Part.3
雑踏と排気ガスが入り混じり、少し焦げたような匂いが漂うバスターミナル。
綾はぐるりと周囲を見渡すと、発車直前のバスを見つけ、葵の手を強く握った。
「綾っ!! ねぇってばっ!! どこに行くの!?」
葵の問いを振り切るように、綾は無言で葵をバスに押し込む。
自分もすぐ乗り込んだその瞬間、ドアが閉まり、世界が切り離された。
バスが動き出す。
車内は空いていた。
綾と葵は、最後尾の並び席に座る。
(終わった……やっと……)
綾の口から、ようやくひとつ、息が漏れた。
それでも手のひらには、まだ汗がじっとりと残っていた。
「綾?」
葵が綾の手を握って問いかける。
「何があったの? どうしたの? ねぇっ」
綾は、答えようと口を開いたものの、すぐに閉じた。
それを見た葵は、綾の手をそっと握った。
それだけで、綾の中の何かが、わずかに揺れた。
「……葵が、盗撮されそうになってた」
「……っ!?」
息をのんで、葵の表情がこわばる。
綾の様子がおかしいとは思っていた。
でも、そんな事態は思いもしなかった。
黒パンを穿き忘れたことで頭がいっぱいで、風や段差ばかり気にしていた。
もし、そんな時にしかけられていたら――
血の気が引いていく葵を、綾が慌ててなだめる。
「あ、大丈夫、大丈夫! 葵は撮られてないから!」
「ちゃんとガードしたから、大丈夫!」
綾のその言葉に、葵はふと違和感を覚えた。
「えっ……??」
葵が眉を寄せると、綾も一瞬だけ、きょとんとした表情を見せた。
「『葵は撮られてない』って……どういうこと……?」
葵の声が震える。
その瞬間、綾は何かに気づいたように、すっと目を伏せた。
葵の疑念が、その一瞬で確信に変わった。
「……綾は……?」
綾は口を閉ざしたまま、答えない。
「綾は……? ねぇ、綾は無事だったの!? ねぇっ!!」
葵が綾の肩をガシッと掴んで叫ぶ。
車内の乗客が思わず振り返る。
「葵っ、ここバスの中っ……!!」
「心配すんのそこじゃないっ!!」
葵の剣幕に、綾は言葉を飲み込む。
「綾は!? ねぇ、綾は!?」
葵は目に涙を浮かべて、取り乱したように綾の肩を揺さぶる。
綾は思わず、近くの停止ボタンを押した。
「葵っ……わかった、ちゃんと話すからっ!! ここで大声出さないでっ!!」
葵は目に涙を浮かべながら、肩で呼吸をしていた。
まもなくバスが停留所に着き、ドアが開いた。
葵は無言でカードをタッチしてバスを降りた。
綾はカードをタッチすると車内に向き直った。
「……大声出して……ごめんなさい」
綾は頭を下げた。
「……大丈夫ですか?」
運転士の声に、綾は無言でこくっとうなずき、バスを降りた。
降りるなり、葵が再び綾の肩を揺さぶる。
「綾…………綾っ!!」
綾は口を結んだまま黙っていた。
葵は思わず泣き崩れそうになる。
風がなおも2人に強く吹き付ける。
「葵……どこか入ろ。スカートめくれちゃう」
葵は顔を伏せたままスカートを握りしめ、よろよろと歩き出した。
綾はスカートを握りつつ、葵の背中にそっと手を添えて歩き出した。
二人は近くのカフェに入った。
2つのホットティーを前に、長い沈黙が続く。
葵は顔を伏せたまま、肩を揺らしている。
そんな葵を時折心配そうに見つめては、綾もまた視線を落とす。
「……葵?」
綾がおそるおそる声をかける。
「…………ごめんなさい……」
葵の言葉に、綾は思わず反応する。
「え……今、なんて……??」
葵は肩を揺らしながら、顔を伏せたまま震えた声で返す。
「あたしが黒パン忘れちゃったから……あたしのせいで……綾が…………」
綾は思わず立ち上がり、葵の肩を掴む。
「葵……それは違う。絶対に違う!」
「でも――」
「ちがうの。あたしが勝手に、葵を守りたいって思って、動いただけ」
綾はまっすぐ葵の目を見る。
「おかしいのはあいつなの。葵じゃないの」
「……お願いだから…………あんたが謝らないで」
葵は涙をこぼしながら綾を見つめる。
綾は少しだけ微笑んだ――けれどその笑顔は、どこかぎこちなかった。
「綾……お願い、全部話して」
弱々しい声で葵が返す。
綾はぽつりぽつりと、事の顛末を話した。
葵は涙を拭って目を閉じ、意を決したように目を開ける。
「綾……警察、行こう」
「えっ……でも……たぶん……撮られてないし……」
綾の声は、わずかに震えていた。
「そういうことじゃないよ」
葵はきっぱりと言い切った。
「普通はさ、バレたら逃げるよ?」
「でもその人、綾にバレてもやめなかったんでしょ?」
葵の言葉に、綾の中で、あの時の記憶がよみがえる。
まるで、綾の恐怖を試すかのように、自分の足元を這いまわった『機械の目』。
何度もスカートに伸びてきた手。
あれは明らかに普通じゃなかった。
「あんまり考えたくないけど……」
葵がおそるおそる言葉を続ける。
「その人は、あたしを撮ろうとしてたんでしょ?」
「綾は――それを『邪魔してきた人』ってことでしょ?」
「……もし、逆恨みでもされてたら……」
綾の背筋に、ひやりとしたものが走った。
さっきまで汗ばんでいた手のひらが、今は冷たく乾いていた。
「だから、相談だけでもしよう? それだけでも、きっと違うから」
「……相談、か……」
綾は呟いた。
「……わかった」
葵は綾の言葉にうなずくと、立ち上がり、そっと手を差し出した。
綾はしばらく見つめてから、ゆっくりとその手を取った。
(つづく)




