Part.5
最寄り駅の改札を抜けると、空はすっかり夕焼けに包まれていた。
葵と綾は並んで歩きながら、少しだけ落ち着いた空気をまとっていた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。気をつけて帰ってね」
綾は母に頼まれていた買い物を思い出し、駅前のスーパーへと足を向けた。
葵と別れた後、一人きりの時間。
静かで、安心できるはずの時間。
——けれど。
スーパーの2階、本屋に立ち寄ろうとエスカレーターに乗った瞬間だった。
体の奥に、嫌な記憶が、ばっと蘇る。
(……スカートの下に……手が……スマホが……)
後ろを振り返る。誰もいない。
なのに、背中が急にむき出しになったような感覚が走る。
心臓が、ぎゅっと掴まれる。
スカートの裾をぎゅっと握る。
さっきまで意識してなかったその布地が、急に頼りなく感じられた。
エスカレーターを降りて、スカートから手を離した。
スカートがふわりと、元の通りに広がる。
(……っ!)
風もない。
段差もない。
誰もいない。
――なのに、下から視線を感じる。
綾はそれを振り払うように首を横に振り、前へ歩き出した。
しかし、床のタイル、床に貼られた非常口の掲示、低い位置に平積みされた本。
スカートより低い位置にあるものすべてが、下から覗いてくる『目』に見える。
(なんで……なんで……!?)
『違う』とわかっている。
けれど、体が勝手に反応する。
ベビーカーに乗った赤ん坊の無垢な視線にさえ、思わず息が止まる。
息が浅くなり、指先が冷たくなっていく。
(やだ……やだ……やだっ……!!)
1階へ降りようとエスカレーターの前に立ったとき、綾の足が止まった。
何の根拠もないのに、下のフロアから誰かに覗かれているような錯覚が走る。
ただの吹き抜け。
見えているはずのない誰かの視線。
それが、脳内で暴れていた。
(お願い……やだ……見ないで……)
喉が締まり、吐く息が出なくなった。
怖い。怖い。でも何が怖いのかわからない。
全部怖い。空気も、音も、足元も。
(誰か……誰か……)
綾はエスカレーターから離れ、フロアの隅にあった非常口の前に立つ。
その瞬間、顔を伏せた綾の目元から、涙が数滴、足元の床に落ちた。
涙が止まらない。
荒くなった自分の呼吸が聞こえた。
誰にも見られていないのに、恥ずかしくて、苦しくて、壊れそうだった。
そのとき——
耳の奥で、葵の声が聞こえた。
『自分一人の身体じゃないってこと、忘れないで』
その言葉が、遠くて、でも確かにそこにあった。
綾は震える指でスマホを取り出し、葵の名前をタップした。
呼び出し音が鳴る。
1回。
2回。
(……お願い……出て…………)
祈るように目をぎゅっと閉じる。
『――もしもーし、綾?』
ハッと目を見開く。
あの、いつもと同じ、朗らかな声。
その瞬間、綾は涙を落としながら、スマホをぎゅっと握りしめた。
『……綾? どうしたの?』
葵の声がにわかに鋭くなる。
「葵……助けて……。動けない……どうしよう……」
『えっ……まさか、また盗撮された!?』
「ち、違う……。でも……なんか……みんなが……下から……」
『……っ、わかった。スーパーにいるんだよね?』
葵の声に、少しだけ呼吸の乱れが混ざっていた。
『今行く。すぐ行くから、動かないで! いい? 絶対にそこで待ってて!!』
通話が切れたあと、スマホを握る手がまだ震えていた。
でも――
(葵が、来てくれる……)
それだけで、さっきよりも呼吸が少しだけ深くなった。
頬にかかる前髪をそっと払えるくらいの力が、指先に戻ってきた気がした。
(つづく)




