第八話、ヒーローは遅れてやってくる(ただし間に合うとはいってません)
第八話、ヒーローは遅れてやってくる(ただし間に合うとはいってません)
九条は、翌日も、そのまた翌日も学校をさぼり続けた。エロゲーの制作期限までのこり一〇日をきった。それでも九条が部室へ姿をあらわすことはなかった。
ぼくも河野もなにも言わない。
口にすることで、何かが終わってしまう気持ちになるから。
煮詰まった空気が充満する部室内で、黙々とキーボードを叩き続ける。
高校からの帰り道、長く続く下り坂の途中でぼくはLINEを開いた。画面を指でスワイプして九条のアイコンを見つめる。AIRの美鈴ちんが、輝く大空のなか、その大気の下で、こちらに笑顔へ向けている。
そのアイコンを見つめながら、九条へ連絡をとろうか迷い。やきもきしているうちに、自宅へついてしまった。
風呂で軽く汗を流し、父親がつくってくれた手料理に箸をつける。
食べているあいだも、ずっと九条のことを考えていた。料理はミルクのないコーンフレークのように味気なく、いまなら納豆キムチ酢だこパンだって、文句の一ついわず完食できそうだった。
居間のテレビではプロ野球の中継が流れていた。
親父は座布団を枕代わりにして、その中継を眺めている。普段、阪神が負けると露骨に不機嫌な態度になるくせして、今日に限っては中継ぎが炎上しても、代走がけん制で刺されても、黙って尻をかいていた。
換気扇のまわる音が聞こえる。
親父の背中をぼんやり眺めながら、こんな親父にも若いころはあったんだよなと、不思議な気持ちになる。
「親父」
と、ぼくはその背、もとい尻に声をかけた。
「うん?」
「親父はさ、後悔とかってしたことある?」
「……後悔?」
和製英語を耳にしたアメリカ人のような顔で親父はこちらを振り返る。
「ああ、小銭が余っているのに、いつもの習慣で千円札をだしたときとかは──、」
「──そんな程度の低い話はしてねえよ」
食い気味でつっこむ。
「なんだ、お前マジな話か?」
「当たり前だ」
少なくとも、大喜利を頼んだ覚えはない。
「親父にだってあるだろ。昔を振り返ってさ、あのときこうしていればと思うこととか。もしくは、あのときこうしていなければと後悔することとか」
「ああー」
親父は、熱々の湯船につかるように真上を見上げ、
「ないな」
「ないのかよ」
拍子抜けして前のめりになる。
「じゃあ、たとえば将来の夢ってなんだった?」
「オリンピックだ」
キメ顔だった。
しかし親父の場合、それはあながち冗談ではない。親父はもともと長距離が得意で大学時代に箱根駅伝の区間新記録を叩き出したこともある。パン屋をはじめる前は、陸上競技の実業団ランナーだった。
なんで、その夢を諦めたのか。
その理由を、ぼくは知っている。
母が亡くなったからだ。ぼくが、小学五年生の頃のことだった。もともと互いの両親は結婚自体を反対していたらしく、親戚にぼくの面倒を見てくれるひとはいなかった。だから親父は陸上を辞めた。実業団を辞めて、知り合いのテナントをあたり、そこでパン屋をはじめた。自分の人生を、自分の夢を捨てて、ぼくのユニフォームを洗濯し、夕飯をつくり、おかえりと出迎えるようになった。
「なんて、ツラしてんだよ」
親父の言葉に我にかえる。
「お前は判りやすいな」といって、親父は何が楽しいのかへらへら笑う。「母さんにそっくりだ。悩みがあるとすぐ下唇を噛んで、顎に手をそえる」
「……うるせえな」
ぼくは悪態をついて、顎から手をひいた。
「わが息子よ、お前に金言を授けよう」
いつものふざけた調子で親父はいう。
「やらない後悔よりも、やる後悔、という言葉は正しいぞ。なぜなら、やったことには反省ができるからだ。反省をふまえて、改善することができるからだ。だが、やらない後悔はどうだ、息子よ? ずっと、同じ場所で悔いるだけだ。あのときこうしていればと呟いて歳だけ重ねてジジイになる、それだけだ。そんな、惨めなことはねえ」
そう言ってぼくのあたまを鷲掴みにする。
「だから、飛び込むべきかで悩んでいるなら、いますぐ飛び込んじまえ。俺でかまわなければ背中を押してやる。それが、どう転ぶかなんて誰にもわからん。でも、それは今しかできないことであるはずだ。そうだろう?」
「親父はさ」
とぼくはいう。
「親父は、たとえば今の人生ではなくて、もっと他の、自分の理想通りの人生が体験できるとしたらどっちを選ぶ?」
そして親父は、その問いを一笑に付した。
「四十数年この身体で生きてきたんだぞ。今更、ほかの生き方なんて死んでもごめんだ。俺は、俺の人生に誇りをもっている。好きなひとと結婚して、お前が生まれて、そして俺がここにいる。その事実は、俺の誇りなんだ。よりよい人生のためにそれを捨てろっていうやつがいるならここにつれてこい、この俺が直々に一発ヤキいれてやる!」
胸の前で握りこぶしを固める親父に、
ああ──、とぼくは内心で吐息をついた。
絡まったシューズのひもが、思いがけず簡単にほどけたような気持ち。なんとなく、視界が開けたような、そんな気持ちだった。
「ぼくさ、部活でノベルゲームつくってるんだ」
こころもち視線を下げて、呟く。
「ノベルゲーム?」
「うん。可愛い女の子が登場して、そいつと恋愛するゲーム。オタクがやるようなやつだよ」
「ああ、深夜帯にやってるアニメかなんかみたいなやつか?」
「少し違うけど、まあ、似たようなもんだよ」
深呼吸。
「ゆくゆくは、エロゲーってやつもつくろうと思うんだ。女の子の裸がでたりするような、そんなゲームを」
反応を見るのがこわくて、顔があがらなかった。
「それでも、ぼくの背中を押してくれるか?」
「──お父さんそういうの嫌いだぞ」
親父を見る。
しかし、予想に反して笑っていた。
とっておきの台詞を用意したとでもいうように、続けて親父はこういった。
「そういう、当たり前の質問をされるのはな」




