめ、なにかが違うと感じた。
「娘だあ? これも機械だろ。どうせろくでもねえもんさ」
先に口をきいた漁師が銛を手にとり、ためらいもなくその「娘」の腕へ突き立てた。勘は當たった。布が破れた下にあったのは皮膚ではなく、精密に組みあげられた機械の關節だった。男は齒を剝いて笑う。
「こいつは高く賣れるぞ。帝國んとこへ持っていきゃ、軍がたんまり色をつけてくれるに違えねえ」
慾の色を隠そうともせず、さらに銛でつっつきまわす。
「見ろよ、この肌の彈力。本物そっくりじゃねえか」
「おお怖……いまどきの機械は、こうも人間に似せられるんだねえ。血まで本物みたいだ」
漁師の妻がおずおずと近づいた。怖がりながらも好奇心に勝てず、そっと「娘」の閉じた瞼を押しあげる。焦点のあわない灰青色の瞳が空氣にさらされ、その奧で氷の結晶のような細かな紋樣が光を屈折させた。女はぶるっと身をふるわす。
「御しやすい機械をつくって叛亂の機械にぶつける。そんなおぞましいことばかり考えてるから、帝國のやつらは、絕滅されても文句は言えねえんだ」
その聲をさえぎるように、水面が急に跳ねた。小駁船がすぐそばまで近づき、飛沫が漁師たちの顔にかかる。男は悪態をついて顔をぬぐった。船首に立っていたのは分厚い防水の外套をまとった女で、目深にかぶった頭巾の下からは刃物を思わせる顎の線だけが覗いていた。
「その一個体は私が引き取る。おまえたちは金貨がいいか、それともガソリン券か」
池田千鶴博士。その登場には有無を言わせぬ氣があった。漁師たちは思わず一歩あとずさる。
かつて彼女は御堂家の実験室で高名な技術員として、数多のプロジェクトを率い、あるいは参加してきた。幾十年ものあいだ、この一族の権力の移ろいも、新たな家族の誕生も、老人たちの死も見届けてきたのだ。當主・御堂雄一夫婦が娘に注いだ深い愛も、雄一の弟がどれほど才氣に溢れながら、その瞳におそろしいほどの無機質さを宿していたかも知っている。弟の妻は難産で命をおとし、以來、彼は技術と完全性にとり憑かれた。
八年前、倫理の相違から彼女が辭表を叩きつけて去ったことで、とうの昔から存在していた「例のプロジェクト」は中止へと追いこまれた。御堂家がいまだ倫理の境界線上を綱渡っていることはわかっていた。だが自分の去った三年後、御堂の令嬢を襲ったあの自動車事故が、その研究が密かに再開され、しかも外部の誰にも由來を推し量れぬ正式名称をそれに與えたことだけは、知らなかったのである。
プロジェクト・ペインキラー。
河畔でこの機械を見つけたとき、その銀鼠の髪を認めたほんの一秒で、すべての歳月が走馬燈のように過ぎった。御堂家との切れかけた縁が、あるいは生きている約束が、また絡まりだす。しばし躊躇い、それから彼女は歩み寄った。網のなかの「少女」を見おろしながら、胸のうちに去來するものはひとつではなかった。
これで何年ぶりか。八年。あの小さな女の子の顏は、まだ腦裏にやきついている。
顔を見合わせた漁師たちは、結局實利を選んだ。
女が放った革袋はずしりと重く、金貨のほかに數枚の貴重な帝國ガソリン券まで入っていた。連中はあわてて獲物をかたづける。こんな僥倖、いつ羽根が生えて飛んでいくかわからない。網に絡んだ「死體」は接舷した小駁船へ移された。手つきは亂暴でなかったが、目だけはぎらついていた。さっきの漁師がふところの革袋をちらりと見てつぶやく。
「この女、ただもんじゃねえな」
「だから言ったろ、いまどき變なことばかりだって」若い漁師は金貨を指でもてあそび、その「死體」をまともに見られないでいた。「帝國じゃ反亂軍の機械が自分でものを考えてるらしいじゃねえか。人間よりよっぽど賢いんだとさ」
「やめとけ」年かさの漁師が唾を吐いた。「機械はどこまでいっても機械だ。人間に似てたって、死にものさ」
琪は甲板の隅に寢かせられ、髮の先からはいつまでも雫が落ちつづけ、下に小さな水たまりができていった。女がそばに立ち、腰をかがめてその髮をそっと撫でる。大きな外套がほとんど琪を覆った。
「聲を出すんじゃないよ、子。生きてさえいれば、どうにかなる」
「あの方がこのお姿を見たら……さぞお心を痛めるでしょうね」彼女は漁師たちに背を向けてひとりごちた。「あの一族は、結局どこまでも行きすぎてしまった。まったく、あの方たちはいつだって同じ過ちを繰り返す」
琪の指がびくりと跳ねた。
薄れゆく意識の奧で、鐵錆と潮の味はまだ舌にしつこく殘り、手のひらには夢で握った刺剣の感触がまだへばりついている。風に翻った新聞紙が、ちょうど少女の半顔を覆い隱した。第一面の寫眞では、御堂家の新たな當主が戰災孤兒に菓子を配っている。胸元の家紋がぎらりと光った。
小駁船がエンジンを唸らせ、舳先を沖へ向ける。はるか燈台のした、岩だらけの磯にはこの沿海ならではの灌木が生い茂り、その実はふくらみ、透きとおっていた。土地の者は「星砂の実」と呼ぶ。
風がその馥郁とした蜜の香りをはこんでくる。けれど口にした者は言うのだ、あの甘い果肉の奥には、耐えがたいほど苦い種がいくつも隠れている、と。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。著者の雨時です。
ルナ河の下流、海辺の小さな町で、ひとりの老科學者が網にかかった「少女」を拾いあげます。かつて御堂家の實驗室にいた彼女は、琪の姿に何を重ねたのでしょうか。いっぽう琪は傷つき昏睡しながら、自分のものではない記憶に苛まれています。その夢のなかで彼女が觸れる痛みとぬくもりは、いったい誰の人生なのでしょう。
次回、ようやく目覺めた琪は、目のまえの醫生と、そして初めて見る本物の「海」と向きあいます。どうぞお樂しみに。
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