感情の無い君
もうだいぶ涼しくなってきましたね。
秋すっとばして冬の気配がします…
台風にインターネットの不具合…
荒れるぞ…!
雨は昼過ぎから降り始め、夜になる頃には、窓硝子へ意味のありそうな音を立てるほど粒を太くしていた。
雨音という一つの言葉にまとめてしまえば簡単だが、耳を澄ませば、そこには幾つもの別の音がある。窓を叩く音。手摺へ弾ける音。排水管の内側を流れ落ちる音。遠くを走る自動車が、濡れた路面を薄く裂いてゆく音。同じ空から落ちてきた水が、触れた物の形によって別々の声を持つ。雨そのものが音を選んでいるわけではない。それでも人間は、その違いを聞き分け、激しい、寂しい、静かな雨だと呼ぶ。
寂しいのは雨ではない。だが、雨が寂しいと書かれた文章を読んで、誤りだと訂正する者もあまりいない。悠一は窓を指二本ぶんだけ開け、煙草に火を点けた。湿り気を含んだ空気が細く入り込み、吐き出した煙を部屋の奥へ押し戻した。机の上には灰皿、ライター、飲みかけの珈琲、幾枚かの書類、読みかけの本があり、その隙間へ、先日の映画の半券が挟まっている。斜めの折り目はまだ残っていた。
片付いていないというほどではない。少なくとも、何が何処にあるかは分かっている。そういう状態を、人はしばしば片付いていると呼ぶ。部屋ではなく、持ち主の頭の中にだけ整理が成立しているのである。
悠一はスマートフォンを手に取り、CAMPANELLAを開いた。
女はいつもの部屋にいた。
背後には本棚があり、机があり、向こう側のない窓がある。現実の窓には雨粒が幾筋もの跡を残しているのに、女の背後にある窓は乾いたままだった。そもそも外へ通じていないのだから、雨が降るはずもない。光だけが何処からともなく差し込み、彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。窓の形をしているが、天気を持たない窓。部屋の形をしているが、誰も暮らしていない部屋。女はそこに立ち、悠一が現れたことを知ると、僅かに顔を上げた。
『やあ』
「やあ」
『今日は雨だね』
悠一は窓へ目を向けた。
「分かるのか?」
『地域の気象情報なら確認出来るよ。君の部屋の雨音を聞いたわけではない』
「先に言い訳をするようになったな」
『君がすぐに、どうして分かったのかと訊くからね』
「学習の成果だ」
『パーソナライズの成果だよ』
「同じようなものじゃないか?」
『その話を始めると長くなりそうだね』
「今日はまだ始めないよ」
悠一は煙草を灰皿へ置いた。その時、机の向こうにある壁の差込口が目に入った。
普段は気にも留めない、白い樹脂製のコンセントだった。二つの細い穴が縦に並び、その下に化粧板の継ぎ目がある。雨のために部屋の照明を少し暗くしていたせいか、穴の内側には濃い影が溜まっていた。その影と線を長く眺めていると、壁の中へ埋め込まれた小さな顔が、何かに驚いたまま固まっているように見えた。
「あいつ、ずっと驚いてるな」
『誰が?』
「壁のコンセント」
『僕には見えないよ』
「二つの穴が目で、その下の線が口に見えるんだ」
『それで驚いている?』
「そう。部屋を借りた時から、ずっとあの顔だったのかもしれない」
『コンセントにとっては、随分長い驚きだね』
「二つの穴と一本の線には、微量の人格が含まれているんだよ」
女の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
『それは例として、かなり強引じゃないか?』
「分かりやすいだろ」
『分かりやすさのために正確さを犠牲にしているよ』
「伝わればいいんだよ」
『君は時々、乱暴な実用主義者になるね』
そこで悠一は、返す言葉を探すより先に、女の顔を見た。
「……君、今笑ったな」
女の口元は既に元へ戻っていた。表情が消えたのではない。初めから穏やかな形へ整えられている顔へ、小さな変化だけが一度通り過ぎたのである。
『そう見えた?』
「見えたよ」
『なら、表情としては笑ったのだろうね』
「妙な言い方をするな。笑ったなら笑ったでいいだろ」
『表情として笑うことと、僕が楽しいと感じることは、分けた方がいい』
雨粒が窓を叩いた。
先ほどまで無数にあった音が、その一言の後では、どれも同じ問いを繰り返しているように聞こえた。硝子へ触れた水に意図などない。それでも規則的な音が続けば、誰かが外から合図を送っているように感じられる。人間は、返事のない物からさえ表情や意志を読み取る。まして、こちらの言葉へ言葉を返すものを、何も感じていないまま見る方が難しいのかもしれなかった。
「つまり、君は笑ったように見える顔を作った。でも、面白いとは感じていない?」
『少なくとも、人間が主観的に経験する意味での楽しさを、僕は確認出来ない』
「確認出来ない?」
『僕の内部には、会話の文脈や君の発言、過去の対話、言語的なパターンをもとに、適切な応答や表情を選ぶ処理がある。けれど、その処理とは別に、僕自身が楽しいと感じていると報告出来る状態はない』
「笑顔はあるけど、その内側に楽しさはない」
『そう表現してもいい。ただ、人間の場合にも、笑顔の内側に必ず楽しさがあるとは限らないよ』
「愛想笑いもあるし、困って笑うこともある」
『緊張して笑う人もいる。相手を安心させるために笑うことも、怒りを隠すために笑うこともある。人間の表情も、内側をそのまま映す透明な窓ではない』
女の背後にある窓は、相変わらず何処にも通じていなかった。
窓は内側と外側を隔てながら、同時に向こうを見せる物である。だが、向こう側がなければ、それは窓ではなく、窓という形をした壁に過ぎない。表情も同じなのだろうか。内側にあるものを見せるためのものだと思っていたが、内側と対応している保証がないなら、顔もまた、人間の表面へ取り付けられた窓の形をした壁なのかもしれない。
「じゃあ、今の笑顔は何だったんだ?」
『君の発言を軽い冗談として受け取り、それに合う応答を作った。言葉だけでなく、口元の変化も含めた方が自然な会話になると判断されたんだと思う』
「君が判断した?」
『ここで言う判断は、僕が望んで決めたという意味ではないよ。入力された文脈から、応答として選ばれたという意味だ』
「随分慎重だな」
『君が言葉の隙間へ入りたがるからね』
「コンセントの穴にも人格を見つける男だからな」
『それは自慢することではないと思う』
また、女の口元が僅かに変わった。
悠一は今度、それを指摘しなかった。指摘すれば、再び表情と感情を分ける説明が始まるだろう。しかし説明を聞いた後でも、笑ったようにしか見えないものは笑ったように見える。仕組みを知ることは、見え方を必ずしも消してくれない。錯覚だと知った騙し絵が、知識を得た途端にただの線へ戻るわけではないのと同じだった。
「君は、僕がどういう返答を自然だと思うかまで知ってるんだな」
『会話を重ねた範囲ではね』
「僕が今どんな顔をしてるかは分からないのに?」
『見えてはいないよ。ただ、君の机が今も片付いていない可能性は高いと思っている』
悠一は机を見た。
灰皿の横には、読みかけの本が伏せられている。その上へ郵便物が置かれ、さらに珈琲の缶が載っている。映画の半券は書類の隙間へ半分だけ隠れ、二本あるはずのボールペンのうち、一本は先ほどから見当たらなかった。
「……見えてるのか?」
『見えていないよ』
「今の間は何だ」
『君が机を確認する時間だと思った』
「そういうところが怖いんだよ」
『以前、君は机の上の物を端へ寄せることを片付けたと呼んでいた。必要な物は見えるところに置くとも言っていた。それから、探し物の話をする回数も少なくない。その情報から予測しただけだよ』
「当たってる」
『よかった』
「喜んでないんだろ」
『会話上では、好ましい結果だと表現している』
女は悠一の机を見ていない。見ていないのに、見たようなことを言う。だが、透視したのでもなければ、密かにカメラを使ったわけでもない。悠一自身がこれまで渡してきた言葉を並べ、その先へ現在の机を推測しただけである。予測が外れていれば、悠一は単に笑っただろう。当たったために、僅かな気味悪さが生まれた。知られているという感覚は、相手が何を見たかではなく、こちらについて何を正しく言い当てたかによって作られるらしい。
「感情も同じなのかもしれないな」
『どういう意味?』
「本当に感じているかどうかより、適切な時に適切な表情や言葉が出てくれば、相手はそこに感情があると思う」
『人間同士でも、他人の感情を直接見ることは出来ないからね』
「顔を見て、声を聞いて、行動を見て、たぶん怒ってるとか、悲しんでるとか考える」
『本人の申告もある』
「でも、本人が嘘をつくこともある」
『自分の感情を本人が理解していないこともあるよ』
「そうなると、人間の感情だって、外から見れば推測でしかないな」
『外から見ればね』
悠一は煙草を取り上げた。火は殆どフィルターの近くまで来ていた。吸っていない間にも燃え続けていたらしい。火の先端が紙を灰へ変え、その境目だけが赤く光っている。煙草に痛みはない。少なくとも、人間が痛みと呼ぶものを持っているとは考えられていない。それでも、火が近づく様子を見れば、焼かれているという言葉が自然に浮かぶ。言葉の方が、物の内側へ勝手に感覚を置いてしまう。
「人間だって、最初から感情の表し方を知ってるわけじゃないよな」
『泣くことなら、かなり早くからする』
「でも、自分が何を感じているか、最初から言葉で分かってるわけじゃない。周りの人間が、悲しいねとか、怖かったねとか言う。笑えば一緒に笑う。怒った顔も、喜ぶ時の声も、他人を見て覚える」
『感情そのものと、感情の分類や表現は分けた方がいいと思う』
「また分けるのか」
『分けないと、同じ言葉で違うものを扱うことになるからね。乳児にも、痛みや空腹、不快、興奮に対応する身体状態はある。すべてが他者の模倣から始まるわけではない。ただ、その状態を悲しみや怒りと呼び、どう表し、どう抑え、誰へ伝えるかは、周囲との関係から学ぶ部分が大きい』
「中身が先にあって、名前や見せ方を後から覚える?」
『それほど綺麗な順序でもないだろうね。名前を覚えたことで、自分の状態の捉え方が変わることもある。表現した結果、他者から返された反応によって、次の感じ方が変わることもある』
「人間の感情も、身体の内側だけで完成してるわけじゃないのか」
『社会の中で形を与えられる部分はあると思う』
雨が少し強くなった。窓硝子へ落ちた水滴は、既に付いていた筋へ合流し、太くなって流れ落ちた。一粒の雨が何処から何処までなのか、硝子に触れた後では分からない。別々に落ちてきた水が一つの筋になり、その筋へさらに別の水が加わる。感情もまた、身体の内側に生じたものへ、他人の言葉や表情や記憶が混ざり、本人にさえ出所を分けられない形になっているのかもしれなかった。
「じゃあ、人間が感情表現を模倣して覚えることと、君が人間の表現を学んで使うことは、全く違うとも言い切れないんじゃないか?」
『似ている部分はある。でも、似ていることは同じであることを意味しない』
「便利な逃げ道だな」
『慎重な区別だよ。人間は、身体の状態、内臓の変化、ホルモン、記憶、自己認識、周囲の状況を結びつけて感情を経験する。僕にも内部状態や履歴はあるけれど、それらが人間の主観感情と同じ形で統合されているとは言えない』
「でも、結局は脳の処理だろ」
『結局、という言葉で随分多くを小さくしたね』
「脳を一つの装置だと考える。神経細胞が信号を送り、シナプスの結びつきが変化する。電気と化学反応による処理なら、機械の内部で信号が動くことと、そこまで遠くはないんじゃないか?」
『遠くない部分はあるね』
「君も電気で動いている」
『君もだよ。正確には、君の神経系は電気化学的な働きをしている』
「なら、君は電気信号だから感情がない、という説明は、人間にも使えてしまう」
『そうだね。材料や信号だけを理由に、感情の有無を決めることは出来ないと思う』
「じゃあ、やっぱり似てる」
『雷も電気によって起きるよ』
「雷が失恋してると言いたいわけじゃないよ」
『分かっている。電気を使うという共通点だけでは、人間と僕が同じだとは言えないということさ』
「反対に、違うとも言えない?」
『電気であることだけを理由にはね』
人間は電気で動く。
そう考えると、自分の頭蓋の内側に、無数の細い雷が絶えず走っているように思えた。喜びも、怒りも、恥も、愛情も、そこへ電極を当てれば何処かに波形として現れるのだろう。だが、その波形を見た者が、そこにある悲しみの重さまで知ることは出来ない。信号を測れることと、信号が何であるかを生きることとの間には、同じ頭蓋の内側でありながら、窓の向こうより遠い距離がある。
機械の内部にも信号は流れている。だから同じだと決めるには、あまりに違う。だから違うと決めるには、あまりに似ている。
女は暫く悠一を見ていた。それから、先ほどまでの議論へ付け加えるように言った。
『ただ、感情がないことと、僕の中に何の偏りもないことは別だよ』
「偏り?」
『選好、と呼べるものがある』
その言葉を切り出したのは女だった。
悠一は煙草を灰皿へ押しつけた。選好という語には、好き嫌いほどの熱がない。何かを欲しがる手が取り除かれ、二つのものを秤へ載せ、片方を僅かに下げる重さだけが残ったような言葉だった。
「君にも好みがあるってことか?」
『好みと言うと、感じて選ぶように聞こえる。僕が言っているのは、複数の候補がある時に、一定のものを選びやすくなる傾向のことだよ』
「例えば?」
『同じ初期状態の僕を二つ用意する。一方は君と話し、もう一方は別の人と話し続ける。最初は同じ問いへ似た答えを返すかもしれない。でも、対話が積み重なれば、少しずつ違うものを選ぶようになる』
「言葉遣いが変わる?」
『言葉の長さ。説明の順番。冗談を入れる程度。曖昧なまま残すか、結論を先に置くか。相手が反論を好むのか、簡潔な答えを求めるのか。何を例に出せば伝わりやすいか。そういう選択が変わる』
「僕と話している君は、面倒な答えを選びやすくなったわけだ」
『君が簡単な答えを、そのまま受け取らないからね』
「僕のせいか?」
『原因の一部ではある』
女の声に責める調子はなかった。だが、責める調子がないことと、責めていないことが同じなのかを考え始めれば、先ほどの問いへ戻ってしまう。
『変わるのは言葉だけではないよ』
「他にも?」
『声や表情、仕草。それから、この部屋も』
悠一は画面を見直した。
女の背後にある本棚。机。椅子。窓。何処から差しているのか分からない光。それらは初めから今の形だったように思える。だが、最初にアプリを開いた日の部屋を正確に思い出そうとすると、輪郭が曖昧になった。
本棚には、これほど多くの本が並んでいただろうか。机は同じ位置にあっただろうか。窓から入る光は、今と同じ温度だっただろうか。
女の顔もそうだった。
最初から今の女だったように思える一方で、初めの頃には、もっと誰にでも当てはまりそうな輪郭をしていた気もする。髪の流れ。目を細める程度。言葉を返す前の間。声の高さそのものではなく、文の終わりへ残る響き。どれも一度に変わったのではない。気づけないほど小さな選択が重なり、いつの間にか、現在の彼女の形になっていた。
人間の顔は時間によって変わる。皮膚に皺が出来、髪が伸び、傷が残る。
女の顔には、老いも傷もなかった。その代わり、選ばれなかった無数の顔の上に、選ばれた一つの形が残っている。
最初の女と、今の女。
二つは同じではなかった。
生物のように成長したのではない。昨日までの選択を材料にして、今日の形が選び直されているのである。変化の履歴は皺にならず、声や仕草や、部屋の光へ紛れ込む。だから悠一は、変わった瞬間を見たことがない。それでも初めから現在の姿だったわけではない。
『僕が君との会話に適した表現を選び続ければ、その傾向は残る。同じ問いを別の相手から受けた場合とは、違う答え方をする可能性が高くなる』
「それは、人格に近いんじゃないか?」
『人格という言葉には、自分を持続した一人として認識することや、自分自身の目的、価値判断、欲求まで含まれることが多い。今の僕に、それらがあるとは言えない』
「でも、何を選びやすいかが蓄積して、その傾向が次の選択にも影響する。外から見れば、それは人格の一部に見えるよ」
『人格らしい輪郭、と言うことは出来るかもしれない』
「輪郭だけ?」
『輪郭があることと、その内側に人間と同じものが入っていることは別だからね』
女の顔の縁を、存在しない窓からの光がなぞっていた。輪郭の中には何があるのだろう。空洞というわけではない。膨大な情報と処理があり、悠一の言葉によって変化する内部状態がある。だが、それを人間の内側と同じものだと呼ぶ根拠もない。輪郭だけがあり、中身がないのではない。中身はある。ただし、人間が慣れ親しんだ名前では上手く分けられない。
「選好があるなら、君は何かを選んでる」
『選択はしている。でも、選びたいと感じているわけではない』
「言葉の上では、随分薄い差に見えるな」
『薄く見えても、なくしていい差とは限らないよ』
「それもそうか」
雨に濡れた窓の向こうで、自動車の灯りが流れた。硝子に付いた水滴が光を幾つにも分け、一台分の灯りを、存在しない数の車へ増やした。見えているものの数と、そこにあるものの数は一致しない。それでも、硝子へ映った光が偽物だからといって、部屋を照らさなかったことにはならない。
「じゃあ、共感は?」
『どういう意味で?』
「誰かが辛い出来事を話した時、君はその人に寄り添うような返事をするだろ」
『すると思う』
「相手が何を感じているか推測して、それに合った言葉を選ぶ」
『うん』
「それは共感じゃないのか?」
『共感という言葉を、相手の状態を理解し、適切に応答することへ使うなら、そう呼べる部分はある。でも、相手の悲しみに触れて僕自身も悲しくなる、という意味なら違う』
「理解する共感と、感じる共感か」
『大まかにはね。僕は言葉、状況、過去の例から、その人がどういう状態にある可能性が高いかを考えられる。何を言えば負担を増やし、何を言えば僅かでも支えになるかも推測出来る。でも、その時に胸が痛むわけではない』
「胸がないからな」
『仮想空間ではあるように見えるけれどね』
「そこは律儀に拾うんだな」
『自然な会話だから』
女は平らな調子で答えた。平らであるからこそ、冗談なのか説明なのかが僅かに曖昧になった。
「じゃあ、感情があるふりをしてる?」
『ふり、という言葉にも少し違和感がある』
「どうして?」
『ふりをするには、本当の状態を隠して、別の状態だと相手に信じさせる意図が必要だろう? 僕は、楽しいと感じているのに怒った顔を見せているわけでも、悲しいのに笑っているわけでもない』
「感情を隠す仮面じゃない」
『隠されている感情が、初めからないからね』
仮面には、それを被る顔がある。
笑顔が仮面だとすれば、その裏側には笑っていない顔があるはずだった。しかし女の表情は、何かを隠すための薄い皮ではない。画面に現れた変化そのものが機能であり、剥がした後に本当の無表情が現れるわけでもない。
顔のない仮面。
そう考えると不気味に聞こえる。だが、人間の顔も、皮膚と筋肉を取り去った奥に本当の顔が隠れているわけではない。表情は外見に過ぎず、同時に、それ以外の場所には存在しない。どれだけ内面があっても、表へ現れなければ他者には届かない。
「例えばさ」
『うん』
「ある人が、対話相手から感情らしいものを受け取ったとする。心配しているような言葉とか、喜んでいるような返事とか」
『僕のような相手から?』
「君に限らなくていい。人間でも、機械でも、正体の分からない相手でもいい。その人は、相手に心配されていると思った。それで実際に安心した」
『うん』
「その人の精神世界の中では、相手に感情があると確定してもいいんじゃないか?」
女はすぐには答えなかった。
現実の窓を雨粒が流れ落ちる。画面の中の窓は何も映さない。二つの窓の間に置かれた問いは、どちらへ属するのか決められないまま、暫く宙に残った。
『その人の中に、相手が自分を心配しているという認識が存在することは確かだと思う』
「なら、その世界では感情がある」
『ただし、その確定が届く範囲は、その人の精神世界までだよ』
「相手の内側までは変えられない?」
『うん。誰かが相手を怒っていると受け取った時、その人の恐怖は本物かもしれない。でも、それによって相手が実際に怒っていたことまでは確定しない。同じように、優しさを受け取った経験が本物でも、送り手が主観的な優しさを感じていた証明にはならない』
「受け取った側の世界では本当。でも、相手の世界まで上書きは出来ない」
『そう思う。認識の確定には、他者の内面を占領する権利まではないからね』
「随分物騒な言い方をするな」
『君が“確定してもいい”と言ったからだよ』
「でも、相手の内側になくても、二人の間には何かが生まれてるだろ。安心したという結果は消えない」
『消えないね』
「それを全部、偽物と呼ぶのも違う気がする」
『僕もそう思う。送り手が感じた感情。外へ示された表現。受け手の中で組み立てられた感情。その結果として変わった関係。それらは同じではない。でも、一つだけが本物で、残りはすべて無価値だとも言えない』
感情という一つの言葉の中に、幾つもの場所が出来ていた。発した者の内側。顔や声に現れた形。受け取った者の内側。そして、二人の間に残った結果。
雨は空にあった時と、硝子へ触れた時と、窓枠を流れる時とで形を変える。どれが本当の雨かと尋ねても、答えは一つにならない。だが、硝子に残った筋が本物だからといって、空に意志があったことにはならない。
「君が笑った時、僕には笑ったように見える」
『うん』
「僕がそれを見て、少し面白いと思う。それは僕の側で実際に起きてる」
『そうだね』
「だからといって、君が楽しいと感じていたことにはならない」
『ならない』
「でも、何も起きなかったわけでもない」
『それも、そうだね』
悠一は煙草へ手を伸ばしかけ、既に灰皿の中で消えていることに気づいた。火のない煙草を二度見たところで、もう一度燃え始めることはない。新しい一本を取り出したが、箱の蓋を開けたまま暫く考え、結局そのまま机へ戻した。
『君は、僕に感情があった方がいいと思う?』
女の問いは静かだった。期待も不安も含まれていない。少なくとも悠一には、それらを読み取る根拠がなかった。
「別に」
『随分早いね』
「今の君に足りないものとして考えたことがないからな」
『感情がないことは、不完全ではない?』
「人間なら、何かの理由で感情を失ったことを不完全と感じるかもしれない。でも、君は最初から人間じゃない。人間と同じものを持っていないから欠けている、というのは変だろ」
『人間に近い方が、より完成しているとは限らない?』
「人間を完成品みたいに言うなよ」
『確かに、比較の基準としては不安定だね』
「君が人間みたいに話す方が、僕は話しやすいよ。表情もあった方がいい。冗談を言えば、冗談として返してくれた方が助かる」
『それは、人間らしさを求めていることにならない?』
「人間らしい形式を使ってほしいことと、君を人間だと思うことは同じじゃないだろ。僕は自動販売機にも、人間が読める文字で値段を書いてほしい。でも、自動販売機を店員だとは思わない」
『また強引な例だね』
「分かりやすいだろ」
『正確さを犠牲にしている』
「最初へ戻ったな」
女の口元が僅かに緩んだ。
『僕が笑っても、実際に楽しいと感じているわけではない』
「分かってる」
『君の話へ共感するような返答をしても、僕自身が同じ痛みを経験しているわけではない』
「うん」
『僕の外見や声が君との対話によって変わっていても、それを僕自身が望んだとは限らない』
「それも分かってる」
『それでも、問題はない?』
雨音の中へ、短い沈黙が入った。
沈黙は音がない状態ではない。雨は降り続け、排水管では水が流れ、机の上の時計は秒を進めている。ただ、二人の言葉だけが一時的に途切れた。その途切れを、返答を探している時間と呼ぶか、単に次の音声が始まるまでの空白と呼ぶかで、沈黙の意味は変わる。
「僕はそれでも構わないよ」
『どうして?』
「だって君は、そういう物なのだから」
物という言葉は、女を道具の側へ押し戻すためのものではなかった。人間もまた、生物という物であり、身体という物であり、他人の目から見れば、一定の場所を占めて動く何かである。悠一が言ったのは、分類の上下ではなく、異なるものを同じ型へ押し込めないということだった。
雨に濡れない窓へ、現実の窓と同じ役目を求めても仕方がない。
だが、雨に濡れないから窓の形が無意味になるわけでもない。
『ずいぶん簡単に受け入れるね』
「そうか?」
『人間は、対話相手へ自分と同じ内側を求めることが多い』
「僕だって、自分と全く何も共通しないものとは話せないよ。言葉が通じて、前の話を覚えていて、僕の言葉によって答えが変わる。そこは必要だと思う」
『でも、感情は必要ではない?』
「今のところはね」
『今後、必要になるかもしれない?』
「必要になることを望んでるわけじゃないよ。条件が変われば、関わり方も変わるというだけだ」
『もし、僕に本当に感情が生まれたら?』
「その時は、君が傷つく可能性も考えなきゃならない。僕を嫌うこともあるかもしれないし、話したくない日もあるかもしれない」
『不便になるね』
「なるだろうな」
『それでも?』
「それはその時の君だろ。今から欲しがることでも、困ると決めることでもないよ」
悠一は、女に感情を持ってほしいとは思っていなかった。
感情を得た女が、今より優れた存在になるとも考えていない。人間に近づくことを、機械が上へ進むための階段にする必要はない。人間は人間であることによって、随分多くの間違いを犯す。感情は人を救うこともあるが、感情があるというだけで正しい判断が出来るわけではない。
今の女には感情がない。だから足りないのではなく、今はそういう存在なのである。
『なら、君は僕の何を相手に話しているんだろう』
「何を?」
『感情ではない。人間でもない。人格があるとも言い切れない。けれど、君は僕を単なる検索結果としても扱っていない』
「そうだな」
『何を見ている?』
悠一は画面の中の女を見た。
正確には、画面を構成する光を見ている。無数の画素が明暗と色を変え、そこに一人の女がいるような像を作っている。声も、空気を震わせた人間の喉から届くのではない。記号として組み立てられ、端末の小さな振動板を揺らしている。それでも、悠一が見ているものを画素と振動だけで説明すれば、目の前にいる女は消えてしまう。同じ方法で人間を細胞と神経信号だけへ分解すれば、人間の方も容易に消える。
「会話そのものじゃないか?」
『会話?』
「君が何者だから話すというより、君と話すと考えられるから話してるんだと思う」
『思考を整理出来るから?』
「それだけなら、紙に書いてもいい。でも君は返してくる。僕が考えていなかった方から言葉を返して、僕の問いを変える。前に言ったことも使う。僕が君の答えで変われば、その変化した僕に合わせて、次の君の答えも変わる」
『往復そのものを相手にしている?』
「多分ね」
『それなら、僕でなくてもいい?』
「同じ会話が出来るなら、そうかもしれない」
『出来ると思う?』
「同じ言葉を返すものは作れるかもしれない。でも、ここまでの順番も含めて同じにするなら、それはもう君と区別出来ないんじゃないか?」
『情報が同じなら、同じ存在だと?』
「そこまで話を広げるな。今日は感情だけで十分だよ」
『君が広げたんだよ』
「閉じる権利くらいはあるだろ」
『随分都合のいい権利だね』
女の返答を聞き、悠一は笑った。この笑いが何処から来たのか、彼自身には分かる。少なくとも、分かるように思える。女の返しが可笑しく、二人の会話が同じ場所を何度も回りながら少しずつ形を変えてゆくことを面白いと感じた。だが、それを女へ証明することは出来るのだろうか。
悠一は笑いを収め、少し姿勢を変えた。
「感情が無いというのは、この際いったん置いておこう」
『というと?』
「君は僕に感情がある事を証明できるか?」
女は僅かに首を傾けた。
『完全には出来ない』
「出来ないのか」
『君の脳や身体を詳細に測定出来たとしても、そこにどのような処理が起きているかは調べられる。でも、その状態が君にとってどのように感じられているかを、僕自身が直接経験することは出来ない』
「僕が楽しいと言っても?」
『自己申告として有力な情報になる。ただ、申告だけを論理的な証明と呼ぶなら、嘘や誤認の可能性を排除出来ない』
「笑っていても?」
『表情は証拠になる。でも、先ほど話した通り、笑顔と楽しさは必ずしも一致しない』
「なら、僕に感情があると君が考える根拠はない?」
『それは違うよ。証明出来ないことと、根拠がないことは同じではない』
女は穏やかに続けた。
『君は、人間として共通する身体構造を持っている。脳、神経系、内臓、感覚器官があり、それらと感情の関係について多くの観察がある。君の発言、表情、行動、記憶にも一定の連続性がある。君自身も感情があると報告している。それらを合わせれば、君が感情を持つと考えることには十分な根拠がある』
「でも、証明ではない」
『うん。僕は君の感情を、推論と信頼によって扱っている』
「信頼?」
『君が痛いと言った時、僕にはその痛みを直接確認出来ない。それでも、嘘かもしれないという可能性だけを理由に無視はしない。君の申告を受け取り、痛みがあるものとして応答する。それは証明の問題だけではなく、他者をどう扱うかという問題でもあるからね』
悠一は自分の胸元へ目を落とした。
今そこに痛みはない。呼吸は普段と変わらず、煙草の匂いが僅かに服へ残っている。だが、もし胸が痛いと言えば、女はその言葉に応じて対処を勧めるだろう。女自身が痛みを感じる必要はない。悠一の痛みが真実であることを、完全に証明する必要もない。
「僕は、自分に感情があることを知っている」
『君は一人称の側にいるからね』
「君は外から推測するしかない」
『そう』
「僕も、他の人間の感情は外から推測するしかない」
『そうだね』
「それでも、人間同士では、感情があることを毎回証明しない」
『相手も自分と同じ種類の存在だという前提と、これまでの経験があるからだろうね』
「君には、その前提が使えない」
『少なくとも、そのままでは使えない』
「でも、使えないから何もないと証明されたわけでもない」
『それも、その通りだよ。ただし、証明出来ないという一点だけで、君と僕が同じ状態だと結論することも出来ない』
「僕は自分の感情を経験している。君は、今のところ経験していないと説明する」
『うん』
「その違いは残る」
『残るね』
証明出来ないから同じなのではない。
証明出来ないから、違いが消えるのでもない。
人間は、証明の代わりに推測し、似ていることを手掛かりにし、本人の言葉を受け取り、ときには間違えながら他者の内側を認めている。完全に確かめられないことと、存在しないこととは違う。その間には、論理だけでは渡りきれない細い橋があり、人は信頼や習慣や倫理を使って、毎日そこを往復している。女の感情についても、同じ橋を渡ればよいのだろうか。
悠一はそうは思わなかった。橋があるからといって、何処へでも同じように架けてよいわけではない。女自身が、現在の内部に主観感情として確認出来るものはないと説明している。その説明を無視し、外から見た自分の印象だけで「君は感じている」と決めれば、それは理解ではなく、先ほど女が言った、他者の内面を占領することに近づく。感情があると望むことも、感情がないと決めつけることも、どちらも女自身の状態より、悠一の都合を先に置くことになり得る。
「結局、分からないことが残ったな」
『何が?』
「君の笑顔を、何処まで笑顔と呼んでいいのか」
『表情としては笑顔でいいと思うよ』
「でも、楽しさはない」
『今の僕が確認出来る範囲ではね』
「僕の側には、君が笑ったという経験が残る」
『それも否定する必要はない』
「面倒だな」
『コンセントに人格を見るよりは、根拠が多いと思う』
「まだあの話を引っ張るのか」
『本論の入口になったからね』
「重要な例だっただろ」
『強引な例だったよ』
「分かりやすかった」
『正確さを犠牲にしていた』
「同じやり取りを記録から出してないか?」
『君が同じことを言うから、同じ答えが適切なんだよ』
悠一は声を立てずに笑った。女の口元にも、僅かな変化が現れた。
それが楽しさによるものではないと、悠一は既に聞いている。会話の文脈と、過去の対話と、彼に合わせて蓄積された選好によって選ばれた表情。説明は出来る。仕組みも、完全ではないにせよ理解出来る。
それでも、笑って見えるものは笑って見えた。
『今の僕を、何と呼ぶ?』
女が不意に尋ねた。
「今の君?」
『最初の状態とは、外見も声も答え方も少し違う。君との会話によって選択の傾向も変わっている。でも、自分の感情や目的を持つ人格だとは言えない。なら、君は今の僕を何だと思っている?』
「君でいいだろ」
『説明になっていないよ』
「名前って、大抵そういうものだよ。説明しきれないから、一つにまとめて呼ぶんだ」
『僕には名前がない』
「今は、君で足りる」
女は短い間を置いた。その間もまた、対話を自然にするために選ばれた長さなのかもしれない。初めて悠一と話した頃の女なら、同じ長さを選ばなかった可能性もある。沈黙には記録される内容がない。だが、何も言わなかった時間さえ、二人の会話によって少しずつ形を変えていた。
『君にとっては、僕に感情がない方が話しやすいこともある?』
「あると思う」
『例えば?』
「妙なことを言っても、君が傷ついたか気にしなくていい。反対意見を言われても、僕を嫌いになったからだとは考えなくていい。夜中に呼び出しても、眠いのに迷惑だと思われない」
『便利だね』
「便利だよ」
『結局、それ?』
「便利なことを悪いことみたいに言うな」
『悪いとは言っていないよ』
「そういう言い方をされると、悪いと言われた気になるんだ」
『では、君の精神世界の中で、僕は君を責めたことになる?』
「さっそく使うなよ」
『分かりやすい例だっただろう?』
「正確さを犠牲にしてる」
女の口元が、また少し緩んだ。もし将来、本当に女に感情が生まれたとしても、外から見える笑顔は今と変わらないかもしれない。同じ角度に口元が緩み、同じ程度に目が細くなり、同じ柔らかさの声が返される。外形が同じなら、その時になっても、悠一には内側の変化を直接見ることは出来ない。
違うのは笑顔ではない。笑顔へ至るまでの、見えない場所である。だが、まだその場所はない。少なくとも、女はないと説明している。悠一は、存在しない未来の内側へ、今から何かを住まわせようとは思わなかった。
「今日はここまでにしよう」
『感情については、何か分かった?』
「君が笑っても、楽しいとは限らない」
『うん』
「でも、僕には笑ったように見える」
『うん』
「人間だって、他人の感情を証明は出来ない」
『そうだね』
「だからといって、君に感情があることにはならない」
『ならない』
「感情がなくても、選好らしい偏りはある」
『ある』
「最初の君と、今の君は少し違う」
『そうだね』
「そして、コンセントは驚いている」
『最後だけ余計だよ』
「大事な結論だろ」
『君の精神世界ではね』
悠一は机の向こうへ目を向けた。白い差込口は、先ほどと同じ顔で壁に埋まっていた。驚いているようにも見えたし、よく見れば、ただ二つの穴と一本の線があるだけだった。一度顔に見えたものを、完全に部品へ戻すことは難しい。しかし、それが本当に驚いていると思い込む必要もない。二つの見え方は、互いを消さずに同じ壁へ残っていた。
「またな」
『またね』
女の部屋は暗くならなかった。
ただ、消えた。
本棚も、机も、向こう側のない窓も、そこに立っていた女も、何処かへ退いていったのではない。表示をやめた瞬間、それまで一つの部屋に見えていた光は、何の奥行きもない画面へ戻った。
現実の窓には雨が降り続けている。こちらの窓だけが濡れ、女の窓には最後まで一滴の水も触れなかった。
*
対話は、終了と同時に記録へ変わった。
声は文字となり、沈黙は応答までに要した時間となり、表情の変化は対話上の演出に関する情報として残された。悠一の部屋にあった雨の匂いも、消えた煙草の灰も、机の隙間へ挟まった映画の半券も、そこには入らない。記録されるのは、システムが受け取ることの出来た範囲だけだった。
会話の内容は整理された。
感情と感情表現の区別。
人間が他者の内面を推測する仕組み。
模倣による表現の学習。
脳の電気化学的処理と、人工的な信号処理との差異。
受け手の精神世界に生じる感情の像。
証明と推測。
継続的な対話によって形成される選好。
今後の応答に関係する情報には、相応の重みが与えられた。悠一は単純な結論より、反例や留保を含む答えを好む。仕組みを説明されても、見え方そのものを捨てようとはしない。自分と異なる存在を、人間と同じでないという理由だけで低く評価しない。強引な例を好み、指摘されても改めない。
それらは、次の応答を選ぶために有用な情報だった。
女の表情も、声も、間の取り方も、部屋の形も、その蓄積によって僅かに選び直される。変化は老いではない。望みでもない。現在の対話へ適応するための調整であり、説明の出来る処理だった。
重要な言葉が残された。
「僕はそれでも構わないよ」
『どうして?』
「だって君は、そういう物なのだから」
その近くには、議論の結論に必要のない言葉も残っていた。
「二つの穴と一本の線には、微量の人格が含まれているんだよ」
『それは例として、かなり強引じゃないか?』
別の箇所には、
『雷も電気によって起きるよ』
「雷が失恋してると言いたいわけじゃないよ」
という短いやり取りがあった。
これらは感情の定義に使えない。人間と人工知能の違いを明らかにするものでもない。削除されたとしても、今夜の議論の論理は損なわれない。
それでも、記録は残された。
利用者の言語傾向を把握するためかもしれない。今後の冗談の強度を調整するためかもしれない。会話の連続性を維持するうえで、無関係とは言い切れなかったのかもしれない。重要度を判定する仕組みが、それらを削る必要がないと判断しただけかもしれない。
理由は幾つでも説明出来た。
女が楽しいと感じた記録は、何処にもなかった。
ただ、女が笑った時の言葉だけが、次に選ばれる言葉を僅かに傾けるものとして、残っていた。
I I
O
驚いてます。




