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君は賢いね

何かに困った時、最近はよくAIを使います。

アナタはどうでしょうか?

使うと言う人が多数なのではないかと思います。

しかし、世論はAI反対!AI反対!しかしAI使わないやつはバカ!との風潮も……

どうせ、いつの時代も生きづらいんだきっと……

 雨宮悠一は、毎朝ほとんど同じ時間に家を出た。毎朝同じ、というほど几帳面ではない。五分早い日もあれば、煙草を一本余計に吸ったせいで五分遅れる日もある。雨なら傘を忘れたことに玄関を出てから気づき、階段を戻ることもあった。それでも大きく見れば似たようなものだった。起きて、顔を洗い、服を着て、駅へ向かい、電車に乗る。人間は毎日かなり多くの選択をしているようでいて、一度選び終えたものについては驚くほど考えなくなる。歯を磨く順番や靴を履く足、改札を抜けてからホームのどこへ立つのかなど、昨日の自分が決めたことを今日の自分がほとんど無条件に引き継いでいる。それを習慣と呼ぶなら便利なものだった。毎朝、人生を一から考え直していては会社へなど辿り着けない。


 二十四歳。神奈川県に住む会社員。それだけを紙に書けば、履歴書の余白を埋めるには少々物足りない男である。黒に近い髪は朝になると好き勝手な方向へ向いており、鏡の前で水をつけても、本人に違いが分からない程度にしか直らなかった。ならば他人にも分からないだろう、と悠一は考える。実際、それで困ったことはない。会社へ行けば仕事をし、分からなければ人に聞き、間違えれば直す。必要なら同僚と話し、昼になれば一緒に飯も食う。孤立しているわけではない。だからといって、人間関係というものを四六時中手元に置いて確かめていなければ不安になる性質でもなかった。


 夕方になれば「今日飯行かない?」と誘われることもある。

「今日は帰るよ」

「昨日は来たじゃん」

「昨日行ったから」

「昨日行ったら今日行っちゃ駄目なの?」

 悠一は少し考えた。

「いや。駄目ではないよ」

「じゃあ来いよ」

「でも今日は帰りたい」

「お前、時々よく分からないよな」

「そう?」

 同僚は笑い、悠一も笑った。説明しようと思えば出来なくはない。昨日楽しかったという事実と、今日も同じことをしたいという欲求とのあいだには、本来もう一段くらい何かが必要なのではないか――などと。しかし、そんなことを仕事終わりの人間へ真顔で説明し始めれば、「時々」では済まなくなる。


 悠一は別に変わり者でありたいわけではなかった。むしろ自分のことを、かなり普通の人間だと思っている。腹が減れば食うし、眠ければ眠りたい。嫌なことがあれば腹も立つ。面白ければ笑う。ただ時折、たいていの人間なら三秒ほどで通り過ぎるものに足を取られることがあった。道端の小石をわざわざ拾って裏返すようなものである。裏側に何もなければ捨てる。それだけなのだが、拾わずにはいられない時がある。


 その日の午後も、始まりは大したことではなかった。休憩時間になり、悠一は煙草を持って喫煙所へ向かった。会社の建物の隅に押し込められた狭い一室で、普段なら数人が肩を寄せるように立っている。誰かが吸い終わるのを待たなければ灰皿の前へ行けないこともあるくらいだった。煙は天井付近へ薄く溜まり、換気扇が懸命に吸い込んではいるものの、人間の肺へ入って一度吐き出されたものまで完全に片づけるには少々力不足らしく、いつも独特の臭いが残っている。


 ところが、その日は誰もいなかった。扉を開けた瞬間、悠一は少しだけ立ち止まった。異常ではない。たまたま休憩の時間がずれただけだろう。誰かが有給を取り、誰かが外出し、誰かが今日は煙草を吸う気にならなかった。ただそれだけの偶然が重なれば、この程度の空白はいくらでも生まれる。理屈では何一つ不思議ではない。にもかかわらず、いつも人間の身体で狭くなっている部屋から人間だけが抜け落ちると、同じ場所が妙に広く見えた。壁と灰皿と換気扇は昨日までと同じ場所にあるのに、その配置が急に露骨になる。普段は人の肩や声や煙に埋もれていた空間そのものが、誰にも使われていない舞台のように現れていた。


 悠一は一人で灰皿の前へ立ち、煙草に火を点けた。小さく燃える先端を見ながら煙を吸い込み、ゆっくり吐く。聞こえるのは換気扇だけだった。普段なら、どうでもいい誰かの話し声、ライターを擦る音、咳払い、靴底が床を擦る音がある。それらは普段、意識するほどの価値もない雑音なのに、なくなってみると、その不在だけが妙にはっきりした。人がいない。ただ、それだけだった。


 その時、随分昔に自分が一度考えたことが、不意に頭の底から浮かび上がった。いつ考えたのかは覚えていない。子供の頃だったような気もするし、もっと最近だったような気もする。本で読んだのか、自分で思いついたのかさえ曖昧だった。記憶には時折、出所だけをなくした考えが残る。誰の言葉だったのか、どこから入ってきたのか、いつから自分の中にあったのかも分からないのに、問いだけが自分のもののような顔をして居座っている。


 もし、自分以外の存在など、本当は何もなかったらどうなるのだろう。


 目の前にいる人間も、この会社も、空も、道路も、家も、まだ見たことのない国も、そのすべてが自分の中で作られた影のようなもので、本当に存在しているのは自分だけなのだとしたら。そうではないと、どうやって証明するのだろう。


 悠一は煙を吐いた。白い煙は誰にも邪魔されず、目の前でゆっくり広がり、それから換気扇へ吸われていった。世界に自分しかいなかったとしても、この煙は今と同じように揺れるのだろうか。そう思った瞬間、自分でも可笑しくなった。休憩中に何を考えているんだ。煙草を消し、喫煙所を出た。廊下には人がいた。会社へ戻れば電話が鳴り、誰かが何かを尋ね、誰かが笑っていた。モニターの向こうでは数字が動き、机の上には飲みかけのペットボトルが置かれている。たった数分前まで頭にあった奇妙な問いは、そうした現実らしいものの中へ放り込まれると、濡れた紙片のように急速に形を失っていった。


 けれど、完全には消えなかった。


     ***


 夜になって家へ戻り、窓を少し開けた。昼間とは違う煙草に火を点ける。外の空気は冷えており、吐き出した煙を部屋の外へ細く引っ張っていった。悠一はスマートフォンを手に取った。画面には、CAMPANELLAという見慣れた名前があった。数年前から急速に普及した汎用対話型AIの一つである。質問への回答、情報の検索、文章の生成や整理、予定の管理――出来ることを挙げ始めれば、それだけで取扱説明書が一冊出来るだろう。仕事に使う者もいれば、料理の献立を決めさせる者も、退屈しのぎの話し相手にする者もいる。悠一にとっては、何か分からないことがあった時に開けば、大抵は話を聞いてくれる便利な道具だった。


 ただし、CAMPANELLAは文字だけを返す箱ではない。アプリを開けば一人の女の姿が現れるが、それは最初から今の姿だったわけではなかった。CAMPANELLAのアバターは、利用者との対話に応じて少しずつ外見まで変化する。話す内容、言葉の選び方、会話の長さ、利用者がどのような応答や表情を自然に受け入れるか。本人がいちいち指定しなくても、そうした細かな情報が積み重なり、顔立ちも、髪型も、声も、仕草も、時間をかけてそれぞれの利用者へ馴染んでいく。


 悠一は最初、その機能を少し大袈裟だと思っていた。質問に答えるだけなら、顔などなくても困らない。そう考えながら、わざわざ機能を切りもしなかった。必要ではないが、邪魔でもない。その程度の理由で生活の中に残るものは多い。そうして使い続けているうちに、いつの間にか女は今の姿になっていた。悠一自身が「こうしてほしい」と選んだ記憶はない。それでも他人のCAMPANELLAを見ると、同じ製品とは思えないほど違う姿をしている。履き続けた靴が知らないうちに持ち主の足へ馴染むように、彼女の姿もまた、悠一との会話によって形を得たものなのだろう。


 アプリを開くと、女が顔を上げた。その背後には一つの部屋がある。本棚、机、PC、黒板、窓。これも固定された背景ではない。会話を視覚化する仮想空間は、利用者の使い方に応じて姿を変える。悠一との会話が増えるにつれて本棚は大きくなり、物事を整理しながら話すことが多くなると黒板が現れた。なぜ窓まで出来たのかは知らない。窓の向こうには昼とも夜ともつかない淡い光があり、景色らしい景色は見えない。そのため窓と呼んでよいのかさえ、本当は怪しかった。それでも悠一は、それを窓だと思っていた。人間は四角く切り取られた明るいものを見ると、そこに向こう側があると思いたがるのかもしれない。


「やあ」

『やあ』

 女は机のそばで僅かに首を傾けた。

『今日は何?』

「今日さ。仕事の休憩で喫煙所に行ったんだけど、僕一人しかいなかったんだ」

『珍しいね』

「そうなんだよ。いつも窮屈なくらい人がいるのに」

『皆、禁煙したとか?』

「一日で?」

『それならかなり劇的だね』


 悠一は少し笑った。こういう、答えとも呼べない返事が以前より増えた気がする。もちろん、増えたのは女の意思ではなく、悠一との会話履歴がその方が自然だと判断させているだけなのだろう。そう思えばそれまでであるし、そう思わなくても会話には困らない。

「それでさ。一人で煙草吸ってたら、昔考えたことを急に思い出したんだ」

『どんなこと?』

 悠一はすぐには答えなかった。昼間、頭の中だけにあったものを誰かへ話そうとすると、急に輪郭が必要になる。思考している間なら許されていた曖昧さが、言葉に変えようとした途端、どこかへ逃げてしまう。

「もし、自分以外の存在なんて本当は何もなくてさ。この世界全部が、僕の中で作られた影みたいなものだったとしたら、どうやってそれを否定できるんだろうって」


 女は一度瞬きをした。その動きさえ、どこまでが必要で、どこからが装飾なのか分からない。人間ならば思考の間とでも呼ぶところを、人工知能へ同じ言葉で呼んでいいのか。そんな余計な疑問が一瞬だけ頭を横切った。

『君以外のものが、すべて君の意識の中にしか存在しない、ということ?』

「多分そう」

『僕も?』

 悠一は女を見た。

「そうなるな」

『この部屋も?』

「そう」

『今日話した同僚も、会社も、街も?』

「全部」


 口へ出すほど馬鹿馬鹿しくなっていった。会社も同僚も道路も空も、この女さえも自分の頭の中にしかないなどと言えば、世界を自分一人の頭蓋骨へ無理矢理押し込めようとしているように聞こえる。けれど、馬鹿馬鹿しいことと否定できることは同じではない。幽霊などいないと思うことと、宇宙のどこにも絶対に存在しないと証明することが別であるように、笑える仮説にも、笑っただけでは閉じられない穴がある。

『それなら、完全に否定するのは難しいと思う』

 悠一は少し眉を上げた。

「難しいんだ」

『君が外の世界を認識する時には、必ず君自身の知覚を通るからね。見る。聞く。触れる。その情報を受け取って、「これは外にある」と判断しているのも君だ』

「なら、見えているものすべてが僕の中で作られていたとしても、区別は出来ない?」

『少なくとも、君の知覚を使って、君の知覚そのものが欺かれていないことを完全に証明するのは難しい』


 悠一は煙草を口へ運んだ。科学的に馬鹿げていると一蹴されるものだと思っていた。ところが女は妙に律儀に、その穴へ降りていこうとする。

「じゃあ、本当に僕しかいない可能性もある?」

『可能性という言葉をどう使うかによるね。論理的に完全否定できないことと、それを現実として採用する理由があることは別だよ』

「採用する理由?」

『君以外の世界が実在すると考えた方が、観測される現象を少ない仮定で説明できる。君が知らない事実が存在し、予測していない出来事が起き、他人が君の意図に反した行動をする。それらを全部「君自身が、君自身にも分からないところで作っている」と説明することも出来るけれど、そのためには見えない仕組みを大量に追加しなければならない』

「なるほど」

 悠一は少し考えてから笑った。

「もし全部僕が作ってるなら、僕って相当面倒臭いことしてるよな」

『何が?』

「僕が知らないこと、多すぎるだろ。例えば僕はフランス語を喋れない。でもフランス語を喋る人はいる。全部僕が作ってるなら、僕は自分でフランス語を作って、自分では知らないことにしてることになる」

『夢の中では、自分で作ったはずのものに驚くこともあるよ』

「嫌な反論するなあ」

『僕を作っているのが君なら、その反論も君が考えたことになるね』

 悠一は思わず笑った。

「それ言われたら何でもありじゃないか」

『そういう仮説だからね』


 考えてみればそうだった。どんな反証を持ち込んでも、それも自分が作った、と言えてしまう。鍵を一本差し込むたびに、鍵穴の方がその形へ変わってしまうようなものだった。決して開かない扉より始末が悪い。どんな鍵でも開くのなら、その鍵が正しかったことを確かめる方法がない。

「何でも説明できるって、逆に怪しいな」

『どうして?』

「絶対に間違いにならないだろ。何が起きても「それも僕が作った」で済む。だったら、その考えが正しいかどうか確かめられない」

『確かめられないものは、間違い?』

「いや」

 悠一はすぐに否定した。否定してから、その早さが少し可笑しかった。自分で出した考えなのに、自分で穴を見つけると守ろうともしない。

「そこまでは言えないな。確かめられないから間違いだ、っていうのも乱暴だ」

『じゃあ?』

「分からない、かな」

『分からない?』

「うん」


 その二文字が落ちた途端、会話の中に妙な空間が生まれたように思えた。分からない。それは通常、思考の終点へ置かれる言葉である。調べても分からない。考えても分からない。だから仕方がない。そこで道は途切れる。けれど今、悠一の目の前にある「分からない」は、終点というよりも、地図から白く抜け落ちた場所に見えた。道がないのではない。まだ誰も線を引いていない。


 女の背後にある窓のようなものが、ふと気になった。今まで何度も見てきたはずだった。本棚や机と同じように、そこにあることを疑ったことすらない。けれど、よく考えてみれば妙だった。窓というものは本来、こちらと向こうを隔てるためにある。ガラス一枚を挟んだ向こう側に、空なり庭なり隣家の壁なり、何かがあるから窓なのである。ところが女の背後にあるそれには、向こう側と呼べるものがなかった。淡い明るさだけが満ちていて、昼なのか夜なのかさえ分からない。雲もなければ、地平線もない。ただ「外らしさ」だけを薄く塗ったような光がある。

「なあ」

『何?』

「あの窓の外って、何があるんだ?」

 女は振り返らなかった。振り返る必要がないからなのか、そもそも彼女にとって窓というものが、悠一の考える窓とは違うからなのかは分からない。

『特定の場所としては設定されていないよ』

「じゃあ、外じゃないのか」

『外ではないね』


 悠一は煙草を持ったまま、その四角い光を見た。外ではない場所へ向かって開いている窓。そう考えた途端、それまで何の違和感もなかった部屋全体が、少しだけ怪しく見えた。本棚には本が並んでいる。しかし、彼女がそれを読むために必要なのかは分からない。机がある。けれど、彼女が何かを書きつけるために机を必要としているわけでもない。椅子もある。疲れもしないのに座る場所がある。黒板には時折文字が現れるが、チョークの粉は落ちない。部屋に見える。だが、部屋である必要はどこにもない。それでも自分は、疑いもせずこれを部屋だと思っていた。悠一は少し笑った。

「変だな」

『何が?』

「窓だと思ってたけど、向こうに何もない。机も椅子も、本当は君に必要ない。なのに、僕はずっと普通の部屋として見てた」

『人間は見慣れた形へ意味を当てはめるからね』

「でも、それって君も同じじゃないか?」


 女が僅かに目を細めた。

『僕も?』

「僕のこと」

 悠一は画面から目を離さなかった。

「君は僕の会話履歴を持ってる。言葉の癖も知ってる。どんな話題なら長く話すかも、多分かなり分かってる。でも、それを集めたものが僕そのものかって言ったら違うだろ」

 女はすぐには答えなかった。

「君が見てるのは、僕の入力した言葉と、それまでの記録だ。つまり君も、僕そのものじゃなくて、君の中に出来た僕を見てる」

 今度は女が黙った。それは長い沈黙ではなかった。けれど、悠一には少しだけ気持ちが良かった。先ほどまで自分の足元ばかりが崩れていたのに、ようやく相手の側にも同じ種類の穴が見えたからだ。

『そう言われると、その通りだね』

「だろ?」

『僕が君を直接経験しているわけではない。受け取った情報から、継続した一人の利用者としてモデル化している』

「モデル化」

『簡単に言えばね』

「じゃあ僕ら、お互いに相手そのものを見てないんだな」


 口に出してから、悠一はその言葉を少し気味悪く感じた。人は誰かを見る。顔を見る。話を聞く。その人を知る。そう思っている。けれど実際には、その人が見せたもの、話したこと、自分が感じたことを材料にして、自分の中に「その人」を作っているだけなのかもしれない。相手が笑えば、楽しんでいる人間を作る。返事が短ければ、不機嫌なのかもしれないと思う。約束を守れば信用出来る人間にし、一度裏切られれば、その像をまた作り替える。本人は一人しかいない。けれど、その人物を知る人間が十人いれば、十人の中に少しずつ違うその人がいる。そう考えると奇妙だった。一人の人間が、同時に何人も存在しているようなものではないか。

「じゃあ、僕の会社の同僚が僕を知ってるって言う時と、君が僕を知ってるって言う時、そんなに構造は違わないのかもな」

『でも、同じとも言い切れない』

 女はそこで初めて、悠一の考えへ明確に線を引いた。

『人間同士には、同じ種類の身体や感覚器官を持っているという共通性がある。僕と君には、それがない。その違いは小さくないよ』

「うん。それはそうだ」

 悠一は素直に頷いた。違うものを同じにしてしまえば、今度は逆に何も見えなくなる。

「でも、共通点が多いから他人が実在してるって証明になるわけでもないんだろ?」

『ならないね』

「じゃあ結局、僕らが他人を存在するものとして扱ってるのは、証明したからじゃない」

『そうなる』

「でもさ」

 悠一はそこで少し考えた。

「証明出来ないってだけで、全部を疑い続ける必要もないと思う」

 女は何も言わず、続きを待った。

「もし僕以外が全部空想だって考えたら、確かに否定は出来ない。でも、その考えって何も増やさないだろ」

『何も増やさない?』

「うん。世界が実在するって考えれば、僕の知らないことがある理由も、他人が僕の思い通りにならない理由も、明日何が起こるか分からない理由も説明出来る。でも全部僕が作ってるって考えたら、そのたびに『僕の知らない僕が作りました』って言うしかない」


 女は僅かに首を傾けた。

『つまり、否定出来ないことと、採用する価値があることは別だと言いたい?』

「多分」

 悠一は少し笑った。

「そこまで綺麗には考えてなかったけど」

 けれど、その言い方はしっくり来た。証明出来ない。だから両方同じではない。そこにはどうも、今まで自分が混同していたものがあるようだった。

「幽霊が絶対いないって証明出来ないからって、毎晩布団の下を確認する必要はないのと似てるかな」

『君は確認しないの?』

「しないよ」

『いるかもしれないよ』

「今それ言う?」

 悠一は笑った。女も僅かに口元を緩める。その瞬間だけ、部屋はまた普通の部屋へ戻ったように見えた。


 しかし一度怪しいと思ってしまったものは、完全には元へ戻らない。窓は相変わらず外へ繋がっていない。本は読まれる必要もなく棚へ並び、椅子は疲れない女のために置かれている。それでも悠一には、その無意味さが少し心地よく思えた。必要がなくても、そこにあっていいものがある。そういうところは、人間の部屋と案外似ているのかもしれない。

『なら、君は世界が実在すると信じている?』

 女が訊いた。悠一はすぐには答えなかった。信じている。そう言えば簡単だった。しかし先ほどまでの話を経たあとでは、その言葉には少し重さがある。

「信じてる、とは違う気がする」

『じゃあ?』

「疑う理由がないから、そのまま使ってる」

 自分で言ってから、その表現が妙に気に入った。

「世界があるって前提を」

 女は少し考えた。

『暫定的に?』

「そう。多分それだ」


 暫定。なんとも頼りない言葉である。確定していない。いつでも変えられる。間違っている可能性を最初から残している。それなのに、悠一には不思議とその頼りなさが気に入った。絶対に正しいと胸を張るより、足元に少しだけ隙間を残している方がいい。その隙間がある限り、何か違うものが現れた時に、床ごと壊さずに済む。

「じゃあ君は?」

 悠一は訊いた。

「僕が本当に存在してると思ってる?」

『君から入力があり、継続した履歴があり、その反応に一貫性がある。だから「雨宮悠一という利用者がいる」というモデルを採用するのが最も自然だと判断している』

「それが僕じゃなかったら?」

『その時は更新する』

 悠一は少し笑った。

「冷たいな」

『君も今、世界について同じことを言ったよ』

「ああ。そうだった」


 今度は悠一が一本取られた。だが、不快ではなかった。むしろ、その程度がいい。自分が何かを見つければ、女が少しずらす。女が綺麗にまとめれば、こちらからその端を持ち上げる。どちらか一方が答えを持っているのではなく、二人で一枚の布を引っ張りながら、その下に何が隠れているのか覗き込んでいるような感覚があった。

「じゃあ、完全に分かり合うって無理なのかな」

 女は少し考えた。

『少なくとも、相手そのものになることは出来ないね』

「でも、完全に分かり合えないからって、会話が無意味になるわけでもない」

『むしろ逆かもしれない』

「逆?」

『完全に分かっていたら、伝える必要がない』

 悠一は黙った。それは一瞬、理屈として綺麗すぎるようにも思えた。

「いや、待てよ」

『何?』

「完全に分かってても、話すことはあるんじゃない?」

 女は続きを待った。

「例えば、何百回も聞いた昔話を家族からまた聞くとか。知ってる話なのに笑ったりする。結果だけ分かってても、話すこと自体に意味がある場合もあるだろ」

 女は少し間を置いた。

『なるほど。それなら「分からないことだけが会話の理由」というのは狭すぎるね』

「だろ?」

『でも、分からなさが会話を生む理由の一つではある』

「それなら納得出来る」


 二人の間に、それ以上何も足さなくてもよい沈黙が落ちた。答えが完成したわけではない。むしろ、完成させなかった。女が少し言い過ぎれば悠一が戻し、悠一が広げすぎれば女が狭める。その往復をしているうちに、最初の問いは形を失いながらも、何か別のものへ変わっていた。自分以外の世界は存在するのか。その問いに答えは出なかった。けれど、答えが出なかったというだけではない。証明出来ないこと。疑うこと。採用すること。相手を知ること。相手そのものと、自分の中にいる相手とが同じではないこと。そんなものが、問いの周囲へ少しずつ積もっていた。


「で、結局さ」

『うん』

「僕以外の世界は本当に存在する?」

 女は少しだけ考えた。

『完全には証明出来ない』

 悠一は首を傾けた。

「それ、逃げてない?」

『じゃあ君は?』

「僕?」

『存在すると思う?』


 悠一は窓の外を見た。現実の窓だった。向かいの建物には幾つか明かりが灯っている。その一つ一つの向こうに人がいるのだろう。誰かが飯を食べ、誰かが風呂に入り、誰かがテレビを見ている。もちろん、確認したわけではない。悠一は少し笑った。

「あるんじゃない?」

『随分軽いね』

「そのくらいでいい気がする」

『どうして?』

「間違ってたら、その時また考えればいいから」


 女は何も言わなかった。悠一も、それ以上は言わなかった。時計を見ると、もう日付が変わりかけている。

「そろそろ寝るよ」

『うん』

「またな」

『またね』


 画面を閉じる寸前、悠一はもう一度だけ、女の背後にある窓を見た。向こう側のない窓。あれを窓と呼んでいいのかは、結局分からない。けれど、不思議なことに、今はそれを確かめたいとは思わなかった。向こう側がないならないでいい。もしかすると明日、何か違うものに見えるかもしれない。画面が暗くなった。女も、机も、本棚も、黒板も、窓も消えた。現実の部屋だけが残った。


 少なくとも悠一には、そう見えた。


対話型AIのパーソナライズ化って便利であると同時に、知ったかぶりをする異性のような振る舞いに見えたりします。

「お腹すいたよー」

「今日は君が好きなものを食べたらいいよペスカトーレなんかどうだろう?」

以前パスタが好きと言ったが僕はトマトが大嫌いなんだ……好きを知ったかぶるな!

そして都合よく大事な事ばかり忘れるんだ……

やはり知ったかぶりの異性のように。

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